身動ぎに夢が滲む-16

次の日。約束の時間に到着したミゲルは、自分を出迎えた乙骨を見て驚いた。
まず顔色が悪い。明らかに寝不足。そして髪の寝癖が酷い。
たっぷり休む時間はあったはずなのに、「何デ、ソンナニヨレヨレナンダ、乙骨」と思わず聞いてしまうくらいに、明らかに疲れている。
「え?あ、いや、実はちょっとさんが体調悪くて心配で寝付けなくて……あ、で、でも二時間くらいは寝たんで大丈夫です!」
どこか落ち着きがなく、わたわたしながら「ちょっと中でコーヒーでも飲んで待ってて下さい」とミゲルを部屋へ促した。まあ外で待つのもなんだし?と思いながら、ミゲルが部屋へ入ると、まずキッチンやテーブルにはフルーツやパンケーキ、サラダや紅茶、あとは何やら日本風のサンドイッチなるものが乗せられた皿などが所せましと置いてあり、朝食を作ったにしては量が多い。しかもそれらを用意してるのは乙骨であり、食事の準備を終えると、「すぐ用意するんで」と言いながらバスルームへと走って行った。どうやら自分の支度を後回しにして食事の用意をしていたらしい。
「アア、ガールフレンドガ体調悪イカラカ…」
だから代わりに乙骨が色々やってるんだな、とミゲルなりに納得しつつ、ふと寝室へ視線を向ける。日本から連れて来た乙骨のガールフレンドはまだ寝てるようだ。慣れない国では体調を崩す人間も多い。もしかしたら疲れも出たのかもしれないな。そう思っていたとき、不意に寝室のドアが開き、何かモコモコの塊が顔を出す。ミゲルは乙骨がその辺のアルパカでも連れ込んだのか…と呆れつつ、サングラスの奥からよくよく見れば、それは乙骨のガールフレンド、だった。モコモコすぎて一瞬、分からなかった。だいたい、この国でそんな恰好をする人間はまずいない。
「あ、おはよう…ミゲル。来てたんだ」
「オマエ…カ?何ダ、ソノカッコ…野生ノアルパカト思ッタゾ」
「え、ケニアには野良のアルパカもいるの?」
「イヤ、知ランケド」
「知らんのかい」
つい金次の口真似で突っ込むも、日本の芸人ノリなど知らないミゲルは普通に聞き流し、怪訝そうに「暑クナイノカ、オマエ」と驚いている。ミゲルが驚くのも無理はなく。ケニアの日中は20度を超える。にも関わらず、は明らかに真冬用のモコモコパーカーを着て、だぼだぼのスェットまで履いていた。明らかにメンズ物といったサイズなので、乙骨の服を着ているのはミゲルにも分かったが、我慢大会でもしてるのかと思った。
「そりゃ暑いけど…乙骨くんがこれ着ててって言うから…」
「アア、ソウカ、体調ワルインダッテ?熱デモアルノカ?」
「う、うん、まあ…でも微熱が少しあるくらい…あとは腹痛が――」
がそう応えたとき、バスルームから乙骨が飛び出して来た。寝癖を直すのに髪を洗ったらしいが、バスタオルを頭に被ったまま拭きもせず、ポタポタ雫を垂らしながら走ってくる。そしてミゲルには見向きもせず、「さん、ちゃんと寝てないとダメだよ」と彼女をぎゅっと抱きしめながらコツンと額をくっつけた。だいぶ身長差があるせいで、大きな乙骨が細身のに覆いかぶさってるようにしか見えない。
「大丈夫だよ。見送ったらすぐ寝るから」
「でもさっきお腹の痛みが酷くなってきたって言ってたでしょ。無理しないで」
「そ、そっちこそ、ちゃんと髪くらい拭かなきゃ…って、つめたっ」
「え、あ、ご、ごめん!」
乙骨の髪の雫がの頬にぽたりぽたりと落ちたのを見て、乙骨がすぐに手を放す。相変わらず自分のことは後回しなんだから、とちょっと呆れつつ。は乙骨を見上げながら、彼の被っているバスタオルでわしゃわしゃと髪を拭いてあげた。乙骨は「ありがとう」と恥ずかしそうにしながら「もう大丈夫」と大型犬みたいに頭をふるふるして残りの水気を飛ばしている。おかげで着替えたばかりの制服にも雫が飛んだのだが、外に行けばすぐ乾くからと乙骨は呑気に笑った。
その一部始終を見ていたミゲルは、今日も緩いカップルだな、と思いながら、勝手にコーヒーメーカーからコーヒーを注いで飲み始めた。この様子じゃ今すぐには出られないだろうという予感がしたのだ。
そしてミゲルの予感は当たったらしい。乙骨は具合の悪いという彼女を心配して、あれこれと世話を焼きだした。
「僕がいない間、お腹空いたらここに色々作ってあるから食べてね。あと薬はここに置いておくから痛みが酷かったらちゃんと飲んで」
「う、うん…ありがとう…。ごめんね…何から何まで…。乙骨くん、寝不足だよね…」
「そんなの気にしないで。ほんとは心配だから置いて行きたくないんだけど、具合悪いさんを連れまわすわけにもいかないし…」
「子供じゃないんだから…それに毎月のことで慣れてるし…」
「そ…そう、だよね…。あ、じゃあ僕が出かけたらちゃんと鍵かけて誰が来ても出ちゃダメだからね」
「うん」
「………カノジョハ小学生カ…?」
見つめ合いながら、そんな会話を交わしている乙骨とは、すっかりふたりの世界に浸っている。それを延々見せつけられていたミゲルもつい突っ込みたくなったのだ。
五条悟メ、コンナバカップルヲ預ケヤガッテ、と脳内に浮かぶアイマスクの男に呪いを込めた念を送っておく。そもそも足止めにコレを使わなければ、五条悟にも目を付けられることはなかったのに、とズボンのポケットに押し込んでいた"黒縄"の残りカスを取り出した。それは持ち手部分を残し、殆どが燃えたように黒焦げになっている。
今回"黒縄"捜索のため、念のために実物――縄部分はほぼないが――を持ち歩いているのだ。
「あ…それ、ですか?"黒縄"の実物って」
ふと今までにデレていた乙骨が、ミゲルの手にしたソレに気づく。五条やミゲルから話だけは聞いていたものの、実物を見るのは初めてだった。も興味があったのか「見せて見せて」とミゲルの方へ歩いて来る。
「アア、ダガ見テノ通リ、五条悟ニ削ラレテ、コノ有様ダヨ」
「うわぁ、元の形が全然わかんない…先生やっぱり凄いなあ…特級呪具を破壊するとか。縄っていうくらいだし、これ、もっと長かったの?」
「ソウダ。長カッタシ、モット何本モアッタ。デモ五条の術式ニ触レタダケデ、削ラレタンダ。最悪ダヨ、アイツ」
ミゲルが五条への愚痴を言いつつ、"黒縄"の持ち手部分を差し出すと、自然にがそれを手に取る形になった。だがそれに触れた瞬間、びりっとしたものが手に走り、は「ひゃっ」と声を上げて"黒縄"を離すと、それはパサっと床へ落ちてしまった。
「あ、ごめんなさい…!」
「イヤ…イイ。デモ、ドウシタ?」
ミゲルが怪訝そうな顔でを見ながら、落ちた"黒縄"を拾う。だがそれを見ていて慌てたのは乙骨だった。「さん…っ?っ大丈夫?手、見せて」と彼女の手を取り、傷が出来ていないか何度も手のひらや手の甲まで裏返して確認している。しかし、どこにも傷はなく、乙骨はホっと息を吐き出した。ミゲルが「ソコマデ慌テナクテモ」と突っ込んだ言葉すら、耳に入っていない様子で彼女の頭を撫でている。
「ダメだよ、さん…。これは特級呪具扱いのものなんだから不用意に触っちゃ…何かあったらどうするの」
「う…ご、ごめん…もう殆ど削れてるし呪力もないかと…」
「え、呪力感じたの?」
「え?あ…うん、少し…びりっと電気走ったみたいに…でも一瞬だったから、ただの静電気かも」
の話を聞いた乙骨は、念のためミゲルから"黒縄"の持ち手を触らせてもらった。しかし彼女が感じたような電気などは走らず、縄に編み込まれていたという呪力も殆どが消えかけてるように思えた。ミゲルも「コノ"黒縄"ニハ、誰カヲ攻撃スルヨウナ呪力ハ、モウ残ッテナイヨ。五条ノセイデ」と言うので、やはり静電気か何かだったのかも、と考える。ただケニアは日本と違い、七月から八月が最も気温が低く乾燥状態になるが、現在の五月後半などは、まだ気温も高く静電気が発生するほど乾燥はしていないのだ。その辺が気になりつつも、ミゲルにそろそろ行こうと促された乙骨は、にもう一度体を休めるよう言い聞かせてからアパートメントを後にした。
「オマエラ、イツモアンナ感ジナノカ?」
「え?あんな感じって?」
ミゲルの運転する車に乗り込んだ乙骨は、担いでいた呪具の刀を脇に置くと濡れた髪を手櫛で整えながら首を傾げた。
「ダカラ…イツモ乙骨ガ彼女ノ世話シテルノカ」
「そんなことはないですけど…今までは毎日会えるかって言えばそうでもなかったし…だから今みたいに長く一緒にいられるとその分、色々してあげたくなるっていうか…」
「ヘエ。マア…仲ガイイノハ良イケドナ。チョット甘ヤカシ過ギジャナイカ?」
成田空港で初めてふたりを見たときから気になっていたことを口にすると、乙骨は心底驚いたように大きな黒目を更に大きく見開いた。まるで「何言ってんの?おまえ」とでも言いたげだ。
「え、大好きな子には色々してあげたくなるでしょ、普通。だって大好きな子なんだから」
「…ア、ソウ…普通…ネエ……。マア、イイケド」
そんな理屈を真顔で言われてしまうとミゲルもそれ以上突っ込めない。また恋人同士のことに口を出すべきでもないと悟ったミゲルは、軽く咳払いをして「本題ニ入ルゾ」と気持ちを切り替えた。
「夕ベ会ッタ術師ニ聞イタンダガ、今カラ会イニ行ク男ニ"黒縄"ヲ高値デ売ッタト言ッテル人間ガイタラシイ。デモ、ソレハ三年モ前ノ話ダカラ、今モソイツが持ッテルカハ、会ッテミナイトワカラナイ」
「そうですか。その人はどこにいるんですか?」
「ココカラ約三時間クライカカル町ダ」
「え…そんなにかかるんですか…」
移動時間を聞いた途端、乙骨の顏がげんなりとする。ミゲルからすれば一日でも早く"黒縄"を見つけて五条の呪縛から解放されたいという気持ちが強い。だからこそ協力を惜しまず、こうして情報を得たり、案内をしてるのだ。同時に乙骨も早く"黒縄"を見つけたいのだと思っていた。だからアフリカくんだりまで来ているんだろうと。
なのに乙骨ときたら、その"黒縄"に対する熱があまり見られない。今も「帰りが遅くなっちゃいますね…」と一気に暗い表情になっている。
「何ダ。ソノ嫌ソウナ顔ハ」
「えっ?い、いえ…そんなことは…あははは」
ミゲルが突っ込むと、乙骨は慌てたように首を振りながら引きつった笑みを見せた。やはり、どうもやる気が見られない。本当に大丈夫なのか、この特級術師は、とミゲルも少し心配になってきた。"黒縄"は数も少なく、出回ったのは遥か昔だと聞いている。そんな理由もあり、もし本物なら今では裏の世界の住人に高値で取り引きされるほどの呪具だ。もし本物を見つけたとしても簡単に手に入るようなものではないので、ミゲルはその辺のことが心配だった。この国にも裏社会の人間は多く、"黒縄"を追えば、それなりに危険もつきまとう。日本のような呪詛師はいなくとも、マフィアの類に狙われる可能性も出てくるのだ。この国のマフィアは日本のヤクザとは違い、人目もはばからず襲撃してくる野蛮な連中なのをミゲルはよく知っていた。術師の自分達が殺されることはないにしろ、関わって来たら数は多い分、少々厄介、とは思う。
しかし、乙骨にそう伝えると「大丈夫ですよ」と、軽く言われてしまった。
「どんなに危険でも普通の人間相手なら僕だけでもどうにかできるんで」
あっさり言い切る姿は、さっきまでガールフレンドにデレていた男とはまるで別人。一見、あどけなく見える大きな黒目からは、それまでの感情が消え、じっとりとした目つきへ変化する。それはまるで乙骨の隠れた攻撃性を現わすかのようだった。感情の見えない黒目には黒いタールの如くねっとりとした呪力が滲み、一瞬冷たい焔を点じたのを、ミゲルは見逃さなかった。意外な一面を見せつけられ、つい瞠目してしまう。とても、さっきまでの男と同一人物には見えない。
僅かに息を呑んだあと、ミゲルの口元がゆっくりと弧を描く。あの五条悟がこの件を乙骨に任せた意味を、ミゲルは初めて理解した。
「フッ……ソレハ頼モシイ。ジャア、尚更モットヤル気ミセロヨ、乙骨」
「……はあ」
ミゲルに突っ込まれ、またしても気のない返事をした乙骨の瞳にはすでに感情が戻っていた。ただ、へにょっと眉尻を下げたかと思えば「やる気はありますけど…僕はたださんが心配で…」と嘆息している。
「今朝もお腹の痛みが強くなったって言ってたし大丈夫かな…。ひとりで寂しい思いをしてるかも…」
ミゲルは「ソコかヨ」と思ったし言いもしたのだが、乙骨は全く聞いてない。あげく、まだ出かけて十分ほどなのに、スマホでメッセージを打ち出した。何を打ってるんだ?と気になったミゲルが、こっそり画面を覗き込むと、そこには『早く会いたい』の文字。ミゲルの目がすっと細められた瞬間だ。
さっき会ってただろ。いや、その前に昨日からずっと会ってただろ!と言いたいが、どうせ乙骨には何を言っても届くまい、とミゲルは見なかったことにした。会ったばかりで、まだどんな人間かはそれほど理解していないものの、昨日と今日とで、乙骨という男がどれだけというガールフレンドを愛してるのかだけは、物凄く理解したミゲルだった。
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乙骨がミゲルと出かけて十分は過ぎた頃、のスマホがぴろんぴろんと立て続けにメッセージを受信した。
乙骨に言われた通り、ベッドに潜っていたは、その音に気づいてガバっと夏掛けを剥いだ。起き上がるのは少しツラいので、もそもそと手を伸ばし、枕の下へ入れたスマホを掴む。てっきり綺羅羅か金次辺りかと思ったのだが、画面の通知欄には乙骨の名前。出かけて行ったばかりなので何か忘れ物でもしたのかと、すぐにメッセージを開いてみた。しかしの予想は大きく外れ。そこには『早く会いたい』という文字。そして二つ目のメッセージには『今日も大好きだよ』という、いつもの報告と、指でハートを作るスタンプもあった。
思わず笑みが零れて、すぐに『わたしも会いたい。早く帰ってきてね』と素直な気持ちを打ち込んだ。乙骨には大丈夫と言ったものの、やはり異国の地で、それも生理とはいえ体調が悪いとひとりは心細い上に寂しい。日本なら例え乙骨が不在でも綺羅羅や金次、それに後輩や先生といった良く知っている仲間に頼れるが、この国には乙骨しか頼る相手はいないのだ。その乙骨がそばにいないのだから、やけに寂しさが募ってしまう。
するとメッセージを返してから数秒後、またしてもぴろんとメッセージが届く。すぐに開くと、そこには『用が済んだらソッコーで帰るから!』と、今度は空を飛ぶウサギのスタンプが表示され、「ふふ…」とつい顔がニヤケてしまった。それはが乙骨にプレゼントした彼女がお気に入りのスタンプだ。ちゃんと使ってくれてると思うと顏が自然にニヤけてしまう。気持ち的には、ほんとに乙骨くんは可愛いな、である。
「ハァ…わたしも一緒に行きたかったなぁ…」
仰向けに寝がえりを打ちながら、乙骨のメッセージを眺めていると、ついそんな愚痴が出てしまう。でも動くのがキツイくらいには下腹の鈍痛は酷くなっていた。今は乙骨の作ってくれた朝食のパンケーキと紅茶を頂いて、用意してあった薬も飲んだので多少は腹痛も和らいだのだが、完全に痛みがとれるわけじゃない。常にジクジクした痛みを下腹に感じるので、横になっている方が楽だった。
一応、予定とぶつかりそうだと思ったのでナプキンを一袋は用意してきたが、ふと今回の"黒縄"探索はどれくらいかかるんだろうと不安になる。もし長期化すれば、一カ月おきに生理がくるわけで、そうなるとナプキン一袋じゃ足りなくなる。当然こっちで調達しなければならない。
「女ってこれが面倒だよね…。だいたい夕べだって…何もあんな場面でこなくてもいいのに…」
そう思った途端、ふと夕べの行為を思い出した。もうあと少しで乙骨と初エッチ、というところまでいったんだなぁと思うと、再び顔の熱が再燃してきた。しかも初めてイカされたのはにとってもビックリ要素の一つでもある。
(わたし…不感症じゃなかったんだ…良かった…)
乙骨には言えないが、元カレに言われた一言はを酷く傷つけるものだった。確かに彼との行為ではそれほど気持ち良くもなく濡れも悪く、当然イったことすらなく。それが続くと男の方も面白くなかったらしい。別れようと言ったに「不感症の女はオレもごめんだわ」という酷い捨て台詞を言われたのだ。その一言が決定打となり、はセックスそのものが怖くなってしまった。
なのに乙骨を好きになって、彼に触れられるだけで全身が性感帯みたいに反応するようになったのは彼女自身も驚いた。その初めての反応が最初は怖かったのだが、夕べはそんな怖さより、乙骨の優しさに酷く安心させられた気がする。これまで、あんなに優しいひとはいなかったから。
「早く会いたいな…」
静かな部屋でひとり寝ていると、すぐに乙骨が恋しくなってしまう。ただ、先ほど着せられた乙骨の服から彼の匂いがするようで、ちょっとだけ顏がニヤケてくるのは、好きなひとの服を着るという些細なことすら、幸せだと思うからだ。
「そう言えば…好きに着てって言ってたけど…」
ふと思い出し、ベッドの上を這っていくと、脇に乙骨の衣類が入った段ボールが置いてある。日本からここへ送ったという着替えなどが入っているのだが、どれも乙骨が買ったわけじゃなく、殆どが五条に貰ったものだと言っていた。通りでTシャツやシャツにしても、いちいち高級な服が多い。あとはふざけた文字が入ったTシャツもあり、絶対五条が乙骨をからかう為にあげたとしか思えなかった。
何でも、海外に行くなら日本の漢字が入ったTシャツは外国人に受けがいいと言われたらしい。別に外国人に浮けなくてもいいとは思うのだが、乙骨は特に気にすることなく着ているようだった。
「それにしても"盆栽"っておじいちゃんじゃないんだから…」
一枚のTシャツを手に取り、ぴらっと広げると、背中に大きな文字。その下に小さな盆栽の絵が入っている。外国人には字の意味は分からないので、こういう漢字の入ったものを選ぶときは絵のように形などを見るようだ。時々海外のスポーツ選手が己の体に漢字一文字のタトゥーを入れたりしているが、あれも意味より字体などを気に入って入れることもあると聞く。まあ、これは五条が外国人受けを狙って選んだんだろうが、それを自分で着るのではなく、乙骨に持たせる辺りが彼らしいと思う。
他にも五条からもらったというTシャツには<やればできる子です>だの、<俺がラスボス>だの、<定時で帰る>だのという文字が入っており、絶対に浅草かネット通販で買って、わざと乙骨にあげたとしか思えないものが多かった。まあ、乙骨が律儀に着てるのを見たときはも笑ってしまったのだが。
特にこの<定時で帰る>Tシャツは最初、五条が後輩の七海に買ってあげたものらしい。時間外労働を嫌う後輩にシャレであげたらしいが、当然の如く「着るわけないでしょう」と冷たく突っ返されたので、それが巡り巡って乙骨に回ってきたとのことだった。きっと乙骨くらいしか受け取ってくれるひとがいなかったんだろうな、と思うと、何となくジワジワきてしまった。
「はぁ…たった二日でホームシックかな…。寂しい……」
五条の顔を思い出すと、連動して綺羅羅や金次の顔まで浮かんできた。ゴロゴロとベッドの上を転がりながら、時計ばかり見てしまう。乙骨が出かけて行ってから、まだ三十分経ったくらいだ。帰ってくるのは、まだまだ先の話だろうな、と思うとやるせない気持ちになってくる。
「せめてミミがあればなぁ…」
空港で五条に没収された愛用のヌイグルミを思いだしながら、小さく息を吐く。あれを抱いていると自然と眠くなるので、には寝る際の必須アイテムなのだ。でもそこで「ん?ウサギ…?」と、あることを思い出した。空港での没収騒ぎの際、不愛想な後輩から受け取ったものだ。
「あ、そうだ…アレでウサギを顕現させれば寂しくないかも」
はもふもふした動物が大好きなので、一、二羽ほど顕現して部屋で遊ばせておけば最高じゃないかと思った。そこですぐに伏黒からもらった呪符をバッグから出すと、教えてもらった要領で自分の呪力を流し込んでみる。このとき、伏黒に言われた注意事項などすっかり忘れていた。
「えっと…確かわたしの呪力がスイッチになってるって言ってたよね。普通に流し込めばいいんだっけ」
いつもの要領で呪符に自分の呪力をふんっと流し込む。その瞬間――ぽぽぽぽんっ!と小気味いい音をさせて、飛び出したのは、一羽どころの話じゃなかった。数えきれないくらいの大量のウサギが、一気に寝室を埋め尽くす。愛くるしいウサギたちはぴょんぴょん飛び跳ね、きゅうきゅうと可愛い声を上げながら縦横無尽に部屋を走り回りだした。
「え、ええぇぇ?!」
ほんの数羽を顕現しただけのはずが、何故か大量に現れたことでは大いに焦ってしまった。この状況どうすれば?と慌てながら、ふと伏黒に言われたことを思い出す。
――あまり一気に呪力を流すと大変なことになるんで微量くらいにして下さい。
「あ…!そうだった…」
大変ってこういうことだったのか、とガックリ項垂れたものの、それでも目の前を飛びまわる子ウサギは死ぬほど可愛い。のそばにもぴょんこ、ぴょんこ、と近づいては膝に乗ってくるので、一羽を抱き上げ頬ずりをした。その柔らかいもふもふ感は本物そっくりで、とっても癒される。そう、それにこんなにいれば全く寂しくない、ということには気づいた。なので――。
「一緒に寝ようね」
数羽ほど抱え込むと、はベッドに寝転がり、可愛いウサギたちに埋もれながら、朝食後に飲んだ痛み止め効果もあったのか――秒で眠りについてしまった。
ただ、このとき、は伏黒に言われた大事なことだけは覚えていた。
――ウサギを抱いて寝ちゃっても、呪符を身に着けていたら先輩が眠った時点で呪力が途切れてウサギは消えるんで。
なので伏黒に言われた通り、着ている乙骨の服のポケットに呪符を忍ばせておく。
この後――彼女はそのおかげで命拾いすることになる。
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ウサギを抱いて秒で眠ってしまったは不思議な夢を見ていた。目の前で明かりが揺れた気がして、ふと意識を向けた瞬間、は見知らぬ家のエントランスホールに立っていた。彼女に全く見覚えがない、クラシック調の豪華なエントランスだ。正面には奥へ続く通路と、左右の壁のアンティークガレには青白い炎が煌々と燃えている。明るく感じたのはその炎だった。
エントランスの両サイドには弧を描くように二階に続く階段があり、の立っている位置からも二階の通路が見える造りだ。
不思議な感覚を覚えながらも、はゆっくりとエントランスを見渡した。奥に続く通路以外に、一階のその場所にはドアが二つある。一つは客間。もう一つは鍵がかかっている。はその場から動いていない。なのに何故か部屋の間取りや、開かない扉のことまで頭に入って来た。
――ここはどこだろう。
全く知らない場所のはずなのに、どこか懐かしいという思いがこみ上げてくる。彼女のいるエントランスは薄暗く、青い炎だけで足元を照らされていた。
そのときだった。不意に二階の通路で何かが動いた気がして顏を上げる。その位置からは二階の通路が左右に伸びているのは分かるが、壁が邪魔でどこへ続いているのか奥までは見えない。けれど、左に行けば書斎があるのを、は知っていた。そして今感じた人影のようなものが向かったのも、その書斎がある左側。
――行かなきゃ。
何故かそう思ったはゆっくりと足を動かし、左側の階段を一段一段、登って行った。
二階に上がると左側奥にはドアが三つほどあり、その一番奥が書斎だと分かる。その扉は僅かに開いていたからだ。たった今、誰かが開けたばかりのように、ドアは僅かに動いていた。迷うことなく、その部屋へ足を向け、僅かに開いているドアを押し開ける。その部屋の壁にはびっちりと本棚が設置され、また壁にある梯子を上れば二階の壁にも沢山の本が埋まっていた。ここにもアンティークガレが飾られていたが、それは炎ではなく。淡い暖かみのあるライトが室内を仄かに照らしている。広い空間ではあるものの、大きな書斎机や、部屋のあちらこちらに置かれたテーブルには本が山ほど積まれているので、どこかゴチャゴチャした空間だった。
まるで何かを研究していたかのような書類が散らばり、床の上に重なっているのを眺めながら、は室内をぐるりと見渡してみる。しかし、先ほどの人影はなく、とても静かな空間に思えた。
だが、そのとき。暖かみのある明かりに照らされた室内が、一瞬で寒々しい色へ変わったかと思うと、突然、キィィィンという激しい耳鳴りが彼女を襲う。思わず耳を手で塞いだときだった。入口付近から音もなく白い影――フードを被った若い男がへ迫ってきた。それは普通に歩いては出ない速さ。そのスピードもさることながら、一体この人物はどこから現れたのか、いや、どこにいたのかと彼女は驚いた。
あっという間にの近くまで来たそのフードの男を見たとき、咄嗟に距離をとったのは正解だった。
この男に触れられたら死ぬ――。
本能的にそう感じたのは、男が手に、あの特級呪具――"黒縄"を持っていたからかもしれない。ミゲルが持っていたような焼き切れたものではなく、それは話に聞いた元々の形状を保っているように見えた。
男は不思議な風貌をしていた。全身が白く、一切の生気が感じられない。フードから覗く頬はこけ、鋭い切れ長の目の周りは窪み、そして皮膚はケロイド状に爛れていた。
かすかに煤けた匂いがする。この男は――ナニ?
何でわたしはこんなとこにいるの?
まるで夢から覚めたかのように、彼女は気づいた。夢のはずなのに、あまりにリアルすぎると。
体に感じる空気の流れ、耳を未だに傷めつけてくる耳鳴り、そして、人が焼けたような匂い。その全てがまるで現実かであるように思えてくる。
は必死にその男から逃げた。しかし書斎のドアを抜けても男は音もなく追ってくる。激しい耳鳴りに気が狂いそうになりながらも、彼女はひたすらに二階の部屋という部屋へ飛び込んで逃げた。
男はすぐ後ろへ迫っている。気を抜いたらすぐに追いつかれそうな速さで。
「…や、来ないで…!」
そこでハッキリと恐怖を感じたとき、は自分の術式で男を攻撃していた。
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「ホラ、到着ダ」
ミゲルが車を止めた途端、乙骨は愛用の刀を肩に担ぎ、満面の笑顔で「じゃあ、次は明後日ですよね!おやすみなさい!」と言いながら、すでに車から降りていた。それを半目で見送ったミゲルは「茶ノ一杯モ、出サナイノカヨ」と、某外国人タレントのようなボヤキを口にしながら、溜息交じりで去って行った。
一方、乙骨はミゲルのボヤキなど聞こえておらず、急いでアパートの最上階へと向かう。長い移動の疲れもあったが、やっと彼女に会えると思うと疲れも吹き飛んでしまうのだから不思議だ。
"黒縄"に関して言えば今日も空振りではあったのだが、まだ多数の手がかりはあるというミゲルの言葉を信じるしかない。明日はミゲルがその手がかりの信憑性を確認するのに色々と調べたいことがあると言うので、乙骨はひとまず同行しないことになり、それも疲れが吹き飛んだ理由の一つだった。
明日は一日中、さんと一緒にいられる――。
そう思うと長いことと離れていた寂しさが消し飛び、彼女に早くそのことを伝えたくなったのだ。なのでエレベーターが最上階へ到着すると、乙骨はドアがゆっくり開くのさえもどかしく思いながら、無理やりこじ開けるようにして廊下へ飛び出した。
ただ、一つ心配なのは、帰りの道中、へメッセージを送ったのに一向に返事が来なかったこと。具合が悪いのだから寝てるのかもしれない、と電話もかけられずじまいだった。もしかして悪化してたら、と思うと、やはり気が気じゃない。足早に廊下を進み、自分達の部屋へ着くとすぐに解錠して、とりあえずは静かにドアを開けた。
「さん…?」
部屋に入ってまず驚いたのが、室内が真っ暗だったことだ。やはり寝てるのか?と思いながら、まずは電気をつけてキッチンの方へ行ってみる。朝、用意したものはきちんと食べたようで、それを見て少しホっとしたものの、やはり彼女が心配ですぐに寝室へと向かった。何となく何かが動くような気配があったからだ。もしかしたら彼女が目を覚ましたのかも。乙骨はそう思いながら寝室のドアノブを下げた。
だが、扉を引いた瞬間、何かが乙骨に向かって無数に飛び掛かってきたことから「うわぁぁ」と声を上げて驚き、その場に尻もちをついてしまった。
「え、な、何?ウサギ…?」
殺気がなかったので気づかなかったが、寝室から飛び出てきたのは可愛らしいウサギたち。ぴょんこぴょんこと室内を駆けまわり、乙骨の膝の上にも数匹が団子状態で乗ってきた。それを見て可愛い、と一瞬和んだものの、これの正体に気づいた乙骨はつい吹き出してしまった。
「これ伏黒くんの式か…」
が寝るときにでも顕現したんだろう、と察して、乙骨は腕に三羽ほど抱えると開いたドアからそっと寝室を覗いてみた。するとウサギに囲まれたがベッドで丸くなっているのが見えて、ホっと息を吐く。
「やっぱり寝てたんだ…」
そうは思ったものの、何となく異変を感じたのは、横向きに体を丸くしているがうなされているように見えたからだ。もしや腹痛が悪化したのかと思い、すぐに寝室へ入ると、抱えていたウサギを放してから、そっとベッドへ上がっての顔を覗き込んだ。
「んー……こ…いで…」
不意にが何かを呟き、乙骨はどきりとした。薄闇の中に見える彼女の顔は、やはりうなされているように見える。
「さん…?大丈夫…?」
起こすのは躊躇われたものの、あまり良い夢を見てるとも思えなかった乙骨は、彼女の肩を軽く揺さぶってみた。しかしは乙骨を押し戻すように手を振り回してくる。
「ん…いや…っ…来ない…で…っ」
「さん…?さん!」
暴れるような仕草を見せながら、今もうなされてるの額にはじっとりと汗が滲んでいる。ただ具合が悪いだけとは思えず、どこか様子がおかしいのも気になった乙骨は、の体を抱きかかえると、もう一度「さんっ」と名前を呼んでみた。しかし目を覚ます気配がない。普通いくら爆睡してたとしても、体を起こした時点で、耳元で名前を呼んだ時点で目覚めるはずだ。なのには未だに何かうわ言を呟きながら、必死の様子で腕を動かしている。
そして、もう一つ違和感を覚えたのは、室内を今だに飛び跳ねているウサギたちだ。このウサギはの呪力をスイッチにして顕現できると伏黒が話していたのは乙骨も聞いていた。そしてが寝てしまえば呪力供給も消えるので、ウサギは消えるとも言っていた。それなのに、何故このウサギたちは消えてないんだ?と乙骨は疑問に思った。
は眠っているはずだ。なのに消えていないということは、は寝ながら呪力を放出していることになる。それは何故だ?と乙骨は腕の中のを見下ろした。
もし彼女に何か危険が迫っているとしたら――。
そう考えたとき、そんなバカな、と思う。実際彼女は乙骨の腕の中にいる。ここにいるのに、危険など迫っているはずはない。現実的なことを考えれば、普通はそう思うだろう。
でも何故か彼女を起こさなければ。そう思った。
「さん!起きて!さん!」
出来ればこんなことはしたくなかったが、の頬を軽く叩いて名前を呼び続ける。早く。早く――。よく分からない焦燥が乙骨の中に広がっていった。
