欲張りの幸福-12

何故、こんなとこに――。
ビョォォォという強風が彼女の長い髪を大胆に攫う。辺りにその風を遮るものは何もなく。目の前にはそれはそれは広大な地が、どこまでも広がっている。
ここは世界の果てか?と思うような景色を見つめていたは、早くもこの同行任務を後悔しそうになっていた。
そもそも、何故彼女がこの自然溢れる広大な土地へ降り立ったのかというと、それは五日ほど前に遡らなければならない。
後輩の任務に同行した際、は突発的に起きた不幸な事故で怪我をしてしまった。通常の人間ならば何カ月も入院を余儀なくされ、退院できたとしてもリハビリに長い時間を費やすことになるほどの大怪我――だったのだが、幸いにも恋人の乙骨憂太が高専にいたことで怪我を治してもらったことから、次の日からは通常通りの生活を送ることが出来ていた。
その彼女が前担任の五条悟から呼び出しを受けたのは、怪我をした日から二日後のことだった。
「――え、海外?わたしが?」
「うん、そう。三日後には出発してもらう」
三日後、とこれまた急な命令には戸惑った。これまで海外での任務を言い渡されたことはなく、また生徒の自分が行く理由も分からない。呪い発生は主に日本が多く、海外での呪霊被害は日本に比べ、圧倒的に少ないと聞いている。その分、まだまだ海外での呪いの存在は未知なものも多く、数年に一度はデカい事件が起こるらしいが、その辺は目の前の前担任や、他の上級術師が赴いていた。
よって、三年に上がったばかりの二級術師でしかない自分が、海外任務に行けと言われる意味が分からない。がそう考えるのも当然だった。しかし五条の次の言葉で、彼女はその理由を知ることになる。
「と言っても…が直接、今回の任務にあたるわけじゃないから安心して」
「…は?それはどういう…」
ますます意味が分からないと眉間を寄せる彼女に対し、五条は満面の笑みを浮かべてこう言った。
「の任務は憂太の世話をすること。この一点のみ!」
「…え?」
何故ここで乙骨の名が出るのかも分からず、ぱちぱちと目を瞬かせる。五条はよく、こういった意味のないサプライズを仕掛けてくることがあった。まず趣旨を後回しにして、最初に主旨の方から言い、少しずつ要点を小出しにしていく。例の合コン事件のときも乙骨があの場へ来たのは五条のこういった性格が原因だったと、もあとで知ることになった。相手の驚く顔を見たいが為の悪戯心なのかまでは彼女にも分からないが、少なくとも五条の後輩、七海はイラっとするので早く全てを簡潔に話して下さい、と怒ってる場面をよく見かけるので、やはり五条はひとをイラつかせて楽しんでるのかもしれない。家入硝子曰く「五条は無意識にひとを煽ってくる」そうだ。
現にも目の前でニヤリと笑う五条を見て、若干イラっとしていた。アイマスクで綺麗な瞳は見えないものの、絶対に今、愉しげに目を細めているに違いない。そんな彼女の様子を見ていた五条は満足したのか、やっと詳しい事情を話す気になったようだ。実はさ、と前置きをしてから口を開いた。
聞けば五条はどうしても乙骨に頼みたい任務があるという。それはとある国にあると言われる特級呪具を探し出すこと。しかし当の乙骨は今すぐ海外へ発つのを物凄く渋っているらしい。その理由として、愛してやまない――五条の比喩だが――恋人を置いていくのはとてもじゃないが忍びない。かつ後輩の任務の付き添いにも関わらず大怪我を負い、余計に心配になったので、いま日本を離れるのは嫌だ、とまで言い出した――と、五条は説明した。その話をしっかり頭に入れたは途中で自分の名が出たことに酷く驚いた。
「え…じゃあ先生はもしかして…乙骨くんを海外任務に行かせたいから、その任務にわたしも同行しろと…そういうことです…か?」
「ぴんぽーん!そういうこと。は理解が早くて助かるなあ」
ポカンとした顔の彼女を見ながら、五条はひとり満足そうな笑顔で頷いている。この様子だとを同行させることは五条自身が勝手に決めて上へかけあったに違いない。そして乙骨にはこのことをまだ話してないような口ぶりだった。どうせ驚かせたいだけだろうな、とは呆れ顔で五条を見ていた。ただ、言われた同行については彼女も嫌だったわけじゃない。嫌どころか嬉しいとさえ思っている。そもそも乙骨が五条から海外任務を打診されてたことは彼女も知らなかったので、乙骨がゴネなければ、すぐにでも海外へ行ってたことになる。そうなればしばらく会えないところだった。
それに――海外、と聞けばやはり気分も上がってくる。高専の払いで海外勤務、なんて贅沢すぎる話だとも思う。
「で、はどう?行きたい?」
彼女の浮かれた表情から察しているくせに、敢えてそんな質問を投げかけてくる五条に、は「行きたいです」ときっぱり返事をした。どうせ日本にひとり残っても援護任務だ付き添いだと、体よくコキ使われるだけなのだ。なら好きなひとと高専関係者の目を気にすることなく、海外でのんびり過ごしたい。この時点での頭の中は、乙骨と海外任務、ではなく。乙骨と海外旅行へと変換されていた。
「で、海外ってどこなの、先生!イギリスのロンドン?それともアメリカ、ニューヨークとかロサンゼルス?あ、もしかしてフランスのパリとか!」
これまで夢に見た憧れの国を思い浮かべながら、が嬉々とした顔で尋ねると、五条はこれまた満面の笑みを浮かべた――。
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「信っじられない…何でアフリカ…?」
手元にある資料を見下ろしながら、そこに書かれている名に目を細める。"成田~シャルルドゴール空港経由~ジョモ・ケニヤッタ国際空港"。それが今回の任務先らしい。要はアフリカ、ケニアにある空港だ。
「あれ、気に入らない?も海外初めてーっ!て喜んでたじゃん」
「…む。あ、あれは先生がの好きそうな国だし出発日まで楽しみにしててーって言うから…!」
「え…先生、今日まで彼女に行き先伝えてなかったんですか」
大勢の人で混雑している成田空港出発ロビー。目立つふたりが言い合いをしそうなところへ、乙骨が割って入ると、は「そうなの!酷いよね」と彼の腕に自分の腕を絡めてくる。ついニヤケそうになる顔を、乙骨は何とか通常の笑顔でとどめておいた。が海外任務へ同行することになり、ただでさえ浮かれているのは自覚している。油断すると普段の倍は口元が緩みがちだった。
「しかも直行便はなくてパリ経由って何の嫌がらせ…?餌を前にお預け状態でアフリカ行けと?わたしパリで降りたい…」
「ダーメ。パリに行っても目当てのものはないの。そもそも今回はの為の旅行じゃないんだから」
ぐずぐずとスネだしたを窘めるように言って、五条は「憂太、向こうでを甘やかすなよ」と釘を刺す。言われた当人は、ただただ「あははは…」と苦笑するしかない。分かってはいるのだが、こんな風にスネている彼女も可愛いなあ、と思っていることは、五条にもお見通しらしい。
現在、成田空港にはと乙骨の他に、このあと五条と一緒に出張予定の伏黒、伊地知も見送りに来ていた。そしてもうひとり――みんなより少し距離のある場所で搭乗時間が来るのを待つ外国人の男、ミゲル。このミゲルは去年の百鬼夜行で、夏油から五条の足止めを任されたケニア出身の術師だ。あの後、五条に拘束されたミゲルは命を助ける代わりに、と五条からある協力を依頼され、渋々今回の任務に同行することになっている。はそれも気に入らないようだ。
「乙骨くんとふたりで海外って言ったくせに…」
「まあまあ…いいでしょうが。憂太はいるんだから。それにミゲルの案内なしで目的のものは探せないんだよ」
未だ不満げなを今度は宥めつつ、五条はふと乙骨の手荷物へ視線を向けた。彼が今、手にしてるのはキャリーバッグ。だが後ろにはもう一つキャリーバッグと、すぐ横にはボストンバッグが三つもある。明らかに多い。
「え、憂太。そんなに荷物あるわけ。多くない?」
「え、あ…いえ。これは全部さんのです」
「…は?」
「僕の荷物はこれだけです」
そう言って乙骨は肩からぶら下げているショルダーバッグを持ち上げてみせた。そこには財布、航空チケット、スマホなどの必需品のみが入っている。
「え、憂太、これだけ?」
「ああ、衣類などは先に宅急便で送ったんです。ほら、ミゲルがアパート用意してくれたでしょ。そこに」
乙骨も初めての海外、それもアフリカということで、ミゲルがケニアの首都、ナイロビに長期滞在できるアパートメントを用意してくれたのだ。五条から乙骨を任せると言われた時点で必要になるだろうと、ミゲルが個人的に動いてくれたらしい。ただ、乙骨の恋人まで同行すると聞いたのはそのあとのことなので、単身用のアパートという話だった。
「あーそうか。え、なのには送らなかったわけ?」
「それが…直前まで何を持ってくか迷ってたみたいで、結局全部詰めて持って来ちゃったらしくて」
乙骨が笑いながら、キャリーバッグやボストンバッグを見下ろしている。それにはさすがの五条も開いた口が塞がらなかった。いったい何をこんなに持って来たんだとへ詰め寄り、中身を確認し始めた。
すると――三つのボストンバッグには大量の衣類と靴とバッグ。あと何故か小さなウサギのヌイグルミまであった。それぞれが三つに分けて入れられている。まずここで五条の口元が引きつった。次いで大きなキャリーバッグの一つ目には、これまた大量に日用品が詰められていた。
ドライヤー、ヘアアイロン、顏用スチーム、頭皮マッサージ器具、化粧品類にボディケア用品などなどの美容グッズが所せましと詰め込まれている。それらを確認した五条は額が徐々にピクピクしてきた。もう一つのキャリーバッグを開けることに恐怖すら覚えたが、ここまでくると確認しないわけにもいかず、恐る恐る開けてみた。
そこには何故か大量の食料品がぎゅうぎゅうに詰められていた。それも最近よく見かける高級店のお取り寄せ品らしい。某高級焼き肉店の黒毛和牛ローストビーフ真空パックセット、某高級中華料理店のふかひれスープレトルトパック、新潟県産特別栽培米パック、レアチーズの水まんじゅうレモン…
「…って、何だこれ!いらないでしょ!しかも何だ、このセレブ感丸出しのチョイスはっ」
五条はもちろん、その場にいた伏黒や伊地知も、口元を引きつらせながらバッグの中身を見下ろしている。このときばかりはふたりも五条の意見に激しく同意したようだ。しかし叱られたは何言ってるのと言いたげに「えー…全部必要でしょ?」と口を尖らせている。その一見、誰もが見惚れそうな可愛い表情も、このときばかりは五条も許容できなかった。
「まずは荷物を減らす。これ、いらない。これもこれもこれもこれも!」
五条は勝手に彼女の荷物を仕分けし始め、まずは大量に詰められている靴とバッグの入ったボストンバッグを「必要なし!」と全て取り上げ、服も必要なさそうな物は全てそのバッグへと入れ替えていく。これにはも慌ててしまった。
「あ~!服そんなに減らされたら着るものなくなっちゃう…きゃー!それは下着だからダメ!あっその子は寝るときに必要なのに…って、ちょっと先生、ミミばかりか靴とバッグ全部取り上げるのは酷いっ!って、ああ!それ乙骨くんに食べてもらおうと思って持って来たお肉とスイーツ!」
「酷くない。ミミってこのウサギか?こんな余計な荷物を持って行こうとしたが悪い。あげく憂太に持たせるとか何考えてんの」
「あ、いえ、それは僕が勝手に持つって言ったんで、そこは…」
と、つい乙骨が口を挟む。だが五条は「だから甘やかすなって言ったでしょ」と呆れたように言って立ち上がると、仕分けしたバッグを見下ろした。
「伊地知~」
「は、はい!」
「これ高専に送り返して」
「わ、分かりました!」
「えー!」
五条に言われた伊地知が彼女の荷物を全てサービスカウンターまで運んでいく。それを彼女だけが悲しげに見送っていた。結果、の手元に残ったのはキャリーバッグ一つ。中には最低限、女の子には必要な着替えや下着、化粧品の類のみ。電化製品や食料品、バッグ、靴などは全て没収されてしまった。
「ドライヤーまで没収しなくてもいいのにっ。あれは髪を傷めず乾かせる優れものなんだから」
「どっちみち日本の製品は使えないから。向こうにドライヤーくらいあるでしょ。ったく…はいつも驚かせてくれるよ」
おいおいと乙骨に泣きつくを見ながら、五条も思わず苦笑いを零す。あまりに驚いてつい叱ったものの。大量に物が詰まったバッグを思い出すとジワジワきてしまう。後輩である伏黒もの奇想天外さに驚きつつ、最後は五条と同じように苦笑いを浮かべていた。すると今まで乙骨にしがみついて嘆いていたがくるりと振り返り、伏黒をキッと睨む。普段は大きな目も半分以下になっているので、相当ショック、かつ不機嫌らしい。
「何笑ってるのよ、伏黒くんまで」
「いえ…まさか任務行くのにヌイグルミまで入ってるとは思わなかったんで…」
「む…ミミは寝るときのお供なの。悪い?慣れない土地で眠れなくなったら困るから持って来たのに…」
子ウサギのミミはが子供の頃から一緒に寝ているヌイグルミで、高専の寮に入るときも持って来た大事な子だ。なのに容赦なくミミを取り上げた五条をジト目で睨む。乙骨はそんな彼女も可愛いとしか思ってないので、「眠れなかったら僕がそばにいるから大丈夫だよ」と彼女の頭を撫でている。それを聞いてしまった伏黒の頬がかすかに赤くなったものの、何故かまでが同じように頬を染めて乙骨を見上げている。完全にふたりの世界というやつだ。それに気づいた伏黒は何とも言えないむず痒さを感じて、少しずつ距離をとろうとした、そのとき。がまたしても伏黒を見て「あ」と声を上げた。
「な…何スか、その顏…」
何かいいこと思いついた、というような、伏黒からすればとてつもなく嫌な予感しかしない笑みを浮かべたは「お願い」と可愛く微笑んだ。
「伏黒くんのウサギ、一羽貸して――」
「無理っス」
「えー!ケチっ」
やっぱそうきたか、と項垂れつつ、伏黒は盛大に溜息を吐いた。俺の術式を何だと思ってるんだ、このひと…という心境である。ただ、この間の件でに助けてもらったという感謝の気持ちと、本来ならあの怪我を負うのは自分だったという罪悪感から、伏黒は半ば諦めの境地でポケットから一枚の呪符を出した。それは何か必要になったとき用に持ち歩いてるささやかな保険のようなものだ。
「これ、渡しておきます」
「…何よ、これ」
伏黒の差し出す呪符をつまんだ彼女は、怪訝そうに裏返したり日に透かしてみたりしながら眺めている。それは、よく補助監督が自分の身に危険が迫ったりしたときに使うものだ。最初に術式を組み込んでおいて結界を張ったり、ちょっとした反撃が出来る呪術を使用するのに用いられる何の変哲もない、ただの呪符だった。他にも様々な使い方があるので便利なものだが、これを何でわたしに?とは首を傾げた。
「これに俺の術式組み込んでおくんで…ウサギが必要なときは先輩の呪力を流して顕現させて下さい」
「えっそんなこと出来るの?」
「まあ。俺の術式は影を媒体にしてるんで普段はこういった呪符は必要ないんスけど、これに術式組み込めば式は出せるんで。先輩の呪力をスイッチに織り込み済みっス」
伏黒の説明を受けたは、荷物を没収されスネていた顔にパっと明るい笑顔を浮かべた。相当嬉しかったらしい。「ありがとう、伏黒くん!」と言いながら、何を思ったのか。愛想のない後輩に向かって両手を広げて抱きつこうとした――が、その瞬間。びんっと背中の辺りが後ろへ引っ張られ、気づけば乙骨の腕の中へと戻されていた。何というか、バックハグのように乙骨に抱きしめられている。え、と驚き、後ろを仰ぎ見れば、いつもの笑顔を浮かべた乙骨が見える。心なしか口元を引きつらせてるようにも見えるが、それでも乙骨は「さんの為にありがとう、伏黒くん」との代わりに丁寧なお礼を口にした。そして言われた方の後輩はというと、乙骨のが伝染したかのように口元をひくりと引きつらせている。乙骨の顔に嫉妬の色がありありと見えたからだ。先日の任務で助けてもらったお礼のつもりだったのだが、微妙に不興を買ったらしい。
「ウ…ウっス…」
気まずい、と思った伏黒はどうにか応えると、そそくさと五条の背中へ逃げ込んだ。無意識にだが、あの先輩に勝てるのはこの担任しかいない、という本能的なものだった。
その一部始終を見ていた五条は、内心"おもろ"と思ったのだが、ちょうど搭乗時間が来たのでからかうのはやめておいた。でも見る限り、を同行させると決めたのは間違いじゃなかったな、と安堵する。
金次や綺羅羅が無期限の停学中なので、ひとりに任務の負担がかかっていたのは五条も気になっていたのだ。そこで今回の件も踏まえて、なら恋人同士でアフリカに飛ばしちゃえばいいじゃんという軽いノリで総監部へと掛け合った、というよりは無理やり話を通したのだが、その前に。の実家、家は呪術界に多額の寄付もしている名家の中でも一際上の位に位置している家だ。よっての母親が白と言えば黒いものもすぐ白へと変えるくらいの発言力を持っていた。その母親をすでに丸め込んでいる五条は、娘さんを乙骨の任務へ同行させたいと話を持って行くだけで簡単に上の了承を得ることが出来たのだ。
「さん、僕以外のひとに抱き着いちゃダメでしょ?」
「え?あ…う、うん…ごめん」
見れば乙骨がの髪を撫でながら、こっそりと可愛い嫉妬をぶつけている。その姿は五条から見ても微笑ましく見えて、自然と口元に笑みが浮かぶ。
初めて会った日、全てを諦めたような暗い瞳で、死にたいと言った少年は、もうそこにはいなかった。
