追跡者-24

『…どういうことだ?呪力が濃くなってる』
五条は画面越しにの状態を確認すると、怪訝そうに呟いた。前に確認した時は確実に薄まっていたはずだと言いたげだ。
ミゲルが到着するのを待つ間、乙骨は五条へ連絡を取り、今の状態を報告。五条もすぐに理解したのか、意識のないをもう一度見せてと言ってきた。
情事のあとの姿を見せるのは嫌だったが、そんなことを言ってる場合でもなく、乙骨はにルームウエアだけを着せてから、五条に確認をしてもらったところだ。
『どういう理屈か分からないけど…強い呪力がを包んでるように見える』
「はい…僕もそれは感じます。多分…」
『ペレスか…憂太はハッキリ見た?』
「黒い影がさんの体に吸い込まれてくのは…でも直感的にペレスだと感じました」
乙骨の説明に五条も頷くと、僕もそう思うと言った。視える呪力は相当強力らしい。
『ただ…百年も前に行方不明になってる男が今も生きてるとは思えないし、姿もないんじゃどうしようもない。ただ、憂太のとった行動は意外といい方法かもね』
伏黒のくれた呪符に自身の術式であるリカの半分を封じ、の手に握らせていることだろう。どういう原理かも分からないが、前回が意識のないまま呪力を放出していたことを考えると、も何らかの状況に陥っていて、意識の中で戦った可能性がある。今はそこに賭けてみるしかない。
『の見てるものが夢かは分からないが、そこでダメージを負えば肉体にも影響が出るかもしれない。憂太はそう思ってるんだよね』
「はい…だから今の僕に出来ることは、ウィンザー家跡地へ行って何かしら手がかり…というか、さんを拘束してるペレスの力を封じる方法を探すことです。"黒縄"の件はそのあとでもいいですよね」
『もちろん。どうせ何かを発見できるなら、おのずと"黒縄"の件も片付くかもしれない』
「はい――」
と言ったところで、外からクラクションの鳴る音。ミゲルが到着したようだ。乙骨は再び画面に映る五条を見ると「じゃあ行ってきます。先生」と声をかけた。
『…ああ。くれぐれも油断しないように。相手は特級クラスの呪術師だ。本人にその意識があるかは分からないけどね』
そこで通話が切れて、乙骨はスマホをポケットに突っ込むと、最後にの顔を覗きこんだ。今のところ顔色、呼吸ともに正常で、少しホっとする。
「…待っててね、さん」
意識のない彼女のくちびるにキスを一つ落とし、今度こそ乙骨は寝室を後にした。
「乙骨!ハ大丈夫カ!」
外へ出て行くと大きなジープが止まっていて、ミゲルが血相を変えて車から降りてくる。先ほど簡単に事情を話してあった。
「意識は今もありません。でもペレスが関係してるというのは間違いない」
「…信ジラレナイナ。百年前ノ奴ガ、現在モ影響ヲ与エテクルナンテ…」
「僕もそう思うけど…それを調べにウィンザー家に行きたいんです」
「マァ…元々行クツモリダッタシナ。今ハソレシカ方法ハナイカ…」
ミゲルは納得したと言うように頷くと、「アア、ソレデ助ッ人ヲ連レテキタ」と言いながら、止めてあるジープの方を指した。乙骨が視線を向けると、助手席からやたらとガタイのいい人物が降りてくる。
その人物は乙骨を見た瞬間、ちゅぱぁっと投げキッスを送ってきた。
「憂太ちゃん!お久しぶり~!」
「あなたは…確かミゲルの仲間の…」
大きな体格に上半身裸、そして何故か乳首にはハート形のニップレス。その一際、奇抜で個性的なスタイルの外国人は乙骨にも見覚えがある。
去年、夏油傑と共に高専へ乗り込んできた際、一緒に来ていた人物だ。恰好が恰好だけに、しっかり乙骨の記憶にも残っていた。
「あの時は挨拶も出来ずにごめんなさいね。私はラルゥ。お察しの通り、ミゲルちゃんの仲間よ」
「え…どうしてここへ?助っ人って…」
「俺ガ呼ンダ。ドウ考エテモ、今回ノ件ハ、俺ト乙骨ダケジャ危険ダカラナ」
「まあ、さくっとミゲルちゃんからは事情も聞いてるわ。ちょうど暇だったし、なかなか面白そうだから付き合ってあ・げ・る」
「は、はあ…」
ラルゥにウインクをされた乙骨の頬が僅かに引きつり、これまであった緊張感が一気に解けてしまいそうになる。だがミゲルの言うように今回は全てが未知の案件なのは違いなく。強い術師は一人でも多い方がいいと思った。
乙骨がまだ色々と未完成だった去年、ちらっと顔を合わせた時は気づかなかったが、今ならラルゥの強さがハッキリと分かる。
外見はふざけたいで立ちでも、実力はかなりのものだろうということは肌で感じ取れた。
「…ありがとう御座います。助かります。ラルゥさん」
「やだ、水臭いじゃない。傑ちゃんが旅立った今、もう私達は何をする気もないから敵じゃないんだし。ラルゥって呼んで」
「………は、ははは」
今度はウインクと投げキッスの合わせ技を喰らい、乙骨の顏がますます引きつっていく。しかし、こんな状況だからこそ、ラルゥの陽気さは乙骨の救いにもなった。さっきまで燻っていた焦燥感が少しずつ薄れ、乙骨に冷静さを取り戻してくれる。
「ジャア、挨拶モ済ンダトコロデ出発スルトシヨウカ」
「はい」
再び車に乗り込むミゲルとラルゥに続き、乙骨もジープの足場に足をかけたが、ふとアパートの方を振り返る。
今、この瞬間にもが危険な目に合っていると思うと、やはり気が気じゃなかった。
「さん…絶対に助け出すから待ってて」
間に合うことを祈りながら、乙骨は車の後部座席へと乗り込んだ。
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ガッキィィン、と耳障りな音が響き、目の前に突如として現れた乙骨の術式――"リカ"が、後ろに迫っていた化け物の長い腕を弾くのを、は信じられない思いで見上げていた。何がどうなってるのかも分からないが、リカが自分を守ってくれたことだけは理解できる。
「まさか…憂太くん…?」
今はそれ以外に考えられない。意識のない自分を見て、乙骨が今できうる最善の方法をとってくれたのだと。
リカより一回りは小さい化け物は攻撃の手を止めることなく、その四本の腕をリカへ振り下ろす。しかしリカもまたその攻撃を弾き返し、蜘蛛のような形の女を大きな拳で殴り飛ばした。すでにの予想を超えた存在同士の攻防で通路の壁がガリガリガリ…ッという大きな音と共に破壊されていく。そこで剥き出しになった大きな配管を見た時、やはりここは地下なのだと気づいた。
どうしよう、どうすれば――。
再びそんな思いが溢れたのは、蜘蛛のような女の化け物が一向に怯まないことだ。リカが本物であるならば特級クラスの式神。
そのリカの攻撃を受けても、女の化け物はダメージを負ってるようには見えない。
「どういうこと…?あの攻撃受けても無傷なんて――」
その時だった。背後でバンっという扉の開く音がして、ハッと振り返る。すると先ほど鍵のかかっていたドアから、見るからに死人のような風貌の化け物が現れた。
「ひ…ゾ、ゾンビ…?」
白衣らしきものを羽織ったソレの顔は爛れ、眼球はなく黒い孔が空を見つめながらフラフラとの方へ歩いてくる。リカは未だ蜘蛛女と戦闘中で、このままでは挟み撃ちにされてしまう。
しかしはふと気づいた。ドアから現れた化け物は見た形、人間と同等。これくらいの奴なら自分の術式でも倒せるのでは、と。
「しばらく任務なんて出てなかったから、ちょっと忘れそうになったけど、わたしも呪術師だったわ…」
「…グッォォ…」
後ろから歩いて来た化け物は低い唸り声を上げ、の存在に気づいた瞬間、一気に距離を詰めて来た。その化け物に向かって手印を結び、自身の呪力を毒ガスに変えて放つ。の特殊な呪力は、毒といっても天然ガスと同等。自在に有毒なものへ変換できるといったもの。空気中の可燃性ガスを利用し、増幅させ、濃度を上げていくことも可能だ。
対呪霊ならば呪いに効果のある毒ガスにも変換できるが、ただ目の前に迫って来た化け物が呪霊かどうかも疑わしい。蜘蛛女とリカのデカい呪力に触れて、感知能力もバカになっているせいでよく分からないのだ。
だったらコレに最も効果がありそうなものは――。
「燃えろ!」
足元に転がっていた瓦礫を拾い、それを天井で点滅している蛍光灯へと投げつければ、バチンッと火花が散って頭上に降り注ぐ。その火花にの放った毒ガスに包まれた化け物が触れた瞬間、一気に炎に包まれた。
「グッォォオオオ…!」
「ビンゴ!ゾンビっぽいのは燃やすに限るでしょ」
悲鳴を上げてのたうち回る化け物を見たは、すぐに開いたドアの方へ走りだす。
「リカちゃん、こっち!」
今のリカは乙骨の式神であり、以前の"里香"とは異なる。魂が入っていない分、乙骨の命令に忠実らしい。の呼びかけでリカはすぐに追いかけてきてくれた。その時、蜘蛛女もリカのあとを追ってきたものの、何故か途中で燃えていた人型の化け物に近づいた瞬間、一瞬怯んだように後ずさったのをは見逃さなかった。
「まさか…アレも火に弱い…?」
しかし、すでに燃え尽き、鎮火し始めたのを見るや否や、蜘蛛女が再びたちを追いかけてくる。それを見たは先ほどと同様、足を止めることなく開いたドアから別の通路へと出た。
そこは今いた通路とは違い、蛍光灯のようなものはなく、かなり暗い。しかし躊躇してる暇はないと先へ進み、道なりに左へと曲がる。よく見れば床は血にまみれ、何かを引きずったようにべっとりと赤いシミが前方へ続いている。
「げ…何これ…気持ち悪い!っていうか、この先ちゃんと逃げ場はあるの?!」
血で滑らないよう、上手くよけながら走って行けば、右へ曲がる通路。更にその奥には開けた場所があり、はそこまで一気に走った。ただボイラー室のようなその場所には出口のようなものはなく。足元には白衣を着た人間が倒れている。天井も壁も血だらけのところを見れば、例え人間だったとしても生きているとは思えない。
「ど、どうしよう、リカちゃん!行き止まり!どこに行けば…!」
「コロス、コロス…!ブッコロスゥゥ…!!!」
リカは追って来る蜘蛛女を迎え撃つかのように、入口に立ちはだかり物騒な言葉を叫んでいる。いつも以上に殺意増し増しらしい。これは乙骨の怒りの感情が反映されているせいであり、の言うことを聞くのも乙骨がそう命令して呪符へ送り込んだからだ。
ただその辺の細かい事情など知らないは、単にリカが蜘蛛女に激怒してるんだと思っていた。
「リカちゃん、戦っちゃダメ!」
理由は分からないが、今のところ蜘蛛女にリカの攻撃は効いていない。ならここで無駄に呪力を消費させず、やり過ごした方がいいと考えた。
「あ、これ…扉の開閉ボタン…?」
リカが立ち塞がっている扉の脇の壁に赤く点滅したボタンがあるのを見たは、躊躇うことなくそれを押してみた。するとガシャンっという派手な音を立てて一気にシャッターが下りてきたことで、蜘蛛女の追跡を断絶する。
とはいえ、体当たりしてるのか、ドゴォンという音とシャッターが手前にぼっこりと変形している。ここを破られるのは時間の問題だ。
「どこか出口はないわけ…?」
それほど広くもない部屋を、は細かく見て回った。とにかく暗くてよく見えない。それに床で倒れている死体が、いきなり起きて襲い掛かってくるんじゃ、と思うだけで怖かった。
「…でもさっきのゾンビっぽいのもそうだけど…何でみんな白衣を着てるんだろ…ここ病院?」
足元の死体を見下ろしつつ、首を捻る。その間も蜘蛛女がシャッターへ体当たりする音が不気味に響いていた。早くしなけば破壊されてしまう。
「もぉ…暗くてよく見えない…」
ブツブツ言いながらも腰をかがめ、目を凝らして室内を見て回る。すると部屋の右奥に下へ通じる梯子を見つけた。下を覗くと薄っすら明るい。
「さらに地下に行く感じかな…って言ってもここしかないし――リカちゃん、こっち!」
一瞬下りるのを躊躇ったものの、すでにシャッターは半壊している。迷ってる暇はなかった。落ちないようしっかり梯子に足をかけ、それでも急いで下へ下へと下りていく。リカもに呼ばれたことで素直について来てくれたようだった。
「あ…明るい…」
今度もまた細い通路が伸びていたものの、今度は蛍光灯があるおかげでかなり明るい。視界がハッキリしたことではホっと息を吐いた。しかし同時に頭上でシャッターの破壊される音と、蜘蛛女の「ァァァアアハァ…」という地を這うような不気味な声。それがが近づいてきて、は短い悲鳴を上げた。逃げるにしても目の前の一本道しかなく、突き当りには――。
「え…あれって…エレベーター…?」
現在のと見た目は異なるものの、正面に見えるのは間違いなくエレベーター。それも扉が開いた状態だ。そこに気づいた瞬間、は迷うことなく、そこへ走りだしていた。
蜘蛛女が降りてきたようなドスン、という音も無視して、ひたすら走る。前回と同様、今回も疲れを感じることはなく、やはりこれは夢なのだと思った。
ただ、やはり夢にしては死を本能的に感じるのもおかしな気がする。
(もしかして…ここは夢の世界じゃなく…誰かの意識の中…それか…記憶の中…なのかも)
ふと、そんなことを漠然と考えた。違うのかもしれないが、それが一番、感覚としては近い。ということになれば、その"誰か"とは一人しかいない。
「…ペレス…あなたなの?」
"黒縄"に触れたことでマーキングをされたせいなのか。でもそれなら以外に、持ち主のミゲルや乙骨も"黒縄"へ触れている。なのに二人はのような状態にはならなかった。
「ダメだ。考えても分かんない…!」
必死に走りながらはやっとの思いでエレベーターへと乗り込む。しかし扉は手動式。急いで閉めようと振り向いたは、急に動き出したエレベーターに絶句した。見れば扉は閉まっている。
「え…何これ…」
まるで狐につままれたような感覚とはこういうことを言うんだろう。何もしていないのに振り向いたら開いてたはずの扉が閉まってるのだから。
「リカちゃんが閉めたわけじゃ…ないよね?」
「…………」
一緒に乗り込んだリカを見上げながら一応尋ねたものの、リカは特に何を応えるでもなく、ただジっと天井を見上げている。その様子で蜘蛛女が上から追いかけて来てるのだと気づいた。
「嘘…まだ追いかけて来てるわけ…?って、また下がってるし…!」
てっきり上へいけるエレベーターかと思えば、まだ下がっているのを感じ、は頭を抱えた。今の状況がペレスの意識の中なのだとすれば、下へ行こうが上へ行こうが関係ないのかもしれないが、やはりそこは気分の問題でもある。
「いったいどこへ連れて行こうとしてるの…?」
何となく意図して追い立てられてる気がしたは、リカと一緒に天井を見上げながら溜息を吐いた。今のリカに以前の"里香"のような自分の意志や感情はなく、乙骨の命令を忠実に聞いているだけだ。この場合、に危険が迫れば助けろというものだろう。それでも一人で逃げ回るよりは全然マシで頼もしくもある。
ただ、先ほど。リカが現れる寸前、自分が死ぬかもしれないと思った時、無意識に兎を呼んだ気がしたのだが、そこへ現れたのは兎ではなくリカだったということは、乙骨は伏黒のくれた呪符を使ったのかもしれない、と今更ながらに気づいた。
「…憂太くんに会いたい…」
壁を背にずるずると座り込んだは、リカを送り込んでくれた乙骨の想いを感じながら、つい弱音を吐いてしまった。体はそばにいるはずなのに、意識だけが遠くにいると感じる。
「ゆ…ゆーたぁ…リ、リカも会いたい…」
その時、乙骨の名前に反応したのか、リカが独り言のように呟く。折本里香の魂はもういないはずなのに、彼女の想いだけがそこにあるようで、はかすかに笑みを浮かべた。
「リカちゃんも憂太くんに会いたいのね…」
「…あ、会いたい…ゆうーたにー」
「だよね…。わたしのせいで離れることになったんなら…ごめんね、リカちゃん…」
「…ご、ご、ごめん…?」
乙骨の名前以外、命令に関係のない言葉はよく分からないのか、リカは大きな頭を僅かに傾げてみせた。もし以前の"里香"だったなら、現在乙骨と付き合ってるのことを怒って殺そうとしたかもしれない。でも今のリカからは特に自分への怒りは感じられなかった。
「…わたしもね、リカちゃんと同じくらい憂太くんのことが大好きなの。だから…ごめんね…」
「…ゆーた…大好き…?」
「うん…大好き。だから…これからも傍にいたいの…。いても…いいかな」
乙骨との結婚を夢見た少女は、その想いを遂げることなく天国へ旅立ってしまった。今更ながら、その事実がの胸を痛くさせた。今、自分も乙骨を好きだからこそ、折本里香の悲しみが理解出来てしまう。
リカは折本里香ではない。けれど、ずっと心に引っかかっていた気持ちを伝えたくなった。
リカを見上げながら、もう一度「憂太くんのそばにいたい」とハッキリ言葉にする。リカはジっとを見下ろしていて何も応えない。でも不意に「リカとぉ…同じぃ…」と呟く。
「え…?」
「ゆうーた、大好き…そばに、いたい…」
「ふふ…そう、同じだね」
「おな、同じぃ」
折本里香の乙骨への想いが、今もリカの中に薄っすら残っているのか、ぽつりぽつりと呟く言葉はリカの本心のような気がした。こうして乙骨の想いを共有していると、少しは気力も湧いてくるようで、はふとリカに微笑んだ。
「…絶対に生きて憂太くんのもとに帰ろう」
「……ゆーたの…とこ…に帰るぅう」
「うん、帰ろう、リカちゃん」
何が起きているのか、まだまだ想像の域を出ない状況。だけど、このまま得体の知れない化け物に殺されるわけにはいかない。
その時、ガクン、とエレベーターが揺れて停止したのが分かった。すぐに扉が開き、が立ちあがる。その時、足元から赤いモヤがゆらゆらと立ち込め、産毛が逆立つような寒気を感じた。咄嗟にエレベーターから飛び出すと、てっきり上にいると思っていた蜘蛛女が、今の今までが座っていた床から姿を現す。まるで瞬間移動したかのようだ。
「ァァァアア…」
「うわ、何でそこから?!」
エレベーターから出ると再び石壁に囲まれた狭い空間。すぐ後ろには蜘蛛女。ただ一つだけ扉があり、はそこを蹴破る勢いで開けた。
「は?何あれ…!」
またしても一本道の通路へ出たが、床から無数の針が飛び出てくる。まるで侵入者に仕掛けられた罠のようだ。しかし走って行かないと蜘蛛女に掴まってしまう。仕方なく走りだしたはタイミングを見て、針が引っ込んだ瞬間にそこを走り抜けた。リカは浮遊してるため難なくクリアしたようだ。その後ろからは不気味な声が追いかけてくる。
「あ…?シャッターが閉まっちゃう!」
前方に出口のようなものが見えたのだが、何故かゆっくりシャッターが下りている。長い通路、このまま走ったとしても間に合わない――!
そう思った時だった。不意に体が浮いて「ひゃあ」という声が出てしまった。
「リ、リカちゃん…?!」
驚いて仰ぎ見ればリカがを担いで運んでくれている。その移動速度は普通に走るよりも数倍早い。
「あ…ありがとう、リカちゃん」
「…は、早く…ゆーたの…とこかえ、帰るぅぅ!」
その一心だけで動いてるらしい。リカはを抱えたまま、シャッターが閉じるギリギリでそこを駆け抜けた。直後、背後でシャッターに何かがぶつかる音がする。追いかけてきた蜘蛛女が激突したようだ。分厚いシャッターが僅かにのいる側へ盛り上がっている。一瞬、突き破ってくるのかと焦ったが、それきり音も不気味な声も聞こえなくなった。
「…気配が…消えた…?」
リカに下ろしてもらったは、シャッターに耳を当て気配を探ってみたのだが、今の今まであった不気味な気配は一切しない。まるで忽然と消えたようにいなくなってしまった。
「……嘘。助かった…?」
ホっとしたら腰が抜けてしまった。その場にへにゃへにゃと座り込み、盛大に息を吐く。延々と緊張していたせいか、少し休まないと動けそうにない。
「…でも、ここどこだろ…」
床に座り込みながら、改めて周りを確認すると、目の前にはさらに下へ続く階段が見える。下を覗き込んでみても真っ暗でどこへ続いてるのかさえ分からないが、戻れない以上、階段を下りていくしかないようだ。
「まだ下に行くの…?っていうか、ここ何だろ。何かの施設っぽいけど…」
冷静になって今まで通ってきた場所を思い返してみると、何となくそんな気もしてきた。白衣を羽織った人間っぽいものがいたことを考えれば病院かとも思ったが、どうもそんな空気でもない。病院独特の匂いがしないせいだ。
例えこれが夢でも、ペレスの意識の中でも、さっきから色々な匂いはしている。だからこそ余計にリアルに感じるのだ。でもその中に病院を感じさせる匂いがなかったことに気づく。
「…まあ、そんなのどうでもいいか…。とにかく下に行くしかない――」
と言いながら重たい腰を上げた時だった。下から異様な気配を感じたは小さく息を呑んだ。リカも気づいたのか、階段の下を睨みながら唸り声を上げている。
ゆっくりと視線を下げれば、そこにはフードを被った男がジっとを見上げていた。
「ア、アナタ…この前の…!」
顔がケロイド状に爛れているその男は、前に謎のお屋敷でを襲ってきた人物だった。しかし今は襲ってくるでもなく、ゾっとするような目で彼女を見つめている。
その男の爛れた顔を見ていただったが、ふとミゲルから聞いた話を思い出し、後頭部を殴られたかのような衝撃を受けた。
「火傷の跡…まさか……あなたが…ペレスなの…?」
両親に恨みを持つ住人達に火を放たれ、大火傷を負ったというペレス。ミゲルから聞かされたペレスの背格好と、目の前の男は酷似している気がした。
「あ、ま、待って!」
フードの男はふっと笑みを浮かべたかと思うと、音もなく階段を下りていく。それを見たはよく分からない衝動のまま、男のあとを追いかけ、階段を駆け下りて行った――そのとき。
「あぁ…っ?!」
足場がガラガラと崩れ落ち、の体は空中へと投げ出される。咄嗟に伸ばした手は空を掴み、とリカはそのまま真っ暗な地の底まで真っ逆さまに落ちていった。
