可愛い悪だくみ-09




朝、五条は唐突に目が覚めた。普段から眠りは浅い方だが、今、目が覚めたのは違う理由からだ。

「…憂太か?」

自室のドアの、すぐ向こう。ぬるりと重く、黒い塊ともいえるような呪力の形が視えて、五条は小さく欠伸を噛み殺した。時刻を確認すれば、現在午前五時過ぎ。こんな時間に乙骨が訊ねてくるのは非常に珍しい。本人もそう感じているのか、少しするとおずおずといった小さな声が聞こえてきた。

「…すみません。朝早くに。入っても?」
「どーぞー。開いてるし」

今更お伺いを立てるほど知らぬ仲でもないのに、こういうところは相変わらずだな、と苦笑いを浮かべながら、五条は起き上がった。同時にドアが開き、乙骨が静かに入ってくる。その背には愛用の刀。そこに気づいた五条は僅かに眉根を寄せた。

「何、今から任務?」
「いえ…今、戻ったとこです」
「え、どこから――」

と問いかけようとした五条は、乙骨の恨みがましい視線に気づき、「ああ、そっか」と苦笑を漏らした。

「え、もしかして朝帰り?憂太もやるなぁ。初めての合コンでお持ち帰りなんて」
「違…っ!っていうか、そもそも夕べ、自分は任務入ったから代わりにあの店へ行ってくれって僕に頼んできたんでしょ!詳しい内容も言わずに!だから、てっきり任務なのかと思って出向いたんですっ。そしたら――」
「そしたら…まさかの合コン会場でしたーってやつだ」
「………」

五条は悪びれた様子もなく笑っている。乙骨は深い溜息と共に床へ腰を下ろし、頭を項垂れた。おかげでこっちは…と言いたげな表情だ。

「ごめんごめん。綺羅羅に人が足りないから来れたら来てって言われてたんだよ。でも言った通り任務入っちゃって。だから憂太に頼んだ。まあ…綺羅羅がも無理やり参加させるって話してたし、僕としては気を利かして憂太を迎えに行かせたつもり――」

と、そこまで言った途端、じろりと睨まれる。普段は温厚で礼儀正しい乙骨だが、愛しい恋人が絡むと、なかなかどうして。恩師と言えど怒りの感情くらいは見せるようだ。

「おかげで僕、規定違反しちゃいました」
「……え、マジ?」

まさかそこまでとは思っていなかった五条は、寝起きの目を何度か瞬かせた。合コンとはいえ、乙骨の恋人、が他の男とどうにかなるとは五条も思っていない。だから乙骨を迎えにやっても、少しモメる程度くらいにしか考えていなかった。また、何も知らない乙骨が、その場にサプライズ的な登場をしたとき、金次たちがどういう反応をするか、密かに想像して楽しむだけのつもりだったのだ。教師としてあるまじき行為ではあるものの、五条はまあ、こういう性格であり、若い頃から周りにクズ、と呼ばれる所以でもある。

「え、憂太は何したわけ?」
「京都校の財前先輩の髪を切って、あとは…体術で軽く転がしたくらいですけど」

意外にも乙骨は軽く言いのけた。しかし若干、今も怒りが残っているのか、その名前を出した途端、不愉快そうに顔をしかめている。規定違反してしまったと言うわりには反省もしてなさそうだ。
五条は乙骨の口から出た京都校の生徒の顔をどうにか思い出そうと頭を働かせた。自分の生徒ならまだしも、京都校となるとずば抜けてる東堂葵くらいしかパっとは出てこないのだ。

「財前って…あー…あいつか。確か去年の百鬼夜行からのことしつこく口説いてるって金次が話してた。え、あいつも夕べの合コンに来てたの?」
「え、っていうか去年からしつこくさんのこと口説いてたんですか?あの人」
「………」

また余計な情報を与えてしまったか?と五条の口元が引きつる。
今の乙骨には下手にの異性関連的な話をしてはいけないのを忘れていた。
そもそも、乙骨がに恋をしたとき、いの一番に相談されたのは五条だった。幼い頃の初恋相手である里香の件も知っていて、かつ異性問題に詳しそうな担任に、つい現実的な恋愛について相談したくなったのは何も不思議なことじゃない。
乙骨自身、大人になってから初めて女性に惹かれ、胸の奥に燻る熱をどう扱えばいいのかも分かっていなかった。

ただ、五条のアドバイスは普通と違うので、多少やり過ぎてを困らせていた感はあるが、何だかんだと最後は上手くいったので、乙骨はその件でも五条に感謝をしている。
ただ、五条の方は乙骨の好きな相手に対する想いの熱量が、ここまでヘビー級とは想像していなかったようだ。
いや、里香の件である程度は予想もしていたが、思い半ばで断ち切られた幼い頃の淡い初恋と、現実の相手とする恋愛とでは、そもそも感情の入り方が違う。多分、その辺はまだ乙骨自身も自分の想いをどう処理していいのか分かってないのかもな、と五条は考えた。
だからこそ、純粋にを大切に大切に想っている。そこへ触手を伸ばそうとする男は、乙骨にとって全てが敵に見えるんだろう。

「一発くらい殴っておけば良かった…」
「こらこら。いくらムカつく相手でも、一応先輩だからやめとけって、そこは」

自分は先輩という存在を敬ったこともないくせに、五条は教師らしく乙骨を嗜めた。
だが殴ってはなくても、乙骨が財前にしたことは規定違反に変わりなく。そこはどうにかもみ消してやろう、とは思う。もともとは自分の悪戯心から発展してしまったことだ。

「それでは?」
「…さっき寮まで送ってきました」
「え…じゃあと朝帰りしたってこと?夕べから今までどこにいたの」
「………」

ちょっと驚いて尋ねてみたが、乙骨もそこは黙ってしまった。心なしか気まずそうに目を反らされた気がして、五条もそこを追及するのはやめておいた。若人が謳歌してる恋愛という名の青春に、土足で立ち入るなんて野暮なことはしたくない。

「で…憂太は部屋にも戻らず、わざわざ僕に文句を言いに朝っぱらから会いに来たわけ?」

きっと本題は違うんだろうと読み、一応尋ねてみる。案の定、乙骨は「いえ…」と首を振って五条を正面から見つめた。

「昨日、五条先生に頼まれた海外での任務なんですけど…それを断りたくて」
「えっ」

五条にとっては思ってもない方向の話だったことで、つい素で驚いてしまった。

「何で?」
「……やっぱり…長く離れるわけにはいかないので。今は特に」

乙骨はふと目を伏せ、消え入りそうな声で呟いた。その様子から本気で言ってるんだと分かる。これには五条も困ってしまった。乙骨に頼んだ件は五条にとっても大事な案件だ。それを他の人間に任せる気にはなれない。やはり信頼できて、かつ危険な場面に遭遇しても、きちんと対処する力がある人物でなければならないからだ。そういう意味でも乙骨が適任だった。本当なら自分で行ければ一番いいのだが、五条は常に任務で国内を飛びまわってるので、それも難しい。

「離れるわけにはいかないって…それってのこと?」
「…はい」
「でも数か月くらい離れたからって何かが変わるわけじゃないでしょ」
「変わりますよ…。それに今だって二日会えないだけで食事も喉を通らないくらいツラいのに…」
「………そんなに?」
「それにさん、財前先輩と婚約させられそうで――」
「えっ!」

またしても素で驚く。ただ、この世界では珍しい話ではない。特に名家と呼ばれる家柄の術師は、当人の意志とは関係のないところで将来の相手を決められる傾向にある。例え交際してる相手がいたとしても、それは変わらない。
五条も昔はそういう政略的なものを押し付けられそうになったことがあった。でも少し大人になり、自分という存在の価値に気づいてからは誰の指図を受けることもなくなり、現在は好きなように我がままを通しまくっている。
ただし、五条の場合は少し特殊なので、他の家に当てはめて考えることは出来ないだろう。

「…なるほど。事情はだいたい分かった」

乙骨が危惧していることを理解した五条は、うんうんと頷いてみせた。それを見た乙骨がパっと顔を上げる。

「じゃあ…海外任務は誰か他のひとに――」
「いや…この案件は憂太が適任だ。一応、特級呪具扱いの案件だし、向こうで何が起こるか分からないから他の人間には頼めない」

五条が言い切ると、乙骨の顔に絶望の色が浮かぶ。

「じゃあ…せめて来週からじゃなく、来月まで延ばして下さい。彼女が婚約させられてしまう前にどうにか――」
「分かった」
「え?」
「そっちの件と、あと他もろもろのことは僕に任せてくれる?」
「……先生に?」
「あれ、心配?僕を誰だと思ってるの」

五条がニヤリと笑えば、乙骨はきょとんとして大きな黒目を丸くしていたが、すぐに「"五条悟"――です」と笑顔で応えた。

「そういうこと。ま、悪いようにはしないから憂太は出張の準備を進めておいて。それまではまだ任務も入るだろうし、そっちに集中。分かった?」
「…はい。分かりました」

そこで初めて安堵の表情を浮かべた乙骨は「部屋に戻ります」と言って立ち上がった。それを目で追っていた五条は部屋を出て行こうとする背中に「憂太」と声をかける。

「憂太はのこと、本気で好きなんだ?」
「もちろんです」
「即答か…。でも…何でそこまで惚れたわけ。相談されたときも驚いたけど、そんな知らなかった子でしょ」

それは素朴な疑問だった。あのときは里香を解呪したことで、寂しさを他の誰かで埋めようとしてるのかと思っていたが、最近の乙骨を見ていると、どうもそういう感じじゃない。
五条の問いに乙骨はしばし黙っていたが、ふと「理由、そんなに必要ですか」と苦笑いを浮かべた。その大人びた表情は五条の知る乙骨とは少しだけ違うように見えた。

「…さんにも夕べ同じこと訊かれたけど…この気持ちは理屈じゃないから。ただ…」
「ただ?」
「…さんは自分で思ってるよりも、ずっとずっと優しいひとなんです。あのお疲れ会のとき…彼女だけが僕の痛みを察してそばにいてくれた。色々元気づけようとしてくれたんです。よく知りもしない他人の…僕の気持ちを想像して、理解しようしてくれてた。そういうのって自然と伝わってくるんです。さんは自分のことダメな人間だって言ってたけど…絶対にそんなことないし、少なくとも僕にとって彼女は…凄く素敵な女性で、大切なひとです。絶対に手放したくない」

最後に強い意志を見せた乙骨の言葉を受けて、五条はふっと柔らかい笑みを浮かべた。少し前の彼とは明らかに違う。

「そうか…憂太のを想う気持ちはよ~く分かった」
「え…そうですか?まだ全然言い足りないんですけど…」

真顔で言い切る乙骨に思わず吹き出す。

「いや、これ以上、惚気なくていいから」
「はあ」
「ま、あとのことは僕に任せなさ~い」

ポンと自分の胸元を叩けば、乙骨は今度こそ「はい」と笑顔を見せると、そのまま五条の部屋をあとにした。最後に「ありがとう御座います。先生」という言葉を残して。

「さて、と。どれから動こうか…」

残された五条はしばし思案していたが、何かを思いついたようにスマホを手にすると、あるところへ電話をかけ始めた。

「あ、もしもし。僕だけど――」

この二時間後――は実家からの電話で起こされるはめになった。



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「――え?何のこと…?」

早朝、乙骨に送ってもらい、寮の部屋へ戻ったは眠れぬまま鬱々としていたが、いつの間にか寝落ちしていたらしい。突然スマホが鳴った音で飛び起きた。乙骨かと思って速攻で出てみれば、かけてきたのは実家にいる母親からだった。

、何でそんな大事なこと早く知らせないの!』

第一声、そう怒鳴られたは、寝ぼけた頭で冒頭のような返しをした。

『乙骨特級術師のことに決まってるでしょ!』
「………え、な、何で彼のこと…」

母親に乙骨の名を出され、寝不足で機能不全だった脳が一気に覚醒した。乙骨のことは当然ながら家の人間に話していない。どうせ別れろと言われるのがオチだからだ。
の両親は家柄を重視し、どの家の息子が自分達の娘に相応しいか、それしか考えていない。だからこそ、これまで付き合った相手のことも話したことはなかった。なのに今、いきなり乙骨の名を口にする母に、の顏から血の気が引く。まず思い浮かんだのが財前の顏だったからだ。
夕べの一件で財前がの実家に連絡をしたのかと、そう思った。
だが、母はの想像とは全く逆の反応を見せ、嬉々とした声で言った。

『彼とお付き合いしてるんでしょう?お母さん、それ知って本当に驚いたわ!』
「え…」

母が怒っていない事実には心底驚いてしまった。母の声はどう聞いても浮かれてるように聞こえるからだ。

『本当はの相手に財前の息子をって思ってたのよ。まあ家はの家より劣るけど、そこそこの家系だし。でも、そういうことなら断りの電話をしなきゃね』
「え、ちょ、ちょっと待って、お母さん…」

母の言葉に混乱したは、何がどうなってるのか問いただした。そもそも今の話だと乙骨との交際を認めると言ってるように聞こえたのだ。そんなバカな、と思いながら訪ねると、母は『反対するわけないじゃない』と笑い出した。

『彼、五条家の親戚なんでしょう?なら言うことないじゃない』
「え…何でその話――」
『あら、いけない。もうこんな時間?早く財前の家に連絡をしないと!今日は結納の準備に入るって話してたし…ああ、こっちはお母さんに任せておいて。あと今度彼を連れて遊びにいらっしゃい。お母さんも会ってみたいわ、乙骨特級術師に。じゃあね』
「え、ちょっとお母さ…」

と呼んでみたものの、すぐに電話を切られて唖然としてしまった。一体どういうことだ、と繰り返し考えても答えは出ない。
一つだけ分かったのは、乙骨との付き合いを母が賛成してるということだ。それも――。

「五条先生と親戚だからって…言ってた?」

その話は分かった時点で高専総監部とも共有したらしい、というのはも聞いていた。里香に呪われたと思われていた乙骨は秘匿死刑対象だったからだ。でも遠縁とはいえ、五条家の親戚ともなればそう簡単に死刑を執行するわけにもいかない。
ならば母は高専の上層部からその情報を仕入れたんだろうか、と考える。
それに――母はもう一つ、にとって大事なことを言っていた。

「じゃあ…財前先輩との婚約話は…白紙ってこと…?」

それは想像以上に嬉しいことだった。夕べ、乙骨とあれほど鬱々した夜を過ごしたのが嘘みたいだと思う。

「やったー!」

急激に喜びがこみ上げ、は子供のようにベッドの上で転げ回った。まさか乙骨が五条の親戚と分かった途端、母のお眼鏡に適うとは考えてもいなかったのだ。もともと乙骨の家はごく普通の非術師の家系だと聞いていたので親に認めてもらえるはずがない、と諦めていただけに、母の反応はにとって喜びもひとしおだった。

「って、うわ、もうこんな時間?ヤバい、遅刻しちゃう…!」

一頻り喜んだあと、ふと手に握ったままのスマホで時間を確認したは慌てて起き上がった。特に任務の連絡は来ていなので、今日は普通授業を受けなければならない。慌てて制服に着替えようとパジャマ替わりの部屋着を脱いで、制服を身に着けていく。その際、ふと鏡に映った自分の胸元を見てドキッとした。ちょうど鎖骨の上部分が赤くなっている。

「え…これって…夕べの…?」

赤い痣のような跡を指でそっとなぞれば、不意に夕べの乙骨が脳裏を過ぎった。
乙骨は"許さない"と言った。あんなにも怖い乙骨を見たのは、も初めてだ。

――僕と別れるなんて愚かな考えがなくなるまで…許さない。

そう言った乙骨は、に覆いかぶさったまま、泣いている彼女を見下ろしてきた。なのに、その厳しい言葉とは裏腹に、の濡れた頬へ触れる指はとても優しいものだった。