月は雲を纏って-23




おかしい――。

さん、こっち向いて…もっとキスしたい」

以前からそんな感じはあったけど、今日はこれまで以上に自分の体がまるで自分じゃないみたいに、おかしい。
乙骨のくちびるを受け止めながら、の脳内はおかしい、という思いで埋め尽くされていた。
乙骨からこんな風に触れられると、どうしても全身がぞくりとした快感に包まれて、もっと深いところまで触れて欲しい、なんて思ってしまう。
柔らかいくちびるを優しく食むられ、ちゅぅと軽く吸われただけでも、ずくん、と子宮に響くような快感に襲われるせいだ。
散々抱かれたはずなのに何の呪いだろうか。というか――どうなってるの、わたしの身体は!エッチすぎんか?と、自虐的なことを思う。
あれほど苦手な行為だったはずが、相手が乙骨だと真逆なことを思ってしまう。それくらい、好きな人と肌を合わせるのは心地がいい。プラス…気持ちもいい。
ただ、もう、これ以上はダメなのに、という思いが頭を掠めていくのは、今がすでに深夜を過ぎているからでもある。
明日は朝一で、乙骨はミゲルと共にウィンザー家の跡地へ向かう。その為にも少しで良いから眠って欲しかった。

「ん…ゆ、憂太、くん…」

乙骨のくちびるが離れ、首筋へ下りていくの感じながら、は意を決したようにその名を呼んだ。それ以上は触れないで、という意味も込めて。
しかし乙骨は「ん?」と返すだけで、の首や鎖骨へちゅっとキスを落としていく。そんな小さな刺激でさえ、じわり、と甘い感覚をの体へ刻んでいくのだから困ってしまう。

「だ、だめ…もう…」

再び首筋へちゅうっと吸い付かれた時、ちくりとした痛みを感じて、は軽く身を捩った。これ以上触れちゃだめ、という抗議の意味を込めて。
なのにその体を乙骨の腕に絡みとられ、元の位置へ戻されてしまった。ついでにくちびるをちゅっと啄まれる。

「心配しなくても、もう何もしない。たださんに触れたいだけ」
「…う…」

それが困るのに、と思いつつ。ポっと頬を赤くすれば、その火照った頬にもちゅっとされてしまった。何だ、このエッチ後の甘々モードは。と少々困惑する。
こんなイチャイチャタイムはも初めての経験だった。
過去の経験では、好き勝手に雑な愛撫をされ、大して濡れてもないのに自分勝手なエッチをされたあげく、終われば背中を向けて一人で寝てしまう。元カレは絵に描いたようなクズ男だったのかも、と今更ながらに気づいた。それくらい乙骨との差がありすぎるからだ。
そんな消したい過去を思い返していると、不意に乙骨の額が彼女のものと密着し、至近距離で見つめられた。

「それとも…僕が触れたらさんはどうにかなっちゃうの?」
「……そ…んなこと――」

ふっと笑みを浮かべながら、乙骨がのわき腹から腰までをすり、と撫でていく。その感触にびくんと肩が跳ねて、瞳が何故か潤んでしまった。

「い…意地悪…」

いつもとは立場が逆転してしまった気がして、ついそんな言葉をぶつけると、乙骨は軽く苦笑を零して「うそ。ごめんね」と彼女の額に優しく口付けた。

「でも先にさんが僕に意地悪言ったでしょ」
「…え?」
「僕はさんが何もかも初めてなのに、それは嘘だってさっき…」
「あ…あれは…だって…」

あまり気持ちいいと思えなかった行為を乙骨に全て覆され、つい口走ってしまったことだが、乙骨は地味に拗ねていたらしい。今は可愛くその薄いくちびるを尖らせて、ジトっとした目でを見下ろしていた。

「あ…はは…ご、ごめん…ね」

よく考えたら酷いことを言った気がして、は素直に謝った。もし逆の立場で「処女じゃないだろ」と言われたら、やっぱり自分も傷つくだろうなと思ったからだ。
そもそも乙骨のことが好きすぎて、自分が過剰に感じすぎてしまったせいでもあるので、あれは失言だったと反省する。
しかし乙骨はちょっと笑うと「いいよ」と言いながら、の体を抱き起こし、ぎゅうっと抱きしめてきた。

「それだけさんが僕に感じてくれたってことだから、それはそれで…嬉しい」
「……だ、だから、そういうこと言うの…なし」
「はは、照れるの可愛い」

僅かに体を放した乙骨が、のくちびるに自分のを重ねてくる。今夜だけで何回キスを交わしたか分からない。なのに何度しても乙骨とのキスは、の心も身体も全て満たしてくれる。
この時、は今までで一番、今が幸せだと感じていた。

「…ぁっ」

その満たされた思いに浸っていた時だった。指先にかすかな痛みが走って、ぴくっと体が跳ねてしまった。

「…さん?どうかした?」
「え?あ…何でもないの…ちょっと喉乾いちゃって」

誤魔化すように言いながら首を振ると、乙骨は「ちょっと待ってて」と彼女を放してからTシャツとズボンを身に着けると「飲み物持ってくるね」と寝室を出て行く。
その素早い行動を見て相変わらずマメだな、と苦笑しながら、はふと自分の右手に視線を落とした。
さっきの痛みが、この前"黒縄"に触れた時に感じたものと似てた気がしたのだ。

「まさか…ね。先生も残穢は薄くなってるって言ってたし…あれ以来何も変わったことなんてないし…」

怖い夢を見ただけで、それも内容は全く記憶がない。だから過去の残留思念に触れたくらいじゃ危険などあるはずもない。そう思っていた。
今、この瞬間までは――。

「…え?」

ベッドへ座り、乙骨が戻って来るのを待っていたはずだった。でもほんの数秒、少しの睡魔に襲われ目を瞑り、再び目を開けた刹那――。
は薄暗い通路のような場所に、ひとり立っていた。

「な…なに?これ…」

瞬きをした秒にも満たない間に、見たこともない場所へ移動している。その現実には頭が混乱した。
たった今まで寝室にいたはず。なのに、これはどういうこと?
余りに突然のことで頭が追いつかない。一瞬、パニックになりかけた時、は自分が制服を着ていることに気づき、小さく息を呑んだ。

「…これ…この間と同じ…?」

その瞬間、忘れていたはずの記憶が蘇る。何故忘れていたのかと驚くほど、強烈な体験だったはずなのに。

「まさか…わたし、夢を見てるの…?でも今は起きてたはずなのに…」

辺りをキョロキョロ見渡したものの、左右どちらも薄暗い通路が続いているだけで何も見えない。

「この前の屋敷とは違う場所…?」

天井から照らす蛍光灯の明かりは心許ないほど薄暗く、時折チカ、チカっと点滅している。それはやけにリアルで、とても夢とは思えない。それに湿った嫌な臭いが鼻を突く。どう考えても現実に近かった。

「ど…どうしたら…」

この前、どうやって夢から現実に戻れたんだっけ?と考えた。例のフードの男に襲われかけたことまで思い出しながら。

「あ…そうだ…兎が急に出てきて…」

あの時は後輩の伏黒から渡された呪符で兎の式を出して眠っていた。それが何故か夢の中にまで現れ、フードの男からを守ってくれたのだ。その直後、乙骨に起こされたことを思い出した。

「何がどうなってああなったのは分かんないけど…現実と夢の中…つまり今のこの空間をリンクする何かがあったってことよね…」

何となく漠然とそんなことを思いつき、その媒体となるのは自分の肉体なのかもしれないと思った。あの時は呪符を身に着けたままだったからだ。しかし今夜は――。

「…え、呪符なんて持ってないし…」

そもそも乙骨と抱き合った直後。服すら身につけていなかったことを考えると、少しの絶望が襲う。ただ今夜はそばに乙骨がいるはずだ。なら異変に気付いて、この間の時のように起こしてくれるかもしれない。

「そうだよ!憂太くんがそばにいるもん」

そこに気づいてはホっと息を吐き出した。とりあえず、この前のように起こしてくれるのを待つしかない。
この不思議現象の原因はよく分からないものの、やはり答えは"黒縄"にある気がする。

「…でも…ここは何だろ。どっちに行けば正解?」

左右どちらも真っすぐ通路が伸びており、は首を傾げつつ、まずは今の自分の立ち位置から見て右側の方へ歩いて行く。どっちにしろ自分ではどうしようもないので、乙骨が気づいてくれるまで待つしかない。その間、探索でもしようと思ったのだ。
ただ、例のフードの男がいつ現れるか分からないので、一応は警戒しておく。

「え、ドア…?」

右側の通路を進んでいくと、一分もしないうちにゴールが見えた。行き止まりになっていたものの、左側の壁にドアがある。一応、ドアノブを回してみたが、そこには鍵がかかっているようで、開くことはなかった。

「ダメか…ということは…今度はあっちの奥に行ってみよ」

元来た道を戻り、先ほど自分が立ってた辺りまで歩いて行く。ただの一本道の通路なので特に景色は変わらない。でも天井の蛍光灯がチカチカしている場所があるので、スタートはここか、と頭に入れておいた。

「あっちの奥も行き止まりなのかな…」

そうなると、この通路からどこにも行けないことになってしまう。さすがにそれは気が重かった。鼻につんっとくる湿った空気が何となく地下を思わせるせいだ。
閉所恐怖症とまではいかないが、出られないと思うと、何となくじわじわ足元から不安がこみ上げてくる。
だが先へ進んだ時、奥に開けた空間が見えてきて、はホっと息を吐いた。

「何かの部屋かな…出口は…」

突き当りにあったその空間は特に何もない部屋だった。ただ通路とは違い、電気の類はついてないので真っ暗だ。それでもその場所にドアのようなものは見当たらず、の不安は的中した形になった。

「嘘…ほんとにどこにも行き場がない?」

ぐるりと見渡しても何もない。ただ古ぼけた通路とは雰囲気が違うと感じたのは、壁のように見えた場所に無数の引手があるせいだ。鉄製に見えるそれは、何となく海外ドラマで見るような遺体安置所のようにも見える。ふと想像してはぞくりと背筋が寒くなった。

「そうだ…海外でよく見るようなやつに似てる…。この引手を引けば…」

恐る恐る手を伸ばし、手前にそれを引いてみる。すると案の定、ごろごろと音を立てて、何かを乗せる台が現れた。

「うわ…こ、これホントに遺体を収納しておくやつなんじゃ…」

目が慣れて来た頃、よく見ればやはり壁一面に引手が付いた扉のようなものがある。さすがに気持ちが悪くなったは台を元に戻すと、その部屋を出ようと急いで踵を翻した。

「…ひっ!」

振り向いたを見下ろしていたのは、長い黒髪をうねらせた大きな大きな何か・・。天井ほどの身の丈に、脇腹からは細い腕のようなものが三本ずつ伸びていている。何故こんな化け物がすぐ傍にいたことに気づかなかったのか、と自分で呆れるほど、目の前のソレからは禍々しい呪力が漏れ出していた。まるでその場に一瞬で沸いたような感覚だ。

「アアアァ…」

地の底を這うような唸り声を上げたソレは、長い髪の間から一つだけ見えるぎょろりとした目玉を動かし、目の前のを認識したように見えた。それと同時にが通路へ向かって走り出せたのは奇跡だったかもしれない。今までが立っていた場所に六本の腕が振り下ろされ、鉄製の床が大きく抉られていたからだ。あと一秒でも動くのが遅れていたら、は肉体ごと押し潰され、熟したトマトが潰れされるように跡形もなくぐちゃぐちゃにされていただろう。

「ァァアア…アァァ」

必死に通路を全速力で駆け抜けても、ソレの声はすぐ後ろで聞こえてくる。振り向けば捕まる。少しでもスピードを落としても捕まる。本能でそれを感じながら、追いかけてくるモノが何なのかさえ分からないまま、は死ぬ思いで通路を走って行く。
前回と同様、たとえ夢の中だったとしても、後ろにいる化け物に捕まれば自分が即死することを本能で理解していた。
足を止めてはいけない。このまま、ひたすら走って!
心の中で叫びながら、ただ前だけを見て足を動かす。だが、そこでを絶望が襲った。この先の通路が行き止まりになっていたことを思い出したからだ。
唯一の出口と思われるドアには、鍵がかかっていたことも。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!どうしたらいいの――?!
必死に走りながら、溢れる涙を拭うこともなく、はただ走り続けた。しかし、それは死に向かっていくのと同じこと。自分の最期を肌に感じながら、その恐怖で嗚咽が漏れる。
さっきまで幸せな時間の中にいたはずなのに。何でこんなことに――。
その時、の脳裏に乙骨の顏が過ぎった。
いつだって乙骨は、の為にその優しい手を伸ばしてくれるような人だった。

「……た、助けて…!憂太ぁ…!!」

無意識に彼の名を呼んだ、そのとき。自分の中から大きな力が抜け出て行くような感覚と共に、彼女のよく知るぬるり、とした呪力の塊を背後に感じた。同時にずぅん、と重苦しい圧がの足を鈍くさせたが、それでも振り向かずにはいられなかった。まさか、そんなはずは。

「…コロス、コロス、コロスァァ!!」

「リ…リカちゃん?!」

彼女の背後で巨大な化け物と対峙していたのは、乙骨の術式である――"リカ"だった。


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遡ること数分前。乙骨はに飲み物を用意するべく、キッチンに立っていた。今夜は少し暑いので、いつものように彼女の好きな甘さ加減でアイスコーヒーを作り、そこへ大きな氷をいくつか入れて掻き混ぜる。こうしてキンキンに冷やしたものを飲むのがの好みだと乙骨はよく分かっている。

「これくらい、かな」

自分の分を一口飲んで確認した乙骨は、が喜ぶ顔を想像しながら口元を緩ませた。同時にこうして僅かな時間、一人になると、改めてを抱けた幸せを噛みしめる。やはり関係があるのとないのとでは、安心感が全く違うからだ。自分とは違い、には元カレとの過去があるから尚更きつかった。本音を言えばその元カレの存在を消してしまいたい、とまで思いつめたこともある。でも彼女から「憂太くんが初めて」と言われるようなことが沢山あったのは予想外で、そこを考えれば死ぬほど嬉しかった。
…まあ、童貞は嘘だとあらぬ疑いをかけられたのは地味に悲しかったが。
でもこうなれば乙骨としては、高専を卒業したらすぐ結婚、という心境だった。そもそも最初の告白のとき、すでに自分の気持ちは伝えてある。

さんのウエディングドレス姿、めちゃくちゃ綺麗だろうな…早く見たいかも…」

グラスを持って寝室に戻りながら、彼女が純白のドレスを着ている姿を想像する。ちょっと気が早い感は否めないものの、自然に口元が綻ぶのは仕方がない。何せ最愛の子と結ばれたばかりなのだ。
しかし、その幸福感が寝室へ一歩、足を踏み入れたとき、一瞬で消し飛んでしまった。

「……さん…?」

月明かりしか入らない寝室。そのベッドの上に座っていたの周りに黒いモヤのようなものが蠢いているのを見た乙骨は、思わず息を呑み、そして目を疑った。それまで起きていたはずのの意識が急になくなった気がしたからだ。その体は静かにベッドへ倒れ込み、彼女にまとわりついていた黒いモヤが次第に濃くなっていく。同時に黒いモヤは徐々に人のような形に変わっていくのを、乙骨は信じられない思いで見ていた。
ガチャン、と手にしていたグラスが落ち、派手な音を立てる。その音に反応したのはの体を包む黒い人影だった。
乙骨の存在に気づき、にたぁ、と笑ったように見えた黒い人影が、の体に吸い込まれるように消えていく。それを見た瞬間、全身が総毛立ち、ぶるり、と身を震わせた乙骨は、考えるより早く、その名前を叫んでいた。

「――来い!"リカ"!!」

ずぉぉっと乙骨の背後から以前の"里香"を模した"リカ"が姿を現す。そしての体内へ消えようとしている呪力を、"リカ"が捕捉。
だが、ほんの僅かな差で黒い影は消え、乙骨の放った"リカ"の手が届くことはなかった。ただ乙骨には今の状況を考えている暇はない。だから仮説を立ててみた。
前回、がこの状態に陥ったとき、伏黒が彼女へ渡した呪符が何らかの助けになったのかもしれないと仮定して、それと同じことを自分も出来るんじゃないかと考える。

「…リカちゃん。半分だけ力を貸して」
「い、いいぃよぉぉ…憂太ぁ…」

乙骨はベッド脇に置いてあった呪符を手にすると、そこへ自身の術式である"リカ"の力を半分込める。一つ気がかりなのは、この呪符には伏黒の術式が込められていることだ。そこへ自身の術式を込めると伏黒の術式を上書きしてしまうのか、それとも共有できるのかが分からなかった。それでも何もしないよりはマシだ。
呪符に術式である"リカ"の力を半分こめると、乙骨はそれを意識のないの手に握らせた。彼女が兎の式をどう呼び出したのかまでは本人の記憶がなかったので分からないままだが、万が一危険が迫ったとき、"リカ"が彼女の助けになるよう祈るしかない。

さん…!」

今できる対処を済ませたあと、乙骨は前のようにの頬を軽く叩きながら名を呼んでみた。だがやはり何の反応もなく。意識は完全にさっきのヤツに持っていかれたと本能的に感じた。

「クソ…!何なんだ、あれは…!」

どこからともなく現れ、の意識だけを連れ去ったモノ。それはやはり、一人しか思い当たらなかった。

「……ペレスか」

ゆらり、と乙骨の呪力が揺らぎ、自分でも抑えきれないほどの怒りの塊が、腹の底からこみ上げてくる。大切な存在を目の前で奪われた怒りが、乙骨から理性を奪っていく。
何故にマーキングし、彼女の意識を連れ去ったのかは分からないし、ペレスがこの長い時を生き延びているとも思わないが、一つだけハッキリしているのは――。

「…ぶっ殺す」

という、ペレスへの殺意だけだった。

「……ミゲル?今からウィンザー家に行きたい」

溢れ出そうな殺意を押し殺し、乙骨はすぐにミゲルへ連絡を取った。出来ればのそばにいたい。でもここにいても彼女を救うことは出来ないだろう。何故かそう思った。

「うん…事情が変わった。出来ればすぐにでも発ちたい」

驚くミゲルにそう伝えて電話を切ると、乙骨は意識のないの頬にそっと触れてみた。未だほんのりと熱を残した肌は、彼女がまだ無事だと伝えているような気がして、乙骨はぎゅっとくちびるを噛みしめる。

「…待ってて、さん。必ずそこから出してあげるから」

薄っすら開くのくちびるに、触れるだけのキスを落とすと、乙骨は愛刀を手にして静かに寝室をあとにした。