もっともっとを積み重ねてく-17

「な、何なの、このひと!」
フードの男からは何の生気も感じられない。なのに明確な殺意だけはハッキリと伝わってくる。彼女の術式で攻撃しても何の効果もないのだから、彼女には逃げるしか術がない。
「もぉ…何で攻撃が効かないの?夢だから?」
先ほどから毒による攻撃を加えている。そのたび男も一瞬は消えて、耳鳴りも止み、室内が元の暖かみのある部屋へと戻るのだが、それも一分くらいの間のみ。少し経つと再び耳鳴りと共に部屋が寒々しい色へ変色し、どこからともなくフードの男が現れるのだ。
そもそも、これは夢なのか?と疑問にさえ思う。しかし現実か?と問われれば、それもまた違うとは感じていた。
彼女は覚えている。乙骨とアフリカへ来たことも、自分がベッドで眠ったことも。そして夢だと思う一番の理由は自分が高専の制服を着ていたからだ。こんな格好で寝た覚えはないし、また寝る時まであった下腹部の鈍痛が感じられない。だから、これは夢なのだと改めて思う。
ならフードの男に触られたところで何も起こらないのでは、とも思うのだが、迫って来られると、やはり本能的に足が動いてしまう。
書斎の手前にあった部屋は小さな寝室といった感じの造りで、もう一つ隣にも似たような部屋があった。雰囲気からしてゲストを泊めるような部屋なのだろう。その二つの連なる部屋へ逃げ込み、息を潜めていても、男は気づけば彼女の背後に迫ってくる。そのたび、書斎、ゲストルームをぐるぐる回りながら逃げるはめになった。今いる場所とは反対側、正面から見て右側の奥にも通路はあるようだが、その先は角になっているので奥がどうなっているのか分からない。もし行き止まり、なんてことになれば、男に捕まってしまう恐れもある為、そこへは逃げることも出来なかった。たまにエントランスホールまで下りてみるのだが、事態は一向に変わらず。攻撃して一時は消えても、またすぐに男は現れるのでどこへ行っても無駄な気がした。
一体、いつになれば目が覚めるの?と思うのも、これが夢じゃないのでは、と思えてくる。そもそも夢を見ているとき、これが夢だと認識している人間は殆どいないし、そう感じること自体がおかしいとも思う。
そして異変はもう一つ。
「変なの…こんなに走ってるのに疲れない」
男が最初に現れてから、の体感では三十分はとうに過ぎている。その間延々と逃げまわっているにも関わらず、一向に疲れがなく、また息切れもしないのは彼女にとっての異常事態だ。
もともと体術などが苦手な彼女は体力にも自信がない。身軽な方ではあるが、持久力というものが足りないと、よく金次からも指摘されていた。その自分がこんなに走り回れるはずがない、という自分への悲しい信頼感が根底にあるので、そういう意味での異常事態だ。それも合わせてみると、やはりこれは現実じゃないとも思えてくる。
ただ、こうも逃げ回っていると精神的な疲れは出る。いつになったら現実に戻れるのかも分からない。ずっと、このまま目覚めなかったらどうしよう、と少し不安になってきた。
しかし再び書斎へ逃げ込み、大きな机を挟んでフードの男と向かい合ったとき、初めて男と目が合った。くぼんだ瞳にも感情はなく、まるでガラス玉のように冷たい目をしている。だが、視線が絡み合った瞬間、男は初めて、その焼けただれた顔にほんの僅か動揺の色を浮かべた。そして彼女の方へ、その骨ばった手を伸ばし――。
<…ラ…ラ…>
「…え?」
艶のない乾き切った唇が動いたと思ったとき、絞り出すような声で男が何かを呟く。一瞬、男の殺気が弱まった気がして、今のうちに、とが反対側へ逃げようとしたとき、ふと我に返ったフードの男が、物凄い速さで彼女へつかみかかろうとした刹那。気づけば寒々しい空気も消え、耳鳴りも止んでいた。え、と思って振り返ってみても、追いかけて来た男の姿も気配もない。代わりにそこにいたのは小さな可愛いウサギたちだった。何故か彼女を守るように囲んでいる。
「え…何でお前たちが夢の中にいるの…?」
言ってから改めて思った。そうだ、これは夢なんだと。
そのときだった。誰かに名前を呼ばれた気がして、思わず振り返る。それは大好きなひとの声に似ていた。
「乙骨くん…?そこにいるのっ?」
いつの間にか元いた場所。エントランスホールに立っていたは声のする正面の通路の方へ声をかけてみた。するとアンティークガレの青い炎が揺らめき、ホールに伸びた彼女の影も大きく揺れる。と思った瞬間、ぱちんと何かが弾けた気がして、はぱちりと目を開いた。
「…さん?!」
「…え、あれ…?」
目を開けると、そこには表情を強張らせた乙骨が見下ろしている、そして自分は寝室にいるのだと気づいた。そうだ、わたしは寝てたんだっけ、とどこか他人事のように考えながら、改めて目の前の彼を見上げると、乙骨は顔面蒼白といった顔でを抱きしめ「良かったあぁぁあ…」と大げさなほどの息を吐き出した。
「え…乙骨くん、いつ帰って来たの…?」
随分と早いご帰宅だ、と驚いたのだが、ふと室内が薄暗いことに気づいたは「あれ…?」と首を傾げた。自分が寝たときは、まだ昼を過ぎた辺りだったからだ。
「今さっき帰ってきて…でもさんが全然起きないから――」
「え、うそ。え、あれ?外が暗い…」
さっきまで明るかったはずなのに、今はすでに夜になっている。そんなに長く寝た気はしないのに、数時間は優に超えていたようだ。
「大丈夫?さん、何かうなされてたから心配した」
「え、ほんとに?」
「何か…怖い夢でも見てた…?」
乙骨が心配そうに顔を覗き込んで来る。その顔を見ながら、は首を傾げた。怖い思い、というか怖い夢を見た気もするのだが覚えていない。でもそれは特に不思議なことでもなく。普段も起きたときは何か夢を見ていたという記憶はあるのだが、その夢の内容までは思い出せなかったりするものだ。今の彼女もまさにそんな感じだった。
「えっと…怖い夢を見たような…」
「夢?」
「うん…よく覚えてないけど何となく…怖い思いをしたなぁって気が…」
と言いながら室内を見渡すと、何気にあちこち荒れていることに気づいた。壁に飾られているポップなアート画の額縁が曲がっていたり、棚の上に飾ってあったケニア風の木彫りの置き物などがいくつも床に散乱している。そこで寝る前に大量のウサギたちを顕現してしまったことを思い出した。
「あれ…ウサギ…あ、寝ちゃったからか」
乙骨に背中を支えられながら起き上がると、は室内をキョロキョロ見渡した。
「ああ、ウサギならさっきさんが起きたときにパっと消えちゃったよ」
「え…?あの子達を見たの?乙骨くん」
てっきり寝たら消えると思っていたので驚く。しかも起きたら消えたとは、伏黒が話してたことと真逆な気がしたのだ。その辺は乙骨もよく分からないといった顔をした。
「きっと怖い夢を見たときに寝ながら呪力を消費したのかもね。僕も最初おかしいなと思って驚いたんだけど…」
「そ、そう、なのかな…。そう言われると誰か攻撃した気もするし…。やだ、寝ぼけて術式とか出してたのかな」
その辺の記憶は曖昧で少し恥ずかしくなった。これまで寝相は心配だったものの、夢に魘されて術式まで使用したことなど一度もない、はずだ。やはり慣れない海外で実は情緒不安定になってるのかも、と思った。特に月経中、ひとによっては精神的にイライラしたり、憂鬱な気分になる場合もある。
「でもほんと何もなくて良かった…。さっきは目が覚めないから焦ったし…」
「ご、ごめんね…。思ってたより疲れてたのかな…。痛み止めも飲んでたし爆睡しちゃってたのかも…」
心配そうに頭を撫でてくれる乙骨を見上げながら謝ると、すぐにちゅっとくちびるを啄まれ、じわりと頬に熱を帯びる。さっきまでは寂しくてどうしようもなかったのに、目が覚めたら乙骨が帰ってたのは地味に嬉しい。今度からは寝ながら待ってればいいのかも、なんて思っていると、背中に腕を回され、ぎゅうっと抱きしめられた。乙骨の体温が少しずつくっついてる場所から伝わってくるのが心地いい。それだけで寂しさが消し飛んで安心できるのだから、我ながらゲンキンだと思う。
ただ同時に恥ずかしいという思いがこみ上げたのは、寝汗を掻いたからだ。地味に背中が冷たく、首元がベタベタして気持ち悪い。
「あ、あの…シャワー…浴びてもいい?微熱もあるから汗かいちゃって…」
汗臭くないだろうか、と心配になりつつ言えば、乙骨は「え、大丈夫?」とすぐに心配そうな顔を見せた。の額に手を当て「ほんとだ…ちょっと火照ってる」と青い顔している。
「え、なのにシャワーなんて入って平気?」
「病気じゃないから大丈夫だよ。軽く汗を流したいだけだから」
「あ、じゃあ…僕は夕飯準備しておくよ。お腹空いたでしょ」
「え、でも乙骨くん疲れてるのに…」
すぐにベッドから下りて行こうとする乙骨に驚いて腕を掴む。一日"黒縄"探しに出てた乙骨にそんなことはさせられない。自信はないけど、ここはわたしが、と思った。まあインスタントラーメン(!)くらいなら作れるかもしれないと思ったのだ。なのに乙骨はケロッとした顔で「え、全然疲れてないよ」と笑顔を見せた。確かに言われてみれば疲れは感じられない。今朝の方がよっぽど疲れてた気がする。
「でも寝不足なのに」
「あーうん。今日はちゃんと寝るから平気だよ。それに明日は"黒縄"探し行かなくても良くなったし、一日空いたんだ」
「えっほんと?」
思いがけない言葉を聞いて、の顏もぱっと明るくなる。どうせ明日もお留守番だと思って諦めていたのだ。
「うん。だからさんのそばにずっといられる」
乙骨は自分の腕を掴んでいるの手を逆に引き寄せて、火照った額にちゅっと口付けた。今朝も会ったというのに、長時間離れていたことで、こうして触れると、すぐに別の欲求が出て来てしまう。
しかし乙骨が彼女の口元にくちびるを寄せると「だ、だめ」という弱々しい声が耳を掠めた。その瞬間、乙骨の思考と体がぴしっと固まる。大好きなにキスを止められることは、乙骨にとって拷問に等しい。普段はキリっとした眉が一瞬でへにゃりと下を向き、何となく昔の乙骨を思い出させる顔になってしまった。
「…お、乙骨くん…?」
キスを拒んだ途端、目に見えてしょんぼりと項垂れた乙骨を前に、はぎょっとしてしまった。別に変な意味でダメと言ったわけじゃない。彼女なりの理由があるのだ。
「あ、あの、ごめんね…。その…すっごい寝汗かいたから汗くさいとやだなと思っただけで…」
何となく申し訳なく思うくらいヘコんでいる乙骨の顔を覗き込むと、彼はパッと顔を上げた。
「え、全然汗臭くないよ。むしろ甘くていい匂いがするし」
「………(そんなバカな)」
真顔で言う乙骨を見上げながら、彼女の頬が引きつる。自分では汗くさいのかも分からないが、それでも甘くていい匂いがするとも思えない。
よって、「だからキスしていい?」と乙骨が甘えるように額を合わせてきても「だめ」ともう一度拒否をした。そしてやはり乙骨の顏が衝撃の表情で固まる。しかし乙骨がまた項垂れてヘコむ前に、背伸びをして彼の頬にちゅっと口付ける。
「…さん?」
「シャ、シャワー入ってくる」
頬にキスをしただけなのに、乙骨が見る見るうちに顔を緩めていく。それを見てたら何となく恥ずかしくなり、彼がほわほわしている隙には乙骨から離れると、すぐにバスルームへ飛び込んだ。後ろ手にドアを閉めると、一拍置いて「食事の用意しておくね」という乙骨の声が追いかけてきたので「ありがとう」とだけ返しておいたものの、心臓が僅かに早くなっている自分に思わず苦笑いが浮かぶ。
「…子供じゃあるまいし、何でこんなに照れ臭いの…」
バスルームの鏡に頬が赤く染まっている自分の顏が映り、つい自嘲してしまう。夕べはもっと凄いことをされたはずのに、まるで初めてのことのように胸の奥がほんのり熱くなっているのが分かった。好きが大きくなると、こんなに苦しいものなんだと少しだけ怖くなる。乙骨といると、意識を全て持っていかれてしまうから。
それはきっと彼女にとって、本当の意味での初恋だったのかもしれない。
良く恋をすると熱病みたいな感覚になると聞くが、まさか本当に恋熱に浮かされるとは思わなかった。
――乙骨くんが好き。
そう心に思うだけで、また鼓動がとくんと大きくなったとき、はこれまで感じたことのない幸せと、同時に乙骨の初恋を思い、胸の痛みを知ることになった。
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「はい、あーん」
「え、ぼ、僕はいいよ。さん、食べて」
「だめ!乙骨くんにばかり食べさせてもらってるし、わたしも食べさせたい」
「え…」
脚の間に座らせているが不満げに振り向いて見上げてくるのを、乙骨は一見、困り顔で見下ろしていたのだが、内心は"スネてるさんも可愛い…"と、ひとりデレ状態だった。よって、恥ずかしさはあれど。ここは素直に食べさせてもらうことにする。
「じゃあ…ひとくちだけ…」
「えー全部食べよ?」
「食べます!(きゅん)」
可愛く上目遣いで「食べよ?」などと言われたら、乙骨の情緒は容易く揺らぎまくるので、間髪入れずに頷いた。ここに金次がいれば「乙骨ちょろすぎじゃね」と、いつもの如くからかわれたかもしれないが、乙骨自身も自分のことをちょろい――あくまで彼女に対してだけ――と思ってるので、その辺は全く気にしていない。むしろ好きな子にちょろくて何が悪いんだとすら思っている。
彼女の細い指がカラフルな菓子――マカロンを摘まんで、それを乙骨の口元へ運ぶので、今度は素直に口を開けた。
「ん、美味しい」
一口かじった途端、口内に甘ったるさが広がっていく。普段はそれほどスイーツ類に興味はわかないのだが、といるとこういう時間も案外悪くないと思う。いや悪くないどころか、楽し過ぎて終始、乙骨の頬は緩みっぱなしだ。
ふたりは夕飯をとり終えたあと、が長い時間寝てたから眠くないと言うので、それなら、と一緒に映画を観ることにした。高専の寮でも次の日に任務がないときは、時々ふたりで映画を観たりもしていたので、今もそれに倣って彼女の好きなスイーツやドリンクを用意したリビングのソファで寛いでいるところだ。
乙骨は映画もそれほど興味がなかったのだが――前は観る余裕もない生活だった為――と一緒に観る映画はどんなジャンルでも楽しい。なので寮の部屋に用意した特大テレビには、彼女のお気に入りだというHuluやネトフリ、アマプラ、FODなどなど、沢山の動画配信サービスアプリを入れてしまったくらいだ。そんなもの一つで良いだろうと同級の皆には突っ込まれたが、アプリによって観られる作品が異なっているので一つじゃ足りないというのが主な理由だった。
特級に返り咲き、今では身に余るほどの給料をもらっている乙骨だが、特に使い道がないので全てを愛しい彼女に割り振っている、と言っても過言ではない。
それを知ったパンダにも「憂太、お前意外と女に貢ぐタイプだったんだな」と笑われたし、棘には「しゃけしゃけ」とニヤニヤされたし、あげく真希には「私にも観せろよ。ちょうど観たい映画あったんだ」と勝手に部屋で映画鑑賞されたりしている。
酷いときは、乙骨が出張から帰ったら部屋に勝手に上がりこんだ三人が、これまた勝手に映画鑑賞大会なるものをしていたこともある。
――あ、憂太さん、お勤めご苦労様っす!先にやらしてもらってるんで!
――憂太さん、お疲れ!やっぱ特級の部屋は広くていいよなあ。
――しゃけ!明太子!
部屋に入った瞬間、顏を引きつらせた乙骨に対し、いつかのようにヤクザみたいなノリで乙骨を「憂太さん」などと呼び、口だけ労う仲間が出迎えたのは一度や二度じゃなかったが、まあ自分の部屋が皆の憩いの場になるならいいか、とも思っている。それも全てが「乙骨くんの部屋で映画観たいな」と可愛くおねだりしてくれたおかげだ、と全く見当違いな喜び方をしているのだが、本人が幸せそうなのでそこは仲間たちも暖かい目(?)で見守っている。
ミゲルが用意してくれたこのアパートにも特大サイズのテレビがあり、すでにその手のアプリは入っているので、観る映画には困らなかった。
「はい、もう一口」
半分は食べ終わったところに、再び彼女がマカロンを乙骨の口元へ運ぶ。これは帰りの道中、街中で洋菓子店を見つけた乙骨が「さん好きそう」と言って、お土産に買って来たものだ。彼女が甘い物全般を好きなことは、金次からリサーチ済みであり、予想通り、食後にマカロンを見せたらは大喜びだった。
なので乙骨としては全部彼女に食べて欲しいのだが、は乙骨にも食べて欲しいらしい。その気持ちも嬉しいので、再び乙骨は彼女の差し出すマカロンを口へ入れる。その際、彼女の指も軽く食んでしまったせいで、一瞬が恥ずかしそうに頬を染めた。まさに乙骨からすれば不意打ち。そんな顔を見てしまえば、乙骨の理性も「りせ」くらいまで容易く崩れる。なので欲に従い、彼女の細い指ごとちゅっと舐めてしまった。
「ん、さんの指の方が甘いかも」
その一言での頬の熱が顔全体に広がったらしい。今では耳まで赤くして「何それ…」と照れ臭そうに目を伏せてしまった。ここで最後の「い」まで崩壊したらしい。後ろからぎゅっと彼女を抱きしめた乙骨は、そのまま熱で火照っている彼女の頬へちゅうっと長めに口付けた。同時に彼女のお腹へ回した手を下腹付近に当てて、すり、と軽く撫でると、の肩がぴくんと小さく反応した。
「…さん、お腹は?痛くない?」
「…うん…食後に薬飲んだし、昼間ほどは…少し鈍痛があるけど」
「擦ったらそれ和らぐんだっけ」
「う、うん…乙骨くんの手、暖かいから」
そんな言葉を交わす間も、乙骨の手のひらがの下腹をすりすりと優しく擦ってくれている。言った通り、体温を感じるせいか、お腹の鈍痛も和らぐ気がした。夕べも寝る前は乙骨がそうやってお腹を温めてくれたので、自分だけ先に寝落ちしてしまったくらい気持ちがいい。その後、乙骨は心配と同時に、彼女の寝顔を見ていたら先の行為が蘇り、どうにも悶々として眠れず、ミゲルに「ヨレヨレ」と突っ込まれるほど寝不足になったのだが、その事実を彼女は知らない。
「…も、もう大丈夫だよ?乙骨くんも映画観て」
「観てるよ。僕がこうしてたいだけ。だめ?」
「だ、だめじゃない、けど…」
乙骨の手がお腹を擦ってくれるのは本当に気持ちがいい。ただ、どうしたって照れはある。特に女の子としては下腹を好きなひとに擦られるのは少し恥ずかしい。別の方へ意識が持って行かれそうになるのだ。夕べ触れられた感触まで思い出しそうで、は少し落ち着かない気分になってきた。
そんな気持ちもあってか、ちらっと後ろを仰ぎ見れば、乙骨もまた視線を下げたことで、互いの視線がピタリと合う。
「…さん、目が潤んでる。頬も赤いし…また熱上がってきた?」
「だ、大丈夫…」
乙骨にひょいっと顔を覗き込まれ、慌てて首を振った。自分だけ意識してると思われたら恥ずかしすぎるからだ。そもそも乙骨は痛みをとってくれようとしてるだけで、何も厭らしい気持ちで彼女に触れているわけじゃない。なのに意識は勝手に乙骨の手の動きに集中していく。
すると不意に耳殻へちゅっと口づけられ、「ひゃ」と声が漏れたと同時に、今度こその肩が大きく跳ねてしまった。
「さんの耳、真っ赤」
「…わ、」
耳元で乙骨がかすかに笑ったかと思えば、更に体をぎゅうっと抱き込まれ、背中が乙骨に密着する。硬い胸板だとか、抱きしめてくる腕に浮き上がった筋や筋肉が、乙骨の男の部分を嫌でも感じさせてくる。ただでさえ足の間に座っているのが恥ずかしいのに、それらの視界から入る情報や、より密着して互いの体温を感じることで、の熱が一気に上昇していく。別にお腹を擦られてるだけなのに、そこから更に深い場所がじくじくと疼きだしたことで、はどうにも恥ずかしくなってしまった。
「…、さん」
そのとき、乙骨がの耳元で名前を呼んだ。その声はどこか掠れていて、切なげな音に聞こえる。どきりとして顔を向けると、唐突にくちびるを塞がれてしまった。
「ん、…ふ、」
ちゅっと啄んだあと、すぐにまたくちびるが重なり、舌の先が彼女のそこを舐めていく。いつもの触れるだけのキスより、少しだけ濃厚に交わり、思わず乙骨の服をぎゅっと握る。どこか余裕のない動作でくちびるを合わせていた乙骨は、僅かに離すと「さん、くち、あけて」と強請ってきた。熱い吐息が彼女のくちびるを刺激してくる。その瞬間、の体のどこかがぎゅうっと熱くなるのが分かった。鈍痛のある腹部が違うものでじくじくと疼くように熱を持つ。
おずおずと口を開ければ、すぐに熱く柔らかい舌が滑り込んできたことで首筋がぞくりと粟立った。くちゅ、だとか、ちゅぷと音を立てながら舌と舌が絡み合う。乙骨が空いてる方の手で彼女の柔らかい髪を梳くように頭を抱き寄せると、くちびる同士がより深く縫うように交わった。
「…お…乙骨く…」
「…ん?」
「え、映画…」
苦しくなってくちびるを離した合間に、どうにか言葉を絞り出す。でもすぐにちゅっと啄まれてしまった。映画が放置されたまま、今は派手なカーチェイスを繰り広げてる音だけ耳が拾っている。
「ごめん…さんとくっついてると触れたくなる」
耳元でそう訴える乙骨に、髪の合間から覗く耳殻をぺろりと舐められ、小さく声が跳ねてしまった。たったそれだけで夕べの熱が再燃するかのように全身に広がっていく。そのとき、下腹を撫でていた手がゆっくりと動き、肋骨を通って遠慮がちに胸の膨らみへと上がってきた。
「…ぁ…っ」
熱に続いてぞくぞくっとした痺れが全身に広がる。恥ずかしいのに後ろから抱きかかえられてるせいで、身を捩ることも出来ない。しかし、その手は胸の下辺りで止まり、代わりに髪を片寄せられ、剥き出しになった首筋にちゅうっと吸い付かれた。ぞわぞわとした甘い痺れが走り、びくんと肩が跳ねてしまう。些細なスキンシップのはずなのに、乙骨に触れられるともまた理性が溶かされて行く気がした。こうしてると何も考えられなくなるのが少し怖い気もする。自制が効かないのだ。そう言った気持ちが邪魔をして、つい抗議するよう「くすぐったい」と首を窄めると、乙骨が耳元で「ごめん」と呟いた。その声は少しだけ切なげな音が交じっている。
「ハァ…ダメだ。さんとくっついてると全身にキスしたくなる衝動が…」
「…ぇっ」
乙骨の言葉に過剰なほど心臓が反応して反射的に振り向くと、すぐにくちびるをちゅっと啄まれた。視線を上げると乙骨の大きな黒目と目が合う。いつもの優しい眼差しでいて、かすかにじっとりした熱を感じる。その瞳を見ても何故か頬が熱くなった。彼の虹彩が欲の孕むものだと本能的に感じたせいだ。その目を見てるだけで、下腹の奥が疼いてくるようだった。それが恥ずかしくて目を伏せると、乙骨は両腕での身体をぎゅうっと抱きしめてきた。
「そんな可愛い顔しないで。押し倒したくなるから」
の髪に顔を埋めて乙骨が苦笑しているのが分かる。その吐息でさえ、ぞくりとしてしまうのだから自分も重症だと思った。乙骨がそうしたいと思うなら、自分も同罪かもしれない。こうしてくっついていると、もっと触れたいと思うし、触れて欲しいと思う。それはふたりの想いが同じということでもある。
ただ、自分が今どんな顔をしてるのか心配になった。
「…えっど、どどんな顔…してる…?わたし…」
ものすごく物欲しそうな顔をしてたらどうしよう。そんな思いがちらりと頭を掠めた。しかし乙骨は「んー」と唸りながら、の髪に口付けると「めちゃくちゃ恥ずかしいって顔…」と笑った。
「それが可愛すぎて僕の理性が危うい…」
「…そ、そういうこと言うから…恥ずかしくなるんですけど…」
「ごめん…でもさんが好きだから言いたくなるんだよ」
乙骨はちょっと笑うと、テレビのリモコンをとった。どうやら映画を見直すらしい。
「今夜は観れるだけ映画観て、眠くなったらいっぱい寝て、明日はまたふたりでのんびりしよう」
「…うん」
それはささやかで、平凡で、でも凄く幸せな時間だと思う。乙骨を見上げると、今度こそ優しい眼差しが降ってきて、触れるだけのキスをされた。
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三つ目の映画を観ていたら、いつのまにかは眠ってしまったらしい。乙骨の腕の中でくったりとして小さな寝息を立てている。その音に気が付いた乙骨はそっと彼女を支えながら、リモコンでテレビを消した。
時計を見ればちょうど深夜の一時過ぎ。乙骨はを起こさないよう丁寧に抱き上げると、彼女をそのまま寝室へと運んでベッドへ寝かせた。体が冷えないよう夏掛けを肩までかけると、何かを思案するように乙骨は静かにベッド脇に腰をかける。そして仔猫を撫でるような優しい手つきで、の髪をそっと撫でた。
「さん…子供みたい」
気持ち良さそうにスヤスヤと眠る彼女の寝顔を覗き込み、ふっと笑みを浮かべて独り言ちる。こういう場合、乙骨の頭の中は「寝顔も可愛いなあ」しかないので、自分でも少々ヤバいという自覚はあれど。可愛いものは可愛いんだから仕方ない、という開き直り的な思いもあった。例え同級のふたりと一匹からバカにされようと、ミゲルから白い目で見られようと、乙骨は少しも気にならないくらいにを大事に思っているし、また大好きだった。
その大好きなに起きた異変は――やはり見過ごせない。
乙骨は髪を撫でていた手を止めると、彼女の滑らかな頬へそっと口付けた。そしてポケットから自身のスマホを出すと、ある人物のトーク画面を開く。
今、日本は朝方になる時間帯。電話するのは憚られる。
「…メッセージにしとくかな」
まあ、彼なら電話しても大丈夫そうだけど。
そっと寝室を出ると、乙骨はその人物へ、の身に起きた不可解な現象を相談するべく、メッセージを打ちこんでいった。
