heroine
1.
教会への扉が開いたら真っすぐ正面を向く。顎を引いて姿勢を正し、ゆっくりとエスコートしてくれる竜ちゃんとペースを合わせる。リハーサルで教わった通り、扉が開いた時、真っすぐ正面だけを見つめた。その先にはタキシードに身を包んだ蘭ちゃんが立っているのが見える。ホっとしたのと同時に、また心臓がドキドキと鳴りだした。竜ちゃんとペースを合わせて足を一歩踏み出す。また一歩、ゆっくり焦らず、ドレスを踏まないように――。だけど、ちょうど真ん中に差し掛かったところでおかしなことに気づいた。真っすぐ正面を見ているわたしの視界の端っこに、誰かが立っていた。今日の参列者は竜ちゃん以外に誰もいないはずなのに――。
「……え…」
その人物を視界にハッキリ捉えた時、思わず声が零れ落ちた。笑顔で椅子から立ち上がったその人は、優しい笑み浮かべながらわたしを見ている。その人の口元が僅かに動いた。
"おめでとう。"
声は聞こえないけど、何故か言われた言葉はわかった。
「お母さん…」
そう呟いた時、涙が溢れた。泣いちゃいけないのに、蘭ちゃんのところまで歩かなくちゃいけないのに、何度も足がもつれそうになる。それを竜ちゃんがしっかり支えてくれた。
「な…何で?」
「しー。事情は後でな」
竜ちゃんは小声で言いながら、わたしを蘭ちゃんのところまでエスコートしてくれる。正面に立ってる蘭ちゃんも、隣で支えてくれてる竜ちゃんも、お母さんがいるこの状況に驚いてる様子はない。そこに気づいた時、きっとこれはふたりからわたしへのサプライズなんだと思った。
どうにか蘭ちゃんのところまで辿り着いた時、そっと差し伸べられた手を取る。竜ちゃんはゆっくりと下がって、やっぱりお母さんの隣に立った。
「…びっくりした?」
「蘭ちゃん…」
向かい合った時、蘭ちゃんがいたずらっ子のような笑みを浮かべるから、零れ落ちそうになった涙も引っ込んで笑ってしまった。
「もしかして…ここ最近コソコソしてたのって…」
「まあ…今日は家族4人で迎えたかったから」
家族…その言葉はわたしにとって凄く嬉しいものだった。
本当は――寂しかった。悲しかった。女手一つでここまでわたしを育ててくれたお母さんに、大好きな蘭ちゃんとの結婚を反対されるのは。でも、たった一人のお母さんを悲しませることになっても、わたしは蘭ちゃんのこの手を離そうとは思わなかった。酷い娘だと思う。なのにお母さんはこうして式に来てくれた。おめでとうって言ってくれた。一つだけ欠けていたピースが埋まったかのように、心の穴が塞がった気がした。
「コホン…えーでは…そろそろ初めても?」
コソコソ話してるわたしたちに痺れを切らした神父様が軽く咳払いをするから、わたしと蘭ちゃんは顔を見合わせて笑ってから頷いた。現実的なことを言えば、この後も別の人達の式があるんだろう。時間は限られている。
そこからはきちんとリハーサル通りに進んだ。
「――病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、死がふたりを分かつまで命の続く限り、これを愛し、敬い、貞操を守ることを誓いますか?」
「はい、誓います」
神父様からの問いかけに、わたしと蘭ちゃんは順番に応えて、その後に指輪を交換した。この日の為に、蘭ちゃんが用意してくれた素敵なデザインの指輪は、当然のようにわたしの左手薬指へとぴったりおさまった。
「では、誓いのキスを」
わたしが僅かに屈んで、蘭ちゃんがヴェールを上げてくれる。そして向かい合うと、蘭ちゃんが顔を傾けてくちびるをそっと重ねた。
「おめでとう、兄貴、!」
蘭ちゃんのくちびるが離れていくのと同時に、竜ちゃんが拍手をしながらお祝いの言葉をくれる。隣にいたお母さんも笑顔で拍手をしてくれていた。何だろう、凄く心が満たされて行く。
「ほら、行って来いよ」
「蘭ちゃん…」
なかなかお母さんの方へ行けないわたしを見かねたのか、蘭ちゃんが背中を軽く押して言った。
「ほんとは会いたくて仕方なかったくせに無理してたんだから、思い切り甘えてこい」
「…ん。ありがとう、蘭ちゃん」
蘭ちゃんの優しい眼差しを見てたら分かった。きっと随分と前からお母さんを説得しに行ってくれてたんだってこと。それが何より嬉しかった。
「お母さん――!」
ケンカをして家を飛びだしたあの日から、ずっと言いたかった。ごめんね。そして、わたしを産んでくれて、今日まで育ててくれてありがとう――って。
2.
「じゃあ、今度ゆっくり蘭くんと竜胆くん連れて遊びにいらっしゃい」
お母さんは笑顔でそう言うと、タクシーに乗って颯爽と帰って行った。これから本社で大事な会議があるらしい。わたしの式に出る為に、わざわざ時間をズラしてくれたようだ。
「仲直り出来て良かったな」
「うん…。蘭ちゃん…本当にありがとう」
「これくらいの為ならいつでも」
そう言いながら蘭ちゃんはわたしの肩を抱き寄せた。今はすでに着替えて、これから蘭ちゃんと一緒にマンションへと帰るところだ。竜ちゃんは式の後に春ちゃんから呼び出されたようで、「三途のヤローわざとだな。式に呼ばれなかった腹いせだ」とブツブツ言いながら慌ただしく出かけて行った。蘭ちゃんがいない分、人手不足らしい。
「さーてと…邪魔者もいないことだし…今夜はふたりきりで乾杯するか」
蘭ちゃんは機嫌も良さそうにわたしの頬にちゅっとキスをして来た。
「どこのレストランがいい?」
蘭ちゃんが早速スマホで検索しながら聞いて来る。
「でもまだ荷造りしてないからなぁ…」
「んなもん明日でもいいじゃん。旅行は明後日からだし」
蘭ちゃんは呑気に笑いながらわたしの手を繋いだ。だけど、わたしはこれから家に帰ってやることがある。今日はわたしと蘭ちゃんの結婚式でもあるけど、蘭ちゃんのお誕生日でもあるからだ。
「じゃあ家でお祝いしよ?」
「家ぇ?せっかくの結婚式の日に家でお祝いかよ」
「だからだよ。結婚して初めての蘭ちゃんの誕生日祝いは新居でやりたいのー」
「…あ、誕生日…?」
「まーた忘れてる」
軽く吹き出すと蘭ちゃんも「今日はずっと結婚式のこと考えてたからな」と苦笑している。でもこの日の為にわたしはこっそりケーキ作りにも挑戦してたのだ。
「帰ってお祝いの準備しよ?」
「はいはい。仰せのままに」
蘭ちゃんは何だかんだ言いながらも、わたしの我がままを聞いてくれる。軽くオデコにキスして手を繋いで、何となくタクシーには乗らずに歩き出した。お互い少し歩きたい気分だったかもしれない。家までのんびり手を繋いで歩きながら、ふと蘭ちゃんのもう片方の手にあるスマホへ目を向ける。
「そう言えば日記、ちゃんとつけてくれてた?」
「ん?あ~。もちろん」
「ほんと?じゃあ、竜ちゃん帰って来たら皆で見せ合いっこしよ!」
「…は?」
わたしの提案に蘭ちゃんがギョっとした顔をした。
「イヤだよ」
「えー!でもわたし蘭ちゃんがどんな日記つけてたのか見たい」
「いや見たいって言われても…ああいうのって人に見せるもんじゃなくね?」
「あ、何、その顏!蘭ちゃんってば何かわたしに見られてまずいことでも書いてたの?」
「いや、それはねーけど。恥ずかしいだろ」
「えー!ますます見たいっ」
「ダメ~」
蘭ちゃんが笑いながらスマホをポケットにしまいこむ。そこまで頑なに隠されると、ますます気になって来た。そして蘭ちゃんは一つ失念している。このアプリを入れたのはわたしだということを!見ようと思えばパスワードだって知ってるし、いくら隠そうとしても見れちゃうんだよなあ。
でも――蘭ちゃんがそんなに恥ずかしいなら我慢しておこうかな。夫婦でも互いに知らないことがあってもいいと思うし、それがあるからこそ、相手をもっと知りたいって思えるのかもしれないから。
26日間、続けた日記も今日でおしまい。
慌ただしかった日々だったけど、何年か後に読んで、「懐かしいね」って3人で笑い合えたらそれでいい。
私の本当の"Marriage Diary"は、これからも続いていく。
大好きな蘭ちゃんと二人で。