あの子はいつも甘い匂いがする-04

※「この世で最も可愛い子」乙骨side
「特級に返り咲いてすぐで悪いね。でもこれは憂太にしか頼めないんだ」
東北での出張から戻ってすぐ、恩師の五条悟に呼び出された乙骨は、彼からある任務を告げられ、来週すぐに海外へ渡航することが決定した。本来であれば、恩師の役に立てるなら是非に…と思うのが、この義理堅い乙骨という男なのだが、今の彼にとってはこの海外出張、まさに青天の霹靂でしかなく。ちょっとだけ五条を呪いたくなるような心境にさせた。
その理由とは――やっとの思いで手に入れた恋人と離れたくないから。
全てがこれに尽きる。
ひとりになった途端、乙骨の背には世界中の不幸を「全て僕が背負ってあげてます」と言いたげなほど、真っ黒背景が圧し掛かっていた。乙骨の大きな黒目も、心なしか淀んでおり、彼を取り巻く漆黒の泥濘にも似た呪力は、ねっとりと乙骨に絡みつくように蠢き、何ともおどろおどろしい。今ここに呪いが発生すれば、この漏れだした呪力に中てられただけで即死だっただろう。
しかし乙骨は最後の気力を振り絞り、五条と別れたその足で、すぐに最愛の女性へ電話をかけた。本当なら帰校してすぐにでも顔を見に行きたかったのだが、それも五条に呼び出されて出来ずじまい。そろそろ限界だった。スマホを取り出し、すぐにアプリ電話の画面をタップすると、3コールほどで相手が出た。この瞬間だけは乙骨の黒目にも生気が宿る。
「あ、さんっ?憂太です。え?画面見れば分かる?あ、いえ、そ、そうですよね。えっと…今から会えますか?はい。僕、今から寮に帰るとこなんですけど、さんはどこに…――え、寮についたとこ?ほんとですか?はい、え?はい!あ、じゃあ…部屋で待ってますね!」
会話を始めた辺りから、先ほどの地を這うような呪力は徐々に消え去り、今現在、彼の背にはピンク色の薔薇が満開状態。電話を終えると、スマホを上着のポケットへ突っ込み、乙骨は一目散で駆けだした。高専に入校した当初とは比べものにならないほど体力が向上した乙骨は、校舎から寮までの地味に長い距離を一気に駆け抜け、ほんの数分もかからずに到着。その勢いのまま寺を模した建物へ飛び込むと、日常の世話をしてくれている坊主たちが、驚いたように目を丸くした。
「ああ、誰かと思えば乙骨くんでしたか」
「あ…す、すみません…。ちょっと急いでたもので…」
框へ座り、スニーカーの紐を解きながら乙骨が頭を下げる。その様子を見て坊主のひとりが、すぐに気づいた。
「ああ、さんなら先ほど来ましたよ」
「え、もう?」
「ちょうど、ここへ向かってたとのことでしたね」
高専の敷地は広く、校舎から少し離れたこの一画には、今いる寺以外にも建物が存在する。他の生徒達は寺の裏手にある離れのような建物に部屋を持っていることが多く、ここに寝泊まりしているのは、主に教師や、外から任務で訪れた術師たち、生徒で言えば乙骨くらいだった。
乙骨がここへ来た当初は特殊な事情もあり、他の生徒とは別にされたのが原因だが、乙骨はこの寺が気に入ってるので、その後もここを寮として使用している。
「合鍵で開けましょうか、と言ったんですけど、乙骨くんが来るまで部屋の外で待つと仰ってたので早く行ってあげて下さい」
「え、あ、分かりました!ありがとう御座います!」
と言いながらも、乙骨はすでに長い廊下を走って行ってしまった。その素早い行動を見て、呆気にとられた様子の坊主たちが「やれやれ…廊下を走ってはダメだといつも言ってるのに」と言いつつも、微笑ましそうに見送っているのを、彼は知らない。今は一刻も早く大好きな人に会いたかった。
本堂前を通りすぎ、大広間前の廊下の更に奥を左へ曲がると、乙骨や、担任である五条の私室がある。要は階級が特級と称される術師のための、少し広い間取りの部屋だった。乙骨は先週、ずっと使用していた部屋から新しい部屋に荷物を移したばかり。まだ封を開けていない段ボールが山ほどあったのを、彼女の姿を見て思い出した。
「さん!」
角を曲がってすぐ、乙骨の部屋の前、壁に寄りりかかりながら立っている愛しい恋人の姿を見つけた乙骨は、嬉々とした声でその名前を呼んだ。出張に出ていたため、二日ぶりの再会。たった二日で大げさな、と言われそうだが、彼からすれば丸二日も彼女に会えないのは、食事も喉を通らないほど苦痛以外のなにものでもなかった。
、と呼ばれた女子生徒は、その綺麗な顔に困ったような笑みを浮かべながらも「お帰り、乙骨くん」と背を預けていた壁から、その身を離した。
「また走って来たの?」
「え、あ…いけね」
彼女から指摘された乙骨は、頭を掻きつつ眉尻を下げた。分かってはいるのだが、彼女を待たせているという気持ちが焦りとなり、ついうっかりしてしまった。あとで住職たちに謝らないと、と思いながら、乙骨は目の前の彼女を改めて見下ろした。
――ああ、今日のさんも世界一、可愛い。
二日ぶりに彼女と会い、最初に浮かんだ感想である。
正直に言えば、初対面のときから、密かに"なんて綺麗なひとだろう"…とは思っていた。手に取れば絹糸のようにさらさらと落ちる濡れ羽色の長い髪や、綺麗に切り揃えられた前髪から覗く、形のいい眉。黒目の大きな瞳と、すっと通った鼻筋に、誘うように濡れている赤いくちびる。
それら全てが可憐でいて、また妖艶にも見えて、彼女が高専の男子生徒たち――主に三年や四年――から"大和撫子"と形容されるのも分かる気がしていた。
おかげで今現在、乙骨はその先輩方から針の筵状態だったが、そんなものは一つも苦にならないほど、彼女と付き合う幸せを噛みしめている。
「出張、お疲れさま」
立ち話もあれなんで、と言いつつ、乙骨はすぐに解錠して彼女を新しい部屋へと招き入れた。前より広いその空間には、さっき思い出したように段ボールがいくつか重ねて置かれている。荷解きする前に出張が決まったせいだ。
「すみません。まだ片付いてないんですけど…」
「え、そんなことないよ。そもそも乙骨くんの部屋ってシンプルすぎ」
彼女は笑いながら自然と、唯一セッティングされているベッドへ腰をかける。机や椅子などはまだ運んでおらず、カーペットの類もこれからの予定だったので、他に座る場所がないのだから仕方がない。そんな理由を付けながら、乙骨もさり気なく彼女の隣へ腰を下ろした。その際、彼女が好んで持ち歩いている匂い香の香りが、乙骨の鼻腔を刺激する。四月を過ぎた今の季節にぴったりの桜の香りだ。淡い甘さを含む独特の香りが、出張帰りの乙骨を癒してくれた。この匂いを嗅ぐと、ああ、やっと帰ってこれたと思うのだ。本来は和服を着る際に忍ばせる類の香だという。は実家にいた頃から愛用してたようで、今もその習慣は変わらないらしい。
街中で、時々強制的に嗅がされるどぎつい香水などとは違い、仄かながら上品に香るあたりが彼女のイメージにピッタリだと乙骨は思っている。ついでに着物姿の彼女を想像しては、胸を高鳴らせてしまうまでが、最近のデフォルトだった。
「出張、どうだった?」
手持無沙汰なのか、は自分の長い髪を指に絡ませながら、隣の乙骨を見上げてきた。彼女の頬は薄っすらと赤い。それがどこか照れ臭そうに見えて、乙骨の心臓を容易く撃ち抜いてくる。すでに頭の中は「可愛い」「キスしたい」「可愛い」「抱きしめたい」「キスした――」以降、エンドレス状態だ。
「えっと…特に手こずりはしなかったんですけど…ちょっと広範囲だったので、やっぱり二日が妥当でした」
「そっかー。青森はまだ寒かった?」
「はい、かなり。海の近くだったんで余計に寒くて…」
「海?いいなぁ、海。冬の海って好きなの」
「え、そうなんですか?でも日本海側だと、めちゃくちゃ荒れてますよ」
「あ、分かる。前にフェリーで任務先に移動した時はひっくり返るんじゃないかってくらい揺れてビックリした。船内の娯楽室で金ちゃんと卓球してたんだけど、玉が思ったところにいかなくて」
「…え、卓球、ですか」
「うん。大きなフェリーだと、そういう遊び場があるの」
その話を聞いた乙骨は、さんと卓球…さんと卓球…さんと卓球…したい、に変換されていく。同時にと卓球をする光景が頭に浮かび、自然と頬が緩んでしまう。
ついでにと卓球で遊んだという、秤金次が少しだけ憎らしくなった。乙骨も同級の真希や棘、パンダとはすこぶる仲はいい方だが、もまた、同級の金次や星綺羅羅とは仲がいい。同級生愛の強い乙骨だけに、それはそれで仕方がないと思うのだが、やはり男ふたりに囲まれているのことは常に心配だった。彼女は「あのふたりとは死んでも何も起こらない」とは言ってくれたのだが、嫉妬という感情は理屈ではない。乙骨からすれば、彼女の周り全ての男が嫉妬の対象となるのだ。
よって、金次と仲良く卓球に興じたという話を聞いた乙骨は、胸の中のどす黒い炎を消すため、の肩へそっと手を回し、自分の方へ引き寄せた。付き合い始めた当初は彼女に触れるのも遠慮していたのだが、ある事件のせいで順番を間違えて以降、こうして触れるのも当たり前になりつつあった。
「乙骨くん…?」
急に肩を抱き寄せられたことで、が驚いたように乙骨を見上げてくる。頬はさっきよりも赤みを帯びて、大きな瞳が戸惑いで揺れている。その表情一つ一つが、どうしようもなく乙骨を誘惑してくるのだ。こうして、ふたりきりになると、最近では全く我慢が出来ないのが、目下の悩みどころではある。
「…キス…していいですか?」
「……き、聞かないでよ、そういうの…」
別に彼女とのキスが今日初めてとかでもなく。がそう言いたくなるのも当然なのだが、乙骨としては毎回、勝手にキスをして怒らせてしまわないかと心配になってしまうのだ。その思いが、つい質問として現れてしまっていた。
すみません、と苦笑しつつ、身を屈めて顔をへ近づける。いつもこの瞬間は心臓が痛いくらいに早鐘を打つので、そろそろ発作を起こすんじゃないかと心配になるのは内緒の話だ。
肩を抱いていた手を彼女の顎へと伸ばし、少し持ち上げると、長いまつ毛を震わせた彼女がゆっくり目を閉じる。それを確認した乙骨は理性を手放し、本能に任せてくちびるを合わせた。
この時、乙骨の脳裏には、いつもあの日のことが思い浮かぶ。それは一ヶ月ほど前の、乙骨の誕生日。まさにその日、乙骨はに初めてのキスをした。
それも――酔っ払った勢いで。
