異国の地へ-13

ケニアの空の玄関口はナイロビにあるジョモ・ケニヤッタ国際空港。ケニア最大の空港だ。日本からの直行便はなく、行き方としては大きく分けて、ヨーロッパ経由、中東経由、アフリカ経由とあるが、今回はヨーロッパ経由で飛ぶことになった。成田を発ってパリのシャルルドゴール空港まで約12時間。そこから乗り継ぎ、パリからケニアのナイロビまで約8時間。計26時間のフライトを経て、遂に三人はケニアへ到着した。
途中、パリについたときは案の定、が「降りよう!ストップオーバーしたって五条先生にはバレないってば」と我がままを言い出したのだが、そこは乙骨が優しく宥めて「今度ふたりで旅行に来るまで我慢しよ?」と言ったところ、急に大人しくなった。おかげでパリに寄ることもなく予定通りについたというわけだ。
しかし空港を出てナイロビの街を見た途端、は大都会の街並みを見て絶句していた。何でもアフリカと聞いたときから、空港出たらサヴァンナで、野生動物が走り回ってるイメージがあったらしい。通りで嫌がってたわけだ、と乙骨は笑ってしまったが、同行しているミゲルは「馬鹿ニスルナ。ケニアハ都会ダヨ」と文句を言っていた。
とは言え、ナイロビはアフリカの"サファリ玄関口"として知られる活気あふれる都市。野生動物が全くいないというわけではないらしい。小型飛行機で数時間も飛べば、そこは野生動物の世界が広がっていると聞き、はちょっとだけ顔を引きつらせていた。動物は好きなのだが、野生ともなれば命の危険を感じるので出来れば遭遇したくないと思っている。
ともあれ、日本との時差も六時間ほどなので特にその辺の疲れはなく――移動の疲れはあるが――まずは荷物を置きに行こうという話になり、空港からタクシーで中心部へと向かう。
ミゲルがまず案内してくれたのは、ふたりが住むことになるアパートだった。アパートと言っても日本で言う高級マンションと同じくらいに豪華な建物で、ふたりの部屋は最上階。何でもホストがミゲルの兄弟で、滞在中は好きに使っていいと承諾を得ているとのことだった。
全ての部屋がモダンな可愛い家具付きで、フルキッチンも十分な大きさ。屋上にはジムやプールといった公共施設もあるので、当然のことながらは大喜びだった。
ただ一つだけ問題だったのは、当初の予定では乙骨ひとりだった為、寝室が一つしかないということ。しかもベッドは大きなダブルベッドで、簡易的なベッドもないという。ファミリータイプの部屋はすでに埋まってると言われ、その事実には固まった。寝室を共にしながら数か月の間、ここで乙骨と暮らすことになるという現実を見せつけられ、一気に緊張してきたのだ。しかし乙骨は「僕はソファで寝るから寝室はさんが使って」と言い出した。
「え、ダメだよ、そんなの。わたしはオマケみたいなものだし、わたしがソファで寝るってば。フカフカだし寝心地よさそうだもん」
この家のソファは同じサイズのものが数個並び、端っこにはまるでミニベッドかと思うような幅の広いソファがくっついている。そこには肌掛けのような薄手の布団らしきものがかけられ、寝ようと思えば寝られるような造りだった。それでも乙骨は頑なとして「ダメ」と困り顔で眉尻を下げるのだ。
「いくらフカフカでもさんをソファに寝かせられるわけないでしょ。僕がソファで寝るよ。だいたいさんはオマケなんかじゃない。僕の大事なひとだよ。だから五条先生が同行させてくれたわけだし――」
「え…」
"大事なひと"と言われた瞬間、の頬がじわりと熱くなる。元々乙骨は自分の気持ちをドストレートに伝えてくれる性格なのだが、最近はだいぶ敬語もとれてきたので、前以上に刺さるのだ。
「そもそもさんが今回同行させられたのは僕の我がままのせいでもあるんだから――」
と、そこで乙骨はの様子がおかしいことに気づいた。どこか惚けたような顔で自分を見ているからだ。
「えっと…さん?聞いてる?」
「え?あ、えっと…その…やっぱりわたしがソファで寝るから!乙骨くんは任務で疲れて帰ってくるのにソファなんかで寝かせられないし」
「僕はどこでも眠れるから平気だってば」
「でも――」
「……(何ダ、コノ二人…)」
そんなふたりのやり取りを見ていたミゲルは、怪訝そうにサングラスの奥の目を細めた。五条悟からふたりは恋人だと聞いていただけに、何故ベッドの譲り合いをしてるのか分からない。そんな表情だった。
先に言っておくと、ミゲルは日本の文化や、日本人特有の奥ゆかしさというものを理解していない。気遣いから遠慮をしたり、謙遜したり、オブラートに包んだ表現をしたりと、そういう性質の人間が日本には多くいる、ということをまだ分かっていなかった。ミゲルの考える恋人というのは、同じベッドで眠り、おはようのキスとともに目覚めるような関係をいう。当たり前だ。恋人同士なのだから、そこに遠慮はない。なのに日本からやって来た若いカップルの呪術師は、未だ「僕が」「わたしが」と寝る場所のことでモメている。延々とそのやり取りを見ていたミゲルはいささか疲れてきた。飛行機の中で寝てきたので疲れもないという乙骨は、今日のうちから例のブツを探しに行きたがったので、このあとはミゲルが最初の目的地まで案内することになっている。ここから車で三時間ほどの場所なので、出来れば暗くなる前にサッサと出発したかった。なので――。
「オイ、乙骨。オマエラ恋人ドーシダロ。二人デ一緒ニ寝レバイイジャナイカ」
この不毛な言い合いに終止符を打つため、事も無げにミゲルはそれを口にした。その瞬間、ふたりの言い合いがピタリと止まる。特にの頬が赤いのは照れてるからだろう。忙しなく視線が泳ぎ、どこかモジモジしながら乙骨をチラチラと見上げている。
「い、一緒にって、いきなりそれは…恥ずかしいというか…」
「そ、そう…だよね…」
僕は全然一緒の方がいいんだけど、とは乙骨の気持ちだが、その本音を言うには「お邪魔虫」がいるので我慢しておいた。そしてそのお邪魔虫は「ハァ?恥ズカシイ?ナンデ。ナニガ」と、全く日本の女心を理解していない。
「な、何でってだって…」
「まあ…うん。そこは…色々と」
何故かふたりで赤くなりながら、今度は乙骨まで視線を泳がせ始めたので、ミゲルはますます「日本のカップルハ、ナゾスギル」という感想しか出ない。そんな何となく微妙に気まずい空気が流れたところで、乙骨が「ね、寝るところはあとで考えるとして…まずは"黒縄"探しに行きましょうか」と慌てたように言い出した。
だが、それは気まずい空気にした張本人にとって願ってもないこと。「ヨシ、行コウ」とすぐさま承諾する。
五条が乙骨をミゲルに預けたのは、ミゲルが百鬼夜行で五条に使用した"黒縄"を探す為であり、それをサッサと見つけることが出来れば、それだけミゲルの自由は早く取り戻せるのだ。ただし――それが言うほど簡単な話ではないと、ミゲルだけが理解していた。
「というわけで…さんはここで待っていて下さい」
さっきの余韻で照れ臭そうに頭を掻きながらも乙骨が振り向くと、は「え!!」と殊の外驚いた声を上げた。乙骨としては移動で疲れただろう、と彼女を心配して出た言葉だった。なのに彼女の大きな瞳が驚愕を現わすかのように見開かれ、どこか、"がーん"というBGMが聞こえそうなくらい口も開いている。何かマズいことでも言ってしまったか?と焦った乙骨に、は「わたし、置いてかれるの…?」と乙骨が今すぐ抱きしめたくなるほどションボリとした様子で聞いてくる。そんな彼女を見てしまえば、それはもう辛抱たまらんわけで――。
「まさか。一緒に行きましょ、さん」
と真顔で言いのけた。その変わり身の早さも特級クラスらしい。我がままな彼女も寂しがり屋な彼女も、乙骨からすればどうしようもなく可愛いので置いていけるわけがない。
――誰だ、さんを置いていこうとした無粋なヤツは。
オマエだよ!と誰かに突っ込まれそうなことを考えつつ。このとき、すでに「を甘やかすなよ」という五条の言葉は、乙骨の頭から綺麗さっぱり消え去っていた。
とりあえず連れていくのは良しとしても、やはり何が起こるか分からない分、心配なので「絶対に僕のそばを離れないでね」としっかり言い聞かせておく。ここは文化も生活習慣も日本とは違うアフリカ。呪いなどは少ないのかもしれないが、人間が一番怖いということもあり得る。特に日本人は幼く見られがちなので、可愛いさんが誘拐でもされたら大変だと乙骨は真剣に考えていた。
その後、ふたりがミゲルに案内されたのは、都心部から車で約三時間の小さな渓谷にあるこれまた小さな村。そこに昔"黒縄"を持っていた術師がいるとミゲルが調べてきたのだ。
「こ、ここ…ほんとに村なんてあるの…?」
長いドライブに疲れたは車窓から身を乗り出し、広大な土地を見渡した。思ってた以上に強風が吹きつけてくるのでは風に攫われる髪を手で抑えつつ、ミゲルに尋ねた。遠くではシマウマの群れが大草原を駆けていくのが見えるものの、今のところ危険な動物の姿はない。それでもはついビクビクしながら辺りを見渡した。
「ソコノ大キナ岩ノ向コウニアルヨ。オレガ行クカラ、オマエラ待ッテロ」
ミゲルは運転席を降りると、慣れた足取りで話していた大岩の方へ歩いて行く。もし、この村で目当ての呪具を発見できれば、この海外任務もあっという間に終わることになるだろうな。ミゲルの背中を見送りながら、ふとそんなことを考えると、それはそれで寂しい気もした。日本では忙しい乙骨と会う時間を作るのも、なかなかに難しい。毎日電話で他愛もない話をしたり、時には乙骨の部屋で寛いだりは出来ても、それはほんの短い間のこと。出来ることなら、もっと一緒にいたいという思いが日増しに強くなっていた。同じ東京、同じ敷地で過ごしてるはずなのに、学年が違うだけで顔を合わせる回数も減るのだから嫌になってしまう。だからこそ、こうして海外でふたりきり――ミゲルはいるが――という状況は、彼女にとっても貴重な時間となっていた。
ふと視線を前へ向ければ、大草原の向こうに太陽が沈んでいく。その光景があまりに綺麗で、つい見惚れてしまった。
「見て、乙骨くん。太陽があんなに大きい」
「ほんとだ。何か幻想的だね」
それは日本であまり見られない光景だった。オレンジ色の大きな太陽が陽炎のように揺らめきながら広大な大地を撫でるように沈んでいく。美しい景色は長い移動に疲れていても心に沁み渡るようだった。さっきはアフリカへ来たことを後悔しかけたも、こうして乙骨と一緒にこの景色を見られただけで、来て良かったなと思う。
しばらく何も話すことなく、ふたりで沈む夕日を眺めていると、ミゲルが村の方から戻ってくるのが見えた。ふたりを見て首を振っているところを見れば空振りだったようだ。
「数年マエマデハ持ッテル奴ハイタンダガ、モウイナカッタ。行方不明ダッテ話ダ」
「え…行方不明…?その方は術師なんですか?」
乙骨が訊ねると、ミゲルはそうだと頷いた。海外においての呪術師はやはり少なく、術式を持ってる人間は数えるくらいしか今は発見されていないという。ミゲルは夏油が世界中で呪霊を集めていた際、たまたま知り合い、術師としての能力を高く買われてスカウトされたようだが、このアフリカにはミゲルの他にも数人の術師がいるそうだ。
「マア、マダ伝手ハアル。トリアエズ今日ハ帰ロウ。日ガ暮レル」
案内人が帰ると言えば帰るほかない。乙骨もそれを承諾し、再び車で三時間かけて、先ほどのアパートメントまで帰ってきた。その頃にはもヘトヘトで、ついでに言えば空腹だった。
「ジャア、明日ノ朝、十時ニ、マタ来ル」
そう言ってミゲルは元気に帰って行った。軽い足取りで再び車に乗り込むミゲルは、長時間のフライト後に車の運転までしたことへの疲れは見えない。なかなかタフなひとだな、と思いながら、乙骨は隣でグッタリしてるの手を引いて部屋へ戻った。は疲れた~と言ってソファに倒れ込み、それを見た乙骨はすぐに冷蔵庫から飲み物を取り出した。スワヒリ語はよく分からないが、見た感じが分かりやすいコーラをグラスへ注いで、彼女の前へと置くと、は慌てたように「あ、ごめんね」と体を起こす。
「そういうのわたしがやるから」
「いいよ、そんな。僕は疲れてないし。あ、今お風呂にお湯溜めてくるから待ってて」
が何かを言う間もなく、乙骨はひとりバスルームへと消える。随分と気の利く彼氏だと感心しながらコーラを一口飲むと、冷えた炭酸が喉を刺激してホっと息を吐き出した。やはりアフリカ、昼間は平均の気温が25度前後と、なかなかに暑い。故に喉が渇くので、どこへ行くにも飲み物は必須だ。なのに夜は急激に冷えたりもするようで、「憂太の体調管理はしっかり頼むね」と五条に言われたことを思いだす。
「そうよ…わたしは乙骨くんのお世話を任されたんだから呑気に出されたコーラを飲んでる場合じゃ――」
「さん、お風呂もシャワーもすぐ使えるよ」
「あ、ありがとう」
バスルームからひょこっと顔を出す乙骨に、つい笑顔でお礼を言う。それ以外にも乙骨はバスタオルを用意してくれたり、ドライヤーを見つけて出しておいてくれたりと意外なほどテキパキと動いてからのところへ戻ってきた。
「もうお湯溜まってる頃だから先に入ってきて。僕は夕飯の準備しとくから」
「え、でもそれは――」
さすがに、と断ろうとしたのだが、乙骨はいいからいいからとの手を引いてバスルームへ誘導していく。
「じゃあ、ゆっくり入ってきて」
「う、うん…ありがとう、乙骨くん」
「全然、これくらい」
乙骨がいつもの笑顔で応えてドアを閉める。結局、少々強引な形でバスルームに押し込まれただったが、汗を流したかったのは事実。ここは乙骨の優しさに甘えることにして先にお風呂を頂くことにした。
先ほどはチェック出来なかったバスルームは、ベージュ色の石をはめ込むタイプの可愛らしい壁に囲まれた、落ち着きのある空間だった。日本とは違い、湯に浸かる習慣がないため、飾り程度のバスタブもそれほど大きいとはいえない。ただ猫足のデザインはの気分を上げるものだった。軽くシャワーで汗を流し、その後にさっきの荒野で砂にまみれた髪や体を念入りに洗い、最後には湯の張った猫足のバスタブへゆっくりと肩まで浸かる。そうするだけで全身が解されていくようで、心の底からホっと息を吐いた。備えてあったのか、バブルバスになっているのもポイントで、きっと乙骨が気を利かせてくれたんだなと思った。
「ほんと…出来た彼氏だなぁ…乙骨くん」
一家に一人かも、と、つい笑みが零れた。とはいえ、この任務を言い渡された日からバタバタと準備を進め、すぐに出国したこともあり、気分的にも少し疲れている気がする。気づけば知らない異国の地、といった感覚も強く、精神的にもまだ落ち着いてないのだ。それに――。
(今夜から乙骨くんとふたりきり…なんだ…)
顎までお湯に浸かれば、ほぅっと柔らかい息が漏れる。これまで乙骨と夜を共にしたのは、後にも先にも例の合コン事件の夜だけだ。普段は乙骨の部屋で会ったりはしても、当然そこに泊まることもない。でも今日からしばらく生活を共にするのだから、考えただけで鼓動は速くなっていく。これは任務、これは任務、と何度自分に言い聞かせても、そこはやはり意識してしまうというものだ。しかも寝室は一つしかない。これはマズいのでは、という思いが頭を擡げてくる。
未だふたりは健全な関係ではあるものの、最近はキスを交わすだけでの方がいたたまれない気持ちになることがあった。例の合コン事件の影響なのか、元彼の存在に嫉妬した乙骨が積極的に体へ触れてくることが増えたからでもある。彼女の体に自分という存在を刻みたいという意思表示ともとれる行為は、時々の理性を容易く崩しにかかってくるから困るのだ。つい流されてしまいそうになる。
――怖がってたらこの先ふたりの関係も進まないって。
綺羅羅は無責任な言葉で煽ってくることもあるけれど、もそれくらいは分かっているし、別に乙骨が怖いとは思っていない。ただ、今の関係より更に先へ進むことが、少し不安なだけだった。これ以上、乙骨を好きになることが怖い、なんて、自分でもどうかしてるとは思う。こんな風に思ったこと自体、初めてだった。
は自分で気づいてないが、彼女は世間知らずで駆け引きを知らない。真っ白すぎて好きになった人に簡単に染まってしまう。そんな彼女の本質に気づいてるのは、今のところ、人生の経験値がある五条と金次くらいだろう。
そのとき、バスルームへ持ち込んでいたスマホが震動してることに気づく。すぐに確認すると画面には綺羅羅と表示されていた。その名前を見ただけでの表情がパっと明るくなる。同級生が大好きなのは――何だかんだ金次のことも大事に思っている――何も乙骨だけではないのだ。
「もしもーし、綺羅羅ちゃん?」
『あ、?どう?着いた?』
乙骨と海外任務になったことは綺羅羅にも報告済みだ。きっと様子見でかけてきたんだろう。相変わらず背後では金次のバカ騒ぎする声が響いていた。
「うん、昼過ぎにね。今はアパートでお風呂中」
『マジ?そっち何時?』
「えと…こっちは今、夜の八時になるとこ」
『え、まだそんな時間なんだ。こっちは深夜の二時すぎ~』
「ああ、六時間くらい日本の方が早いらしいよ。ってことは、またいつものクラブ?」
『まあねー。で、彼氏は?』
「え」
彼氏、とわざわざ形容され、はちょっとだけ照れ臭くなった。いや乙骨が彼氏なのは間違いないのだが、何となくまだ慣れない照れが残っている。それは付き合う前のアレコレを知られている綺羅羅だから余計かもしれない。
「乙骨くんは…夕ご飯の用意してくれてる、はず」
『ハア?そこはが作ってやんなよ。彼女でしょー?』
「…う、わ、分かってるけど…」
痛いとこを突かれ、はむっとして艶のあるくちびるを尖らせた。とて、好きな相手にご飯を作ってあげることはやぶさかではない。ただし、それは料理の腕があったらの話で――。
「綺羅羅ちゃんも知ってるでしょ…?わたしが料理の類が苦手なの…」
『あー…そういやにカレー作らせたらスープカレーになるもんねー。味が濃ければまだそれでいいけど、うっすいからカレー色したお湯かよって感じでさ。お米も洗ってって言ったら洗剤入れて洗うわ、泡だらけになってるわで、マジ笑ったし』
「…酷い。そこまで言わなくても」
きゃらきゃらと笑い出した綺羅羅の態度に軽く落ち込む。まあ、否定は出来ないので仕方ない。家が家だけに家事の類は全て使用人がやってくれていたのだから、それも当然だ。
『うそうそ。いいじゃん、別に。乙骨くんが作ってくれるならそれで』
「で、でも、それってやっぱり彼女としては失格でしょ?何かしてあげたいのに何からすればいいか分かんなくて…しばらく一緒に住むってなったときは嬉しかったけど、五条先生には憂太の面倒を見てって言われたし、それって身の回りの世話のことだよね…?」
色々と不安に思っていたことを一気にぶちまけると、今度は綺羅羅も笑うことはなかった。前のとは明らかに違うのも、綺羅羅は気づいている。
『…ほーんとに好きなんだ、彼のこと』
「え…?」
『まあ…何となく気づいてたけどさあ。これまでの男とは明らかに違うし』
「そ…そう、かな…」
『そうだよ。元カレに何かしてあげたいって言ってんの聞いたことないし、逆に何かしてもらって当たり前みたいなとこあったじゃん』
「それはだって…」
あの頃は相手のことが好きというより、相手からどれくらい想われてるのか試してるようなところがあった。実家では自分の意思も持ってはいけない人形のような生活をしてきたは、誰かから愛されたくて仕方がなかったのだ。綺羅羅もそんなの気持ちを理解してくれてるうちのひとりだ。
『前は愛情試すようなことしてたけど、今はそんな余裕もないくらい、乙骨くんから愛情を与えてもらってるってことでしょ』
「えっと…ま…まあ…そう、なのかな…」
普段の乙骨を思い出し、ぽっと頬が赤くなる。乙骨は最初からに自分の想いを隠すようなことはしないひとだった。そう応えると、電話の向こうで『げー惚気んな』と綺羅羅が笑っていた。
最後に『まあ、がしてあげたいことしてやれば乙骨くんは何でも喜んでくれるって』とアドバイスされ、またかけるねーと言われたところで、ふたりの通話は終了した。
「何でも…か…。やっぱり…ちゃんとお世話しなきゃ――っくしゅ!」
急に鼻がムズムズして、派手なクシャミが飛び出す。綺羅羅と話してる最中、スマホを濡らさないよう肩を出してたせいか、体が冷えてしまったらしい。慌てて湯船に浸かり直したものの、しばらくクシャミが止まることはなかった。
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「全く…お風呂に入りながら長電話はダメだってば」
「う…ご、ごめん…っくしゅ!」
「あー髪すぐ乾かさないと」
風呂を出てからもクシャミをしてるを見て、乙骨がすぐにドライヤーを取りに行く。その乙骨も髪が濡れていたのでいつ風呂に?と驚いたが、なんとバスルームがもう一つあったとのことで、乙骨はそっちで軽くシャワーを浴びたらしい。キッチン側にあるバスルームはバスタブがなく、シャワーブースだけのようだ。
(もう…寝室は一つなのに何でバスルームは二つあるの?逆にしてくれたら良かったのに…)
外国のアパートメントはよく分からないと思いつつ待っていると、乙骨がドライヤーを手にリビングへ戻ってきた。
「はい。さんはここ座って」
乙骨は大きなクッションをソファの下に敷かれてるフカフカのラグマットの上に置くと、そこをポンと叩いた。言われるがまま座ると、乙骨はドライヤーのコードを延長コードに繋ぎ、の背後へ回ってソファへと座る。奇しくも乙骨の足の間に座る形になり、は落ち着かない気分になった。耳がやたらと熱い。
「あ、あの…やっぱり自分でやるよ」
「いいから僕にやらせて」
「でも食事まで作ってもらったのに…」
「僕がさんにしてあげたいだけだよ。ずっと一人暮らしだったから慣れてるしね」
「え…?一人暮らしって…」
と言いかけて言葉を切った。里香の件で乙骨が家族の元を自ら離れたという話は、前に五条から聞いたことがある。乙骨はかすかに微笑むと、ドライヤーのスイッチを入れた。ゴォォォという日本製品とは少し違う音が、静かな室内に響く。
「…あの頃は死ぬほど寂しかったけど、もう寂しくないから平気だよ」
乙骨の指がの髪を梳いて、上手に熱風を通していく。ひとに、と言うより彼氏に髪を乾かしてもらうのは初めてで、はどこか気恥ずかしさを感じながら、乙骨の声に耳を傾けていた。
「五条先生に救ってもらって、高専に来て、真希さんや狗巻くんやパンダくんに出会えた。そして何より…さんと出会えたから」
今の僕は凄く幸せなんだ、と乙骨は微笑んだ。その顏を見上げながら、の顔にも自然と笑みが浮かぶ。もし彼の孤独を少しでも癒せてるなら、それは彼女にとっても幸せなことだから。
「はい、乾いたよ。あ、ブローもする?って言っても、さんの髪はサラサラだから――」
と、そこで乙骨は言葉を切った。立ち上がったと思えば、ソファに膝を乗せたが顔を近づけ、乙骨のくちびるにちゅっと軽くキスをしたからだ。の方からキスをされたのは、お疲れ会のとき頬に一度だけ。くちびるにされたのは初めてだった。その可愛い不意打ちに、乙骨の頬がじわりと熱くなる。
もどこか照れ臭そうに視線を泳がせると、誤魔化すように乙骨の手からドライヤーを奪っていく。
「こ、今度はわたしが乾かしてあげる…」
「え?」
「乙骨くん、わたしに構ってばかりで、自分のこと無頓着すぎ。風邪引いちゃ困るから」
ポカンとして自分を見上げている乙骨の腕を引っ張り、今まで自分が座っていた場所へ「ほら早くここ座って」と乙骨を誘導する。未だ放心状態の乙骨は素直にそこへ座ったものの、今度はの指先が自分の髪へ触れるので、さっきのキスも相まって変にドキドキしてきた。
「そう言えば…乙骨くん、髪伸びてきたね。前髪邪魔じゃない?」
「…えっ?あ、まあ…少し…」
の指先を髪に感じながら、乙骨がふと我に返る。そして指摘された前髪を指でつまみながら、確かに邪魔かも、とは思った。時々目に入ったりするので煩わしいときがあるのだ。
「ちょっと切ろうかな」
「え、切っちゃうの?」
「え、ダメ?」
殊の外驚かれ、乙骨が振り向くと、「今の長さ似合ってるのに」と少し残念そうな口調で言われた。そうなると切らないでおこうかなと思うのだから、乙骨もまた好きな子に染まりやすい男といえる。
「あ、じゃあ、こんな感じに分けたらどうかな」
は持っていたドライヤーで乙骨の前髪を左へ多く流すようにブローをしてくれた。どう?と聞かれて目を開けると、急に視界が開けた気がして「あ、これいいかも」と彼女を見上げた。
「ん。カッコいい。何かこっちの方が大人っぽくなるね」
「え、そう、かな」
にカッコいいと言われたことで、つい顔が緩んでしまう。彼女から「可愛い」と言われたことは何度かあれど、カッコいいは初めてだった。想像以上に嬉しくて、勝手に口元が綻んでいき、ついでに彼女へ触れたくなってしまった。
の手からドライヤーを奪ってソファへと放ると、さっきの彼女と同じように腕を伸ばす。その突然の行動に「え」と驚くの頬を引き寄せると、彼女のくちびるを軽く啄むように口付けた。その急な行動に驚いたのか、は大きな瞳を瞬かせながら、かすかに頬を赤らめる。その表情が可愛らしくて、乙骨はふっと笑みを漏らした。
「さっきのお返し」
「え…お、お返しって…」
「嬉しかったから」
乙骨はそう言いながら、もう一度の口元へくちびるを寄せた。角度を変えながら触れるだけのキスを繰り返し、最後にちゅっとリップ音を立てれば、の頬がすっかり朱に染まっていた。こつんと額をくっつけて、の瞳を覗き込めば、彼女の黒い虹彩が切なげに揺れている。
「今夜…やっぱり一緒に寝る?」
彼女のその瞳を見ていたら、ついそう聞いていた。
