甘い言葉の溢れるままに-14



「よお、はどうだった?」

綺羅羅が電話を終えて席へ戻ると、金次が酒を煽りながらVIPルームでふんぞり返っていた。もしがこの場にいたら「行儀が悪い!」と叱られていただろうが、綺羅羅は金次のそういうワイルドなところも好みなので、すぐさま隣へ座ってくっついた。

「元気だったよー!今、お風呂中だって」
「へえ。アフリカ行っても変わらずか。ま…五条さんが決めたってんなら大丈夫だろ」

鼻で笑って酒を煽る金次の横顔を、綺羅羅がジっと大きな瞳で凝視する。興味がないといった顔をしているが、金次もこれでを色々心配しているのは知っていた。自分達のせいで彼女ひとりに負担をかけていることもあり、今回の件は金次もホっとしているんだろう。
しかし綺羅羅は一つ納得いかないことがあった。

「…何だよ、ジロジロ見て。いい男過ぎて見惚れてんのか」
「いや、金ちゃんはいい男だけど、そうじゃなくてー。まあ…悟ちゃんが大丈夫と思って同行させたのは分かるんだけど…いいの?ほんとに。金ちゃんはそれでさ」
「……あ?」
「どうせ金ちゃん、と乙骨くんがすぐ別れるとか思ってたんでしょ」
「…チッ。うるせぇなあ」

綺羅羅の指摘に舌打ちした金次の顔は、痛みと熱と恥とが入り混じったような表情が浮かんでいる。例え気づいていても口にしてくれるな、と言っているようだ。綺羅羅もそんなことは百も承知で言ったのだが、自分に背中を向けて再び飲みだした金次を見ていると、上手く立ち回れないもどかしさとか、虚しさといったものが見て取れるので何とも複雑な感情がこみ上げてくる。これ以上踏み込むのも悪い気がして、綺羅羅も酒のグラスを手に取るとそれを一口飲んだ。そのとき、ふと金次が「…いいんだよ、別に」と呟いた。グラスを軽く揺らせば、中の氷がカランといい音を響かせる。

「あいつは…は…世間知らずでバカみたいに真っすぐだろ。俺やお前と出会ってすぐ染まっちまうくらいに。でも惚れたはれたの問題なら、乙骨みたいなやつが一番いいんだよ」
「まあ…あれくらい重たい男の子の方が合ってるっちゃ合ってるか。感情表現もドストレートだしを不安にさせないって意味でも」
「だろ?現にも初めて本気の熱を見せた。あいつにあんな熱を引き出させたのは乙骨だけだ」
「確かに…」

乙骨に口説かれ始めてからのの動向を思い出し、綺羅羅は軽く吹き出した。当時から何だかんだと相談されたこともあり、少しずつの心が変化していくのを最初に気づいたのは綺羅羅だ。

「だから…いいんだよ、これで。は…あいつは陽だまりみたいに笑っててくれりゃ、それでいい。だろ?」

綺羅羅がふと顔を上げると、金次の目が自分を見ていることに気づいた。その口元には皮肉めいた笑みが浮かんでいる。金次のこういう潔さも、また綺羅羅は好きなのだ。

「うん。ま、いい男だね、金ちゃん」

ニッコリ笑顔で金次の背中に抱き着けば、早速どや顔を向けられた。

「当たり前だろ。俺の魅力に気づかなかったのはリボしまくってた元カノくらいだ」
「って、元カノの話はやめて!」

元カノ話は綺羅羅にタブーなので、金次もそこは「はいはい…」と呆れたように笑う。そして目の前に並んだ資料を手に取り、それを綺羅羅へと渡す。そこにはとある県の立体駐車場の間取りが載っていた。

「ってことで本題に移るぞ」
「オッケー」

この後、ふたりは"熱"を求めて、栃木県へ移り住むことになるのだが、には、まだそのことを知らせていなかった。


|||


ミゲルの準備してくれたアパートメントには、ある程度の食料品や食材が用意されていた。前もって必要になりそうなものを頼んでおくと、ホストが準備してくれる、とミゲルから聞き、乙骨が適当に食材などを頼んでおいたのだ。その中から夕飯に選んだのはパスタ。それは乙骨の好みとかではなく、が好きだから、というだけの理由だった。
乙骨は今ある材料で、以前彼女の好きだと話していたカルボナーラとコンソメスープ、トマトとモッツアレラチーズのサラダ、いわゆるカプレーゼを作ってみた。オリーブオイルやレモン汁、塩コショウを適量かければ見栄えも更に良くなり、は並んだ料理を見て目を一段と輝かせながら喜んでいる。

「すごーい、乙骨くん!これ全部作ったの?」
「レシピ見ればだいたい感覚で作れるよ。これは前に作ったことあるから」
「え…乙骨くんて器用なんだ…。わたし、レシピ見ても失敗するんですけど…」

しゅんと落ち込むを見て、乙骨は軽く吹き出した。彼女がそういったことを苦手なのは何となく気づいている。家の話を聞けばそれも仕方のないことだ。普通の良家ともなれば花嫁修業もさせられそうだが、の家は代々が呪術師の家系であり、結婚後も任務に当たると考えれば必然的に家事などは使用人を雇う流れになるらしい。よって、は呪術に関することは学んでも、家事の類は一切教えられなかったという。
ただ、高専に入ってからは綺羅羅などに教わって挑戦したこともあったらしいが、今のところ惨敗といった感じだった。

「誰でも最初は失敗するよ。それにこういうのは出来る方がやればいいし」
「え、でも乙骨くんにばかり頼れないよ…。五条先生にも憂太の世話を頼むねって言われてるのに――」

と、そこまで言っては言葉を切った。隣にいる乙骨の顏が少し赤くなったからだ。あげく少し固まっている。

「ど、どうしたの?乙骨く…」
「今の、もう一回言ってみて」
「え?」

フリーズ状態だった乙骨の目の前で手を振っていたら、不意にその手を掴まれてしまった。しかも「もう一回」と言われ、何のことだと首を傾げると、乙骨は「僕の名前…言ってくれたでしょ」と、頬を綻ばせて彼女の手を引き寄せた。あっという間に距離が縮まり、簡単に乙骨の腕に絡めとられる。その上、額をくっつけられて、今度はが固まってしまった。さっきのキスの余韻も残る中で、この距離は反則だと思う。しかも改めて名前を言ってと言われると、妙に照れ臭い。五条が呼んでる言い方をなぞっただけで、意識して口にしたわけでもなく。余計に動揺が表に出て視線が泳いでしまう。でも言わなければずっとこの状態なのは分かる。至近距離で見つめられるのは、いくらでも心臓に悪い上に、かなり恥ずかしい。なのでは覚悟を決めると視線だけで乙骨を見上げた。大きくて丸い黒目と再び至近距離で目が合う。鼓動がどくんと大きく波打つ瞬間だ。

「え、えっと…ゆ…憂太…くん」

とてもじゃないが、この状況で呼び捨てなど出来ず、いつもみたいに"くん付け"で彼の名前を口にした。その瞬間、顏、というよりは首から上が秒で燃え上がったのかと思うくらいの熱が吹き出してくる。ただ下の名前を呼んだだけなのに、何でこんなに恥ずかしくなるのか彼女にも謎だったが、全身がむず痒いのでモジモジと体が動いてしまうのは最近のデフォルトだ。それでも今回ばかりは自分の情緒が謎すぎて視線も全く定まらなかった。
いや、待って。わたしはいつからこんなに純情になった?と自問自答を繰り返す。これでも一応、数人の男と付き合い、ひとりとは初体験まで済ませてるというのに、こんな激しく感情が揺さぶられることは今まで一度もなかった。恋愛の醍醐味とも言える――結果、嫌な思いはしたが――セックスを経験して、すでに恋愛の何たるかを全て知った気になっていたが、まだ自分の知らない未知の領域があったなんて、全くの予想外だった。

乙骨がの過去を上書きしたいと言うなら、すでに上書きされまくっている気がしてならない。実際、彼女の過去の経験など、何一つ役に立たずに記憶の外へ消し飛び、乙骨に色々と"初めて"を経験させられている気がするからだ。
おかしい、と彼女は首を傾げたくなったが、でもそれが不快なわけではなく。あんなことでドキドキして赤くなってしまう自分は案外嫌いじゃないと思った。
だが、そこで何も反応されないことが気になって、ふと乙骨に視線を戻せば、彼もまた彼女と同じくらいの熱を顔から吹き出したらしい。耳や首まで真っ赤にしている姿は、知り合った当時の彼を思い出させた。
一方、の視線を感じた乙骨はふと我に返ると、軽く咳払いをした。

「言わせておいて何だけど…死ぬほど照れ臭いかも」

と目が合うと、乙骨はそんなことを言いながら頭を掻いている。体の関係はまだなくても、普段はエッチなキスを仕掛けてくるくらい大胆なところもあるのに、下の名前を呼んだだけで照れる乙骨を見て、もまた変に恥ずかしさがこみ上げてくる。互いに赤面しあう光景は、傍から見れば微笑ましいといったところかもしれないが、もし、ここにミゲルがいたら「オマエラ、小学生カップルカ!」と確実にバカにされていたはずだ。

ただ、照れて終わる乙骨ではなかった。やはりそこは名前を呼ばれた幸せの余韻もあり、彼女の腰を更に抱き寄せるくらいの余裕はあったらしい。背中を丸めるようにして身を屈めると、未だに頬を染めているのくちびるを塞いで縫うように口付ける。味わうように互いのくちびるが深く交わるたび、ちゅっというリップ音が響く。だがくちびるを軽く吸った瞬間、乙骨の手が触れている彼女の細腰がぴくりと跳ねた。

「え、えっと…ご飯食べちゃおうか」

それが合図となったように我に返った乙骨は、さっと彼女からくちびると腕を放した。ギリギリ理性が勝った瞬間だ。
これ以上、キスをしていては食事もしないで寝室にさらってしまいそうだった。なので自制しつつ、恥ずかしそうに頷いたを椅子へと促す。別に今すぐエロいことをしようというわけではないが、先ほど一緒に寝る許可をもらえたことで、少しだけ暴走気味だという自覚はある。
大好きな彼女と一緒のベッドで眠ることじたい初めてなのだから、そこはやはり男として意識するなという方が無理な話だ。
因みに、例の合コン事件で乙骨がやらかした際、連れ込んだホテルでは、隣でが寝ている現実に悶々としてしまい一睡も出来なかった。なので、彼の中でアレは一緒に寝たうちに入っていない。

「あれ…乙骨くん、サラダとスープしか食べないの?」

乙骨の前にスープ皿とカプレーゼしかないのを見たが、不思議そうに目をぱちくりさせている。そう言えば、こんな風にふたりで食事をとるのは初めてだったっけと、乙骨は自分が普段からそれほど食に対しての欲がないことを彼女へ説明した。これからしばらく一緒に暮らすのなら、食の好き嫌いなどは教えた方がいいと思ったからだ。因みにの食の好みは彼女と付き合う前、付き合った後も、しっかりリサーチ済みなので、乙骨は当然ながらの好きなものから苦手なものも全て把握している。

「えっ!じゃあ…乙骨くんはお肉も苦手なの?」
「まあ…特に脂っぽいのとかステーキなんかの脂身はちょっと…。基本、野菜とかあっさりしたものが好きで」

頭を掻きつつ、申し訳なさそうにしている乙骨を見て、はこの世にお肉が苦手な男の子もいるんだ、ということを学んだ。彼女の場合、男の食の好みなどの情報は同級の金次や綺羅羅、前担任の五条、あと多少元カレなどを見てそれが基本となっており、全員が共通して好きなものが肉や寿司など、世間一般でも人気のある食べ物だった。それ故に乙骨もそうだろうと勝手に思い込んでいたらしい。出国の際、五条に没収された食材などもベースはそれであった。

「じゃあ…あれ必要なかったんだ。没収されて良かったかも」
「え…あれホントに僕に食べさせようとして用意してくれたの?」

が心底ホっとしていると、今度は乙骨が驚いたようだった。

「えっと…まあ…。ほ、ほら。わたし、料理苦手で…だから先生に食事とかの世話も任せたとか言われた手前、ちゃんと良いもの食べさせなくちゃと…」
「え、それで用意してくれたんだ」
「う、うん…でも乙骨くんが好きじゃないなら意味ないし、持ってこなくて良かった」
さん…」

乙骨憂太・絶賛大感激中――。とテロップが繰り返し流れそうなほど、大きな黒目をうるうるさせた彼を見て、は照れ臭そうに笑いながら「これ、凄く美味しい」と彼の作ったパスタを食べ始めた。本音を言えば今すぐ抱きしめてお礼を言いたい乙骨だった。自分の為にが何かをしてくれようとした事実だけで十分に心の栄養が取れたからだ。でも今、さんはお食事中…と心の中で繰り返しながら、己の煩悩を押さえて自粛をしておく。を愛してやまない乙骨でも、一応その辺の常識は持ち合わせているのだ。あとは、あまりがっついて嫌われたくない、という男心かもしれない。

しばし静かにふたりで食事をしながら、時々は日本にいる互いの同級生の話で盛り上がった。普段はふたりで会う時間も少ないので、その辺の話題よりも、ふたりに関する会話が多かったのだが、今は時間もたっぷりある。普段はしないような会話もゆっくりすることが出来た。

乙骨が高専に転入した当初は体術が苦手だったこと、禪院真希に体術のほか武器の扱い方を習ったこと、真希の心の強さや、生き様を尊敬してること。狗巻棘の話すおにぎりの具の中にはちゃんと意味があり、慣れたら会話が成り立つこと、クールに見えて意外と棘はヤンチャで可愛い一面を持ってること。パンダは達観してるとこがあり、ああ見えて頼りになる兄貴肌なこと、あと世界のアイドルにはあるまじき下ネタを時々ブッ込んでくることなどなど、乙骨の何気ない話をは楽しそうに聞いていた。こうして改めて乙骨の話を聞くと、知らないことの方が多かったような気がして、彼が同級生たちと、どんな時間を過ごしてきたのか聞かせてもらうことすら嬉しく思う。
自分の目の前にいる乙骨だけじゃなく、会っていないときの彼のことも知りたいと思ったのは、付き合い始めの頃よりも想いが強くなっているせいだ。
嬉しげに表情を輝かせながら同級生たちのことを話す乙骨を見ていると、自然に好きだなぁと思っている自分に気づく。無意識にそんな思いが溢れて来るのだから、これはもう病気かもしれない、とちょっとだけ恥ずかしくなった。

「あ、ごめん…さっきから僕だけ話しちゃってるよね」
「え?」

楽しく彼の話に耳を傾けていたら、不意に乙骨が言った。何故か困り顔で眉尻を下げている。が聞き役に徹していた為か、自分が話しすぎたと勘違いしたようだ。同級生のことになると、つい夢中になってしまうところも乙骨らしい、と思いつつは軽く吹き出した。

「そんなことないよ。知らないこと多くて凄く楽しい。一つ下の学年だから知ってるようで皆のこと、そんなに知らなかったし面白かった」
「え、そう?」
「特にパンダくんと交わしたシモい話とか」
「えっそ、そこ?」

からかうように付け足すと、乙骨は明らかに動揺した様子で頬を赤くした。そんな反応をされると多少気になってくる。男の子同士(?)のそういう話を聞くのは野暮だとは思うのだが、好きな相手がどんなことを話してるのかは気になってしまう。

「で、パンダくんのブッ込んだ下ネタってどんな内容だったの?」
「へ?な、な、何で?」
「だって乙骨くん、ものすごーく動揺してるから、どんな話だったのかなーって興味が湧いたんだもん」
「え、いや…た、大した話じゃ…どんな…話だったっけな…あははは…」

いつもの冷静な乙骨らしかぬ慌てぶりに、はますます気になってきた。そもそも乙骨が下ネタを話して楽しむようなイメージがないからだ。ひょっとして自分にも話せないような内容なのか?とが疑いを持ち始めた、そのとき。まさに助け船の如く乙骨のスマホが鳴り始めた。見れば相手はミゲル。乙骨はそれを確認すると「ちょっとごめんね」と椅子から立ち上がり、そそくさと寝室へ行ってしまった。

「む…怪しい…」

乙骨の不自然な態度を見て、女の勘が働く。もしや浮気――飛躍しすぎ――か?と一瞬思ったものの、それこそ乙骨のイメージではない。だいたい、あのパンダがどんな下ネタを言うんだ?というところからして謎すぎる。パンダ同士の交尾の話だろうか。全く想像できない上に、呪骸って交尾するのか?まで考え出すと頭の中が白黒に染まっていく。

「でもまあ…ちょっとオッサン臭いとこあるもんね、パンダくんは…。まあお父さんが夜蛾学長だし仕方ないか…」

と何気に失礼なことを言いつつ、テーブルの上の空いたお皿を見る。何だかんだと話をしながら、ペロリと食べてしまった気がする。スパゲティの硬さや、味付けなどが絶妙でとっても美味しかったせいだ。

「乙骨くん、料理の才能もあるなんて万能すぎる…」

思えば初めてのことでも、憂太は吸収するのが早いと五条先生も言ってたな、と思い出す。ついでに、というわけではないが。ふと頭に浮かんだのは乙骨とのキスだった。最初はぎこちなかった気もするが、回数をこなすうち、の方が蕩けてしまうほどに気づけば上手くなっていた。あれも乙骨の器用さが成せる業かもしれない、と思いつつ、同時にキスをされてるときの高揚感まで思い出し、再び顔からボっと火が噴き出たのでは?と思うくらいに熱くなる。

「はっ。そ、そうだ。洗い物くらいしなきゃ…」

ひとり赤くなっていては変に思われると、は目の前のお皿をキッチンへ下げていく。普段は洗い物すら殆どしたことはないが、これくらいなら自分でもできると思った。作ってもらったんだから、せめて洗い物はわたしが終わらせちゃおう、とスポンジに洗剤を垂らしてもみもみと泡立てる。ただは失念していた。泡だらけになった手はかなり滑るということを。
まずは皿から洗おうと、一枚を手にした瞬間、するりと彼女の手から皿が滑り落ちていく。あ、と思ったときにはガチャンという派手な音と共に、床へ堕ちたお皿は真っ二つに割れていた。

「あーやっちゃった…」

慣れないことをやった先からこれだ、と自分に呆れつつ、すぐに手を洗って泡を流してから、しゃがんで割れた皿の破片を拾っていく。そのとき、後ろでドアが開く音と「さん?!どうしたの?大丈夫?」という乙骨の声がして、びくっとなった。

「…痛っ」

一番大きな破片をつまんだ瞬間、指先を切ってしまったらしい。右手の人差し指からじわりと血が滲んでいく。そう言えば以前も金次と綺羅羅にカレーを作らされたとき、包丁で指を切ったことを思い出した。こういう指先の小さな傷はやたらと痛みを感じるのだから嫌になってしまう。そこへ乙骨が慌てたように戻ってきた。

「ご、ごめん…お皿落としちゃって…」

しゅんとしながら謝ると、乙骨は「そんなのいいから見せて。どこか切ったの?」と、の隣にしゃがみ、出血してる方の手をとった。

「あー…結構深く切れてる…すぐ治すね」
「え、あ…ありがとう…」

乙骨は自分の手のひらに彼女の怪我をした指を包みこむと、すぐに反転を回しだした。こんな小さな傷なのに、と恥ずかしくなったものの、切れた場所はあっという間にくっついてしまった。

「はい、これで大丈夫」

ホっとしたように微笑む乙骨に、にも少しだけ笑顔が戻った。ただドジが露見した事実は変わらないので、そこは恥ずかしい。こいつ、皿の一枚も洗えないのかと思われたらどうしよう。そんな思いでいっぱいになる。

「う…あ、ありがと…ごめんね、ほんとドジで…」
「何で謝るの。こんなの僕がやるからさんは座ってて」
「え、それはダメだよ…。全部乙骨くんにやってもらったら、わたしが来た意味なくなるもん」

キッチンに立とうする乙骨のTシャツをぐいっと引っ張る。思えばここに帰って来てから、五条に頼まれたことを何一つ出来ていない。せめて食器だけでもと思ったのに割ってしまうわ、怪我をして治療されるわじゃ、本当に乙骨の彼女として失格な気がしてきた。今までの恋愛…もとい。恋愛ごっこが何も役に立たない。自分はこんなにも使えない女だったのか、と地味に――いや、もうそれはそれは派手にへこんでしまった。

「え、意味ないって何で?」

と、乙骨は困惑したような顔で振り向き、「意味がないわけないでしょ」と項垂れた彼女の頭へそっと手を置いた。

さんは家政婦でもお手伝いさんでもないんだから、僕の世話なんてしなくていいよ。そばにいてくれるだけで嬉しい」

何とも満悦らしい柔らかい笑みを浮かべた乙骨に、一瞬はの表情も和らぐ。だがハッとしたように首を左右へ振った。この優しさに甘えてしまってはダメなのだ。これでは乙骨がいないと何も出来ない女になってしまう。今までの経緯から物凄くそんな気がした。そもそも乙骨は普段からの手を引いて歩いてくれるようなところがある。

「う…そ、そう言ってくれるのは嬉しいんだけど…わたしが嫌と言うか…。だって乙骨くんがわたしに何かしたいって思ってくれるのと同じで、わたしも乙骨くんに色々してあげたいんだよ…」
「え…そう…なの?」
「そうだよ…。でも何も出来てないし…だから…へこむの…。乙骨くんだってホントは呆れてるでしょ?」

言ってる最中もどんどん気持ちがくずおれていく。今の自分じゃダメだと思えば思うほど、情けない気持ちにもなった。今にも泣いてしまいそうなを見て、乙骨は「呆れるはずないでしょ」と困り顔で宥めていたが、どう言えば元気になってくれるのかと必死で考える。何も彼女を悲しませたいわけじゃなく、乙骨は単純に好きな子に喜んで欲しくてしたことだったが、それが原因で落ち込ませては意味がない。それに彼女が自分の為に何かをしてあげたいと思ってくれる気持ちは死ぬほど嬉しい。同時に"好き"の質量が更にどんどん増えていく。軽く上限は超えたと思っていたが、まだ上があったようだ。
さんは愛という名の呪いで僕を殺す気かもしれない――と真剣に考えたが、そんな幸せな呪いならむしろ嬉しいしかないので、まあそれもいいか、という気持ちになった。ここに五条がいれば学習しろ、とゲンコツをされてただろう。だいたい前科アリの乙骨の方が本当にそれをやりかねないのだが、前回同様、今回も本人にはあまり自覚がないらしい。

「頑張ってやろうとしてくれたのに呆れるわけないし、気持ちは嬉しいよ、すごく」
「…うそ。乙骨くん、優しいから気を遣ってくれてるんだよ」
「いや、そんなことないってば」

と言いながらも、乙骨はどうしよう、落ち込んでるさんも可愛すぎる、と心の中で悶えていた。普通の男ならば、こういう状況や、こういう女は面倒だと思うくらいにも拗らせているのだが、乙骨の愛は普通とは言い難いほど重いので、拗らせてる彼女も好き、という思いが高まるだけのようだ。
とにかく今は落ち込んでいるを元気にしてあげたいので、可愛い、抱きしめたい、という煩悩は一旦横へ置いておき、元の場所へ思考を戻す。そこで割れた皿を見下ろしながら、ふと思いついたことを口にした。

「あ、じゃあ…僕はこれ片付けるんで、さんは残りのお皿洗ってくれる?僕がそれ拭いてくから一緒に片付けよ?」
「…え、いいの?わたしが洗っても…またお皿落としちゃうかも…」

乙骨の狙いは外れなかったようで、がパっと顔を上げた。その表情はさっきよりも明るい。

「いいよ、そんなの。食器なんて、どれだけ気をつけてたって割れるときは割れるもんだし気にしないで」

そう言ってる間に割れた皿を素早く片付けた。こんなもんがここにあるからさんがへこんでしまうんだ、と軽く恨みを込めてダストボックスへ放り込む。
そうして邪魔者が視界に入らなくなったところで、とふたりでキッチンへ立った。一緒に片付けよう、と言ったことが功を奏したのか、はどこか嬉しそうに食器を洗いだした。内心ホっとしつつも、その姿をつい惚けて見ていると、がふと隣に立つ乙骨を見上げた。

「な、何…?そんなに見て…あ、洗いかたが雑だった?」
「え?あ、いや…洗い物してるさんも可愛いなあ…と思っただけで…」
「………」

ぷしゅーっという音がしたかと思うくらいに、の頭から湯気…は出なかったが。そう感じるくらいに顔の熱が一気に上がったのは確かだった。乙骨の愛が不意打ちすぎる。

「こ、こんなの洗うのに可愛いも何もないじゃない」

あまりに唐突に可愛いと言われたのが恥ずかしくて、ついツンデレを王道でいくような返しをしてしまった。いつも言ったあとで後悔するのだが、でも一つ問題なのは、それくらいの突き放しなど乙骨には全く通用しないことだった。

「え、そんなことないよ。さんは何をしてても可愛い」
「………」

一瞬引きかけた熱が再度上昇するのを感じながら、ちらりと視線を向けると、乙骨は「今日も好きだよ」とお約束の報告をしてくる。付き合う前から続いている恒例のそれは今も健在だった。それがトドメになったらしい。も頬を染めつつ「わ、わたしも――」と、素直に想いを口にしようとした、そのとき。身を屈めた乙骨が熱で火照った彼女の頬へちゅっとキスを落とす。思わず顔を上げれば、こんどはくちびるを塞がれ、軽く啄まれてしまった。その不意打ちのキスのせいで、彼女の手にあった最後の一枚がするりと滑り落ちる。それを器用にキャッチした乙骨は、その皿も丁寧に拭き終えると、隣で真っ赤になっているの手を引き寄せた。

「ご、ごめん…また落としちゃって…」
「平気だよ。僕がそばにいるんだし」
「う…またそんなこと言って甘やかす…」

同級生をはじめ、元カレなどからも甘やかされるのは慣れてるはずなのだが、乙骨のそれは度を越えているので何となく恥ずかしくもあり、歯がゆくもある。彼にどっぷり甘えたい気持ちと、甘えすぎてはいけないという相反した思いがこみ上げてくるせいだ。そう思い悩むのは彼女が少しは成長した証でもあるのだが、本人は気づいていない。
そんな彼女も愛しいと訴えるような目で見つめていた乙骨は「甘やかしたいんだよ。さんが可愛いから」と、懲りもせずに甘い台詞を吐き散らかすので、もだんだん、乙骨くんがそう言うなら…ポっ。という気持ちになってくる。
以前、後輩の伏黒がと乙骨に感じたことは何一つとして間違ってはいないくらいに、バカップルを地でいくふたりだった。