Riny season.12


2018年、7月。


朝、五条の部屋で目覚めたはゆっくりと体を起こし、目を擦った。
隣を見れば五条はすでに起きたのか、その姿はない。
相変わらずショートスリーパーだな、と苦笑しながら、はベッドの下へ足を下ろした。
テーブルの上には美味しそうなホットサンドとハムエッグ、サラダ等が置いてあり、テーブルの上にはメモが一枚。
そこには"オバちゃんに朝食作ってもらったから食べたら校舎においで"と書かれてある。
最後にちゃっかり"I LOVE YOU"の文字。
は不意に笑みを零すと、思い切り腕を伸ばして、まずは目を覚ます為シャワーに入る事にした。
だが立ち上がった途端、体の節々が痛み、僅かに顔を顰める。

「…もう…悟のせいだ」

そんな事をボヤきながらバスルームへ行くと熱いシャワーを顔から浴びる。
夕べは五条に何度となく求められ、最後は達した後の気だるさからいつの間にか寝てしまったらしい。

「もう…悟って何であんなにエッチなんだろ…」

夕べの事をふと思い出したは、頬を赤らめながら呟く。
その時、頭の中でダイアナが笑った気がした。

《あの男はエッチっていうより、の事が好きで好きで仕方ないだけよ》

「…ダイアナ?珍しいじゃない。朝から起きてるなんて」

《そりゃ刺激的な夜だったもの》

「……やめてくれる。人のエッチ覗くの」

《私が五条悟に興味あるのは知ってるでしょ。いいわよねえ、アンタは。思い切り男の精気が味わえるんだから》

「ちょっと変なこと言わないでよ…!ダイアナが言うと何か違う意味に聞こえるってば!」

《あーら、ごめんなさい。って事で私は寝るわ…。新月は眠くて仕方ない…》

ダイアナはそう言うとすぐに気配が消えた。
は「勝手に出て来て勝手に消えるんだから…」とボヤきながらシャワーを止めると、すぐに学校へ行く準備に取り掛かった。
用意された朝食を食べ、制服へ着替えると部屋を出る。
が校舎へ着いたのは8時を少し過ぎた頃だった。

「あれ?パンダー!真希に棘も久しぶり!って、どうしたの?皆で走って―――」

校舎へ入ろうとした矢先、寮の方から三人が走って来るのが見えては声をかけた。
この三人は朝っぱらからジョギングなんてする性格でもない。
というか様子が少しおかしかった。

!悟は?」
「悟は先に学校に…っていうか、何かあった?」
「いや、今日は京都高の学長が来るだろ」
「あー何か悟がそんなようなこと言ってた気が…」

夕べ聞いた気もするが、それどころじゃなかったおかげで内容は殆ど聞いていなかった気がする。
にとってはいつもの事だ。

「で、それが?」
「んで、もしかしたら例の二人が嫌がらせにしに学長にくっついて来てるかもと思ってな」

パンダの言葉に、もピンと来た。
ふと真希を見れば、彼女も僅かに顔を顰めている。
それを見ては「私も行く」と言った。

「恵と野薔薇にはジュース買いに行かせたんだ」

とパンダも再び巨体を揺らして走り出した。
京都高の学生と高専の生徒がバチバチの仲なのはも分かっている。
去年の交流会で乙骨が圧勝して終わった事を根に持っている生徒がいるのも聞いていた。
そして京都高には真希の双子の妹の真依がいる。
この真依もなかなかの曲者で、姉妹なのに何故か姉の真希を毛嫌いしているのだ。
去年も事あるごとに真希へ嫌がらせをしたり、嫌みを言って来たりしていたのをも思い出した。

「あーやっぱり思った通りだ」

自販機の置いてある校舎の裏へ走ってくと、そこには見覚えのある後ろ姿が立っている。
そして彼女の足元には釘崎が倒れているのが見えた。

「野薔薇…!」

が慌てて走っていくと、真希の妹、麻依が驚いたように振り向いた。

「あ、あら…さんいたんですか?」
「麻依…何してんの?私の生徒に」
「そーだよ。ウチのパシリに何してくれてんだよ、麻依」
「…真希」

一瞬、二人の間にバチバチと火花が散ったようだった。
が、釘崎と一緒にいたはずの伏黒がいない。

「パンダ、棘。行くよ」
「おう」
「しゃけ!」
「真希、ここは任せていい?」

が尋ねると、真希は笑顔で「おう、こっちは大丈夫」と親指を立てた。
麻依が来ているという事は、当然あの男も来ている。
見たところ釘崎は軽傷のようだし、は伏黒の事が心配だった。
その時、校舎裏の広場の方から派手な戦闘音が聞こえて来て、たちはハッと息を呑んだ。

「あっちか…」

麻依と釘崎を真希に任せたはパンダ、狗巻と一緒に奥の広場へ向かう。
そこではちょうど伏黒が空に吹き飛ばされ、京都高の三年、東堂葵の振り上げた拳が伏黒の式神に拘束されたところだった。
見れば伏黒は顔が血まみれで、それでもなお東堂と戦おうと身構えている。

「やってやるよ…」
「…来い、伏黒!!」

これ以上やらせたら危ない、と判断し、は狗巻に東堂の動きを封じるよう頼んだ。

「棘、お願い」
「しゃけ」

狗巻はすぐに口元を隠していたジッパーを下げると、東堂に向かって「"動"・"く"・"な"―――!」と呪言を吐いた。
その瞬間、東堂の体が固まり、動きがピタリと止まる。
そして今度はパンダが勢いよく走り出し、高く跳躍した。

「何――やってんのぉー!!」

拳を固めたパンダの一撃が、東堂の左頬にヒットする。
東堂は後方へ吹っ飛んだが、足を使ってどうにか踏みとどまった。

「フゥ…ギリギリセーフ」
「…おかか!」

狗巻はその場に座り込んでいる血まみれの伏黒を見て呆れたように呟いた。

「まあ…アウトっちゃアウトか…」
「久しぶりだな。パンダ」

東堂は口内が切れたのか、軽く血を吐き出すと笑顔で歩いて来た。

「何で交流会まで我慢できないかね~。さあ、帰った帰った!大きい声だすぞ。いや~んって」
「言われなくても帰るところ……って、さん?!」

パンダの後ろから歩いて来るに気づき、東堂の目が一瞬でハート型になる。

「ちょっと葵…何、私の生徒に手ぇ出してるのよ」

は東堂の前に立ち、巨体を見上げながら睨む。
それには東堂も慌てたように姿勢を正し、そのゴツイ顔を赤らめた。

「い、いや、コイツが乙骨の代わりになり得るのか試そうと…」
「試すな!ったく。恵はせっかくケガが治ったとこだったのに」

はそう言いながら伏黒のところへ行くと、その両頬を手で包んだ。

「大丈夫?恵…」
「…だ、大丈夫だって」
「あー動いちゃダメだよ」

ハンカチで血を拭ってくれるに、伏黒の頬まで赤くなる。
それを見ていた東堂の額がピクリと動き、その様子を眺めていたパンダと狗巻は互いに顔を見合わせた。

「はあ…東堂もすっかり信者だな…。まあ恵もだけど。これもフェロモン効果か?」
「…おかか」
「ああ、東堂は単にタイプなんだっけ。でも恵には初恋相手だもんなぁ。ま、どっちにしろは悟のもんなのに。思春期の男子を惑わすなんても罪な女だね~」
「…しゃけ」

うへへっと笑うパンダに同意する狗巻も苦笑いを浮かべる。
パンダにはのフェロモン効果は発動しない。
何故かは解らないが、人間ではなく呪骸だからだろう、という夜蛾の見解だ。

「早く硝子に治してもらわないと…」
「いいって…。一人で行けるよ」

伏黒の腕を引っ張りが立たせているのを見ながら、東堂は額をピクピクさせていたが不意にパンダの方へ振り向いた。

「まあ…退屈し通しってわけでもなさそうだ。乙骨に伝えとけ。"オマエも出ろ"と」
「…(めんどくせ!)オレパンダ。ニンゲンノコトバワカラナイ」
「しゃけ」

去年、乙骨に負けた事が未だに悔しい東堂はそれだけ言うと、すぐに気持ちを切り替え「さ~ん♡俺もケガしたんですけどー!」と走って行く。
それを見送りながらパンダと狗巻は"嘘つけ!"と心の中で突っ込んだ。
その後、に邪険にされた東堂は真依を連れて「高田ちゃんの個握でこの悲しみを癒してもらう!」と言って慌ただしく帰って行った。
引っ掻き回すだけ引っ掻き回してサッサといなくなった二人に呆れつつ、はケガをした伏黒と釘崎をパンダたちに任せると、五条に言われた通り校舎へと向かう。

「少し遅くなっちゃったなあ…。っていうか悟、学校で何してるんだろ」

伏黒と釘崎はパンダたちに任せている為、今日は授業や実習などは入っていない。
なのに五条は朝早くからいなかったところを見ると、何かで動いているようだ。

「あ…もしかして…あのジイちゃんかな」

ふと会うたび畏怖の念を持ったような目つきで見て来る楽巖時学長を思い出す。
上層部の中でも保守派筆頭の楽巖寺学長は未だの存在すら認めておらず、人外扱いしかしてこない。
にとったら気に入らない人間の一人でもある。

「悠仁の件では貸しがあるからなあ、あのジイちゃんには」

思い出すだけで今でも怒りが沸いて来る。

「悟と一緒にイジリに行こっかな」

イタズラっ子のような笑みを浮かべ、は校舎へと急ぐ。
だがそれは遅かったようで、門を抜けて橋を渡ってくる五条を見つけたは手を上げて声をかけようとした。
が、五条の後ろから走って来る女子生徒が見えて、はふと足を止めた。
その女子生徒は京都高二年の三輪霞だ。彼女の事はも去年の交流会で見かけて知っている。
大方、楽巖寺学長の付き添いでついて来たのだろう。
どうやら三輪は五条を追いかけて来たようで、何やら話しかけると五条も笑顔で返している。

「む…悟ってば鼻の下伸ばしちゃって…」(※にはそう見える)

何を話してるんだ、と隠れつつ様子を伺っていると、三輪が徐にケータイを取り出し、五条は五条で三輪に寄り添うように並んでいるのが見えた。

「ちょ…何やってんの…?」

三輪に寄り添うようにしている五条を見て、の唇が見る見るうちに尖っていく。
ついでに胸の奥がムカムカとしてきて、は拳を握り締めた。
三輪はケータイで写メを撮ったようで、五条に「ありがとう御座います!」と嬉しそうにお礼を言って再び校舎の方へ走っていく。
五条は「どういたしまして~」と手を振りながらそのまま橋を渡って来たが、そこでがいる事に気づいて笑顔で歩いて来た。

、今頃来たの?かなりお寝坊さんじゃない?」

の腰を抱き寄せると、五条は身を屈めて彼女の頬にキスを落とす。
そして耳元で、「もしかして夕べの疲れが残ってるとか?」と意味深な言葉を囁いての顔を覗き込んだ。
だが、はムっとしたように五条の顔を見上げる。そこでようやく五条もの異変に気付いた。

「…何か……怒ってる?」

サングラスで表情は見えないが、そのふっくらとした唇が微妙に尖っている事に気づき、五条は口元を引きつらせた。
僕、何かしたっけ?と首を捻りつつ、機嫌の悪そうなに笑顔を見せる。

「何で機嫌が悪いのかな?」
「今の…京都高の三輪さんだよね」
「え?あーうん。そーだけど…」

と、五条は応えたが、そこでが「何で写真、撮ってたの…」と怖い顔をして自分を見上げた時、彼女が何故怒っているのかに気づいた。

「何でって…彼女が一緒に写真撮って欲しいって言うから…」
「ふーん…それであんなヘラヘラしながら撮ってたんだ」
「…あれ。もしかして、妬いてる?」

五条が笑いを噛み殺しながら訪ねると、の顏が一気に赤くなった。

「べべ別に私は妬いてなんか―――」
「だーって凄く機嫌悪そうだったけど」
「そ、それはだから…悟が私を置いて先に行っちゃうし来たら来たで女子生徒にデレデレしてるから…」
「だからそれヤキモチでしょ」

五条は嬉しそうに微笑むと、膨れているの頬にちゅっとキスを落とし、強く抱きしめる。

「ちょ、ちょっと放してよっ」
「やーだ」

驚いたがジタバタと暴れたが、五条は腕を放すどこから更に力を込めてを抱きしめた。
その表情は相変わらず緩んでいて、嫉妬をされた事にご満悦のようだ。

「何、笑ってんの…?」

ふと顔を上げたは、ニコニコしている五条を見て目を細める。

「ん-?嬉しいから」
「…嬉しい?」
「そ、が妬いてくれたから」
「そ、それは…だって…」
「少しは僕の気持ち分かった?」
「…え?」

再び顔を上げると今度は五条が不満げに唇を尖らせている。

が他の男に優しくするたび、僕はいーっつもイライラしてるから」
「ほ、他の男って殆ど生徒じゃない…」
「生徒でも男には変わりないし、皆のこと大好きだし?」
「それは先生として…」
「いやいやいや…は先生ってより生徒枠でしょ」

五条が楽しげに笑う。
だいたいは生徒達と悪ふざけに走る事が多く、生徒もに対して同級生と同じ感覚で接していることが多い。
は昔から、そう言う所は変わらないな、と五条は思った。

「あ、それより…あのジイちゃんは?来てるんでしょ?ぶっ飛ばした?」

は思いだしたように言った。
その表情はあまり好意的ではない。
五条もそれを知っているだけに苦笑いを浮かべると「ぶっ飛ばしてはないけどね。バッチリ言いたい事は言って来たよ」との額へキスを落とす。
楽巖寺学長はすっとぼけていたが、虎杖が一度死ぬはめになった件は必ず一枚かんでると五条は確信していた。
だが虎杖は生き返り、今は五条の元でかくまっている状態だが、まだそれを知らせる気はなかった。
あくまでバラすのはもっと虎杖に色んな事を教え、経験を積ませてからだ。
それにはアイツの力が必要になる、と五条は考えていた。

「じゃあ明日の出張の用意でもしにいこっか」
「え?あー北海道」

は嬉しそうに言うと、先ほど機嫌が悪かったのが嘘のような笑顔を見せた。
彼女のこういう素直な性格は、五条が惹かれるところの一つだ。

「あっちに行ったら先ず何を食べようかなあ。やっぱりじゃがバター?味噌ラーメンもいいなあ」

はすでに北海道の名産に気持ちが向いているようだ。
次々と食べ物の名前を上げていくに、五条は小さく吹き出した。











2013年、6月。


季節はすっかり梅雨に入り、毎日のようにどんよりとした天気が続いている。
そんな天候でも相変わらず任務は入り、は毎日忙しくしていた。
だが都内の郊外で任務を終えた帰り道。
急な土砂降りに変わり、は補助監督の安田に連絡を入れる前に雨をしのげるような場所を探して、とある建物の軒下に走りこんだ。

「ひゃーついてない…。びしょびしょ…」

軽く頭を振って水気を飛ばすと、は黒い雲に覆われた空を見上げた。
大粒の雨が勢いよく落ちて来るさまは、梅雨と言うよりまるでスコールに近い。
時折雷の音も雨音に交じって聞こえて来た。
これじゃ暫く出られないな、と思いながら、は今自分がいる場所を確認した。
住宅街からそれて入った通りにあったそこはよく見れば大きなお寺のようだ。

「何か高専に似てる…」

その建物を見上げながら、ふとそんな事を思う。
とりあえず大きく出っ張った軒下があるのは助かった。
はホっと息をつき、とりあえず安田に自分のいる場所をメールしておいた。

「はあ…熱いシャワー入りたい…」

6月とはいえ、梅雨時期は意外と肌寒く、ずぶ濡れになっては余計に体が冷えてくる。
はその場にしゃがみこむと、勢いよく落ちて来る雨粒をただ見つめていた。

"僕を好きになれよ、―――"

ふと三か月前、五条に言われた言葉が浮かぶ。
あの日からずっと、あの言葉が胸にこびり付いて離れない。
忙しく任務をこなしている時はいいが、こんな風にふと空いた時間があると、自然に思い出してしまうのだ。
五条はあれ以来、を少し避けるようになった。
いつものように話しかけても、どこか素っ気ない。それがは辛かった。
ただ、五条は本気であの言葉を言ってくれたんだ。そう思った。
五条が怒っているのは、自分が臆病すぎるせいだ、と。

なのに最近の五条は毎晩のように遊び歩いているようで、寮にもあまり帰ってこない。
任務は普通にこなしているようだが、家入が「五条は渋谷で合コン三昧らしい」と話しているのをは聞いてしまった。
そうなると、やはりあの時言ってくれた言葉は軽い気持ちだったのかという気もしてくる。

「悟のバカ……」

五条とはここ一か月はまともに話していない。
こんな事は以前なら考えられない事だった。

寂しい―――。

ふとそう感じた。
こんな感覚は久しぶりだ。
高専に来る前のはずっと寂しかった。
一人でいる事を選ぶのはいつも自分なのに、時々どうしようもなく寂しくなることがあった。
でもそれは日本に来て高専に入ってからは全くと言っていいほど感じなかった。
それは優しい仲間が常に一緒にいてくれたから。
五条が何だかんだとの世話を焼きながら、傍にいてくれたからだ、とは今頃になって気づいた。
その優しい手を、は自ら手放してしまった。

(どうしたら…良かったんだろう…)

あれ以来、ずっと考えている。
あの時、五条に言われた事に対して自分がどう応えれば良かったのか。
が五条に言った言葉も事実。
でもそれは本気で好きになる事を恐れている臆病な自分が出した答えだ。

「はあ…」

考えたところで堂々巡り。
は無意識に溜息をついた。

「大丈夫、ですか?」
「―――」

突然話しかけられ、は弾かれたように顔を上げた。
いつの間に来たのか、隣に知らない男が傘をさして立っている。
その恰好はお寺の人間なのか、お坊さんが良く着ている着物のような服装だ。
だが不思議なのはその髪型。
お坊さんのツルっとした頭とは違い、男は長い髪を垂らし優しい笑みを浮かべながらを見下ろしていた。

「え、あ…すみません。雨宿りさせてもらってて…」

ここにいる事を咎められたのかと思ったは、慌てたように立ち上がった。
不審者と間違われでもしたら最悪だ。
だがその男は笑顔のまま「ああ、かまいませんよ」と柔らかい口調で言った。そして―――。

「こんな雨だし良かったら中へどうぞ?」
「え…?」
「見たところ濡れたようだし、そのままでは風邪を引いてしまうでしょう。雨が止むまで中で休んでいくといい」

男は笑顔でそう言うと、の方へ傘を差しだした。
そして促すように歩き出し、を門の中へと招き入れる。
そこで気づいたが、がしゃがんでいたすぐ傍に裏口のような小さな扉があったようで、男はそこから出てきたらしい。
門の中へ入ると、そこは広い庭のような場所で色とりどりの紫陽花が咲き誇っていた。

「Wow...綺麗…」
「ああ、この時期になると毎年咲くんですよ。私はこの花が好きでね」
「へえ。じゃあアナタは移り気なんだ」

ついいつもの調子で言った後に、はハッとしたように手で口を押えた。

「ごめんなさい…」
「いや」

男は特に気分を害するでもなく楽しげに笑った。

「紫陽花の花言葉を知ってるんだね」
「え、あ…まあ。実は私も好きなの、紫陽花」
「何だ、そうか」

男は更に笑うと、を寺の中へ案内した。
縁側のような場所で靴を脱ぎ、長い廊下を男について行くと、シンプルな和室へと通される。

「ここは私の私室でね。寛いでくれてかまわないよ」
「…ありがとう御座います」
「ちょっと待ってて。今、タオルを持ってくる」

男はそう言って部屋を出て行った。
一人残されたは男の私室だという部屋をキョロキョロ見渡しながら、純和風の掛け軸や花瓶に目を奪われた。

「お寺ってザ、日本って感じで凄く素敵…」

外から見た事はあっても中まで入った事はない。
かすかに漂っているお香の匂いも心が凄く落ち着く気がした。

「待たせたね」
「あ…」

男がその手にタオルと暖かいお茶を運んで来た。

「これで拭いて。あとこれが着替え」
「え?」

男は箪笥の中から長袖のTシャツとズボンを出すとに手渡した。

「濡れた服のままじゃ寒いだろ。これは私の私服だから少し大きいかもしれないが…」
「あ、ありがとう。じゃあ遠慮なく…」
「私は隣の部屋にいるから着替えたら声をかけて」
「は、はい…」

男はそれだけ言うと襖の向こうへ姿を消した。
さっき会ったばかりなのにここまで親切にしてくれる男に、は少し驚きつつも彼の持つ独特の空気にホっとしている自分に気づいた。
とりあえず濡れた服を脱ぎ、男の服に着替える。
少し大きいものの着替えた事で気分も落ち着いて、は「着替えました」と隣にいるであろう男へ声をかけた。

「ああ、やっぱり少し大きかったかな」

男が隣の部屋から顔を出すとの恰好を見て笑った。
袖から指先しか出ないものの、そこまで不便でもなく「大丈夫です」とも笑う。

「お茶でも飲んで体を温めて。今日は肌寒いからね」
「あ、ありがとう」

に座るよう促すと、男はテーブルに運んだ急須から湯呑に日本茶を注いでくれる。
普段は飲まないものだが、は一口飲んで「美味しい…」とホっと息を吐き出した。

「口に合うなら良かった。ところで…サングラスはいつもしたままなの?」
「え?あ…これは、まあ…」

と応えたものの、知らない人から見たらサングラスをかけたままというのも失礼に当たるだろうか。
そう思ったは仕方ない、といったようにサングラスを外した。
案の定、男はの瞳を見て驚いたようだった。

「…外国の人だとは思ってたけど…瞳が赤いんだね」
「…はあ」
「いや、凄く綺麗だよ」
「…あ、ありがとう…」

は男の方をあまり見ないようにしていたが、綺麗だとストレートに誉められ頬が赤くなった。

「えっと…会ったばかりなのに親切にして頂いて、ありがとう御座います」
「いや…雨が酷くなってきたから様子を見に外へ出たら君が寒そうにしていたから」

男は優しい笑みを浮かべながら新しいお茶を注いでくれる。
その所作が綺麗でが見惚れていると、ふと男がを見た。

「君、名前は?」
「え?あ…です」
「そう。私は夏油傑。ここの…まあ住職みたいなものかな」
「…夏油…傑…?宜しく、夏油住職」
「いや、傑でいいよ。普段は普通の男だしね。私もと呼ばせてもらうから」
「良かった。呼びにくいなあと思ってたの」

そう言いながらは舌を出して笑った。
それを見て夏油も楽しそうに笑うと、ゆっくり湯呑を口に運ぶ。
は縁側の方へ目を向けると、「他のお坊さん達はいるんですか?」と聞いた。

「ああ。本堂の方にはいるよ。ここは私の私室がある離れでね。呼ばない限り他の人間が立ち入る事はないんだ」
「そうなんだ。凄く静かで落ち着くなあと思って」
「ああ、その障子を開けると庭が見えるよ」

夏油はそう言って立ち上がると縁側の障子を開け放った。
未だ激しい雨は降り続いているが、さっきの紫陽花が見えては笑顔になった。

「部屋から見えるなんていいなあ。凄く大きくて立派な紫陽花」
「大事に育ててるからね。気に入ったなら帰りに分けてあげるよ」
「え、いいの?」
「もちろん」

は嬉しそうな笑顔を見せると、暫く紫陽花を眺めていた。
すると夏油はの隣に座り、「さっきの花言葉だけど」と言ってを見た。

「移り気や浮気、無常といったものが有名だから、あまりいいイメージは持たれないけど、色ごとの花言葉もあるんだ」
「色ごと?」
「青は辛抱強い愛情。ピンクは元気な女性。白だと寛容といったようにね」
「知らなかった…」
「色ごとの方がそんなに悪いイメージもないだろ?」
「うん、そうだね」

が頷くと、夏油は優しい笑みを浮かべた。
その柔らかい笑顔にはドキっとして、慌てて目を反らす。
あまり近くで目を合わせてしまえば惑わしてしまうかもしれないと思った。

「何か…不思議だね、君は」
「え…?」

不意に言われた言葉に驚いて顔を上げると、夏油は黙ってを見つめていた。
その瞳はどこか寂しげで、はハッとした。

「初めて会ったのに…もう随分と前から知っているような気がするよ」
「…そ…そう、ですか?」

あまりに真剣な瞳で見つめられ、は少し鼓動が速くなってきた。
夏油の持つ空気はどこか気持ちが落ち着いて、こうして傍にいると確かに前から知っているような気もしてくる。
その時、のケータイ音が鳴り響き、ドキっとした。

「あ…ごめんなさい」
「どうぞ」

夏油は特に気にした様子もなく立ち上がるとテーブルの方へ戻って行く。
それを見ながらはすぐにケータイを取り出す。表示には安田の名前が出ていた。

「あ、もしもし。うん、今ちょっと雨宿りさせてもらってて。え?あ…分かった。じゃあ、そこで待ってて」

はそれだけ言って電話を切ると夏油の方へ振り向いた。

「えっと…迎えが来たので私はこれで」
「そう、良かったね。じゃあ…ちょっと待ってて」

夏油はそう言って隣の部屋へ行くと、その手にピンク色の紫陽花を持って戻って来た。

「はい。にはピンクの紫陽花」
「え…?」
「君はこのイメージだから」

夏油にそう言われてさっき教えて貰った花言葉を思い出す。
同時に頬が赤くなったが、「ありがとう…」と言って紫陽花を受け取った。

「綺麗…大事にするね」

の言葉に夏油も嬉しそうに微笑む。
その笑顔にドキっとさせられ、はダメダメ、と心の中で呟いた。
今、五条との事があって寂しさで挫けそうになっているだけに、会ったばかりの夏油に優しくされ、つい流されてしまいそうになる自分を戒める。

「あ、服…」
「ああ、それは着て行っていいよ。返さなくていいから」
「そんなわけには…。あの…今度持ってきます」

がそう言うと夏油はただ微笑むだけだった。

「じゃあ…色々ありがとう」
「気を付けて。風邪引かないようにね」

夏油は門の所までを傘に入れていくと、最後にの手に傘を握らせた。

「さよなら」
「あ…さよなら」

は素直に傘を受けとると、見送っている夏油に笑顔で手を振って安田の待つ場所まで歩き出した。
最後にもう一度振り返ると、夏油も軽く手を上げている。
その姿を見て、は心の奥が暖かくなるのを感じていた。
誰かに見送られる、そんな小さな事さえ、今は嬉しく思う。
もし、が寺の横に安田を呼んでいたなら、すぐに夏油が何者かという事を知ることが出来ただろう。
自分が今まで会っていた男こそ、高専を離反した最悪の呪詛師だという事を―――。








ベッドサイドの明かりだけが揺れる部屋で、二つの影が揺れている。
さあ、これから一戦交えようと意気込んでベッドに女を連れ込んだのはいいが、途中で五条は自分の体の異変に気付いた。

「…あーまたか…」
「…え?」

五条が上半身を起こすと、女は「五条くん、早く…」と甘えたような声を出した。
この女が鈍くて良かった、と五条は内心ホっとする。

「ごめん…ちょっと用事思い出した」
「……は?」

たっぷり間を空けて、女は苛立ちを隠す事のない声を上げた。
それもそうだろう。
この女をホテルに誘ったのは五条の方なのだ。
女も飲み会の最初の方から気がある素振りで五条に何度となくアピールをしてきていたから誘うと一発で簡単に乗って来た。
随分と軽い女だな、と呆れたものの、目的は同じなら話は早いと、早々に飲み会を抜けてホテルへやって来た…までは良かった。

「どういうつもり?」
「…だから用事」

そう言いながらすでに服を着始めた五条を見て、上半身だけ中途半端に服が乱れている女も怒ったように起き上がった。

「ふざけてんの?」
「…は?ふざけてないけど」
「何よ、せっかく来てあげたのにその態度。こんな扱い受けた事ないわ」

女はキンキン声で文句を言い始め、五条は次第にイライラしてきた。
いや、異変が起きてからずっとイライラはしている。

(来てあげた?別にオマエ程度の女なんてその辺に転がってるし。僕が困って謝るとでも?)

心の中で毒づきながら、むしろこんな女に手を出さなくて良かった、とも思う。
こういう女は後々が面倒そうだ。

「ちょっと!本気で帰る気?私を置いて」
「寂しいなら他の男でも呼べばいーんじゃない?お金もったいないでしょ」

ドアを開けようとした時、背中から女の怒鳴り声が飛んできて、五条は満面の笑みを見せながら振り向いた。
その瞬間、枕が五条の顏に飛んできたが、もちろん術式で当たらない。
枕はそのまま足元へぼふっという間抜けな音を立てて落ちたが、女は当たってない事にすら気づいていない。

「何よ。ちょっと顔がいいからって…中身は最低のクズね」
「…そ。僕、クズなんだよ、もともとね」

五条はそう言って笑うと、冷ややかな目を女に向けた。

「そのクズと会って一時間で寝ようとしてた君も相当だけどね~」
「……はあ?何なの、アンタ!」

女はさっき見せていた綺麗な顔ではなく、鬼のような形相で怒鳴っていたが、これ以上問答を続けるのは無意味、と五条はすぐに廊下へ出た。

「はぁ…ったく。無駄な時間使った…」

独り言ちて五条はホテルを出ると、薄暗い路地から表通りへと歩き出した。
一日中降っていた雨も今は止んではいたが、ジメっとした空気が肌にまとわりつくような感じで気持ちが悪い。

「何やってんだ、ほんと…」

自分で自分に呆れつつ、溜息をつくと、星一つ見えない夜空を眺める。
どんよりとした雨雲を見ていると、今の自分の心を映しているようで、ふと失笑した。
少しずつ冷やされていく頭で、これからどうしよう、と考える。
さっきの女の事も、すでに五条の頭からは消え去っていて、あるのは良く分からない焦燥感だけだ。
それにしても―――。

(参ったな…。マジで勃たないとか笑えない…)

先ほど自分の体に起きた異変に、深い溜息が漏れる。
と言って、この三か月、こんな事が何度もあった。
今日こそは、と思っても、だいたいさっきのような空気になり、結果面倒になってしまうのだ。
なのに同じ事を繰り返す生き物なんだな、男って、と苦笑が漏れる。
まあ男は本人の意思とは関係なくても溜まるシステムであり、目の前に据え膳がいれば手を出したくなるのは至極当然。
だが、いざという時に出来ないとなると何気に切実だったりする。
これまで愛のないセックスなんて当たり前のようにしてきた。
それがを好きだと自覚し、あげく振られてもコレなんだから本当に参った、と五条は思う。
男なら心と体は別のハズなのに、それがイコールになっているというおかしな状態だった。

「たまには大人しく帰るとしますかね…」

最近、任務以外では高専に顔を出しておらず、寮にも帰る事が少なかった。
理由としてはと顔を合わせるのが辛いからに他ならない。
前のように接する事が出来ず、そのたびは泣きそうな顔をする。
その顔を見るのが辛かった。
前のように出来れば一番いいんだろうが、今はまだそこまで吹っ切れてはいない。
あれでも本気で告白したのに、先に死んじゃう、という、いつ来るかもわからない未来の事で振られるなんて納得できないからだ。
五条の中で好きだと気づいた頃よりも、告白した時よりも、への想いが強くなっているのに、どうしようも出来ない事が苦しい。
こんな想いを心に抱えているから、他の女では満たせなくなっている。
それが体の異変だと、五条にも分かってはいるのだ。

「はあ…このまま一生エッチ出来なかったらどーすんの、僕」

ガックリ項垂れながら、今日はサッサと帰って早く寝よう、と"蒼"を発動して高専へ転移する。
以前から何度となく実験を繰り返していた瞬間移動も、今はかなりの距離からでも使えるようになった。
おかげで夜遊びでもこうして役に立っている。
高専の敷地内へ着き、そのまま寮へと歩き出す。
が、その時の気配がしてハッと息を呑んだ。
ふと前を見れば同じく寮の方へ歩いているが見える。暗闇でもその禍々しいオーラは六眼が捉えた。
は五条には気づかず、何かを大事そうに抱えていた。

(花…?どうしたんだ、あれ)

の手にしている花が紫陽花だと気づいたが、どう見ても店で買ったようには見えない。
まるで咲いているのを切って来たかのようだ。

(まさか誰かからもらったとか…?)

そんな事が頭を過ぎり、一気にムカムカしてくる。
だがはもう恋はしないと決めてから未だにそれは変わらないようで、あれ以来彼氏が出来たとは聞いていない。
五条の気持ちを知っている家入なら、に新しい彼氏が出来れば絶対に話すはずだ。
家入には報告として振られたと話したが散々バカだの何だのと言われた。
でもがあの調子じゃどう頑張っても無理だろ、という五条の言葉に家入も納得はしたようだった。

「未来、ねえ…僕が不老不死になれれば一番いいんだけど」

と出来ない事を考えて苦笑する。
それかが死ぬ方法を見つければといったところか。
そんな事を考えながら、前を歩くを見る。
久しぶりに見たは少しだけ痩せた気がして、ふと心配になった。
一瞬声をかけようか、とも思ったが、何を話せばいいのか分からずに思いとどまる。

今の僕じゃ追いかけられない。その瞳を見る、自信がなくて―――。



 


三輪ちゃんが五条先生と写真撮ってたシーンは驚いた笑
最強なのに周りからは散々な評価だけど、ちゃんとファンもいるんだとホっとした瞬間でもある笑