怪我の功名-11



格式ばった家と因循いんじゅんした両親のせいで、は本音を言えない子供だった。何でも親が決め、彼女の意見はないも同然。にとってこの世界は息が詰まるようだった。
一時の自由を得たとき、それまでの鬱憤を晴らすかのように青春を謳歌し、欲しいと思ったものへ、無責任に次々と手を伸ばしたのはそのせいだ。愚かだったな、と自分でも呆れてしまう。

「今更…過去は変えようもないけど」

そう、今更だ。自分の辿った過去の時間を、現実を、今更ながら後悔しても仕方ない。なのに、それを分かっていながら今現在、彼女は後悔している。
今まで謳歌してきた軽い恋愛とは違い、ひとりの男の子を本気で好きになったことで生まれた後悔だ。
乙骨くんが初めての恋人だったら良かったのに。
そんな可愛い後悔を抱えつつ、だいぶ春めいてきた景色を眺めながら、は深い深い溜息を吐きだした。爽やかな四月の風が、その重苦しい溜息をかき消すようにふわりと吹いて、また小さな花びらが舞った。

「…わふ!」

ボケーと淡い桃色の花びらが舞うのを映していた彼女の視界に、突然と大きな白いもふもふ・・・・がドアップでフレームインしてきた。額には道返玉ちかへしのたまの紋様がある。これは彼女の後輩・・・・・が使用する式神。名前を玉犬の白という。

「あれ、伏黒くん、もうアレ祓ったんだ。っていうか白が祓ったのね」
「わふ!わふ!」

彼女の言葉に反応しているのか、白いもふもふが景気のいい鳴き声を上げる。その姿はとても可愛らしく、はつい頬を綻ばせた。そっと頭に触れて撫でれば、気持ち良さそうに目を瞑るところは本物の犬にしか見えない。こんなリアルな式神を操る後輩には、ただただ驚くばかりだ。

「ふふ、可愛い。愛想がいいのね、白は。主は不愛想なのに――」
「悪かったですね。不愛想で」

白を愛でていると、背後から不機嫌そうな声がしては振り返った。朽ち果てた廃墟から出てきたのはひとりの男子生徒。高専生特有の黒い制服を身に着けたその生徒は、ツンツンした黒髪に被った砂埃を無造作に払いながらの方へ歩いてきた。

「悪いと思ってないくせに」

白の頭を撫でながら彼女が笑うと、その男子生徒――伏黒恵は「任務完了っす」とだけ呟き、彼女を癒していた白を一瞬で消してしまった。

「あ!何で消すのー?!」
「え、いや、だって…」

まさか怒られるとは思わず、伏黒はぎょっとしたように足を後退させた。玉犬は呪いを祓う為の式であり、任務が終われば当然、顕現させておく必要はない。なのに目の前で拗ねたようにじとりと睨んでくる先輩を見て、伏黒は困ったように頭を掻いた。

「ハア…癒されてたのに」
「…すんません」

心底残念そうな彼女を見てると、ついそんな言葉が口から出た。どこか責められてると感じたせいだ。ただ俺が悪いのかよ?と思っても口には出せなかった。一応、相手は先輩だ。ただし無駄な呪力を消費してまで、彼女の為に玉犬を再び顕現させるか?と、考えても実行に移すまでには至らず。再び先輩をガッカリさせるこの、あまり愛想のいいとは言えない男子生徒。彼はあの五条悟が訳あって後見人をしている伏黒恵といい、今年高専に入学したばかりの一年だ。といって一年生は今のところ伏黒だけなので、担当の五条が来れないときは、誰か空いてる先輩が同行することになっていた。

その場合、あくまで先輩は任務に手を出してはならず、出来るだけ後輩に祓徐をさせる。ただ後輩に手に負えない場合のみ援護可能だが、この伏黒に限ってはまだ一度もそんな事態に陥ったことはなかった。伏黒が小学生の頃から五条が密かに鍛えていただけあり、若いのになかなかの才能があること、そして入学したばかりでも術師としての階級は三級。でもそれは様子見の為のとりあえず的な位置づけで、伏黒ならすぐ自分と同じ二級へ昇格するだろうとは予想している。なので彼女も特に伏黒の実力については心配していない。
よって、伏黒が呪いを相手にしている間は暇なので、その間は鬱々と過去の自分の行いを反省をしていたところだ。

「えっと…今日はこれで終わりだっけ」
「いえ、もう一件、この近くにあるっスよ、廃墟。さっき補助監の新田さんが話してたと思うんスけど」
「えーまだあるの…?ああ、ほんとだ。こっから更に奥へ進んで徒歩五分って書いてる」

しゃがみ込んだまま、溜息交じりで資料に目を通す先輩を見下ろしながら、伏黒はやる気ないな、この人、と僅かに目を細めた。ここ最近は三年で唯一残っているが伏黒につけられることも多く、伏黒も薄々この先輩が真面目な類ではないと分かってきた。同級の金次と綺羅羅が停学になってからというもの、は任務の入らないときに限り、誰かの援護要員として任務へ派遣されることが多く、彼女曰く緊張感に欠ける、とのことだった。
に、しても。待ってる間、玉犬と戯れてるとか緊張感なさすぎじゃね?と伏黒も思うのだが、この先輩、どこか憎めない愛らしさがある。年上なのにまるで年下を相手にしてるような気持ちにさせられるからかもしれない。

(こんな緩くて軽いノリのひとが、あの・・乙骨先輩の彼女さんっていうのも何か…信じられねえけど)

内心失礼なことを考えつつ、伏黒は唯一、手放しで尊敬できる先輩、乙骨憂太を思い浮かべた。乙骨とは高専へ入る前に一度、五条によって紹介されたことがある。そのときはまだ里香解呪前だったこともあり、禍々しい呪力を放ちながらも、本人はどこかほんわかした空気を持つ、温和で真面目な印象を受けた。優しい人柄に加え、ひとたび戦闘になれば特級をも圧倒する乙骨は、家庭環境が理由で少々曲がった物の見方をするようになった伏黒でも素直に凄いひとだと認めている。里香解呪後も誰より努力を重ね、たった三か月で特級術師に返り咲いたことも、伏黒が彼を尊敬する理由のひとつだ。
その尊敬する乙骨が目に入れても痛くない、というほどに惚れこんでるのが彼女――なのだから、ひとの好みは分からない、と伏黒は思う。
乙骨にはもっとおとなしめの女の子らしいタイプが似合いそうなのに、とは伏黒の勝手な想像だ。

(まあ…確かに見た目はマジで綺麗だけど。お人形さんみたいって彼女みたいなことを言うんだろうな)

その彼女は未だにウダウダとしゃがみこんでいたが、不意にスマホが鳴るとすぐに相手をチェックし始めた。それを横目で見つつ「行きますよ」と声をかければ、は「待って。乙骨くんに返信しちゃうから」と慣れた手つきでスマホを操作している。それを見た伏黒は「え、一時間前も確かメッセージ来てましたよね」と、よせばいいのに、つい突っ込んでしまった。その問いに、はメッセージを打つ手を止めることなく「うん」と応える。

「でもさっきのは行ってらっしゃいと気をつけてのメッセージ。今のは安否確認と今日のお昼は何食べるの?っていう質問メッセージ」
「………はい?」

その質問、任務中に必要ですか?と聞きたげな伏黒には気づかず、は打ち込んだ内容を送信すると、「じゃあ、ちゃっちゃと祓いに行こ」とやっと立ち上がって歩き出した。伏黒もそれに慌てて着いて行く。
と乙骨が付き合っている、というのは五条から「ふたりはラブラブなんだよー」という雑なノリで聞かされたのだが、どういう付き合いをしてるかまでは伏黒も知らない。ただ自分の任務にが同行したときは頻繁に行われるメッセージのやり取りを見ていると、伏黒の中である言葉が浮かんできた。

(もしかして…ふたりは相当なバカップルなんじゃ…)

失礼ながら、そう感じたことは口が裂けても言えないが、今のとこ恋愛の"れ"の字も知らない伏黒には先輩方の付き合い方にどうこう言える立場でもなく。ここは見て見ぬふりが一番だと考える。そして次の任務を終わらせるべく、人気のない雑草林をとふたりで移動しながら、近くの廃墟にいるという呪いの気配を探っていった。
このとき、ふたりとも決して油断はしていなかった。と思う。ただ、運が悪かったとしか言いようがない事態が起きて、咄嗟に伏黒を庇ったが怪我をした。ただ、それだけのこと。
だが、それを知った乙骨には、それだけのことでは済まなかった。

「――さん!!」

顔面蒼白といった顔で医務室に飛び込んできたのは、たまたま任務もなく高専にいた乙骨だった。
補助監督の新田と伏黒に高専まで運ばれたは、すぐに家入硝子の元へ運ばれ、治療を受けるはずだったのだが、この日、運の悪いことに、家入は緊急を要する怪我人の元へ呼び出されていて不在。慌てた新田が乙骨のスケジュールを調べてみると、こっちは運のいいことに任務はなく、高専内にいることが分かった。そこで新田はすぐに乙骨へ連絡をしたのだが、まさか数分で駆けつけてくるとは思っていなかった。
乙骨は大股でベッドへ歩み寄ると、寝かされているの顔を覗き込んだ。口元へ耳を近づけ、呼吸が正常かを確認している。の顔は煤け、いつもは透けるくらい白い頬もあちこちが切れて血が滲んでいた。でも酷いのは腕や足の怪我だろう。どちらも複雑骨折をしていて、真っ赤に腫れあがっている。最悪なことに、呪いの体液も飛んで傷口を汚染していた。彼女のその姿を見た乙骨の顏から、表情というものがごっそり抜け落ちていく。同時に闇を思わせる黒く、重い、ぬるりとした呪力が、乙骨の体から滲みだすのが分かった。それを感じた瞬間、新田は意識が遠くなり、伏黒は全身が総毛だつ。だが、それは一瞬のことだった。

「すみません…彼女が――」
「何があった?」

伏黒の言葉を遮り、乙骨が抑揚のない声で尋ねる。いつもとは明らかに違う空気を感じた伏黒は、余計な説明を省き、簡単にそのときの状況を説明した。
先ほど、最後の廃墟へふたりが近づいた際、そこに沸いてた呪いが奇襲を仕掛けてきたのだが、そこはどうにか回避することに成功。その後に伏黒はすぐ玉犬を顕現し、は一旦、そこから退避をしようと動いた。もちろん伏黒の任務の邪魔をしない為だ。だが、玉犬の鋭い攻撃を受けた呪いは、瀕死になりながらも最後のあがきで伏黒ごと吹き飛ばそうと、残りの呪力で自身の体を膨張させていった。

二級程度の呪いとはいえ、自分の死を縛りとした爆発ならば、いくら伏黒と言えど無事では済まない。それに気づいたは自身の呪力出力を上げ、呪いを攻撃。ただ彼女の術式は呪力を呪いに有効な毒へと変換するもの。瀕死の呪いでも即死させるには少しの時間を必要とした。そこで咄嗟に呪力を練り上げた毒による結界を作り出し、爆発からのダメージを少しでも減らそうとしたらしい。おかげで伏黒もも爆発に関しては事なきを得たのだが、その後が良くなかった。
彼女の結界が守ったのはふたりのみであり、建物への影響までは手が回らなかった。爆発の影響で崩れ落ちてきた瓦礫から、体勢を崩していた伏黒を庇った結果、それがの体を直撃したらしい。まさに運が悪かったとしか言いようがない。

「すみません。オレを庇ったせいで先輩が怪我を…」
「伏黒くんは悪くないよ。彼女は先輩としてやるべきことをしただけだ」

事情を聞いて少しは落ちついたのか、乙骨はそう話す間もの怪我をしてる箇所へ触れ、自身の反転術式でプラスエネルギーを流し続けている。そこで初めて伏黒は乙骨が反転術式を使えること、また自分以外の人間へアウトプット出来ることを知った。そのおかげか、の怪我が見る見るうちに塞がっていく。

「…凄い」
「とりあえず今は軽い怪我だけ先に治した。あとは複雑骨折した腕や足だけど、こっちは少し時間がかかるから――彼女のことは全て僕に任せてくれますか」

不意に振り向いた乙骨から話しかけられ、新田がぴょこんと姿勢を正した。年下だろうが、乙骨は貴重な貴重な特級術師。異論などあるはずもない。

「っは、はい!もちろんっス!家入さんには私から連絡しておくので――」

と、そこで新田は言葉を切った。乙骨が寝ているを優しく、丁寧に抱き上げたからだ。まるで真綿で包み込むように、そっと自分の腕の中へを抱える乙骨を、新田と伏黒がぽかんとしながら見ていると、彼はふたりの視線に気づいたのか、先ほどよりは表情も和らいだその顏に軽く笑みを浮かべた。

「心配だから僕の部屋へ運びます。あと、このまま僕が彼女に付き添うので家入さんにはそう伝えておいてくれますか」
「は…はいっ!了解っス!」

若干、頬を赤らめつつ新田が応えるのを見た乙骨は「頼みます」と最後に付け加えて医務室を出て行った。ドアが閉まったあと、しばしの沈黙が続く。最初に口を開いたのは、やはり新田だった。

「な……何か、愛を感じたっスね」
「…そう、です、ね…」

大人の新田と、まだ十五の伏黒。年齢差はあれど、今ふたりの中には同じ感情が広がっている。他人の愛情をまざまざと見せつけられたときの、何とも言えない気恥ずかしさだ。とりあえず、この甘さが残る空気を何とか変えたい新田は軽く咳払いをしてみせた。

「コ、コホン!で、では私は報告書を上げてくるっス。伏黒くんは怪我、大丈夫っスか?」
「俺は擦り傷だけなんで平気です」
「じゃ、じゃあ…お疲れっした!」

ぺこんと頭を下げた新田はそそくさと医務室を出て行く。よほど気まずかったらしい。まあ、それは伏黒も同じなのでひとりになってホっと息を吐く。そのまま医務室にある消毒液などで適当に擦り傷を消毒すると、伏黒は今までが寝かされていたベッドへ腰をかけた。シーツを軽く撫でれば、仄かに彼女の体温が残っている。とにかく怪我だけで済んで良かったと、安堵の息が漏れた。
まさかが自分を庇って怪我をするなどとは、伏黒も思っていない。そこはやはり自身の至らなさを反省してしまう。呪いに規則性はないと頭では分かっていたはずが、まさか自爆をされるとまでは予測を立てられなかった自分に腹が立つ。次からは色んなことを視野に入れて動こう。そう心に誓いながら、伏黒は立ち上がった。

――ねえ、伏黒くん。あの可愛い兎の式神、出して。待ってる間、兎と遊んでるから。

呪いに奇襲される寸前、がそんな呑気なことを言ってきて、あのときは「そういう趣旨のものじゃないんで」なんて、素っ気ない返しをしてしまったことまで思い出す。こんなことなら兎くらい何羽でも出してあげれば良かったかも、と思うくらいには、伏黒も彼女に罪悪感があった。

「…今度先輩に会ったら…兎出してやるか…」

ガシガシと頭を掻きつつ呟いて、伏黒は静かに医務室を後にした。


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「おや、彼女どうしたんですか?」

乙骨が寮にしている寺へ戻ると、坊主たちが腕に抱いてるに気づいて声をかけてきた。簡単に事情を説明し、彼女を自分の部屋で休ませる承諾をもらうと、長い廊下を、今日は走ることなく静かに移動し、自分の部屋まで辿りついた。
この部屋へ移ってから一カ月は過ぎ、すでに室内も綺麗に片付いている。最近はが頻繁に来てくれるようになったので、乙骨が掃除好きになったせいだ。その部屋の奥にドンと鎮座しているダブルベッドへ、乙骨はそっとを寝かせた。そして自分もベッドの端へと腰を下ろし、未だ意識の戻らないの顔を覗き込む。呼吸が少し荒く、苦しそうなのは、呪いの体液に中てられたせいだろう。頬にかかった髪を指で避け、そこへちゅっと口付けると、乙骨はまず彼女の服や傷口に付着している呪いの痕跡を綺麗に拭きとっていった。いくら術師といえど、傷口に入れば多少は中てられてしまう為、今、彼女の体は熱が上がっている状態だった。なので今度は汚染された傷口へと口付け、そこから己の呪力を吹き込み、傷口を直接浄化しながら治していった。他の傷も同様、同じことを繰り返していく。そうすることでの呼吸も次第に安定し、規則正しい音へ戻ってきた。

「良かった…顔色も良くなってる」

さっきまでは白いを通り越し、青白かった頬がほんのり色づいてきたのを確認して、安心したようにホっと息を吐く。先ほど医務室で傷だらけのを見たときは、乙骨もさすがに動揺を隠せなかった。一目で命に別状はないと分かっても、が怪我をさせられたと思うだけで、抑えきれないほどの激情が一瞬でこみ上げた。それはとっくに自爆死したという呪いを更に八つ裂きにしてやりたいという怒りだ。もしあの場に新田や伏黒がいなければ、怒りを制御できずに爆発していたかもしれない。

「…やっぱり心配は尽きないな」

赤みの戻ったの頬を優しく撫でながらふと呟く。後輩の任務に同行しただけでこれなのだから、もし自分のいない間に何かあったら、と思うと、とてもじゃないが日本を離れる気にならない。今日みたいに家入が不在だった場合、他に他人の傷を癒せるのは乙骨だけなのだ。その乙骨すら不在だったときに何かあれば、と思うだけで、心がざわりと音をたてる。
そのとき、頬を撫でられた刺激で意識が戻ったのか、の瞼がかすかに震えたのが分かった。

さん…」

驚かせないよう、そっと名前を呼ぶ。は声に反応したらしい。ゆっくりと瞼を押し上げて、視線を僅かに彷徨わせたあと、乙骨に気づいて微笑んだように見えた。

「ど…しているの…?」
さんが怪我をしたと新田さんから連絡がきて。ここは僕の部屋だよ」
「…そ…か…わたし…あの廃墟で…」

そのときの記憶が戻ったのか、は天井を見つめながら小さく深呼吸を繰り返す。まだ骨折した部分は治してないから痛むんだろう。

「ふし…黒くんは…」
「彼は大丈夫。見たところかすり傷くらいだったしね。さんが庇って怪我したこと気にしてた」
「…そんなのいいのに」

こんなときでも笑顔を見せる彼女に、乙骨は「ちっとも良くない」と溜息を吐いた。二級相手とはいえ、こうして大怪我をした以上、どのレベルの任務に就こうが乙骨の気は休まらない。

「あまり無茶しないで。心配でどこにも行けない」
「…ご、ごめん…」

額に口付け、の目を至近距離で見つめてくる乙骨を見て、の頬が熱以外のもので赤くなる。ただ、体を少し動かしただけで激痛が走り、思わず顔をしかめた。

「まだ動かないで。腕と足が複雑骨折してる」
「え、うそ…」
「とりあえず呪いの体液が傷口に入って中てられてたから、それを浄化した。じゃないと怪我も治しにくいから。骨折は今から治してあげるね」
「う、うん…ごめんね。ありがと――」

と言いかけた瞬間、乙骨が身を屈め、彼女のくちびるを塞ぐ。やんわりと啄まれ、濡れたくちびるを軽く甘咬みされたことに驚いた彼女が目を見開く。それに気づくと、僅かにくちびるを離した乙骨がふっと笑みを漏らした。

「口からでも流せるの知ってるでしょ」
「だ、だからって…んぅ」

反論させまいと、すぐにのくちびるを塞いだ乙骨は、彼女のくちびるを好きなように愛撫していく。舌先でくちびるをなぞり、ちゅうっと吸い上げ、互いの熱が深く交わるように優しく啄む。それは治療というよりも、普段より少し濃厚な口づけでしかない。舌こそ入れないものの、くちびるを散々堪能されれば、自然と呼吸が乱れてしまう。ぽってりとした下のくちびるを乙骨のくちびるに挟まれ、ちゅうっと吸われただけで、下腹の奥がジンと熱くなるのを感じた。舌を絡めたわけでもないのに、こんなにも気持ちいいのかと少しだけ驚く。あげく、何かを期待するように自然と口を開いてしまいそうになるのだから、本能とは怖いものだと実感してしまった。

「…かわい、さん。もっとちゅうして欲しいって顔してる」

長らく彼女のくちびるを堪能してた乙骨が、ちゅっとくちびるを啄みながら微笑む。そういう乙骨の顔も、もっとキスがしたいと強請っているように見えた。それがの羞恥心を余計に煽っていく。

「う…うそ。そんな顔してないもん…」
「してるよ。目もとろんとしてるし、凄くえっちな顔になってる」
「え…ちって…」
「知ってる?くちびるって皮膚が薄くて神経が集まっている場所だから、とても敏感な部位らしいよ」

指でのくちびるをなぞりながら、乙骨が微笑む。確かに指で触れられただけで、そこから甘い刺激が全身に広がっていく気がした。そして、いつの間にか骨折してるという腕や足の痛みも消えている。きっと口からのアウトプットで乙骨が治してくれたんだろう。ただ「まだ完全にくっついてないから動かないで」と言われてしまった。

「ほんとは直に怪我をしたところから流せば、もっと早くくっついたんだけど」
「…え?」

正直に暴露した乙骨は、きょとんとした彼女の頬にも口付けて、意味深な笑みを浮かべた。

「キスしたかったから、口からでもいいかなと思って」
「な…」
「だから、完全にくっつくまでは、もう少しかかるかな」

確信犯的に微笑む乙骨を見上げながら、の頬が赤く染まっていく。でもこんな治療なら、また怪我をしてもいいかな、と思ったのは、乙骨にも内緒だ。
そしてこの怪我をキッカケに、乙骨の海外任務への同行命令が下されることを、ふたりはまだ知らない。