灰色の世界⑶
と初めて言葉を交わしたのは中学二年の頃だった。元々クラスメートで存在だけは知っていた。クラスの中でも一際小柄で女の子らしい印象。人見知りだったようで、あまりクラスの女子と馴染めていないというのは他人に興味のないオレでも薄々気づいていた。その代わり、男子からは結構話しかけられていたようにも思う。小動物みたいで素直そうなところが、男の目を引いたのかもしれない。実際、はよくモテた。
オレはオレで特に誰と親しくするでもなく、毎日を漠然と過ごしていて。時々フラっと現れる怪しい白髪の男の存在に少しだけイライラしていた日々だった。顔も知らない父親に禪院家へ売られそうになったオレを、救い出してくれたのはその男だというのも気持ちを鬱々とさせた。代わりにオレは中学を卒業したら呪術師とやらにならなければいけない。善人でもないオレが、どのツラ下げて他人を助けるというんだ。
日増しに募っていく訳の分からない苛立ちを、群れて弱い者イジメをしていた不良達にぶつけながら、ただ息をしているだけの日常。義姉の津美紀に叱られても、あの頃のオレは何も感じなかった。綺麗事ばかり並べ立てる津美紀にイラついてさえいた。他人のことなどどうでもいいし、正直クラスの女子がを無視したり、当番を押しつけたり、そんなイジメのようなことをしているのに気づいた時も、いつものように妙な苛立ちを覚える程度だった。
善人が嫌いだ。悪人を許容し、結果つけあがらせる。
「あ、さーん。掃除当番変わってもらっていいかなー?私これから塾があるのー」
「あ…うん。いいよ」
「ありがとー!助かるわー」
クラスでも目立つグループの酒井って女は、いつも何かしらの理由をつけてに自分の当番を押し付けていた。明らかに嘘だと分かりそうなものなのに、それをバカ正直に信じて受け入れる。そんなのことも、見ててイライラした。
「千夏ってばまーたさんに当番押し付けて」
「いいんだって。あの子、何でもうんって言うし、やらせておけばいいんだよ。男子にいい子って思われたいんじゃない?」
「確かに。あの子って女子とは話さないくせに男子とは話しちゃって何かイラっとくるしねー」
そんな妬みたっぷりの感情を口から吐きだすこの女達にもイラついた。自分達が彼女を無視しているクセに、女子とは話さないなんてよく言える。下らない。程度の低いプライドを満たすために、他人を貶める悪人でしかない。結局、自分にはない何かを持っている人間を妬むことしか出来ないクズだ。そしてそんなクズに足蹴にされているとも知らないで、は教室の掃除をバカ丁寧に頑張っていた。誰も真面目にやっていないのに、一人だけ黙々と手を動かす。そんな姿を見ていると、どうしようもなく腹が立った。
「…伏黒…くん?」
が運ぼうと手を伸ばした机をガンっと蹴とばすと、彼女は酷く驚いた様子でオレを見上げた。
「オマエ…バカじゃねえの」
「…え?」
第一声がそれ。きっとには意味が分からなかっただろう。本気でキョトンとした顔をしていた。怒っても良さそうなものなのに、彼女の色素の薄い瞳に、怒りの感情は浮かんでいなかった。普通、いきなりバカだと言われたら、誰だってムっとはするものだ。なのに、彼女にはそれが一切なかった。
「あ…ご、ごめんね。この机、使ってた?」
「…は?」
何とも的外れな勘違いをしたようで、はわたわたしながら謝って来た。は何も悪いことをしていないのに、申し訳なさそうにオレを見上げる。その顔を見ていると、オレの中に小さな罪悪感が芽生えて、何とも居心地の悪い空間になった。
「別に謝るようなことしてねえだろ、オマエ。何で謝んだよ」
「え…だって…伏黒くん、何か怒ってるし…」
「チッ…別に怒ってねえ」
「あ、伏黒くん…っ?」
それ以上、向かい合っていたら更に酷い言葉を吐いてしまいそうで、オレは早々に教室を後にした。どんな親に育てられればあんなお人よしに育つんだ。きっと両親から甘やかされて愛情たっぷりに育てられたんだろう。オレとはまるで正反対。そう思っていた。の家の噂話を、聞くまでは。
ある日の昼休み、机に突っ伏してウトウトしていたオレの後ろの席で、酒井を含めたクラスの女子どもがの噂話を始めた。
「さんって両親いないらしいよ」
「ウソ―何で?死んだの?」
「ううん。どっちも愛人作って蒸発だって。さん、小学校の頃に置き去りにされて今は施設から学校に通ってるっぽい。同じ小学校の子が言ってたから間違いないよ」
「え~置き去りってひっさーん。私なら恥ずかしくて学校来れない~」
「あの子、一人っ子みたいだし、ガチで天涯孤独じゃん」
そんな会話が聞こえて来て、オレは少なからず衝撃を受けた。彼女が自分と似た境遇だったこと。なのにそんな素振りさえ見せないで明るく振舞っていること。オレには津美紀がいたけど、は置き去りにされた時点で独りぼっちになったのだ。想像しただけで恐ろしいほどの孤独。そんなことすら感じ取れない女達は、更に醜い嫉妬を吐き散らしていた。
「あ~でもそれ聞いて納得。男子に媚びるのは母親の血を引いてるんだよ、きっと」
「そうかもねー。愛人作って蒸発しちゃうような母親じゃあね~」
限界だった。
「男に媚びてんのはオマエらだろ」
いつも目当ての男どもに媚びた笑みを浮かべてベタベタしているのは酒井達だった。相手にされない嫉妬や苛立ちを、男達に好かれているに向けているに過ぎない。色んな感情が渦を巻いて、ついそんなことを口走っていた。体を起こし、後ろを振り返ると、バカ女どもは驚いたような間抜け面をしていたが、最後はオレを睨みつけてきた。
「何よ、伏黒。アンタもあーいう女、タイプなんだ」
「いいよね~さんは。親がいなくたって守ってくれる男がわんさか寄って来るんだもん」
悪人が嫌いだ。他人を羨み、妬み、醜い嫉妬を周囲にまき散らす。親に捨てられても、周りを大切に扱う。まともな家庭に育ちながらも人を見下し、踏みつけようとするコイツら。どっちが上等な人間かなんて、オレでも分かる。
「オマエらはかわいそうだな…。まともな環境で育ったわりに、頭が弱くて」
「な…何なの?コイツ!」
「何でもいーけど、オマエらのその更地みたいな想像力をよーく膨らませてみろよ。親が急にいなくなった時のこと」
「はあ?」
「そうすれば他人の痛みが少しは分かるんじゃねーの。まあ足りない頭じゃ想像すら出来ないか」
それだけ言って席を立つ。午後の授業は受ける気がなくなった。ポケットに手を突っ込み、欠伸を噛み殺しながら教室を出ようとした時、「そんなにさんが好きなんだ」と悔しまぎれの言葉が背中に飛んで来る。コイツらの知能は猿以下かもしれないと苦笑が洩れた。
「オレ、のこと好きだって一言も言ってねえけど」
「嘘つかないでよ!カッコつけちゃって!そもそもあの子に入れこんだところで無駄だと思うけど」
「…オマエさあ…マジでバカだな」
甲高い声が耳障りでうんざりした。酒井は更に高い声で言った。
「三年の先輩が目ぇつけてるみたいだし今頃やられちゃってるよ、きっと」
「……は?」
「さっき呼び出されて素直に行ったみたいだし、さんも男好きみたいだからその気なんじゃないかな」
「三年…?」
「三年の神田先輩よ。あの人、さんみたいな子が好きみたい」
「あっそ。オレには関係ねえ」
バカ女の相手も疲れて、オレはそのまま教室を出た。そろそろ昼休みも終わる時間で、廊下は教室に戻ろうとする生徒達が次々に走って来る。その中に彼女はいなかった。
「神田、ね…」
確か三年を仕切ってる不良グループのトップだ。ケンカも強いが女好きで、目の付けた女を口説いてはヤり捨てしてるっていうろくでもない噂しか聞いたことがない。
「のヤツ…分かってて呼び出し受けたのか…?」
不良と何も接点のなさそうなが呼び出しを受けたと聞いて、少しだけ嫌な予感がした。はポヤっとしてて隙だらけなところがある。明らかに男好きのするタイプだ。だから神田に目を付けられた。もしかしたらアイツは何も知らず、呑気に行ったか、神田の仲間に脅されて連れて行かれたのかもしれない。
「…クソッ何でオレが――」
気づけば踵を翻し、廊下を走っていた。お人よしで、どっか抜けてる女のことなんて放っておけばいいと頭では思うのに、なまじ同じ境遇だなんて聞いてしまったせいで、アイツの気持ちが手に取るように分かってしまう。これ以上、傷が増えたら彼女はどうなる。今まで通り笑えるのか?無理だろ。そう思ったら必死になってを探していた。神田のグループは使われていない部室をたまり場にしていたはずだ。廊下を走り、外へ出ると、一気に校舎の裏手に回った。そこに使われていない部屋がいくつかある。教師も怖がって寄りつかないせいで、三年の奴らは好き勝手やりたい放題だった。
「…ぃやぁぁっ」
「―――ッ?」
その時、部室の方からかすかに女の声がして足を止めた。やはりここに連れ込んだらしい。
「クソッ、あんのバカ…!」
(知らないヤツについて行くから危ない目に合う。何でそれが分からない――?!)
よく分からない怒りに任せてドアを蹴破れば、部屋の奥の方で三年の男達が5~6人固まっているのが見えた。その奥に涙で顔をグチャグチャにしたがいた。手足を男達に拘束され、制服のシャツは脱がされている。その光景を見た瞬間、体中の血液が沸騰して、力が拳に集中していくのを感じた。
「…下衆どもが」
「あ?テメェ、二年の伏黒じゃねーか」
「あ~オマエが最近調子こいてるってやつか」
目の前に見かけたことのある男ふたりが歩いて来る。コイツらはここで潰しておかないと、また同じことをする。
「ソイツを放せ」
「はあ?何だよ…オマエも仲間に入りたいってか?」
「邪魔すんじゃねーよ、伏黒!いい機会だからここでボコってやろうか?」
「いーから全員でかかって来いよ」
「舐めやがって――!」
怒りに任せて一人が突っ込んで来る。後は、全身に滾る怒りを解放するだけで良かった。
あの時――は泣き顔でオレを見つめながら「伏黒くん、逃げて!」と叫んでいた。こんな時まで他人の心配かよって腹立たしく思いながら、その怒りは全て三年の奴らにぶつけた。二度と他人を踏みにじることが出来ないよう、徹底的に痛めつけたから、オレは中学では異例の停学処分になったけど、どうせ卒業後には高専に入る。オレとしては痛くもかゆくもない処分だ。なのには全部自分のせいだと思い込んで、それ以来、オレにまとわりつくようになった。
「えっマジ危なかったんじゃない、それ!」
私はの話を聞いて、顏から血の気が引いた。
一週間に一度の休日。予定通り私はを誘い出し、渋谷に遊びに来ていた。伏黒はいい顔こそしなかったものの、が「野薔薇ちゃんと買い物したい」と言ってくれたおかげで、アイツも渋々許可してくれたらしい。二人で渋谷の色んなお店を見て回り、疲れたところで洒落たカフェに入り休憩することにした。そこで、この前聞きそびれた伏黒とのなれそめを訊いてみたところ、「恵には内緒ね」と言っては話し出した。でもその内容は思っていたよりもハードだった。
最初に聞いた話では"が不良に絡まれたところを伏黒が助けた"ということだったけど、絡まれたどころの話じゃない。今聞いたのは女としての尊厳を奪う犯罪行為であり、はその被害者だ。未遂で終わったから良かったなんて簡単な話でもないはずだ。トラウマになっていてもおかしくないレベル。なのには嫌な顔を一つせず、話してくれた。
「な、何かごめん…興味本位で聞いちゃいけなかったやつだよね…」
「え、何で?野薔薇ちゃんが謝ることないよ。悪いのはあの不良達だし。それにわたし、恵に助けてもらって嬉しいって記憶の方が強いから平気だよ」
「……」
何て健気なの、と泣きそうになった。今ばかりはを救った伏黒を盛大に褒めてやりたい気分だった。
「でもその三年の男ども最低だよ…大勢で乱暴しようとするなんて」
拳をテーブルに叩きつけると、は「落ち着いて、野薔薇ちゃん」と慌てている。でもいくら過去の話と言えど落ち着けるはずがない。もしその男どもが目の前にいたらボッコボコのバッキバキに叩きのめしてやる。それこそ伏黒以上に、ソイツらを辱めてやりたい気分だ。なのに当事者のは穏やかな笑みを浮かべているんだから嫌になってしまう。
「あの時は…怖かったけど…その後ね、恵に怒られた時の方が怖かったんだ」
「は?アイツ、そんな怖い目にあったを怒ったの…っ?」
「うん。バカヤロウ!ってすごい剣幕だった。よく知りもしない男に呼び出されて簡単に行くんじゃねえ!って」
「……」
(前言撤回!褒めてやろうと思ったけど、追い打ちかけてどーすんだ、伏黒!そういう時は優しい言葉をかけてそっと抱きしめてあげるもんだろが!)
沸々と怒りを滾らせていると、それでもは楽しそうに笑っている。
「怖かったけど、でも凄く嬉しかったんだ、わたし」
「え?嬉しいって…」
「だって…それまで殆ど話したこともなかった恵が、わたしを助けに来てくれて、それで本気で叱ってくれた。そんな人、私の周りにいなかったもん」
「……」
「その時ね、"ああ、この人の傍にいたい…"って思ったの」
はとても幸せそうに微笑んだ。本当に伏黒のことが好きなんだと伝わって来る。はその想いを叶えられたんだな、とガラにもなく私まで嬉しくなった。
「じゃあ…それがキッカケで付き合うようになったんだ」
「あ、それは違うの」
「……へ?」
紅茶を飲もうとした手が止まる。
「違うって…」
「それが恵と親しくなったキッカケにはなったのかもだけど、付き合ったのはもっと後なんだ」
「え、そうなの…?」
「あ、わたしは恵のこと好きになっちゃったんだけど…恵は素っ気なくて…女に興味ないって感じだったし」
「あー…まあそんな感じよね、アイツ。でもその興味のない男をどうやってその気にさせたのよ」
今度こそ紅茶を飲みながら訪ねると、は頬を赤らめて、
「わたしから…キス、しちゃった」
「……ぶーッ!!」
思わず紅茶を吹き出した。爆弾発言をかました本人は呑気に「えへへ」と笑っている。見た目に反して何て大胆な子だとしばし呆気に取られた。でもあの仏頂面の伏黒が、いきなりキスをされた時の顔を想像すると、ちょっとだけ笑えて来た。