
A sweet trap.13
2013年、6月。
梅雨入り本番といった土砂降りが続いていた6月半ばのこの日。
久しぶりに高専に戻っていた五条は、夜蛾に任務終了の報告をした後、廊下でこれまた久しぶりに顔を合わせた家入に「ちょっと付き合いなさいよ」と拉致された。
ここ数日は特級案件で各地を回って任務をこなして来た事もあり、ハッキリ言って五条は疲れていた。
だが家入の様子からに関する事だと気づき、渋々ついて行く。
家入は自販機で無糖とミルクたっぷりのアイスコーヒーをそれぞれ一本ずつ買うと、ミルクたっぷりの方を五条へ放った。
「何、奢ってくれんの」
「まさか。前に小銭足りなくてアンタに借りたでしょ。それのお返し」
「ああ…忘れてたわ、そんな事」
五条は苦笑いを浮かべながら談話室の椅子へ腰を掛けると、家入から受け取ったコーヒーのプルタブへ指をかけた。
家入も同じように向かい側へ座ると、コーヒーを一口飲んで「はあ、生き返る…」と椅子へ凭れ掛かり、今では胸元まで伸びた髪を軽くかき上げる。
以前は活発な類に入っていたであろう家入も、近年はだいぶ大人の女性に近づいて来たと言えるくらいに、その気だるそうな目元からは色気すら漂う。
綺麗に彩られたアイシャドウを見ながら、コイツもメイクに気を遣うようになったんだな、と五条は内心苦笑しつつ、その長い足を組み替えて上半身を乗り出した。
「んで?僕に何の用」
「五条、まだのこと避けてんの?」
早速冷んやりとした言葉をぶつけられ、五条は小さく息を吐いた。
「今は…アイツの顔見たら、また余計なこと言っちゃいそうだしね」
「で、好きでもない女のとこ渡り歩いてるわけだ」
「渡り歩いちゃいないけど。っていうか、それも無駄に終わったし」
「どういう意味よ」
「いや…コッチの話」
と五条は家入から僅かに視線を反らした。
まさか他の女では勃たなくなった(!)とはいくら古い付き合いの家入でも話すのは躊躇われる。
そんな事を話そうものなら家入は面白がって高専の呪術師、いや補助監督も含めた関係者全員にバラすだろう。
そうなれば最強呪術師という威厳が消えるだけでなく、五条家末代までの恥となる。(そこまで?)
五条はその事を考えただけでもゾっとして軽く身震いした。
だが家入は五条がそれ以上何も言わないと分かったのか、特に追及はしてこなかった。
「ところで…そのの事なんだけどさ」
「…何?僕の聞きたくない系の話?」
「まあ…そうであってそうじゃない、というか」
煮え切らない様子で言葉を濁す家入の視線が僅かに泳いだのを五条が見逃すはずもない。
「まさか…この期に及んでまた彼氏作ったの?のヤツ」
言いながら先日見かけたの姿が五条の脳裏を掠めた。
手の中の切り花を大事そうに抱えていた彼女の姿を。
だが家入は気だるそうな瞳をかすかに細めると「いや…そうじゃない」と苦笑いを浮かべている。
「付き合っては、ない。今の所は」
「は?」
「でも毎日のように会いに行く人物が出来た」
「…毎日?」
五条の綺麗な形をした眉がキツく寄せられ、そのサングラスの下にある碧眼も苛立ちで細められてるんだろうな、と家入は思った。
これまで何度となくあったの色恋沙汰は家入も五条も慣れている。
以前なら「またかよ」と一笑に付しただろう。でも今の五条は前とは違う。
に心底惚れているのだから、その彼女に"毎日会いに行く男が出来た"となれば心中穏やかではいられない気持ちはよく分かる。
とりあえず自分が聞いた話くらいは教えてやろう、と家入は口を開いた。
「何かね、寺の住職みたいなんだ」
「…は?住職って…坊主かよ?!」
「まあ、そうなのかな。私も見たわけじゃないし」
「え、が毎日会いに行ってる奴が坊さんって事なのか?」
「んー。意外だけどね。何か傍にいると落ち着くらしい。まあがそのお坊さんを男として見てるかどうかまでは知らないけど」
「………へぇ」
気に入らない、と五条は思った。
今のとこ彼氏ではないと言ったところで、毎日会いに行きたくなるほどその男はの心を捉えていると言う事だ。
それもこれまでの男とは違い、相手は聖職者。
仮にもヴァンパイアをその身に宿しているが果たして近づいていい相手なのかどうか。
「気になる?」
憎たらしいくらいの挑発的な笑みを浮かべる元同級生に、五条は心の中で舌打ちをした。
応えなくとも彼女は分かっているはずなのだ。
今の五条からは嫉妬という負の感情が溢れ出ているはずなのだから。
「気になったところでアッサリ振られた僕にはどうしようもないし」
「でも心配じゃないの?またが傷つくかもしれないじゃない」
「そんなの本人が一番分かってるだろ。だったらいつものように深入りはしないんじゃないの」
そう言い捨てると五条は立ち上がり談話室を出て行く。
これ以上話してたら家入にまで八つ当たりをしてしまいそうだ。
そんな五条の背中に「アンタ、マジで諦めんの?」という言葉がぶつけられた。
「…これ以上、僕にどうしろって?」
足を止めて振り返れば、家入は呆れ顔で頬杖をつき、五条を見つめている。
さっきまでの笑みはなく、真剣な顔だった。
「私はさ。アンタと一緒にバカやってるが一番好きなんだよ、これでも。五条の隣にいるが本当のだと思う」
「……だから?」
「の本音、ちゃんと見てやりなよ」
「本音…?」
「頑なに仲間と恋をしないと決めてるのも、それだけ大事に思ってるからよ」
「ダメになったら気まずいって言ってたけど」
「ん-気まずいと言うより怖いのよね、は。大事だからこそ、いつか壊れるかもしれない恋人より仲間という関係でいる事を選んだ」
「大事だから…?」
「そう。仲間のままでいればずっと隣にいられるじゃない。五条の」
「……ッ」
家入はそう言って優しい笑みを浮かべた。
それは五条でも初めて見るくらい柔らかい笑顔で。
家入から齎されたその笑顔と言葉は、五条の中でそれまで燻っていたモヤモヤした物を払拭するくらいの威力があった。
「ま、とりあえずが坊主に泣かされたら五条が慰めてやんなよ。を立ち直らせるのがアンタの仕事でしょ?」
「何でそれが僕の仕事になってんの。これでも特級呪術師なんですけど」
「は五条がいるから失恋しても元気でいられるんじゃない。あんなに甘やかしたのはアンタなんだから責任取りな」
「…何の責任なんだか」
そう言いながらも、五条の表情は先ほどより随分と明るい。
少しだけとの間に希望が見えたせいかもしれない。
(恋愛なんて面倒なだけだったんだけどね…)
自分の中に起きた変化に戸惑いつつ、今はそれがむしろ心地いい。
今なら素直にの目を見て話せそうな気がしていた。
サーっと控え目に静かに聞こえる雨音と、部屋に漂う白檀の香り、そして目の前に咲き誇る紫陽花たちに、は癒されるのを感じていた。
こうして静かな和の空間に身を置いていると、自分の汚れた何かが剥がれ落ちて行くような気さえしてくる。
は足を投げ出した格好で縁側に座りながら、飽きもせずに庭に咲く紫陽花を眺めていた。
「そんなところに座って濡れないかい?」
背後から声が聞こえて、は笑顔で振り向いた。
いつもの五条袈裟を身にまとい、夏油がお茶を運んで来るのを見ながら、は「霧雨って好きなの」と微笑んだ。
「聞いてると子守唄になる」
「あはは。それは眠くなるってことかな?」
テーブルにお茶菓子とお茶を置き、夏油もの隣へ座る。
そして同じように庭に咲く紫陽花を眺めた。
は夏油の横顔を見上げ、かすかに笑みを浮かべると再び庭へ視線を向ける。
ここへ通うようになって一週間。夏油は特に理由も聞かず、いつも私室へとを通してくれた。
夏油が只者ではないとも薄々は気づいている。その身にまとう呪力を感じるからだ。
だが夏油は聖職者であり、高専出身ではなくともそれは持っていて当たり前のものなんだろうと思っていたは、そこまで深く考えてはいなかった。
それに自分が高専出身だと話しても、夏油は特に興味を示さなかった。
それくらい夏油にとって呪力があるというのは当たり前の事なんだろう、と思ったのだ。
「今日も誰かのお祓いをしたの?」
「ああ。意外と憑かれてる人間は多いからね」
「傑も高専にいたら優秀な術師になれると思うんだけど。でも住職なら仕方ないかー」
「私には私のやるべき事があるから。それに私は呪術師というガラでもないよ」
隣で苦笑する夏油に、は首を傾げながら「そうかなあ」と言った。
「傑は呪力も高いし戦闘したら強そうな気がする。悟と並ぶくらいに」
「…戦闘なんてしなくても憑きものは祓えるさ。でもはその悟?という仲間の術師と随分親しかったんだね」
「え?あーまあ。一応、私の指導係だったから私は教え子みたいなものだし、あとはお兄ちゃん的な存在なの」
「お兄さん?」
「私、ひどい甘えん坊で…よく悟に我がまま言っては呆れらるんだけど最後は甘えさせてくれるから」
「へぇ……随分と優しいんだね。その彼は。もしかしてこの前話してた告白されたという相手かな?」
「えっと…それは…」
夏油の声色に若干の棘が入り混じっていた事は、幸いにもは気づいていない。
だが次に発した夏油の言葉に、は固まる事になる。
「少し…妬けるな」
「…え?」
驚く間もない。
気づけばの体は夏油の長い腕に絡み取られ、彼の両腕に納まっていた。
その突然の抱擁にの思考回路が一瞬止まる。
同時に夏油の体からかすかに甘い香のような匂いがして、の鼻腔をくすぐった時、ふと我に返った。
「す…傑?」
「どうやら私も…君に惹かれているようだ…」
「え、あの…」
―――まずい。やはり惑わしてしまったんだろうか、と抱きしめられた事に驚きながらも、が最初に心配したのはそこだった。
初対面の時、夏油はがサングラスを外してもそれほどフェロモンの効果を受けていないように感じた。
それは住職という特殊な存在だからだ、と思った。
日本の仏教とやらには"梵行"なるものがあると聞いたし、色恋に現を抜かすような存在ではないという事も。
だからこそ、至近距離で見つめなければ大丈夫だ、とここにいる間はサングラスを外していた。
なのに今のこの状況はが予期しえぬ展開だった。
夏油の腕に抱かれ、戸惑ったは少しだけ身を捩った。
だが更に強く抱き寄せられると、今度は久しぶりの抱擁にの心臓が勝手にうるさい音を立てる。
「傑…?えっと…」
「私では…の寂しさを埋める存在にはならない?」
胸に顔を押し付けられる体勢のせいで、夏油の声がすぐそばで聞こえる。
彼の声は、言葉は、静かな低音を響きかせ、の耳に心地よく届いた。
最初に知り合ってから、服を返すという理由で再びここへ足を運んだ時。
やはりどこかホッとする空間には「また来てもいい?」と夏油に尋ねた。
彼は快く「もちろん、いつでも来たい時に来ていいよ」と言ってくれた事で、は夏油の言葉に甘えて毎日のようにここへ顔を出すようになった。
それは五条との距離が離れた事への寂しさだったり、不安だったり、そんな心の葛藤があったせいだ。
一人じゃ耐えられなかった。誰かに優しく寄り添って欲しかった。
その寂しさを埋めたのが、たまたま知り合った夏油であり、彼の齎すこの静かなる空間だった。
「そんな事は…ここへ来るだけで癒されてるよ…」
夏油には多少の事は話してある。
仲間の術師に告白され、ある理由のせいで拒否をしてしまったこと。
それ以来避けられていること。
その事実が悲しいこと。
本当は、彼のことを大切に想っていること。
夏油はそれらの話をいつも黙って静かに聞いてくれた。
そのおかげでは心の毒を吐き出せていたのかもしれない。
「それは…この場所だけ?私ではその術師の代わりにはなれないのかな…」
夏油は少しだけ腕の力を緩めると、の瞳を見下ろす。
その細められた目には仄暗い熱が灯っているように見えた。
「…代わりなんて…傑は誰かの代わりになるような人じゃないでしょ…?」
応えながら、は少し視界がふんわり揺れるような感覚に陥り、軽く頭を振った。
夏油の目を見ていると、まるで自分が惑わされているような気持ちになってくる。
部屋に漂う香の匂いが、酷く甘く感じた。
「いや…代わりでいいから…それでも私は…が欲しい」
「…傑…」
「会ったばかりなのに…おかしいかな?こんな風に思うなんて」
夏油の優しい声が少し遠くで聞こえる気がして、は軽く目を瞑った。
その時、額に柔らかいものを押し付けられた感触でゆっくりと目を開ける。
それは頬に、唇の横に、と順番に降って来る。
口付けられている―――。
そう頭では分かっているのに、抵抗が出来ない。
「…君の瞳を見ていると…不思議な気持ちになるよ」
「ダ…ダメ…見ないで…」
「何故?とても綺麗な瞳なのに」
やはりこの距離では夏油でも回避出来なかったか、とはサングラスを外した事を後悔しながら顔を反らした。
でも夏油の指がの顎を引き戻し、再び至近距離で二人の視線が絡み合う。
静かな部屋に霧雨の降る音だけが響く中、は熱い視線を向けて来る夏油の瞳を、ただ見ていた。
弱っている時に夏油に甘えてはいけなかった、という思いと、このまま甘えて流されてしまいたい、という思いが交差する。
「…君を愛している」
なのに、その言葉が耳から脳に伝わるまでの数秒で、おかしいという違和感を覚えた。
たかが一週間やそこらで"愛"など生まれない―――。
それは本能とも言うべき、の中の存在が感じたものだったのか。
だが気づいた時には遅かった。
ふと身を屈めた夏油は顔を傾けながらの唇を塞ぐと、彼女の体をゆっくりと横たわらせた。
つまり、が気づいた時には押し倒されていた。
「…んんっ」
何も抵抗することが出来ずに押し倒され、夏油に口づけられていると脳が理解するのに数秒ほどかかった。
しかも暴れようにも腕が上がらない。
こうなって気づいた。全身が酷く重い。
「ん…ゃぁっ」
合わさった唇の隙間から熱いものがぬるりと口内へ侵入してきた時、思わず拒否の声が漏れた。
だがそれも空しくすぐに舌を絡めとられ、器用な舌先が口内を余すことなく愛撫していく。
意に反して突然仕掛けられた甘い口付けに、抵抗したくても何故か出来ない。
夏油の体を押し戻そうという意思はあるのに、腕が重たく上がらないのだ。
「…はぁ…はぁ…」
ようやく解放された湿った唇が冷たい空気を感じ取る。
強引だったわりに蕩けるような口付けは、の息を乱していた。
「そんな顔をされると本気で我慢が出来なくなるね」
紅潮しているの頬を撫で、細めた目で見下ろしながら、夏油は心底楽しげな笑みを浮かべた。
その艶のある男の色香を漂わせた夏油の表情は、の知っている男とは違って見えて僅かに眉間を寄せた。
先ほどから気だるい身体も、目の前で笑みを携えている夏油も、どこかおかしい。
「私に…何をしたの…?」
「特に何も。ただ…女性を酔わせる香を焚いただけさ」
「…酔わ…せる?」
「君のフェロモンと似たような効果、と言えば分かりやすいかな?」
「……ッ?」
ニヤリと笑う夏油は、先ほどまでの優しい住職ではなく。
の知らない"男"だった。
「私のこと…知ってたの…?」
「いや、君がここへ来たのは偶然さ。ただ君のただならぬオーラと高専の制服を見て呪術師だと気づいただけ。あとは部下が私が離反した後の高専の事を調べてくれたんだよ」
「…離反…?」
そのワードは聞き覚えがあった。
そう、それは同級生だった七海が教えてくれた高専始まって以来の非術師殺しという大罪を犯した―――。
「アナタ…悟の…親友?」
「元、親友さ」
そこでは自分の愚かさを呪った。
七海から聞かされていたのは五条と家入の同級生だった術師が非術師を大量に虐殺し逃亡したという事。
そしてその男は五条の親友でもあった、という事だけ。
名前までは聞いていなかった。
まさか自分の会っていた夏油が呪詛師に堕ちた元高専生だったなんても思わない。
このままではマズい、と体を動かそうとはしたものの、やはり鉛のように手足が重たい。
「おっと。逃げようとしても無駄だよ。まだ体が動かないだろう?」
「……私を…どうする気?」
「別にどうもしない。言っただろ?私は君を愛してるんだ」
「はっ。会ったばかりで私の何を知って愛なんて言えるの?」
「時間は関係ないさ。私は君のその美しい容姿と、素晴らしい力。どちらも欲しい」
「…ゃっ!」
夏油は恍惚とした表情でに覆いかぶさると、その長い指で赤い唇をなぞっていく。
敏感な部分を愛撫するように撫でられ、ゾクリとした痺れが背中に走る。
瞳も潤み、頬が熱いのは部屋中に充満している香のせいかもしれない。
「君に物理攻撃は効かないんだろう?なら意識して避けられない匂いならどうかと思ってね。試してみたんだ」
こいつ、頭がいい、とは思った。
確かに鼻や口から勝手に体内へ入って来る煙や臭いは避けられない。
どこまで調べたんだ、と内心舌打ちをした。
「まあ、動けないだろうが一応、手足は拘束させてもらうよ。君の返事を聞くまでは」
「…返事…?」
と問いかけようとしたの上から夏油が体をよけると、次の瞬間には両手と両足に何かが巻き付いた。
見れば赤黒い触手がの手足を拘束している。
そして本体はアメーバーのようなグニョグニョとした動きで形を変えながらの腹へと乗って来た。
「ちょっと…!何よ、このキモいの!」
「ああ、それは私が取り込んだ呪霊のうちの一体さ。あまり動かない方がいい。そいつは若い女性が大好物でね」
「はあ?きゃ…ちょ、ちょっと…!」
足に巻き付いていた触手の一本がのスカート内へと消えて太ももに巻き付いた。
その感触に全身の鳥肌が立つ。
「何よ、このエロ呪霊は!サッサと外して!」
「まあ…君は通過自在という力を使えるんだろうから、体が動くようになったらいつでも逃げられるだろ?」
「……よく調べてるのね」
「私の後に君のような優秀な後輩が入ったなんてね。驚いたよ」
夏油はいつもの優しい笑みを浮かべての頬を撫でて来る。
はそっぽを向いてその手を払いながら、内心ヤバイな、と少しだけ焦っていた。
よりによって今日は新月。通過自在は使えない。それに普段よりは戦闘力も落ちる。
なのに最悪な事に、この夏油傑は五条と同じ特級呪術師だという事だけはでも知っていた。
「では本題だ、」
「…え?」
「私と一緒に…猿のいない世界を作ろう」
夏油はそう言いながら、妖しい笑みをへ向けた。
家入と話した後、五条は久しぶりに寮へ戻って来ていた。
しばらく開けてたせいか、室内は冷え切っている上に梅雨時期ともあってジメっとしている。
霧雨の降る中、窓を少しだけ開けて空気の入れ替えをすると、五条はバスルームへと入った。
サングラスを外して制服を脱ぎ去ると、熱いシャワーを顔から浴びる。
細身だった学生の頃より今の五条はバランスよく筋肉もつき、しなやかな肉体が出来上がりつつあった。
自分の術式を使いこなす為、色んな応用効果を試したり、それに耐えうるだけの肉体の強化も怠らずやってきた。
以前の五条の頭は常に己の術式の強化と戦いへの渇望しかなかった。
なのに今は一人の女の事で延々と悩んでいる。
両手で顔の水気を飛ばし、鏡に映った自分を見て五条は失笑した。
「情けな…」
呪霊相手ならどれほど強敵でも余裕で笑っていられるのに、惚れた女には強気で攻める事が出来ないなんて自分でも笑ってしまう。
"仲間のままでいれば、ずっと隣にいられるじゃない。五条の"
先ほど家入に言われた言葉が脳内でリピートされていて、五条の重かった心を軽くしていく。
もしがそんな思いで自分の告白を断ったなら、まだ諦めるのは早いという事だ。
「ったく。どれだけ振り回す気だよ、のヤツ…」
苦笑しつつシャワーを止め、バスタオルで濡れた髪を乱暴に拭きながら、五条はバスルームを出た。
新しいシャツに着替えボタンを留めながら、さてどうしたものかと五条は思案する。
はその住職のいる寺に毎日通っているようだが、まだ付き合ってるというわけではないらしい。
でも今のならいつその住職とやらを好きになってもおかしくはない気もする。
話しかけられるたび素っ気なく返すと、決まっては悲しそうな顔をしていた。
は人より数倍孤独に弱い。
もう恋愛はしないといったところで、その強がりがいつまでもつかどうか。
でもそんな本気ともつかない恋愛ごっこを、これ以上にさせる気は五条にもなかった。
「今夜は…が戻るまで待つか…」
から逃げずにもう一度、きちんと話せたら。そう思った時だった。
ケータイの着信音が鳴り響き、五条は先ほど脱ぎ捨てた制服の上着を手に取った。
そのポケットの中からケータイを取り出し相手を確認すると、それは補助監督の安田からだった。
本来なら任務で一緒になってもいない補助監督から術師に電話がくる事など殆どない。
だからこの電話はそれほど急用だというのを暗に示している。
そして安田は今 のサポートをする事が多いと五条は知っていた。
「もしもし?どーした?」
『あ、っご、ごご五条さんっ!』
嫌な予感がしてすぐに出ると、通話口の向こうから安田の慌てた声が耳に飛び込んで来る。
「落ち着いて!に何か―――」
『げげ、夏油です!』
「……は?」
突然その名を出され、五条の思考が一瞬止まる。
てっきりの事でかけてきたのかと思っていたら、出て来たのは自分達を裏切った旧友の名前なのだから当然だ。
「夏油…って傑がいたのか?」
『は、はい!さんを迎えに来たら―――』
「ちょ、ちょっと待って!?!を迎えにってどこに…」
『お寺です!最近知り合ったお坊さんの所へさん毎日通ってて―――』
「それはさっき硝子にも聞いた。で?」
『いつも同じ時間に迎えに行ってたんですが今日に限ってなかなか出てこないので寺の敷地へ入ったんです…。そ、そしたらさんが会っていたお坊さんが―――』
「…傑?!」
『は、はい…!』
その話を聞いて五条は驚愕した。
まさかそんな偶然があっていいわけがない。
(どういう事だ?傑はが呪術師だと知っていて近づいた?それとも知り合ってから気づいた?)
五条も少し混乱していた。
だが『五条さん!さんは夏油に捕まってるようです!』という安田の言葉に、ハッと我に返る。
「捕まってるって…まさか…あのだぞ?そう簡単に捕まるわけ―――」
『それは分かりませんが本当なんです!庭から盗み見た感じでは自分の力では動けないように見えました…!』
「そんなバカな……」
あのが捕まるなどあり得ないと思いながら、夏油なら何をするか分からないという気持ちも湧いて来る。
当然、夏油の強さは五条がよく知っている。だがだって夏油に負けないくらいに強い。
そのが動けず拘束されるなど、何か予期せぬ事が起きたのかもしれない。
そう思うと不安が足元からこみ上げて来る。
は不老不死だが殺す方法はあると言っていた。現にの先祖とダイアナは死んでいる。
そして夏油がその方法を入手していない、と言う保証はないのだ。
「そこの場所は?!」
五条は寺の場所を安田から聞くと、上着を羽織って勢いよく部屋を飛び出した。
2018年、7月。
「あ、悟!見て見て、じゃがバター!」
五条と、そして後輩の七海の三人で出張に来た北海道、札幌市。
大通公園を歩いていると早速がまず一つ目の名産物を見つけて嬉しそうに五条の腕を引っ張った。
無邪気に喜ぶ可愛い恋人に手を引かれ、頬が緩みっぱなしでついて行く五条を見て、七海は本日20回目の溜息をついた。
本当なら北海道への出張は七海一人のはずだった。
なのに半ば強引に着いて来た五条はちゃっかり恋人同伴で空港へ現れた。
七海の同級生であり、七海が五条と同じレベルで警戒しているその人だ。
二人が目の前に現れたその瞬間から、すでに七海の悪夢は始まっていたのだ。
そのせいで七海の溜息は行きの機内の中でまず15回ほど消化されている。
二人は公園内に出ている屋台まで行くと、仲良くジャガバターを買い込み、その場で食べだした。
相変わらずの食欲を発揮しているは「おいひー」とご満悦な顔でジャガバターを頬張っている。
五条も「うま!」と言って感動していたが、時折の口元についたイモを指で拭ってあげている。
が、最後は舌でペロリと唇についたイモを舐めとった事で、真っ赤になるを見ては更にニヤケていた。
「………(真昼間から何してんだ、あの人は)」
そのイチャつきはイラつくものの、人が食べてるのを見ていると何故か自分も食べたくなる。自然の摂理だ。
例外なく七海もその一人だった。
そのまま食欲に従い、七海も屋台へ歩いて行くと、早速面倒な先輩がニヤケ顔で話しかけて来た。
「ねーねー七海ー。ジャガイモ焼いたやつにバター乗っけただけの料理売るんだぜ?ウチで作っても手間かかんないよ、これ」
「石焼き芋も同じようなものでしょう」
「言われてみればそりゃそうだ。さすがだな、七海。目の付け所がサングラスの奥」
「ただの眼球の位置情報でしょ、それ」
「ところで七海、ジャガイモのジャガって何?」
「ジャカルタ港から日本に輸入されたから、という説があるとか」
「何で即答できんの、オマエ。怖っ」
「逆に何で知らないんですか。日本で二番目にジャガバター好きな男が」
「所詮二番目は二番目だよね。目指すならナンバーワン…っつーか、まだ食うの?」
七海と会話中、チラチラとの事を気にしてみていた五条は再び屋台でジャガバターを買っているを見て苦笑い浮かべた。
「だっれおいひいから」
「何言ってっか分かんないからね?」
「んほ?」
「かーわいいねえ、は」
ジャガバターを頬張る恋人を見ながら、いつにも増して頬の筋肉を緩める五条は、イモを頬張り膨らんでいるの頬にちゅーっと長い口付けをし始めた。
それを目の前で見ていた七海は細い目を更に細くさせつつ、見なかった事にしよう、と自分も屋台の店主に声をかける。
「ジャガバター下さい。トッピングは塩辛で」
「え、何ソレ。そんなのあんの?」
五条はトッピングと聞いて不思議そうな顔をしている。
そしてやはり五条も食べたくなったのか、ジャガバターをもう一つ注文して食べ始めた。
「やっぱ美味しい。ホックホクだよ、ホックホク」
「ウチで焼いてもこうはいきませんよ」
「いやマジでね。ナメてたわ、ジャガバター。屋台で焼くだけの事はあるわ」
「ビールが欲しくなってきますね。やっぱり仕事の後にすれば良かった」
「んで、その塩辛乗せたの美味いの…?」
五条は七海のトッピングに興味津々で訊いて来る。
「塩辛乗せると美味しいですよ。あげませんけど」
「いや、いらねーよ。ビジュアルがこの間祓った呪霊に似てるし」
「あははは!悟、それは言っちゃーダメなやつ~!」
「…………」
気分転換にでも、と受けた北海道出張。
バカップルのせいで着いて早々ストレスが溜まって来た七海だった…。
小説ネタですが会話がかみ合ってないんですよ笑
大通公園はよく行ったけどジャガバター確かに美味かった。