不適切なくらいがちょうどいい-19



次の日の早朝、自然と目が覚めたは、隣で眠る乙骨を見て驚いた。どちらかと言えば、いつも寝坊するのは彼女の方だからだ。
しかし壁にかけられた時計を見て納得した。午前六時。こんな時間なら寝てても当然かもしれない。
昨日はケニアに来て初めてふたりで街を観光したこともあり、歩き疲れたは早い時間に眠くなってしまった。乙骨も寝不足続きで同じく睡魔に襲われたらしい。珍しく欠伸を連発してたので、ふたりは早めにベッドへ入ることにしたのだ。

「…きっとわたしのことで気を張ってくれてたんだよね…乙骨くんは」

隣で自分を抱きしめるようにしながら寝ている乙骨は、どこか安心したような寝顔だ。ふと苗字で呼んでしまったことに気づいたが、今は彼も寝てるからいいか、と苦笑しつつ、は乙骨の前髪にそっと触れてみた。伸びた前髪がかすかに目元を覆っている。それを掃うように流せば、少しくすぐったかったらしい。乙骨の顏が動いて僅かに距離が近くなった。どうやらの方へ少しだけ寝返りを打ったようだ。腕枕をしてくれている左腕が、彼女を抱き寄せるように動く。
その左手薬指には、今も折本里香からもらったという指輪が光っていた。
それを見るたび、の中に以前とは違う感情がこみ上げて、同時に胸の奥を焼くように熱が渦巻く痛みが走る。
それは、嫉妬の情だとも気づいていた。

今更だ、と思う。何もかも、乙骨の事情を知っていて好きになったのだから。
なのに女心とは複雑なもので、とても理屈じゃ解決しないことばかりだ。
もちろん、この指輪が乙骨にとって、とても大切なものであり、初恋の子の形見だと理解しているし、今では自身の術式となった"リカ"を呼び出す依代だというのも理解しているので、彼女は乙骨に何を言う気もなかった。むしろ今でも大切にしている乙骨の優しい心根が、ますます好きだと思う。
何とも複雑な感情ではあるものの。折本里香に対する嫉妬の情もあれば、彼女を大事に思う乙骨も好きなのだ。
ただ過去に色んな男と付き合っていたはずなのに、自分の本当の初恋は乙骨だと自覚してから、その乙骨の初恋は自分じゃないという、ほんの少しの寂しさがある。ただ、それだけのことだ。
この世にいないひとには勝てない――。
そんなフレーズが頭を過ぎり、本当にその通りだなと思う。でも、それでいいのだ。勝つ必要なんかない。折本里香とのことを経て、今の乙骨を好きになったのは自分なのだから。

「…憂太くん…大好き」

随分とあどけない寝顔を見ながら、ふと今感じた気持ちを口に出してみる。名前で呼んでみたくなったのも、きっとそれらの複雑な感情からきているのは、自分でも自覚していた。
その時だった。不意に耳元で「寝起きにそれは反則だよ…さん」という掠れた声が聞こえた。心臓が口から出るかと思ったくらいに驚く。
慌てて視線を動かせば、へにょっと眉尻を下げて微笑む乙骨と目が合った。

「お…起きてたの…?」
「…ううん。さんの声で起きた。夢かと思ったけど…違った」
「う…は、恥ずかしい…」

聞かせる為でもない独り言を、向けた本人に聞かれることほど恥ずかしいものはない。一気にの頬が熱を帯びていく。心の内を覗かれたような、そんな何とも言えない羞恥心がこみ上げてくる。バカみたいに嫉妬をして、でも、それでも乙骨を好きな気持ちは何一つ変わらなくて。そういう微妙で複雑な女心から溢れた想いが口をついて出てしまっただけ。自分でも無意識に近い。だからこそ、余計に恥ずかしいのだ。
しかし乙骨は「何で?僕は嬉しいしかないのに…」と、彼女のこめかみにちゅっと口付けた。たったそれだけなのに、口付けられた場所からは甘い感覚がじんわりと広がっていく。

さん…」

名を呼び、キスを強請るように乙骨の手がの頬をそっと撫でていく。どきりとして僅かに顔を上げれば、今度は額にちゅっとキスをして、乙骨はゆっくりと上体を起こした。いつの間にか乙骨を見上げる形になった、のもつかの間。すぐにくちびるもちゅっと啄まれる。何度か触れるだけのキスを繰り返されていくうち、次第にくちびる同士を擦り合わせるようなキスへと変わって、最後は深く口付けられた。互いのくちびるが深く交わるくらいに繋がるキスは、寝起きにしては少々刺激が強すぎる。気づけば乙骨が彼女に覆いかぶさるようにしてくちびるを塞いでくるせいか、は成す術もなく、されるがまま乙骨からのキスを受け止めるだけで精一杯だ。

「…ん、」

僅かに離れたと思った瞬間、触れてた場所をぺろりと舐められ、いつもされるみたいにちゅうっとくちびるを軽く吸われた。そこから甘い刺激が広がるので凄く気持ちがいいと気づいたのは、乙骨にキスをされるようになってからだ。ただ、それをされると例の如く、下腹の奥が変に疼いてしまう。

「ま…待っ…て」
「…ん?」

ほんの少しくちびるが離れたとき、が乙骨の背中に回していた手でぽんぽんと叩く。ドキドキと高揚感、その他諸々で呼吸困難になりそうなほど息を止めてたせいだ。

「…ごめん。苦しかった?」
「だ…だい、じょうぶだけど…ひゃ」

乙骨は聞きながらも、の頬や鼻先、額へちゅっちゅとキスを落としていく。大丈夫、とは言ったものの、寝起きからこの甘い攻撃は心臓を酷使してしまう。ついでに昨日まで鈍痛の居座ってた場所から、今はむずむずとした変な疼きまで生まれきた。それが恥ずかしくて、これ以上キスをされてたらマズいと言う気持ちになったのだ。そういう意味で、は乙骨のキスに弱いと言えるかもしれない。
おずおずと乙骨を見上げれば、まだ眠いのか大きな黒目がとろん、としているので、その表情すらどことなく扇情的に見えてしまう。

「お、乙骨…じゃなくて…ゆ、憂太くんて…」
「…え?」
「な、何でもない…」

つい、キスうまいよね、と言いそうになったのを慌てて引っ込めた。そもそも乙骨にとってのファーストキスは自分だと聞かされている。だから上手くなったのは当然、自分とのキスで、ということだ。そこまで考えるとは急に恥ずかしくなった。キスが上手くなるほど、ふたりがこれまで何度もキスを交わしてきた証拠のような気がしたせいだ。とはいえ、そこには乙骨の才能も多分に入ってると彼女は思っている。

「ん、」

再び乙骨とのくちびるが重なる。でも軽くちゅっとされたところで、「ね、寝ないの…?」と聞いてみると、乙骨は「さんともう少しキスしたい」と甘えるように彼女の耳たぶへも口付けた。くすぐったさで身を捩ると、乙骨の右手がの頬を包み、親指の腹でくちびるを優しく撫でる。その感触にぞくりとして、つい反応した恥ずかしさから「お…乙骨くんて…キスするの好きだよね」と余計なことを口走ってしまった。言ってから何言ってんの、わたし!と慌てたものの、ふと乙骨を見上げると、きょとん、とした顔で彼女を見つめている。その表情は何となく、え、今更?みたいなものだった。でもすぐにふっと柔らかい笑みを浮かべて、の額にちゅっと口付けた。

「…違うよ。僕はさんとキスするのが好きなんだ」
「…え」
「あと…名前で呼んで」

乙骨はそう言いながら、のくちびるを軽く啄む。そこで今、自分が前のように苗字で呼んでしまったことに気づいた。しかし今、乙骨に言われた言葉が、ボディブローのようにじわじわと効いてきて、頬が徐々に熱くなっていく。彼がキスを好きなんだろうなと薄々分かってきてたのだが、それが自分限定であるかのように言われると更に照れ臭い。その赤くなった頬にも催促するようにキスをされ、は視線だけ上げると「ゆ、憂太くん…」とその名を口にした。
しかし、呼んで、と強請って来た張本人はどきりとした顔で彼女を見下ろしたかと思えば「あ」と短い声を上げる。

「…え?」

…と思ったときだった。の太腿辺りに、ごりっと硬いものが触れて、今度はがどきっとしてしまった。どうやら今ので、いや、キスのときから下地が出来ていたらしい。体が反応してしまったようだ。乙骨の頬がじんわり赤くなり、唐突に「ご、ごめんっ」と跳ね起きた。

「よ、呼ばせておいてアレだけど、今のはちょっと可愛すぎて無理…だったというか…ほんと、ごめんね。あの…半分は朝的な生理現象だから、そ、その変な意味ではないからっ」

今では真っ赤になりつつ、布団で下半身を隠している乙骨を見て、は呆気にとられていた。まさか、ここまで慌てるとは思ってない。そしてそんな乙骨が可愛い、と場違いな思いがじわじわこみ上げてきた。
男が付き合ってる女と触れあって体が反応するのは当たり前のことなのに、乙骨は彼女に嫌な思いをさせたんじゃないかと焦っている。普通の男なら間違いなく手を出す場面でも、彼はそうしない。それはきっとの気持ちや体のことを優先してくれるからだ。そして彼女はそんな乙骨だからこそ、本気で好きになった。

「謝ることないよ…」

も体を起こしてベッドへ座る。すっかり目が覚めてしまった。

「え、でも…やっぱり、それは…イヤかなと…」
「何で?嬉しいよ」
「……えっ嬉しい…?」

彼女の一言でギョっとした乙骨の頬に、はゆっくり手を伸ばして触れた。びくん、と彼の肩が跳ねる。それを無視して、いつも彼がしてくれるように、火照った頬へ口付けながら、乙骨をぎゅうっと布団ごと抱きしめた。

「……さん?」
「だって…名前を呼んだだけでそうなるのって、憂太くんがわたしを好きだからでしょ…?」
「そ、それはもちろん…って言うか…名前呼ばれて、あまりくっつかれると…その…なかなか落ち着いてくれないんだけど…」

ぎゅうっと乙骨を抱きしめていると、耳元でぼそりと乙骨が呟いた。そういう彼の馬鹿正直なところも、は好きなのだ。可愛い、好き。と彼女の語彙力も損なわれていくほど頭の中がその言葉で埋め尽くされ、出来れば今すぐ抱いて欲しい、という、はしたない衝動まで芽生えてくる。でもそんなことを彼女の口からはもちろん言えない。

「そんなのいいよ、気にしないで」
「え?あ、いや…気にしないでと言われても気になるというか…体に良くないし――」

と、離れようとする乙骨に、は言葉を遮るようにちゅっと口付けた。その不意打ちに心底驚いたらしい。乙骨の大きな黒目が更に大きく見開かれ、びっくり顔のまま固まっている。その顔を見ていると妙に恥ずかしくなった。

「そ、そんな驚かなくても…」
「……え?あ、いや…ご、ごめん。えっと…」

じわじわ頬を赤くしていく乙骨は、やはり体が余計に反応してしまったらしい。いきなり彼女から離れると、転がり落ちるようにベッドを抜け出した。と思ったら「ちょ、ちょっとシャワー浴びて頭冷やしてくるねっ」と寝室を飛び出して行った。光よりも早いその動きに、も唖然とした顔で見送るしかない。
そして、ふと我に返ったとき、まるで逃げるかのように行ってしまった乙骨に、少しの寂しさを覚えた。

「…わたしからキスしちゃったのマズかったのかな…肉食系に思われたとか…あ、わたしに食われそうと思って逃げたのかな…。憂太くん、明らかに草食っぽいし…あ、そう言えば野菜好きだもんね…」

困惑気味にブツブツと言いつつ、今の何がダメで乙骨は逃げ出したんだろう、と首を捻る。前は彼女の方からキスをすると喜んでた記憶があり、それを思い出したのと、乙骨があまりに焦っている姿が可愛くて、ついキスしたくなっただけなのだ。なのであんなに慌てて逃げられるとは思わなかった。

「…やっぱり女の子からキスとかしない方がいいのかな…今度綺羅羅ちゃんに訊いてみよ」

…何だかんだ男と付き合った過去はあれど、彼女もまた恋愛素人。多少、いや、かなり観点がひとよりズレていた。

一方、寝室から飛び出した乙骨は、別に彼女から逃げ出したわけじゃなく。体の限界を超えそうだったので、自ら避難しただけだった。彼女に言ったようにシャワーブースへ飛び込み、服を脱ぎ捨てると頭から熱いシャワーを浴びる。そうこうしてる内に昂っていたものが徐々に静まり、乙骨はホっと深い息を吐いた。

「危なかった…」

あのままと密着していれば、間違いなく押し倒してキスくらいはしてしまったに違いない。そしてキスをすれば、もっとマズいことになってた気がする。
寝起きから可愛い告白を聞き、その嬉しさでキスまでしてしまったが、その後のことを失念していた。まさか自分でお願いした名前呼びで、不意打ちがくるとは思わない。
は気づいていないが、頬は赤く目も潤んでいて、しかも上目遣い。そんな表情で恥ずかしそうに「憂太くん…」などと呼ばれれば、それはもう下半身に直結してしまうのも当然だった。
もちろん、こんな欲が芽生えたのはと付き合ってからなので、余計に自分の中でどう処理をしていいのか分からない。世の男たちは、このモヤモヤをどうやって回避してるんだろう?とふと思う。
出来れば大好きなひとに自分勝手な欲求をぶつけて嫌な思いはさせたくないし、がアノ日で体調が良くない今は特にこのモヤモヤを我慢しなければならない。しかし乙骨にはその方法が分からないので、ひとり悶々としていた。
そこで、よせばいいのに、乙骨は一番相談してはいけない相手に、その疑問をぶつけることを思いつく。
静かにバスルームを出ると、リビングに放置したままのスマホをとり、すぐにその人物へ今の正直な悩みを打ち込み、送信。
すると数秒ほどで返信がきた。そう言えば日本はすでにランチ時だ。

「…先生、相変わらず返信速い…」

もしかしたら思春期に悩む教え子を心配して速攻で返事をくれたのかもしれない。何て応えてくれたんだろう?と、少しドキドキしつつ、自身の大恩人でもある前担任からのメッセージを開く。そこには、文章ではなく。一枚の画像のみ送られてきていた。しかもその画像は何やら絵が描かれた紙を写したもの。しかし少し小さく見えづらいので、乙骨は指でその画像をピンチアウトしてみた。そこには小学生レベルの男性のアレの絵が手書きで書いてあり、その絵の下には一言。

『ちんこ』
「………」

生徒の真剣な悩みをそれのみで返した現代最強は、大人になっても相変わらずのクズだった。
ちなみに、下ネタのような絵と文字を描いた紙は、このあと五条の後輩、ミスター七海宛てとして彼の手に渡ったらしい。


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視線が痛い。全身に刺さるような刺々しい視線が、とても痛い。それに足も痛い。というか、すでに感覚がない。
そう、それにさっきから空気も悪い。これは地味に拷問をうけてるんだろうか。いや、尋問だったか?いやいやいや。おそらく両方だ。
全く…日本語は難しいね、とミゲルは痺れた足を擦りながらシミジミ思った。
呪術界最大の汚点とも呼ばれる百鬼夜行では、あの現代最強と呼ばれる特級術師を見事に足止めし、その能力を高く買われた男、ケニアの術師、ミゲル。
しかし今、そのスペックの高さは全く通用しない状態だった。彼の目下の敵は、初体験ともいえる日本特有の正座。この苦痛に効果のある術式なんてあるんだろうか。いや、ない、とミゲルは思った。そんな彼の額には、これでもかというほど大粒の汗が噴き出している。

「オイ…ソロソロ足ヲ崩シテモイイカ…?」
「「ダメよ」です」
「…ハア…ヤレヤレダヨ…日本人ハ、融通ガ効カナイ!」

溜息交じりで首を振ったミゲルは、ジト目で睨んでくる若きカップルに勝てないことを悟った。

昨日、一日かけて"黒縄"の情報を集めてきたというのに、朝、乙骨を迎えに来たら、速攻でアパートへと引き込まれた。何事かと驚いたが、あれよあれよという間にリビングまで連れて行かれ、何故か最初から不機嫌丸出しの乙骨に「そこへ座って下さい」と言われてから約二十分ほど。ミゲルは遂に根を上げた。

「話ス…話スから足ヲ崩サセロ!」
「ほんと?もう誤魔化したりしない?」

が腕を組みながら怖い顔でミゲルを見下ろす。その顏は般若のように恐ろしい、とミゲルは思った。そもそも最初はソファに座っていたはずなのに、から「ちゃんと正座して」と言われ、何の気なしに、その正座とやらの座り方を乙骨に訊いて真似てみたのがいけなかった。
これは今までミゲルが経験した中で、一番キツい拷問・・だと思う。何の器具も使わず、座らせるだけで相手を甚振いたぶれる。わざわざ特注で拷問器具を買う必要もない。こんな金のかからない拷問の仕方があるのか、日本には…と変なところで感動はしたものの。この場合、悲鳴を上げてるのは自分の足。初めての正座を二十分もしていれば、正座素人のミゲルは完落ちするしかなかった。とにかく足がついてるのかどうかも分からないほどに感覚がなくなるのが正座の恐ろしいとこだ。

「マ、参ッタ!キチント話ス!全部ナ!」
「ほんとですか?」
「ホントダ!」

ミゲルが必死に訴えると、乙骨は隣で仁王立ちしているへ視線を向けた。許していいかの確認らしい。そこで初めて彼女が笑顔を浮かべた。

「……よろしい。じゃあ足を崩していいわ」
「……(コイツ…恐ロシイ女ダナ…笑顔デ人ヲ甚振ッテヤガル…!)」

ニッコリ微笑むの姿にゾっとしつつも、ミゲルは速攻で足を崩した。そもそもケニアに畳など敷く習慣などなく。硬い床に正座をしていたのだから、膝や脛も痛い。自分の体重が全脛にかかり、ごりごりと硬い床が骨に当たるのは地獄のようだった、とミゲルは安堵の息を漏らす。
しかし――本当の地獄はこのあとに襲ってきた。

「じゃあ、ミゲルもこっちに座って話を聞かせて」
「アア…」

今度こそソファに促され、ミゲルが立ち上がろうとした瞬間、感覚のなかった己の足が、突然感電したのかと思ったくらいにビリビリと痺れだし、しばしその場で悶絶。立つどころの話じゃなく。歩ける状態になるまで数分を要する羽目になった。


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「マッタク…信ジラレナイゾ、日本人!協力シテヤッテル俺ニ、アンナ仕打チスルトハナ…」
「ミゲルが隠し事するからでしょー?ね?憂太くん」
「え?あ、う、うん。そう、だよね」

現在は三人ともソファへ腰をかけ、平和的にモーニングコーヒーを飲んでいる。しかしミゲルは正座の後遺症があるのか、しきりに脛を擦り、乙骨は乙骨で隣に座るに名を呼ばれるたび、ひとりデレ状態で頭を掻いていた。その光景を見ていたミゲルは相変わらず緩い男だな、乙骨…と思ったのだが、そんなことを言えば乙骨の恋人に何をされるか分からないので、今はひたすらに頭の中を整理することにした。

「…別ニ隠シテタワケジャナイ。"黒縄"ハ、モウ俺ノ家ニハナイシ、聞カレナカッタカラ言ワナカッタダケダ」
「俺の家…?ってことは…ミゲルが持ってた"黒縄"って元々はミゲルの物だったんですか?」

乙骨が驚いた様子で身を乗り出すと、ミゲルは「ソウダ」と大きく頷いた。しかし「俺ノ先祖ガ、アル人物カラ盗ンダ物ダッタラシイケドナ」と付け加える。

「盗んだ…?ってことは…最初の持ち主はミゲルの先祖じゃないってこと…?」
「アア。モウ百年クライ前ノ話ダ…」

それはミゲルの生まれ育った地域で禁忌とされる話であり、本来なら現在でも他言することもタブー。しかし、ふたりがこの国の人間じゃなく、外国人だから話すが他言は無用、という前置きをすると、ミゲルは祖母から聞いたという話を、乙骨とに語り始めた。
それは百年近く前、ケニアの片田舎で暮らしていたウィンザー家の物語。
ウィンザー家の双子、長女ララと、長男ペレス。ふたりは非常に仲のいい姉弟で、共に幼い頃から不思議な力をその身に宿していたという。
姉のララは不思議な力を物質に込めることができ、ただの石を宝石の如く輝きのあるものへと変えたり、念を込めた物の強度を上げたり、姿かたちを自在に変化させることが出来たようだ。またそれらには悪いものを弾く力もあるとされていて、両親は幼いララに宝石創りや魔除けと称して黒い縄を編ませ、それを足掛かりに金を設けていたらしい。

「え、じゃあ…そのララって女性が編んだのがあの…」
「ソウダ。"黒縄"ダヨ」
「…百年以上前に、あれほど強力な呪具を造れるレベルの術師が存在したってことですね…」
「アア。当時ハ、誰モ彼女ノ力ガ、呪力ニヨルモノダトハ思ッテナカッタケドナ」

それも当然かもしれない。現代のケニアでも術師という存在はマイノリティ。百年も前なら尚更だろう。本人でさえ自分の力が呪力によるものだなんて知らなかったに違いない。
そして彼女の両親は娘のその不可思議な力を金儲けの道具にして、財を成したようだ。
ララは美しく、また聡明で家族思いの優しい性格であり、自分の力が両親を助けることになるなら、と惜しむことなく言われるがままに石で宝石を創り、当時ケニアで流行っていた魔除けの類として"黒縄"を編んだ。

「ソノ頃ニ創ラレタ"黒縄"ハ、悪イ物を弾キ返スト言ワレテイテ、俺ガ使用シタヨウナ武器トシテハ使ワレテナカッタ」
「そんな…じゃあ…あれはただの魔除けの類だったと…そういうことですか?」
「ソウダヨ。マア、今デモ魔除ケヤ、幸セヲ運ブト信ジラレテルセイデ、高値ガツイテルガナ」

その話を聞いた乙骨は思わずと顔を見合わせた。特級呪具の正体が元々は魔除けとして造られたものだとは思わない。

「きっと彼女は幼い頃から呪いが視えてたんじゃないかな。それから身を護る為に、呪いの呪力を乱すような不思議な念を縄に込めた、とか」
「うん…そうかもね。最初は自分用の魔除け的なものだったのかも」
「カモ知レナイナ。デモ、ソノ不思議ナ力ニ、両親ガ目ヲつけた。ララハ優シイ女ノ子ダッタカラ、言ワレルガママニ造ッテタンダロウ。デモ、弟ハ真逆ノ性格ダッタラシイガ」
「弟の方も呪力、術式があったんですよね」

乙骨が訊ねるとミゲルはそうだ、と頷いた。弟のペレスの力。それは不思議な空間を創りだす能力だとミゲルは言った。その空間の中では彼の思い浮かべたものを具現化することが出来たようだ。

「空間…ということは…領域…ですか」
「アア、多分ナ」

ペレスはとても頭のいい子供で、幼い頃から自分の不思議な力の研究に没頭し始めたらしい。しかし一方で小動物を解剖するなど異常性の片鱗も見せていた。
研究と称していたらしいが、彼の両親は息子を異常者だと感じていたようだ。姉のララを可愛がる一方、弟のペレスには冷たく当たっていた。なので両親は自宅の地下に研究室を造り、ペレスをそこへ軟禁してたとミゲルは言った。そしてそんな弟を不憫に思っていた優しいララは、彼に惜しみない愛情を与え、普段からペレスの世話をしていたらしい。
しかしそんな中、ふたりの関係に変化が起きた。

「フタリは愛シアッテタ。姉弟愛ヲ超エテナ」
「えっ双子…なのに?」

その話に乙骨もも驚いたが、ミゲルは「双子ダカラジャナイカ?」と言った。
生まれる前は元々ひとりの人間。それが男女に分かれて生まれ、互いを慈しみ、それが姉弟愛を超えて男女の愛情に変化した。特にペレスは両親から無碍にされ、愛情に飢えていたんだろう。そこへ大好きな姉だけが自分の理解者になってくれた。

「ソノ嬉シイ気持チガ愛ニ変ワッテモオカシクナイ」
「え、それでふたりは…結ばれたんですか…?」

つい、そんな質問をしてしまった。今の時代でも姉弟で愛し合うなど許されない。百年も前なら尚更のことだ。"黒縄"についての話のはずが、ついそっちの方も気になってしまった。
するとミゲルはサングラスを指で直すと、小さく首を振った。

「…ララハ死ンダラシイ」
「え…死んだ…?」
「アア。殺サレタンダ。弟ヲ守ッテ…焼キ殺サレタ。十七ト言ウ若サデナ」

ミゲルのその一言で、乙骨も、も、静かに息を呑んだ。