許さない-08



「…さんから離れろ」

キキキ…と不気味な音を立てる刀を引きずりながら、ゆっくりと近づいてくる乙骨は、も、いや金次や綺羅羅も感じたことがないほどの重苦しい呪力を纏っていた。背後からは若干"リカ"の白い手が覗いているのは気のせいじゃない。その乙骨が殺気を向けるのは、ただひとり。の隣で絶句している財前だった。

「あ、あれは…乙骨憂太か…?何故、奴がここに…って、は…っ僕の髪が!」

ふと我に返った財前が、自身の前髪がごっそり切られていることに気づき、真っ青になっている。乙骨が最初に仕掛けた斬撃が原因だ。

「おい、貴様!さっきのはお前の攻撃か?よくも僕の髪を――」
さんから離れろって言っただろ」
「あ?」

納刀し、視線を下げたまま、ふらりと歩いてきた乙骨が、その黒眼を財前に向けた瞬間、どうやったのか財前の体が空中で一回転し、床へと倒れ込む。その際、尻尾を踏んづけられた猫のような「んぎゃっ」という悲鳴が二階ホールに響き、それを見た大学生たちは「何?余興か何か?」と、まだ笑っていた。

「ま、待って、乙骨くん!こんなとこで暴力はダメ――」

財前が倒れたことで我に返ったが慌てて乙骨の腕を掴む。二階ホールは貸し切りだが、ここには非術師の大学生もいるのだ。こんなところで術師同士がケンカをするのは規定違反になってしまう。自分のせいで乙骨が罰を受けるのはどうしても避けたかった。
すると乙骨は黒眼だけを彼女へ向けて「この男はさんの体に触れたでしょ」と呟く。

「嫌がってる女の子の…さんの足を触ったのは許せない」
「い、いいから…わたし気にしてないし――」
「僕が気にしてます。どうしても許せない」

乙骨の呪力量が更に上がったのを感じ、もう一度止めようとしたとき、乙骨にやられた財前が、「こ、この野郎…」と怒りの表情で立ち上がった。

「何のつもりや!乙骨…!先輩の僕に対して…!…お前、彼女とどういう関係なん?」
「あんたに関係ないでしょ…」
「はあ?生意気な…ああ、そうか…お前も彼女に惚れてんのか…それとも…弄ばれたクチか?」
「ちょっと…!」

財前は悔し紛れなのか、最低な言葉を乙骨へ向けた。それを聞いたもついカッとなる。だが負け犬の遠吠えとはよく言ったもので、財前の口は止まらなかった。

「いくら惚れても無駄や。彼女は色んな男を遊びでとっかえひっかえしてるような女やし、年下のお前なんか相手にされへんで。まあ、その前に僕の婚約者になるから、結局お前にはムリ――う…」

そこまで言ったとき、財前は自分を飲み込もうとするほどのどす黒い呪力を肌で感じ、言葉を詰まらせた。息をするのも憚られるほど重く、禍々しい殺意を混ぜ込んだ呪力は、その場にいた京都校の術師たちを震え上がらせた。今まで楽しく飲んでいた彼女達はいきなり現れた乙骨を見て身の危険を感じたのか、慌てて距離をとっている。たった三か月で特級という規格外の階級へ返り咲いた乙骨の力を肌で感じ、生存本能が働いたのだ。
そしてひとりだけ、鈍い男がその場に残っていた。自慢の前髪を一瞬でオンザ眉毛――今風に言えばオン眉にされた財前だ。

「…取り消せ」
「…は…?」
さんを侮辱するのは許さない。今の言葉、ぜんぶ取り消せ…。じゃないと――」
「な…何や…」
「ぶっ殺す――」

乙骨の黒眼が僅かに光り、その手を財前に向かって伸ばしたとき。唯一、乙骨の呪力に中てられても無事だった金次がハッとしたように「乙骨!」と叫ぶ。その一声に乙骨の手がピタリと止まった。

「ここは収めろ」
「………」

何の抑揚もない黒眼が動き、金次を見る。それを見て、自分の声が届いてると感じた金次は「お前が手を出せばが悲しむぞ」と、普段なら言わないような先輩らしい言葉で諭した。

「この場は俺に任せて、お前はを連れて帰れ。こいつは俺が無理やり付き合わせてここへ来ただけだ」

意外なほど真剣に話す金次の言葉が届いたのか、表情のなかった乙骨の瞳に、いつもの柔らかい光が戻ってきた。それに気づいたが「乙骨くん…?」と呼びかけると、彼は金次に頭を下げ、彼女の手を掴むと少し強引に引いて歩き出す。声をかける間もなく、はそのまま店の外まで連れ出されてしまった。

「あ、あの…乙骨くん…っど、どこ行くの…?」

店を出てからも無言で歩いて行く乙骨を見て、はだんだん不安になってきた。まさか合コンの場に彼が来るとは思ってもいなかったのと、財前との間に起きたことまで見られた気まずさもある。きちんと説明したいと思うのに、乙骨は一言も喋らず、ただ黙々と彼女の手を引いて歩き続けた。
どこへ向かっているのかは分からないが、明らかに駅の方向じゃない。

「乙骨くん…!あの…高専に帰らないの…?」
「………」

恐る恐る声をかけると、乙骨は不意に足を止めた。そしての手首をいったん離すと、今度は強く手を握りしめる。

「…まだ帰らない」
「え…?」

驚いて顔を上げると、乙骨はある建物の前へ足を進め、そのまま中へと入って行く。当然、手を繋がれたままのも後からついていくことになったのだが、そこは煌びやかな看板を掲げたホテル――いわゆるラブホテルと呼ばれる場所だった。


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「ひゃ…」

乙骨に手を引かれるまま、ホテルへ連れ込まれたは、部屋に入るなり乙骨にがばりと抱きつかれて驚いた。腰を抱き寄せられ、強い力で抱きしめられると呼吸さえままならない。このまま絞め殺されるのでは…という小さな不安が過ぎったのは、先ほど乙骨の見せた尋常ではない殺気を纏う姿を思い出したからだ。あのとき、金次が止めに入らなければ、乙骨は財前に大怪我をさせてただろう。財前は今、準一級術師なので、特級に返り咲いた乙骨に敵うはずがない。それでも財前が大きな態度でいられたのは、後輩の、それも仲間思いと評判の優しい乙骨が、まさか本気で自分に手を上げるはずがないという傲りからくるものだ。
そんなものは常識を取っ払ってしまえば、全く無意味になる保険でしかない。

そして、そこまで乙骨が怒るのもは理解できた。彼に内緒で合コンという場にいたのだから、乙骨からすれば裏切り行為と思うだろう。綺羅羅からどうしてもと頼まれたとき、ハッキリ断れば良かったとは思った。そうすれば乙骨が先輩である財前に手を上げることもなかったはずだ。

(どうしよう…財前先輩が学長に報告をしたら、乙骨くんが罰を受けてしまうかも…)

初めてホテルへ連れ込まれたというのに、はそっちの方が気が気じゃなかった。金次が任せておけと言っていたが、あのプライドの高い財前が自慢の前髪をオン眉にされて黙っているはずがない。今からでも戻ってきちんと謝罪すれば許してくれるだろうか。
そんなことを考えながら、は乙骨の背中を軽く叩いた。

「あ、あの乙骨く――」

そう声をかけたときだった。不意に体が放れたと思った瞬間、乙骨に膝裏を抱えられ、軽々と抱きあげられた。まさか彼にそんなことをされるとは思わない。彼女は驚きで固まってしまった。

「こんなときに考えごとですか?」
「…え?――わっ」

乙骨がやっと口を開いたと思った次の瞬間には、ベッドの上へ押し倒されていた。ウォールライトのみに照らされた室内、上から見下ろしてくる乙骨の表情はよく見えない。だが、まだ怒っている気配だけはにも伝わってきた。そもそも普段の優しい乙骨が、彼女をこんな場所へ連れ込むことじたい、普通じゃない。
それでもまだ、は乙骨が強引なことはしないと信じていた。

「ご…ごめんなさい…。今日のことはわたしが悪いの。ちゃんと断れば良かったのに…」

乙骨の制服の袖をぎゅっと掴みながら、彼女なりに謝罪をして彼を見上げる。だが乙骨は「そんなのどうでもいい」とひとこと言った。

「秤さんたちに頼まれたら…さんが断れないのは分かってるし、事情さえ分かればこんなに怒ったりしない」
「え…でも…乙骨くん…今、すごく怒ってるでしょ…?」
「僕が怒ってるのは…あいつが…あの先輩が…僕のさんに触れて、あんな酷い言葉で侮辱したから…それと――」
「そ…それと?」

項垂れている乙骨を見上げながら、は小さく喉を鳴らした。

「…さんが…僕以外の男と…過去に付き合ってたっていう事実を思い知らされたから…」

最後は消え入りそうな声で呟く乙骨に、は言葉を失った。そう言われてみれば、財前が悔しまぎれに、が数人の男と関係があったような発言をしていた気がする。あのときは色々言われすぎて何から怒ればいいのかも混乱していたので、すっかり忘れていた。
過去に付き合った男の話など、当然乙骨にするはずもなく。また何も聞かれないのでそんな話はしたことすらない。それでも過去に誰かと付き合っていただろう、くらいは分かっていたんだろうが、今日その過去を他人の口から聞かされ、乙骨はショックを受けたようだった。

さんは…綺麗で、優しくて、純粋で、素敵なひとだから…きっと過去に付き合った男くらいただろうなって…思ってた。けど…」

と、乙骨はそこで言葉を詰まらせ、黙ってしまった。その姿を見たは、遂に自分のうそがバレてしまったんだと気づいた。乙骨にしてみれば、処女だと思っていた彼女が、実は過去の男と関係を持っていたとなれば、余計にショックを受けただろう。だからこそ、こんなにも怒ってるんだ。はそう思ってしまった。

「あ、あの…乙骨くんに勘違いさせたみたいになっててごめんね…。で、でも関係があったのはひとりだけなの…。他に付き合った彼とは誰ともそんなことしてないし、財前先輩は勝手な想像であんなこと言っただけで――」
「え…?」
「…え?」

突然、乙骨が驚いたように顔を上げたことで、も思わず言葉を切った。そして気づいた。乙骨の驚いた顔を見たとき、今、自分で墓穴を掘ってしまったのだと、気づいてしまった。

「…え…じゃあ…さん…元カレと…そういう…関係だった…ってこと?」

乙骨はが話すまで気づいてなかったらしい。理解した途端、急に泣きそうな顔をして再び頭を垂れてしまった。

「…そうだよね…何も…ないわけないし…僕だってそれくらい…分かってたつもりだったのに…」
「あ、あの…乙骨くん…?」

急にブツブツと言いだした様子に心配になったは、自分に跨ったまま項垂れている乙骨の顔にそっと手を伸ばした。うそをついたつもりはなくても、乙骨を傷つけてしまった自覚はある。どう謝ればいいのかも分からず、乙骨の頬へ触れた。その瞬間、彼の肩がびくりと跳ねる。

「ご…ごめん…」

はわたしに触れられるのが嫌になったのかも…と慌てて手を引っ込めた。同時にじわりと目頭が熱くなっていく。今まで誰よりも優しかった乙骨から拒否されたように感じて、自分でもびっくりするほど死にたくなった。わたしはこんなにも乙骨くんのことを好きになってたんだな。ふと自覚した瞬間、その思いが涙となって目尻を、シーツを濡らしていく。
彼女のその異変に気付いた乙骨は、ふと顔を上げた。

「…、さん…泣いてるの…?」
「も…もう…わたしの…こと…嫌いになっちゃった…?」

最初に好きだと真っすぐな言葉をくれたのは乙骨の方だった。なのに自分はどうしても年下だと思っていた彼を受け入れることも出来ず、素っ気ない態度をしてはあっさり振るを繰り返していた。やり直せるなら、もう一度初めからやり直したい。出来ることなら、今度こそ――。
いや――違う。きっと自分のような女が彼と一緒にいてはダメなんだと思う。乙骨にはもっと優しくて純粋な女の子が似合う。わたしは結局そんな女にはなれないから。またいつか彼のことを傷つけてしまう。そんな気がしてきた。
彼のことが好きだからこそ、今のうちに、傷がまだ浅いうちに終わらせた方が、お互いの為かもしれない。そう思ってしまった。
乙骨はまだ何も応えようとはせず、黙ったまま。その無言が乙骨の返事のようにもとれた。だったら、いっそのこと本当に――。

「…も…別れよ――」

そう言いかけた、そのとき。乙骨の手がの濡れた頬へそっと触れた。どきりと心臓が跳ねて視線を上げると、乙骨は未だ少し怒ったような顔で彼女を見下ろしていた。

「…あなたを嫌いになれたらいいのに」
「…っえ…?」
「そしたら…こんなに苦しくて胸が張り裂けそうなくらい痛くなることもなかった」

乙骨はそう呟くと、彼女の零れ落ちる涙をくちびるで掬った。

「でも…嫌いになれるはずない…こんなに好きなのに」
「…乙骨くん…?」

身を屈めた乙骨は、優しく彼女の頭を撫でて、片方の指で前髪を避けると軽く額に口付ける。そしてふと真剣な眼差しでを見つめた。至近距離で見る乙骨の黒い瞳はこれまでの彼とは違い、かすかに男の欲が見え隠れしてる気がした。

「だから…別れてなんかあげないし、逆にさんの全てに僕を刻みたい」
「え…それ…は」

どういう意味?と聞こうとしたくちびるを、半ば強引に塞がれてしまった。最初から舌を差し込まれ、強制的に絡み取られる。じゅるっと卑猥な音を立てて舌を吸われ、舌先で口蓋を余すことなく舐られる刺激に、の息はすぐに上がっていった。

「…ん…っんん」
「…ハァ…可愛い」

僅かにくちびるを離し、吐息交じりで呟く乙骨は、昨日までの乙骨とは少し違う。は涙で歪んだ視界の端に、彼の大人びた笑みを見た気がした。

「僕がさんの過去をぜーんぶ、上書きしてあげるからね」

その言葉の意味を知ったとき、の頬が羞恥に染まった。


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本当は、自身のなかで暴れる気持ちに鍵をかけてた。
そばにいるだけでも幸せだったから。彼女のそばにいるだけで、それだけで。
だけど彼女の過去をリアルに感じて、それまで抑えていたものが一気に溢れ出すのが自分でも分かった。そうなれば偽りの鍵なんて、簡単に壊れる。
猫のようにしなやかな彼女を抱きしめようと手を伸ばせば、涙で濡れた瞳と目が合う。少し怯えたその顏すら、乙骨を欲情させる起爆剤となる。

「怖がらないで。約束したからさんがいいって言ってくれるまでは最後までしない」
「…さ、最後って…」
「でも他の男の痕跡は消すから――いい?」
「お…乙骨くん…?」
「僕と別れるなんて愚かな考えがなくなるまで――許さない」

乙骨の言葉は、彼女を絡めとる呪いのように、いつまでも耳にこびりついて離れることはなかった。