目合の熱に漂う-10

の濡れた頬を指で拭い、頬を撫でる。そんな風に触れられたのは乙骨の誕生日以来。でもあのときとは違い、乙骨は酔っているわけでもなく、今はハッキリに触れていることを自覚している。その事実がを怯ませ、また羞恥心を煽られた。
「一つ…聞いてもいい?」
唐突なその問いにどきりとして視線を上げると、乙骨は「さんが…僕のこと、どう思ってるのか知りたい」と言った。
そう言われると…とはあることに気づいた。これまで乙骨に自分の気持ちを言葉にしてハッキリ告げたことはない、ということを。
それはいつも乙骨の方が「好きです」と言ってくれるからで、あとは照れ臭いという思いも少なからずあるからだ。
「答えて。僕のこと、好きですか?それとも…」
「す…すき、だよ。もちろん…だから――」
「だから、僕と付き合ってくれた?」
その問いに素直に頷けば、乙骨の表情が少し和らいだ気がした。
「なら…僕がさんに触れても平気…?」
「え…?」
「…僕は…さんに触れたい」
ハッキリと言われ、また心臓が跳ねる。じわりと熱が侵食して、頬も、耳も、首まで熱くなっていく。
「ダメ、ですか?」
何も言えずにいると、乙骨が少し不安げに彼女の表情を伺うのが分かり、つい首を振っていた。
「ダ、ダメじゃ…ない」
思い切って応えると、乙骨はホっとしたようだった。
も乙骨に触れられるのが嫌なわけじゃない。これまでもキスをされるたび、身体のどこかが変に疼いて、彼に触れられたいと思ったことくらいはある。
ただ、過去を上書きすると言われたことで、これから何をされるのかという不安の他に、行為そのものを苦痛に思った苦い記憶がある。それを思うと、好きな相手でも少しは怖くなってしまうのだ。
そんな彼女の不安をよそに、乙骨はあくまで優しく、彼女へ触れた。
「どこまで…触れていいですか?」
彼女の手を取り、その指先へくちびるを寄せた乙骨は、そんな質問を投げかけてくる。その質問は反則だと思いつつ、じわりと熱が頬を覆っていくの感じながら、はどう応えていいのかも分からなかった。すると乙骨は彼女の指先へちゅっと軽く口付け、「これくらいは平気?」と訊いてくる。指に触れたくちびるの感触や、肌に残る熱が、またの頬を熱くし、心臓が早鐘を打ち出した。
それでも乙骨の問いにこくんと小さく頷けば、彼は再び指先へとくちびるを寄せ、ちゅっちゅっと優しく口づけていく。
それだけの行為。なのに、乙骨に口付けられたそばから、指先に甘い痺れが生まれ、それが徐々に体の方まで侵食し始めた。鼓動がどんどん速くなっていく。
「…ん、」
そのとき、口づけられていた指先に、ぬるりとした感触が走り、思わず手を引きかけた。その手をぎゅっと掴まれ、引き戻される。乙骨は彼女の指に舌を絡めて、舐める合間にちゅうっと軽く吸い上げていく。その初めての刺激に、の首元がぶわっと粟立つ感覚に襲われた。
「…ぁ…っ」
指を舐られ、手のひらへ口付けられる。別に肌を愛撫されたわけでもないのに体が火照り、羞恥心を煽られた。思わず顔を背けると、乙骨のゴツゴツとした手が顎に伸びて、元の位置へ戻される。そのまま指でくちびるをなぞられると、そこが敏感になってると分かるくらい、首からぞくぞくとした感覚が走った。
「キス、していい?」
いつものように訊かれても、はいつものように返せなかった。それまで遠慮がちに敬語で話してた乙骨の口調が、今夜のことをキッカケに少し変わり、やけにドキドキしてしまうからだ。応える代わりに頷くだけで精一杯だった。それを見た乙骨が彼女へ覆いかぶさり、最初は軽めにくちびるを触れ合わせる。そのまま彼の少し薄めのくちびるがのものと交わるほどに重なり、くちびるでくちびるをゆっくり擦り合わせるように、何度も角度を変えながら深く口付けられた。そのキスは余計にくちびるをを濡れさせ、敏感にさせていく。故に呼吸も自然に乱れてしまう。
ただ、酸素を求めてくちびるを僅かに開けば、この日はすぐにぬるりと舌が侵入してきた。乙骨の長い舌はの口内を全て味わうようにねっとりと動く。口蓋を舌先で刺激され、舌を絡みとられると、くちゅくちゅと卑猥な音が耳を刺激し、勝手に体の熱まで上がっていく気がした。口内を貪られ、頬へ添えていた手がするすると下がり、悪戯な指先が彼女の首筋をなぞっていく。震えかけた彼女の肩を、乙骨の大きな手が撫でていき、そのかすかな刺激さえ、の身体を追いつめてくるようだった。
「ん…ぁっ」
口内から乙骨の舌が出ていったと同時に、口端から垂れた唾液を舐めとられる。それが恥ずかしくて無意識に顔を背ければ、今度は無防備な首筋へ吸い付かれた。その強い刺激にびくんと肩が跳ね、鼻から抜けるような甘い声が、彼女の口から洩れる。それを聞いた乙骨が、ふっと笑みを浮かべるのが分かった。
「…かわいい。その声、もっと聞きたい」
「…ん、ゃ…」
「ここにキスしたい。ここと、ここも」
「…ぁっ」
の耳にくちびるを寄せ、軽く耳たぶを食みながら、乙骨は指先で彼女の首や、鎖骨の辺りをツツ…となぞっていく。たったそれだけの刺激なのに、体が過剰に反応するのだから驚いてしまう。
「…いい?キスしても」
「お…乙骨く…」
「あー…ダメだよ、そんな顔したら…。僕が我慢出来なくなっちゃうから」
潤んだ彼女の瞳を見下ろしながら、乙骨は困ったように眉尻を下げる。今、自分がどんな顔をしてるのかすら、彼女は気づかない。
「約束は破りたくないから、今日はキスだけさせて」
彼女の頬を手で包み、くちびるをちゅっと啄むと、そのまま下降させ、首筋に再び吸い付く。
「…ひゃ…んっ」
ちゅうっと少しだけ強く吸われると、くすぐったさとピリっとした刺激で、彼女は小さく呻いた。その場所をぺろりと舐められ、また首筋にぞくりとしたものが走る。そんなの反応を確かめるよう、乙骨はくちびるを少しずつ下げていき、今度は鎖骨のくびれに舌を這わせた。同時に着ていたジャケットのボタンを一つ、二つと外し、合わせ目を指で少しずつ開いていく。だが、中に着ていたビスチェのようなデザインのトップスを見た瞬間、乙骨の動きが止まった。それは肩紐がないタイプのもので、彼女の首筋から肩、胸元を惜しげもなく出している。乙骨は小さく息を吐いて、彼女の額に自分の額をこつんと当てた。
「こんな格好であんな場所へ行くのはダメでしょ、さん…」
「…え…」
「あまり…僕以外に肌を見せないで」
額を合わせたまま、乙骨に至近距離で囁かれた瞬間、胸の辺りがぎゅんっと大きな音を立てたのが自分でも分かった。拗ねてる乙骨が可愛いと思ってしまったからだ。今日の乙骨はいつもとは違い、少し怖い一面を見せたものの、こういうところは変わってないんだ、とホっとする。なのでもそこは素直に頷いておいた。別に人前でジャケットを脱ごうとも思っていなかったのだが、乙骨からすれば、男がいる場所に"着てくだけでダメ"らしい。
これまで乙骨のことは素直で温厚なひとだと思っていたが、意外と嫉妬深くて独占欲の強いところがあるようだ。
そのギャップも好きだな、と思っていたとき、また首筋へちゅっとキスを落とされ、そこへ吸い付かれた。
「…んぁ…っ」
油断していたところへ、ちくりとした刺激が首の薄い皮膚へ走る。そのまま乙骨はくちびるを下げていき、鎖骨から胸元へも口付けていった。その間も乙骨の手が、今では剥き出しになった肩から腕を優しく撫でていく。中途半端にジャケットを脱がされ、室内の空気が肌へ触れる感覚がやけに恥ずかしかった。
「さんの肌、滑らかで気持ちいいから、ずっと触れていたくなる」
「…ん、くすぐったい、よ…」
肌を露出してるとこ全てにキスを落とされ、軽く吸われると、小さく甘い刺激があちこちに広がっていく。自然と息が上がり、下腹の奥の方がジンっと熱くなった気がした。
「…ひゃ…」
そのとき、下降していた乙骨のくちびるが胸の谷間付近へ触れ、そのラインに沿って舐められる。さすがに恥ずかしくなり、僅かに身を捩ったものの、今度は服の上から胸の先端辺りへキスをされ、びくんと背中が跳ねてしまった。
「かわい…さん。敏感なんだ」
の反応に乙骨が蕩けたような口調で呟く。だが、ここまで過剰に反応してしまうのはも初めてだった。
の反応に気を良くしたのか、乙骨の手が脇腹から胸の膨らみまで優しく撫でていく。そのたび、ぞくぞくと肌が粟立つ感覚に襲われ、は軽く頭を振った。
「や…は、恥ずかしい…それ」
「でもさん、気持ちいいって顔してる」
「そ…そんなこと…」
ない、とは言えなかった。乙骨に触れられるたび、感じたことのない感覚が全身に広がる気がして酷く落ち着かない。本当なら好きでもなく、何なら少し憂鬱な行為だったはずなのに、いつも乙骨にキスをされたり、どこかへ触れられたりすると、勝手に体が疼いてしまうのが不思議だった。
そのとき、乙骨がゆっくり体を起こし、頭を項垂れ、深い息を吐くのが分かった。
「あー…ダメだ。これ以上したらホントにヤバい…」
その言葉にどきりとして視線を上げると、男の欲を孕んだ乙骨と目が合う。ただ、ほんの少し悲しそうにも見えて、どうしたの、と声をかけようとしたとき、乙骨が先に口を開いた。
「…さっき…あいつがさんと婚約がどうのって言ってたけど…本当?」
乙骨は彼女の頬をそっと撫でながら訊いてきた。
「…え?あ…あれは…」
「さん、あいつと婚約なんて…しないよね」
それは哀願ともとれる言葉に聞こえて、は静かに首を振った。本当は親が決めたことには逆らえない。でも今それを言えば乙骨をまた傷つけてしまうと思った。
同時に、何故、彼はここまでわたしのことを想ってくれるんだろう、と不思議に思う。お疲れ会をやるまではそこまで親しくもなかったはずで、乙骨にここまで好かれる理由が分からない。
「乙骨くんは…何でそんなにわたしを好きでいてくれるの…?」
「…なんで?」
「本当のわたしは…乙骨くんが言ってくれたような女じゃないもん。全然、純粋でもないし…財前先輩が言ってたこと聞いたでしょ…?あのひとが言うような遊びのつもりじゃなかったけど…でも今思えば、いつか親が決めた相手と結婚するって頭があったから…誰とも本気では向き合ってなかったと思う…。今が楽しければいいって軽い気持ちだったかもしれない。わたしはそういうダメな人間だから、純粋に想ってくれる乙骨くんには似合わないって、そう思ったの。だからさっきは早いうちに別れた方がいいのかなって思って…あんなこと言っちゃった。ごめんね…勝手だった」
一度口をついて出た本音が次から次に溢れてきて、は初めて乙骨に自分の本心を話すことが出来た。こんな風に素直に自分をさらけ出せたひとはいなかったかもしれない。
もし、これで乙骨に幻滅されても、それは仕方ないと思った。結局、自分にうそはつけない。過去も変えられないのだ。
乙骨は黙って彼女の話を聞いていた。その沈黙がやけに怖いと感じる。でも乙骨が不意にの頭を撫でて、いつもの優しい笑みを口元に浮かべた。
「さんは全然ダメじゃない。やっぱり僕の思った通りのひとだった」
「…え、ど、どこが?」
「僕のことを思って、バカなことを考えるとこ」
「な…バカって…ひどい…わたしは真剣に悩んだのに…」
少し拗ねた感じで目を細める表情が可愛くて、乙骨は彼女の腕を引っ張っり起こすと、そのまま力いっぱい抱きしめた。彼女の本心が聞けたことは、想像以上に嬉しい。さっきまで心に刺さっていた棘が綺麗に消えていく。
「僕もごめん…何も知らずにひどいこと言って」
「え…何で…乙骨くんが謝るの…?」
「だって…嫉妬して…こんなとこ連れこんじゃったし…怖かったよね。ほんとにごめん」
「乙骨くん…」
「でも僕はさんが大好きだから…侮辱されたら怒るし…元カレだって全員抹殺したいくらい嫉妬もするんだよ…」
「ま、抹殺…?」
物騒なことを言われて驚くと、乙骨は僅かに体を放して、を見下ろした。
「そりゃ…さんと一度でも付き合った男なんて消したいに決まってる」
「え…」
「あー…それ考えるとやっぱり上書きしたくなる…」
「え、ちょ、ちょっと――」
再び押し倒された格好になり、は慌てて顔を上げた。でも目が合った途端、くちびるをちゅっと啄まれ、「ダメ?」と訊かれると言葉に詰まってしまう。
は乙骨のこの顔に弱いのだ。だから、つい――。
「ダ、ダメじゃ…ない」
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鏡に映るキスマークの跡を見ていると、今更ながら顏が赤くなってしまった。
(どうしよう、あんなこと言っちゃって…ていうか、これからもあんな風に触れられたら、もっとおかしくなりそう)
あの後も乙骨のキス攻撃を受けて、半ばヘロヘロになりながら帰ってきたことまで思い出した。別に抱かれたわけでもないのに、変に体を刺激されたのが良くなかったかもしれない。でも――それが本気で嫌とかじゃないのが困るのだ。
「あ…でもお母さんが認めてくれたんだから…将来のことなんて気にしないでいいのかも…」
そこでふとさっきの電話を思い出す。これまでは別れを前提に付き合ってきたのもあるせいか、なかなか実感が湧かないのだ。でも今後はそんなことを気にせず、乙骨と付き合っていける。そう思うと自然に顏が緩んでしまう。
――もう絶対、僕に似合わないとか、そんなこと考えないで。
別れ際、乙骨に言われた言葉を思い出すだけで、これまでの憂鬱だった心が、救われた気がしていた。
