幸福な夜光の残滓-18



昼前に目を覚ましたふたりは、昨日よりもゆったりめに起きだして別々にシャワーを浴びた。頭も体もスッキリしたあとは、いつもの如く乙骨の作った朝食をふたりで食べ、今は――ソファの上でキスを交わしている。最初はが夕べの映画の続きを観たいというので、一緒に鑑賞していた。当然、夕べのように乙骨が彼女を前へ座らせ、後ろから抱きかかえるように座っていたのだが、やはり乙骨の場合、大好きなと密着すると、また別の欲求が出て来てしまう。
が振り向いて映画の場面のことで話しかけてきた隙をつき、ついくちびるを塞いでしまったのは、乙骨にとっても不可抗力だった。それは自分を見上げてくる彼女が可愛すぎたから。それに尽きる。
最初はやんわりと触れるだけのキスをしていたはずが、今はもっと奥まで触れたいというように彼女の柔らかい舌を絡めとり、優しく吸い上げる。その瞬間、彼女の体がかすかに震えるのが、お腹に回していた手からも伝わってきた。彼女のふっくらしたくちびるごと、ちゅうっと吸うのが、乙骨はたまらなく好きだった。
というよりも、乙骨はとキスをするのが好きであり、出来れば延々とくちびるを合わせていたいという思いがある。大好きな子とのキスはそれくらい心を満たしてくれる気持ちのいいものだからだ。そう、決してエロい気持ちなどではなく、深い――重い?――愛情からくる欲求だ。でもそれには一つ問題があった。

縫うようなキスを交わしていると、最近は当たり前のように腰の辺りがずくんと疼いてくる。今もその生理現象が来てしまいそうで、頭の片隅でマズい…と乙骨は思った。
以前ならキスをするだけで満足していたはずが、に触れるようになってからは別の欲求を体が訴えてくるせいだ。
このままの服を一枚一枚、脱がせて、その白肌にも触れてみたい。思春期の男なら誰でも持っている欲求だ。
いや、本当なら一昨日の夜、もっと深いところまで彼女の全てを暴けるはずだった。しかし突発的に起きた出来事のせいで、今、乙骨はお預け状態になっている。それが原因なのか、それとも乙骨が欲張りになっただけなのか、自分でも分からなかった。だが、このままでは確実に押し倒してしまうという確信はあった。
なので――。

「…さん…お腹、まだ痛い?」

こつんと額同士を合わせながら訪ねると、はかすかに頬を上気させたまま、ゆっくりと目を開けた。かすかに潤んでいるのは余計、乙骨の下半身に良くない。

「え…あ、今朝はそんなに」
「じゃあ…近所に買い物に行かない?天気もいいし」
「えっ!行きたい!」

が満面の笑みで応えるのを見て内心ホっとした乙骨は、間違いを犯す前に外へ避難・・することにした。


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乙骨がケニアに来る際、注意されたのは治安の悪さ。"世界三大凶悪都市"。こんな表現があること自体、乙骨も知らなかったのだが、そこに名を連ねているのが全てアフリカの都市だということだった。五条曰く、日本の外務省からも「不要不急の渡航は止めてください」というお達しまで出ているようで、内陸に位置する首都ナイロビの危険レベルは"2"。しかし街の中にあるという治安の悪い地域は、更に危険度が上がるという。

「まあ憂太は心配ないと思うけど、はああいう性格だから、あちこち行きたがるかもしれないし、もし空いた時間に出かけるなら十分に気をつけてやって」

いくら術師と言えど、急に撃たれたりしたら大怪我でもしかねないから!と呑気に笑いながら言われた日には、乙骨も一瞬で青ざめてしまった。なので、そこはやはり、というべきか、過剰なほど過保護になってしまう。
アパートを出て、仲良く手を繋いでナイロビの街中を歩きながら、すれ違う人すべて――悪人に見える――に乙骨は殺気交じりの視線を向けて威嚇していた。何なら一般人だろうが彼女を襲う人間には、いつでも"リカちゃん"を出す用意はある。(!)
ただでさえ日本人は童顔で子供に見られることも多いので、いきなり誘拐される、なんてことも珍しくない。しかもその目的は金じゃなく、殆どが臓器売買や人身売買。

――特に見栄えのいい女性は、他の国の金持ちジジイに売られて性奴隷のような扱いを受けるらしいよ。

なーんて散々五条にビビらされたので、素直に何でも鵜呑みにしてしまう乙骨は、可愛い可愛いが誘拐されないかと気が気じゃない。つい気づけば繋いでいる手をぎゅうと強く握りしめていた。

「い、痛いよ、乙骨くん…」
「えっあ、ご、ごめんね」

不安な気持ちを握る強さで表してしまっていたらしい。可愛い苦情を言われて、乙骨はパっと手を放してしまった。あははは、と笑って誤魔化す乙骨を、は不思議そうな顔で見上げていたが、その彼女の黒目が何かを見つけたようにパっと華やいだ。

「あ、乙骨くん、あそこ!可愛いショップが並んでる!行ってみよ?」
「え?…あ!!」

言うや否や、乙骨が彼女の指す方向へ視線を向けた僅かの隙に、がその店に向かって走り出す。それを見た乙骨は手を放してしまったことを思い出し、「さん、一人で行ったらダメだよ!」と慌てて追いかけていく。その光景ははたから見れば、小さな我が子が無邪気に走って行くのを必死で追いかけるお父さんのようだ。

「乙骨くん、見て。カラフルな雑貨屋さんが並んでる。入ってみようよ」
「それはいいけど…でも今後はひとりで先に言っちゃダメだよ。この辺は"比較的"安全ってだけで、危ないことに変わりない」
「え、う、うん…ごめん」

追いかけてきた乙骨に叱られ、もしゅんと目を伏せる。その姿にぎゅうっと胸が締め付けられた乙骨は「怒ったわけじゃないよ」とすぐに笑顔を見せた。そう、怒ったわけじゃなく。ただ、ひたすらに心配なだけだ。自分がそばにいれば、襲われたとしても守れる自信しかないが、もし目を離した隙に何かあったら、と考えるだけで肝が冷える。なら出かけようと言わなければいい話なのだが、部屋に延々とふたりきりでいれば、乙骨もまたついキスをして、という流れになってしまう自信もあるので、そこは苦肉の策としか言えない。そう、それに彼女の喜ぶ姿も見たかった。

「この先にさんの好きそうなショッピングモールもあるって。行ってみる?」

ミゲルにもらったナイロビマップを見ながら訪ねると、少し落ち込んでいた彼女の瞳が嬉々とした様子で輝く。その顔を見るだけで乙骨も自然と笑顔になった。再びしっかり手を繋ぐと、マップを確認しながら大きな通りを歩いて行く。ついでに「この通りの向こうは治安が最悪らしいから絶対に渡っちゃダメだよ」と彼女に教えておいた。
ただ街並みを見るだけなら、ナイロビは美しい街であることは間違いない。アフリカはサヴァンナのイメージが強かったも「凄い緑が多いね」と驚いている。
高い高いヤシの木の周りに、背の低いふっくらとした木々が沢山生えていて、その合間に高層ビルがいくつも見える。ここで写真を撮れば、確実に映える一枚が撮れそうだった。
しかし人の多いところでスマホを出すのは危険が増すということで、そこは我慢ね、とにも言っておく。これはこの国の人間ミゲルからの情報だ。
買い物の際も財布を出すときは十分に気をつけろと何度も念を押された。比較的安全エリアであっても、スリは多いのだという。
ほぼほぼ危ない情報ばかりの知識がついた乙骨は内心気が気じゃないのはさっきと同じだ。でもこうしてとのんびり手を繋いで歩くというのは初めてなので、どうしても頬が緩みがちになってしまう。日本では得られない解放感もあるせいだ。
普段ひとりの時は意外と歩くのは早い乙骨だったが、今はの歩幅に合わせてゆっくり歩を進める。好きなひとのペースに合わせながら見る景色は、また違うものなんだな、というのも初めて知った。

「何か、いいね。こういうの」
「ん?」

不意にが乙骨を見上げて微笑む。

「だって…こうして一緒に歩くのって初めてだし…」

どうやらも乙骨と同じことを考えていたらしい。そうだね、と返しながら、そう言えば彼女とデートらしいデートはしたことがなかったな、と思う。特級の乙骨は日本にいる間、どうしても任務優先になってしまうので、こんな風に穏やかな時間をふたりで過ごすことも出来ない。でも、それを寂しいとは言ってられない世界なんだということは、もう乙骨にも分かっている。

「うわ、広いねー」

しばらく歩くと大きなショッピングモールが見えて来て、ふたりはヤシの木に囲まれた一階のカフェスペースをゆっくり見て回った。ここはナイロビ北部にあるビレッジマーケット。かなり洗練されたセレクトショップが並び、彼女の好きなチョコレートショップなども入っている。少し歩くと濃厚なカカオの香りがしてきて、チョコに目がないがすぐにその店を見つけた。

「うわ、動物の形のチョコ可愛い!箱もカラフル」

アフリカのBIG5と呼ばれるサファリの動物がデザインされた水色の箱は確かに可愛い。ふたりで話して、帰るときは皆のお土産に買って行こうと決めた。特にと同じく甘いものに目がない五条には全種類のチョコでもあげようかと、いう話になった。任務とは言え、彼女とこんな風に過ごせる時間をもらったことに変わりはない。乙骨としてはお礼のつもりで、忘れないようスマホのメモ機能にお土産を追加しておく。

一階をぐるりと見て回ってからエスカレーターで上がると、今度はフロア全体にコーヒーの香ばしい香りがしていた。見ればいくつもカフェやカフェレストランが並んでいる。歩き疲れたのもあり、少し休もうかということで、ふたりは目についたレストランに入った。
大勢の人がランチをとっていて活気ある店内はかなり広い。植物がたくさん飾られ、編み込みの大きなライトシェードがお洒落な空間を作り出している。
寝坊して遅い朝食をとったふたりは特に空腹でもなかったが、馴染のあるフレンチトーストとアイスコーヒーのセットを注文してみた。運ばれて来たのは、想像とは違うカラフルなフレンチトーストで、は瞳を輝かせて「可愛い!」と喜んでいる。パンの上に花やライトグリーンのスポンジケーキ、そして沢山のベリーといった果物などが飾られていた。

「何か食べるのもったいないなぁ」
「え、そぉ?凄く美味しいからさんも食べてみて」

乙骨には食べ物に対して可愛い、という感情はなく。むしろ、これを見て"喜んでるさんも可愛い"しかないので、彼女の喜ぶ姿を見ながら早速フレンチトーストを食べている。しかし、そんな気持ちには気づかないは「もー乙骨くん、少しは見た目も楽しんだらいいのに、もう食べてる」と苦笑いを浮かべた。

「僕はさんを見てるだけで楽しいから大丈夫だよ」
「………」
さん…?」

思ったことを口にしただけなのだが、何故かの頬がほんのり色づいたことに気づく。しかも無言のままフレンチトーストへナイフを入れて、黙々と食べ始めた。これは彼女が照れいるときにする顔だ、と乙骨もだんだん分かってきたので、つい照れるさんも可愛い…と笑みが零れる。前は素直な気持ちを口にしただけで「変なこと言わないでよ」とツンな返しが来てただけに、照れてくれるようになっただけでも進歩したなと思う。

さん、お腹の痛みはもう平気?」
「え?あ…楽しくて忘れてたかも。ちょっと重い感じはあるけど痛みはないから平気」
「なら良かったけど。帰りはタクシーでも拾って帰ろうか。歩き疲れたでしょ」
「そう、だね。サンダルだから楽かと思ったけど、長い時間歩くのは向いてないかも」

空港で五条に仕分けられた靴も、制服用の靴と、その他に暑いアフリカ用にサンダルを持っていくのは許されたので、今日はふんわりとしたマキシワンピースに合わせて履いてきた。ただペタンとした靴は長々歩くのに不向きで、地味に足の裏が痛い。でも乙骨に言ったわけでもないのに気づいてくれたことが嬉しかったらしい。

「乙骨くんはいつも気にかけてくれてほんとに優しいよね」

そう言って微笑む彼女を見た瞬間、今度は乙骨の頬がほんのり赤くなり、軽く咳払いをしてしまう。
そのときだった。乙骨のスマホが鳴り、画面を確認してみれば、そこには"真希さん"の文字。乙骨の顏がパっと明るくなった。

「真希さんからだ」
「え、真希ちゃん?」
「出てもいい?」
「うん、もちろん」
「ありがとう」

そう言いながら通話にした瞬間『早く出ろよ、憂太!』という真希の元気な声が聞こえてきた。思わず「ご、ごめん」と謝る乙骨だったが、その顏はどこか嬉しそうだ。

『憂太ー元気にやってるかー?』
「あ、パンダくんも一緒?え、どうしたの?」

今度はパンダと代わったようで、後ろでやいやい騒ぐ真希や棘の声も聞こえてくる。どうやら様子を伺いにかけてきたようだ。日本は今、夕方で高専に帰校したところらしいい。

『実はさー俺達三人、明日からしばらく地方に行くことになって。その報告もかねて電話したんだ』
「え、三人で出張?珍しいね」
『まあ今は術師不足だから俺達も駆り出されたって感じかな。憂太は?と仲良くしてんのか』

パンダは興味津々といった様子で訊いてくる。なので、そこは素直に「うん。今日は休みになったから今はふたりでナイロビの街を観光中」と応えた。

『なーんだ。デート中かよ』

と笑うパンダの声の後ろで、『あ?憂太のくせにデートとか生意気!』と真希が叫んでいる。その声はにも聞こえて、つい吹き出した。相変わらず後輩組は騒がしい。パンダは『話はそれだけ。デート中に悪かったな。また連絡するなー』と言って、すぐに電話は切れてしまった。

「みんな元気そうだね」
「う、うん。あ、ごめんね、なんか騒がしくて」

言いながら乙骨がスマホをしまうと、は「憂太のくせに、だって。相変わらず真希ちゃん面白い」と笑っている。

「ははは…僕はさんのことになるとダメダメになるから、いっつも叱られるんだけどね」
「え…ダメダメって?」
「まあ…冷静じゃなくなると言うか…憂太、デレデレすんな!って感じで」
「何か想像できるし、何なら見たことあるかも」

そう言っては笑ったが、ふと乙骨を見て「でも…」と僅かながら口を尖らせた。

「なーんか彼女のわたしが乙骨くんなのに、真希ちゃん達は憂太って呼ぶのおかしいよね」
「…え?」
「わたしも…憂太くんって呼ぼうかなぁ…」
「え……」

ストローでアイスコーヒーをズズズっと飲みつつ、じとりとした目を向けられた乙骨は、彼女の呼ぶ「憂太くん」に思い切り反応してしまった。前も同じように一度だけ呼んでもらったことはあるが、今も同じように変な照れ臭さが襲ってくる。

「…だめ?」
「え、だ、だめ…なわけないでしょ…むしろ呼んで欲しいというか…いや、でも恥ずかしい気もするし…」
「じゃあ憂太くん」
「……っ!」
「って呼ぶ」


言いながら彼女も照れ臭そうに微笑むのを見た瞬間、乙骨の心臓がおかしな音を立て、あげく脳内に"喜んで!"という居酒屋的なフレーズが浮かんだのが、そこは空気を読んで口に出さないでおいた。
そのまま軽い食事をしたあと、ショッピングモールであれこれ必要なものを買いそろえたふたりは、言った通り帰りはタクシーでアパートまで戻ってきた。その買い物中や帰りの道中、乙骨はに名前を呼ばれるたび、情緒がおかしなことになったのだが、「慣れるまでいっぱい呼ぶね」と可愛くに言われ、心臓を酷使しすぎたらしい。部屋に着いた途端、一気に疲れが出たのか、思い切りソファに倒れ込んだ。

「大丈夫?お…じゃなくて憂太くんだった」
「……!」

そんなにすぐには慣れないのか、は言い間違えるたび、照れ笑いをする。それがまた可愛いので、乙骨の動悸はどんどん激しくなる。
ダメだ、名前で呼ばれると嬉しくて顏がニヤケる。その顔を見られるのは恥ずかしいので、どういう顔で返せばいいのか模索していると、またしても乙骨のスマホが鳴った。それは今朝がた電話でも話した五条からのメッセージだった。
夕べ、が寝入ったあと、乙骨は彼女に起きた不可解な出来事を五条にメッセージで送った。その後、朝方近くに折り返しの電話があり、少しだけ話をしたのだ。

――じゃあはどんな夢かも覚えてないんだ。で、憂太は原因が"黒縄"にあると思ってる。
――はい。他に原因になるようなことはなかったんで。ミゲルの持ってた"黒縄"は五条先生がほぼ破壊してたので特殊な呪力とやらも僕には殆ど感じられなかった。でも彼女はかすかにそれを感じて、しかも触れた途端、"黒縄"を落とすくらいの刺激があったって。
――そっか…。まあ、その感覚、僕には分かる。僕も散々触れたからね、あれに。ああ、はそこにいる?
――いえ、もう寝てますけど…
――じゃあカメラに切り替えて彼女を映してくれる?
――……え。
――六眼で視てみるから。
――いや、でも…
――何?あ、まさか裸で寝てるとか?
――ち、違います!た、ただ、その…さんの寝顔は…いくら先生でも見せたくないかなと…。
――はあ?あのね、憂太。変な嫉妬してる場合じゃないでしょ。早く見せて。

そう五条に言い負かされ、乙骨は渋々ながらの寝てる顔をカメラ電話に切り替えて映したのだ。しかし、そのときは五条の六眼でも異変は視えなかったらしい。そこで、とりあえず夜にまた電話するから、そのときは直接と話させて、と言っていたのを思い出した。
乙骨はすぐにスマホでメッセージアプリを開き、五条のメッセージを確認するのに画面をタップした。するとそこには何故か――。

「あれ、これ伏黒くん…?」
「え、どれ?」

ソファに座り直し、スマホを見てると、隣にも座り、画面を覗き込んでくる。そして軽く吹き出した。

「ほんとだ。っていうか伏黒くん、めっちゃ怪我してない?」
「うん…彼がこんな怪我するなんて珍しいよ」

五条から届いたのはメッセージではなく、何故か怪我をした伏黒の写真が数枚。どれも同じ場所でアングルを少し変えて撮影したようだ。日本はすでに夜なのか、背景が暗い。

「っていうか伏黒くん不機嫌そー」
「ははは…まあ、この様子だと五条先生、かなり楽しんで写したっぽいよね。ここどこなんだろ。何か後ろに見えるの学校っぽいけど」
「そうだね。夜の学校で任務とか?」
「でも伏黒くんって最近二級に上がったんじゃなかったっけ」

先日パンダからメッセージがきて、そんな話もチラっとあった気がした。なのに彼の担任とはいえ、あの五条が引率してるのは違和感がある。

「ね、電話してみよっか。何の任務か気になるし」
「うん、そうしようか」

の提案で乙骨は五条に直接電話をかけることにした。夕べ話した件もあるし、伏黒もいるなら兎の式について確認したいこともある。しかし乙骨がかける前に五条の方からかけてきたらしい。画面がテレビ電話にしろと催促するような表示が出ている。乙骨とは互いに顔を見合わせると「以心伝心だ」と軽く吹き出した。

「先生?」

要望通りカメラ電話にしてスピーカーにすると、予想以上に元気そうな五条の顏が映った。

『あー憂太、も元気ー?っていうか見た?恵の写真。笑うでしょ』
「い、いや笑いはしませんけど…何があったんですか?あの伏黒くんがあそこまで怪我をするなんて」
「まさか先生の攻撃に巻き込んだとかー?」

そこへも会話に入ると、五条はそんなわけないでしょ、と笑った。

『こっちはこっちで面倒なことになってさ。まあ、その話は追々。それより今は…』
「え?」
『体調の方はどう?何か変わったことは?』
「え、わたし…?べ、別に…変わったことなんてないけど…」

いきなり話が自分にまわってきたことで、彼女は怪訝そうに乙骨を見た。体調が悪かったことを五条に話したのかと思ったのだ。しかし乙骨は慌てて首を振ると「例の夢の件と、さんが"黒縄"に触れたときに起きた異変の話をしただけ」と説明した。

さんは覚えてないって言ってたけど…何か怖い夢だったって話してくれたでしょ。だから少し気になって五条先生に相談したんだ」
「え…そんな大げさだよ。ただの夢だし。ほんと覚えてないし夕べはそんなことなかったでしょ?」
「でも寝ながら呪力を流したことは今までなかったって言うから、ちょっと気になって」
「それは…わたしも気になったけど…でも特に異変はないし…」

乙骨にそう言われると多少は気になってくる。でも覚えてないのだから、自身は何とも言えない。しかし五条から『じゃあ"黒縄"に触れた指を見せて』と言われ、はカメラに向けて"黒縄"に触れた指を差し出した。それを五条がジっと見つめている。アイマスクを外し、六眼でしっかり確認しているようだ。
すると、数秒ほど視ていた五条が『あー』と何かに気づいたように呟いた。

『…かすかに残穢が視える』
「えっ」
『夕べはどっかの誰かさんがの寝顔を見せたくないとかゴネて、チラっとしか見せてくれなかったから分からなかったけど――』
「せ、先生!それは――!」
「え…寝顔って…何のこと…?」

そこで何も知らないだけが、きょとん、とした顔をしていた。


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「もうっ信じられない。女の子の寝顔を勝手に見るとか」
「ご、ごめん。僕も心配だったから、先生に調べて欲しくなって…あ、でもハッキリ映したわけじゃないから――」

五条との電話を切ったあと、がぷりぷり怒り出すのを見た乙骨は、慌てて彼女に謝罪した。しかしは「え、わたしが怒ってるのは五条先生にだよ」と逆に驚かれてしまった。

「え、そう、なの…?」
「だって…憂太くんは…わたしのこと心配してくれて五条先生に相談したんでしょ…?」
「………ま、まあ」

不意に名前で呼ばれたことで乙骨の顏が僅かに緩む。しかし今ここでニヤけてしまうのは良くない、とグっと堪えて平静を保つ。それに心配事が解決したわけじゃない。
乙骨は隣に座るの右手をとると、残穢がかすかに視えると言われた指先にそっと口付けた。

「僕にも先生みたいなよく視える眼があれば良かったのに」
「…え?」
「そしたらさんの異変にもっと早く気付けたかもしれないのに」

しかし五条曰く、今はどうにも出来ないということだった。いくら五条でも残穢を残しただけの姿なき"アンノウン"を祓うことは出来ない。そもそも彼は今、日本にいて、向こうは向こうで大変らしい。だから五条は『近々そっちに行くつもりだけど、もしその前に何かあれば憂太がを守って』と言ってきた。
言われたからには自分がやるしかない、と乙骨も覚悟を決める。

「憂太くん…?」

腕を伸ばし、そっと彼女の背中を抱き寄せてぎゅうっと抱きしめれば、が苦しい、と苦笑交じりで呟いた。それでも今度は放すことなく、彼女の首筋に顔を埋める。すると乙骨の背中にの腕が回されてきゅっとTシャツを掴まれたのが分かった。

「…大丈夫だよ。もう消えかかってるって先生も言ってたでしょ」
「でも心配だよ…さんに何かあったらって思うと」
「何もないってば。だいたい燃えカスの"黒縄"に何かできるとも思えないし…」
「でも先生は残留思念に近いって言ってた。やっぱりあの"黒縄"にはそういったものが残ってたってことだし、それって…」
「うん…。"黒縄"を編んだひとのってことだよね」

そこで体を放し、が見上げてくる。そしてふたりは同じことを考えていた。

「ミゲルは…どうやって、あの"黒縄"を手に入れたんだろう」
「僕もそこが気になってた。何でもっと早く気付かなかったんだろ」

"黒縄"を一緒に探してはいたが、そもそもミゲルはあれをどこで手に入れたんだろうと、今更ながらに気づいたのだ。一緒に探してたことで、すっかりそこを失念していた。まず探すなら、ミゲルも自分が手に入れたルートを探すはずなのだが、そんな素振りもなければ話題にもしない。

「もしかしたら正規のルートじゃないのかも」
「うん。あれってこの国でも貴重な呪具らしくて、裏の世界でも高値で売れるほどだってのは僕にも話してたんだ。だから、もしかしたら…裏のやり方で手に入れた可能性もある」
「だよね。それを知るには、まず"黒縄"のことを調べないと。ミゲルがそれを話してくれればいいけど…」
「聞き出すよ、必ず。さんに何か起こる前に」
「……憂太くん…」

真剣な顔でそう言い切った乙骨を見て、胸の奥がきゅうっと切ない音を上げ、瞳がじわりと熱くなる。本音を言えばも少しは怖い気持ちがある。未知のものであり、自分に起きた異変というのもハッキリ分からない。でも、そばに乙骨がいてくれたら、どうにかしてくれそうな気がした。

さん…今その呼び方、反則…」
「え?」
「ドキドキして――」

不意に乙骨が額を合わせてきて、ふと視線を上げれば、すぐにくちびるが重なる。ちゅ…っと甘い音を立てて、すぐに離れたものの、「キスしたくなるから」と言われ、またくちびるを塞がれてしまった。
優しく触れてくる乙骨のくちびるに、思考ごと溶かされていくのはいつものことだ。それでも今夜はやけに切なく感じて、でも幸せで、は再び乙骨のTシャツをきゅっと握り締めた。