ふと顔を上げて窓の外を見れば、落ち葉がヒラヒラと舞っていくのが見えた。
「はぁ…」
軽く息をついて椅子に凭れかかると、目の前の書面を眺める。
歩けるほどにはなったが、まだ通常の任務をこなすのは無理という事で、今週いっぱいは大事を取れと内勤に回されたのだ。
今はこの前の件の報告書を書くよう、市丸隊長に言われていて、途中まで書き終えたところ。
もちろん怪我が完治するまでは、隊長との剣術指南も一時休止、橘さんにも「鬼道を教えるのは歩けるようになってから」と言われている。
だから仕方なく言われたとおり報告書を書いてるんだけど、元々苦手な作業なのもあり、なかなか筆が進まない。
やっと半分まで進んだ所で、一休みしようと立ち上がったその時…
「あれ、くん」
「あ、吉良副隊長…」
そこに三番隊・副隊長が顔を出し、慌てて一礼すると、彼は、「そんな畏まらないでいいよ」と笑った。
「もう終わったのかい?」
「い、いえ…まだ半分までしか…すみません」
「いや急ぐものじゃないんだし別にいいよ。それより丁度良かった」
「…え?」
「くん、今から少し暇かい?」
「はあ…特に用事はないですけど…」
時刻を見れば、もうお昼も過ぎていて、そろそろ遅い昼食でも、と思っていたところだ。
「今から雛森くん達と昼食を食べるんだけど、くんも誘ってくれって雛森くんが言ってるんだ」
「…え?」
「君と雛森くんは幼馴染なんだってね」
「あ、はい…」
「最近、副隊長になって忙しくなってから、ゆっくり話してないって言ってたから」
「ホントですか?…じゃあ、ご一緒します」
一応お弁当も作ってきたが、吉良副隊長に言われては断れない。
それに私も久しぶりに桃に会いたかった。
「お待たせしました」
「じゃあ行こうか」
私はすぐに書類を片付けると、吉良副隊長と隊舎を後にした。
そのまま二人で食堂に行けば、窓際の席に懐かしい笑顔がある。
私が手を振ると、桃も嬉しそうに手を振ってきた。
「!」
「桃ー!久しぶり!」
私達は手と手を取り合って、暫し昔のようにはしゃぎあった。
「元気だった?」
「うん、まあ何とか」
「あ、そうだ!、昇進おめでと!五席になったんだってね」
「う、あ、うん…まあ」
「何よ、浮かない顔しちゃって」
そう言って笑うと、桃は吉良副隊長に目を向けた。
「もしかして吉良くんにイジメられてる?」
「えっ?!ま、まさか!」
「そうだぞ、雛森くん…僕はイジメなんて卑怯なマネはしないっ」
桃の言葉に吉良副隊長は慌てて首を振っている。
その姿を見て、桃は「ぷっ、冗談よ」と笑った。
それには吉良副隊長もホっとしたような顔で、「からかうなよ」と椅子へ腰をかける。
二人は真央霊術学院からの友達らしく、気兼ねせずに接していて、仲が良さそうだ。
「じゃあ食べよっか」
「うん」
久々の再会を喜んだ後、私達はテーブルにつき、ランチをとることにする。
それからはお互いの近況報告をしたり、他愛もない話に花を咲かせた。
女のおしゃべりに、吉良副隊長はついていけないのか、ただ黙って相槌を打ちながら、静かに食事をしている。
「でもが三番隊に移籍しちゃったから、シロちゃんも寂しがったでしょ」
「…まさか。だって十番隊舎に遊びに行ったら、"また来たのか"みたいな目で見るのよー?」
「あははっ。シロちゃんは素直じゃないから」
桃はそう言って笑うと、「でも三番隊なら吉良くんがいるから安心」と、隣の吉良副隊長を見た。
「吉良くんはシッカリしてるし優しいから」
「持ち上げても何も出ないよ?」
吉良副隊長は照れ臭いのか、そう言いながら苦笑いを浮かべている。
「でもホントに良くしてもらってるから」
「でしょ?何か困った事があったら吉良くんに頼みなね?」
「えっで、でも…」
「そうだよ。何でも言って」
吉良副隊長は優しい笑顔を浮かべて、そう言ってくれた。
副隊長に直々にそう言われ恐縮していると、桃がふと私を見て、
「そう言えば吉良くんから聞いたんだけど、市丸隊長と知り合いだったのね」
「あ…知り合いって言うか…前にちょっと助けてもらっちゃって…」
「うん、それ聞いた時、ビックリしちゃった!あの市丸隊長が助けてくれるなんて」
桃はそう言いながら苦笑いを浮かべている。
「市丸隊長って、何て言うか何を考えてるか分からないでしょ?」
「そ、そう…かな?」
内心、私もそう思うことはあったけど、吉良副隊長の手前、「そうなの」とは言えず、笑って誤魔化した。
すると桃は声を潜めて、
「それに市丸隊長って、いつも笑顔なんだけど、どこか冷たそうって感じじゃない?」
「おい、雛森くん…。うちの隊長を悪く言うなよ」
「うわ、出た。吉良くんってホント、市丸隊長のこと大好きなんだから」
「うるさいな…。雛森くんだって自分のとこの隊長が大好きなクセに!」
桃にチクチク言われ、吉良副隊長も言い返す。
二人は特進学級からの仲だし、いつもこんな感じなんだろう。
「それに市丸隊長は雛森くんの前に五番隊で副隊長をしていたんだぞ?いわば雛森くんの先輩だぞ?もっと敬えよ」
「はいはい。分かってますよー」
「それに、いつも藍染隊長の事は誉めるけど、あの時僕らを助けてくれたのは市丸隊長でもあるんだからな?」
「はいはい、そうでした」
「……む」
二人の言い合いに入っていけず、傍観していると、そんな会話が耳に飛び込んできた。
「え…あの市丸隊長って…元五番隊だったっけ」
「ああ、は後から学院に入ってきたから知らないのよね」
「う、うん。私はシロちゃんと一緒に入ったから…」
「市丸隊長は元々五番隊で副隊長をしてた人なんだ」
不思議そうな顔をしている私に、吉良副隊長が説明してくれた。
「僕らがまだ真央霊術学院の学生だった頃、魂葬の初実習で大量の虚に襲われた事があってね。
引率してくれていた先輩が二人殺されて、僕や雛森くんも襲われそうになったんだ。その時、助けに来てくれたのが、
藍染隊長と、当時五番隊の副隊長をしていた市丸隊長だったんだよ」
吉良副隊長はその時の話を嬉しそうに話してくれた。
それを聞きながら、桃もどこか嬉しそうだ。
「そうだったんですか…」
「だから私、藍染隊長の隊に入りたくて、その後もキツかったりしたけど頑張れたの。今は副隊長にまでなれて幸せなんだ」
そう言う桃の表情は、それまで見た事もないくらいに幸せそうで、本当に藍染隊長を慕っているようだ。
きっとその時助けられた事が、桃の将来を決めたんだろうと思った。
吉良副隊長もきっと、そんな憧れを持って市丸隊長に就いているんだろう。
少なからず、私だって市丸隊長に助けられた時は、憧れた事もあった。
まあ最近はよく話すようになって、一年前のイメージが、少しだけ崩れたりもしたんだけど(!)
「私も頑張らなくちゃ…」
そう言うと、桃も吉良副隊長も、優しく微笑んでくれた。
「それじゃも頑張って!早く足の怪我、治してね」
「うん。桃も怪我に気をつけて頑張って!」
ランチも終わり、私と桃はそこで別れた。
私も戻って、また書類の続きをやらなければならない。
「さ、僕らも戻ろうか」
「はい」
吉良副隊長に促され、二人で三番隊舎へと歩き出す。
「ああ、もうこんな時間か…。隊長、ちゃんと仕事してるかなぁ」
ふと吉良副隊長が呟く。
そう言えば朝から市丸隊長の姿を見ていない。
「隊長はお昼も食べないで、まだ仕事してるんですか?」
私が訪ねると、吉良副隊長は苦笑しながら、頭をかいた。
「いや…実は隊長、普段はサボってばかりだから書類が溜まっちゃって…今日こそは抜け出さないで全部の書類に判を押して下さいって頼んだんだ」
「え…そう…なんですか?」
まさか隊長ともあろう人が、サボるだなんて思いもよらず、私は目を丸くした。
そんな私を見て、吉良副隊長は苦笑いを浮かべると、「まあ…ああいう方だから」と言って、執務室のドアノブに手をかける。
その時、背中にビリビリと、電気が走ったような、強い霊圧を感じた。
「ああいう方って…どんな方なんや?イヅル」
「う―――」
突然背後で声がして、私と吉良副隊長はその場にビシっと固まった。
抑えていても分かるほどの、この霊圧…振り向かなくても誰かは分かる。
「い…市丸隊長…」
「ボクに仕事を押し付けといて、イヅルだけちゃんとランチやなんて…酷いんちゃうの?」
「えっ!い、いや、だって………」
スネてる市丸隊長の言葉に、吉良副隊長は一瞬、焦ったように顔を引きつらせた。
が、ふと思い出したように、目を細めると、
「…って言いますけど!市丸隊長が普段の執務を怠るから、あんなに仕事が溜まってしまったんじゃないですかっ」
「……うわ、やぶ蛇やったわ…」
痛いところをつかれ、市丸隊長は首を窄めると、慌てて逃げ出そうとする。
が、こういう時の吉良副隊長は何気に厳しいらしい。
素早く市丸隊長を捕まえると、そのまま執務室に連行(!)して行った。
「はい!きちんと仕事して下さい!今日中に終わらせる約束ですからね!」
「…そんなぁ…ボク、まだお昼も食べてへんねんで…?これ以上食べへんかったら痩せてまうわ…」
「なら出前をとればいいじゃないですか。ああ、くん。市丸隊長のお昼、頼んでもらってもいいかな」
「え?あ、は、はいっ」
二人の関係が逆転してる光景を地味に楽しんで見ていると、いきなり話を振られ驚いた。
急いで出前用のメニューを持ってくると、ぶすーっとした顔で机に向かってる市丸隊長へ手渡す。
なのに市丸隊長はウンザリ顔で溜息をつくと、
「はあ…出前なんて空しいなぁ…。出来ればボクもちゃんとランチしに行きたかってんけど…」
「隊長がお仕事を終わらせてくれてたら、一緒に行けたんです」
「…イヅルってほんま、こういう時はSやな…」
市丸隊長はそんな事を言いながら、メニューをペラペラとめくる。
が、それほど食べたいものはなかったのか、それをポンと放ると溜息交じりで机に顔を突っ伏した。
「隊長…?」
「はあ…何や、愛のこもった暖かーい手作り料理が食べたいなあ…」
「…はい?」
「最近、こんなんばっかやし…力が出ぇへんわぁ…」
「市丸隊長!またそんな我がまま言って仕事サボろうって言うんですかっ」
「…イヅルの鬼…」
市丸隊長はそう言って目を細めると、(元々細いけど)目の前の書類の山を見て溜息をついている。
そんな隊長を見て、私は内心、笑いを噛み殺していた。
ぷぷ…何か…市丸隊長って子供みたい…
私が知ってる市丸隊長は、あの巨大な虚も一瞬のうちに倒しちゃうくらい、強い死神なのに、
今は吉良副隊長に主導権を握られて、スネちゃってる。
何か……可愛いかも。
って、シロちゃん相手ならともかく、市丸隊長に向かって"可愛い"なんて、口が裂けても言えないんだけど…
でも…ホント、少し疲れた顔してる…
最近、私の剣術指南に付き合ってもらって、殆ど朝帰りだったし…
あ、そうか…。だから昼間のお仕事もきつくて出来なかったのかな…
そう考えてると、自分にも責任がある気がしてきた。
「ほら市丸隊長!早く食事を済ませて、仕事に戻って下さい。今日中に判を押してもらわないといけない書類がこんなにあるんですよ?」
「…せやかて食べたいもんあらへんねんもん。ボクが食べたいのは手料理や」
「手料理って…出前だって言ってみれば手料理ですよっ」
「…イヅルのあげあし取り…」
「…む」
二人は互いに目を細め、睨みあっている。
その様子を見ていて、止めようか迷っていたが、ふと思い出した。
「あ、あの…市丸隊長…」
「ん?何や?ちゃん♡」
市丸隊長はぶすっとしていた顔を急に和らげると、私にニッコリ微笑んだ。
その態度の違いに、吉良副隊長は更に目を細めている。
それには顔が引きつったけど、仕方なく二人の方に歩いていった。
「あ、あの…私が作ったので良ければ…お弁当があるんですけど」
「…え?」
「くん?」
私の言葉に、吉良副隊長が訝しげな顔で振り返った。
「あ、実は私、よくお弁当作って来てて…。でも今日は吉良副隊長と食堂で食べたし、どうしようかなって思ってたんです」
「そうだったんだ。それは悪かったね。急に誘っちゃったし…」
「い、いえ!桃にも久しぶりに会えたし、私は嬉しかったんで…」
恐縮する吉良副隊長にそう言いながら、自分の荷物からお弁当を出して市丸隊長へと差し出す。
そんな私を、市丸隊長は驚いたような顔で見上げた。
「………」
「あ、あの、やっぱり、こんなの隊長のお口に合わないですよね…ごめんなさい」
何も言わない市丸隊長に、ああ、隊長にお弁当なんて変な事、言っちゃったかな、と、すぐに手を引っ込める。
が、その瞬間、いきなり引っ込めかけた手を掴まれ、驚いた。
「食べる!食べるで、お弁当」
「え…?」
「それ、ちゃんが作ってくれたんやろ?」
「え、ええ…でも別に隊長に作ったわけじゃ――」
「ひゃぁ〜嬉しいなあ〜♪ちゃんがボクに手作りのお弁当、作ってくれるなんて♡」
「え、ええっ?」
市丸隊長の勘違いな言葉にギョッとする。
でも市丸隊長はホントに嬉しそうな顔で、「ほんまに食べてええの?」なんて聞いてくるから、つい頷いてしまった。
「おおきに♪」
あの市丸隊長が、満面の笑みでお礼を言うから驚いたけど、いつもの胡散臭い笑顔ではなく、それが本心からのものだと気づき、私も何となく嬉しくなった。
こんなに喜んでくれてるなら、勘違いされてもいいか、と思いつつ、市丸隊長の為に、お茶を淹れて来る。
そんな様子を見ながら、吉良副隊長は苦笑いを零すと、「僕は他に仕事があるから」と、私の肩を叩いた。
そして美味しそうにお弁当を食べてる市丸隊長をチラっと見ると、
「それで…ここはくんに任せていいかな」
「え?あ、はい。じゃあ私もここで仕事します」
「ああ、頼むよ。僕の机、使っていいし。あ、でも市丸隊長が抜け出そうとしたら絶対!止めてくれるかな」
「…は、はい…頑張ってみます…」
怖い顔でそう言ってくる吉良副隊長に、笑顔が引きつりながらも頷く。
この様子だと、いつも市丸隊長に逃げられてるんだろう。
「ちゃんがおるなら逃げへんよ」
「…えっ?」
その時、吉良副隊長の言葉が聞こえたのか、市丸隊長がそんな事を言ってニヤリと笑っている。
それには吉良副隊長も苦笑いを浮かべつつ、
「どうやら市丸隊長はくんが相当、お気に入りらしい」
「…へ?」
「というわけだから、市丸隊長のこと宜しく頼むね」
「え、ちょ…」
言葉の真意が分からず、戸惑っている私を残し、吉良副隊長はサッサと執務室を出て行ってしまった。
無常にも閉じられたドアを眺めつつ、チラっと振り返れば、市丸隊長が、ちょうどお弁当を食べ終わるところだった。
「ご馳走さん!」
「い、いえ…」
「めっちゃ美味かったわ。ちゃん、料理作るのうまいなあ」
「そんな事…。子供の頃からやってて慣れてるだけです」
そう言いながら綺麗に片付いたお弁当箱を仕舞う。
市丸隊長に残さず食べてもらえた事が素直に嬉しかった。
「そっか、ちゃんは子供の頃から自分で料理してたんや。どおりでな」
お茶を淹れなおしていると、市丸隊長はそう言って微笑んだ。
「ええ、奥さんになりそうやわ」
「…お、奥さんって……」
いきなり、そんな事を言われ、頬が赤くなる。
湯のみを隊長の前に置き、ふと顔を上げれば、優しい視線とぶつかった。
「ちゃんの旦那さん、ボクが立候補しよかな♪」
「………はい?」
「こんな美味しい食事が毎日食べられるなら、ボクも嬉しいし」
「な…何言ってるんですか?冗談は止めて下さい」
またいつもの隊長に戻った、と苦笑しながら、吉良副隊長の机に向かう。
そこでやりかけの書類を出して、仕事の続きをしようとした。
でも市丸隊長はお茶を飲みつつ、「冗談とちゃうで?」なんて言って来る。
その言葉に思わず顔を上げると、市丸隊長はニコニコしながら、私を見てた。
「ボクはずーっとちゃんの事を見てきたんや」
「……え?」
「まあ…ちょっとちゃうか…。気づいたら目で追ってしまっててんな、うん」
「…あ、あの…何を…」
一人で首を傾げつつ、楽しげにそんな事を言う市丸隊長に、私は少し戸惑った。
すると、不意に隊長の顔から笑みが消え、真剣な眼差しが私を見つめる。
「…って言うたら…ちゃん、どないする?」
「…隊長…?」
言葉の真意が分からず、驚いていると、市丸隊長はゆっくりと立ち上がり、私の方に歩いて来た。
いつもと違う、その雰囲気に、私は動く事もできず、ただ目の前に立つ、市丸隊長を見つめる事しか出来ない。
まるで、蛇に睨まれた蛙だ。
「…何故、三番隊にちゃんを引き抜いたのか……分からへん?」
「……っ?」
「ボクの傍に置いておきたかったからや…。時間の許す限り、な」
「い、市丸隊長…?何言って…」
その真剣な口調がいつもの冗談とは違う気がして、鼓動が早くなる。
視線を反らす事も出来ず、黙って市丸隊長を見つめれば、不意に彼の手がゆっくりと動き、それは私の頬に優しく触れた。
「……っ」
「傍におったら…こんな風に触れる事も出来る…」
静かな声は、どこか遠くから聞こえてくるようで、動く事も出来ない。
ただ、頬に感じる、隊長の手の温もりだけは、ハッキリと伝わってきた。
その手は、ゆっくりと頬をなぞり、長い指が私の顎に添えられる。
僅かに動いたその指は、私の顎をほんの少しだけ上げると、そっと唇をなぞっていく。
敏感な唇に触れた指から伝わる熱に、鼓動が次第に早くなり、頬が熱を持ったように熱くなっていくのを感じた。
「い、市丸隊…」
よく分からない感情が込み上げてきて、僅かに口を開きかける。
その時、市丸隊長がゆっくりと屈み、唇を少しづつ近づけてきた。
キス、される―――?!
混乱した意識の中で、一瞬そう思った。
それでも金縛りにあったみたいに体が動かず、目を閉じる事も出来ない。
次第に近くなってくる、市丸隊長の顔を見つめながら、心臓が凄い速さで打ってるのを感じた。
「………」
されるがままの私を見て、ふと市丸隊長の動きが止まる。
一瞬だけど、その瞳を開いた隊長は、至近距離で見つめてきた。
いつもと違う顔、違う瞳…
切れ長で鋭い瞳は、彼の持つ"神鎗"のように、私を貫いた―――
「ちゃん……顔、熱いで。熱あるんちゃう?」
「――――ッ?!」
不意に離れた市丸隊長は、私の頬にあった手を離し、それを額に当てると、いつものような笑みを浮かべた。
「え……」
「ああ、何や真っ赤になってるし…オデコも熱いわぁ。救護詰所に行って薬もらってきた方、ええかもなあ」
「……あ、あの…」
「ん?動けへんならボクが行ってこよか?」
いつもの優しい笑みを浮かべ、小首をかしげる市丸隊長を見て、ハッと我に返った。
「い、いえ!自分で行きますから!市丸隊長は仕事して下さいっ」
「そうかぁ?ほな気をつけて行っといで♪」
「…は、はい。じゃあ行って来ます…。あ、あの私がいないからって――」
「だいじょぶ、だいじょぶ。逃げたりせぇへんて。ちゃんとちゃんが帰ってくるの、大人しく待ってるし♡」
「(…嘘くさい)…じゃあ…すぐ戻りますから」
ニッコリ微笑む隊長から目を反らし、急いで立ち上がると、そのまま執務室を飛び出した。
「…………っ」
一気に廊下を走り、外に出て救護詰所に向かう。
別に隊長が言うように熱があるわけじゃないけど、どこへ向かっていいのか分からず、ただ足が勝手に動くだけ。
でも本当に顔が熱くて、その前に胸がドキドキしてて、上手く走れない。
いや、足は捻挫してるのだから、走れないのも当然で、時々転びそうになったけど、今は痛みも感じない。
ただ今のはいったい何だったんだろうと考えようとするけど、混乱してるのか、何も考えられず、ただ頭の中で、市丸隊長の、
あの鋭い瞳だけがぐるぐる回っていた。
「…はぁ…はぁ……」
気づけば、すでに救護詰所の前まで来ていた。
一気に走って呼吸すらままならず、私は詰所の前の芝生に、思い切り倒れこんだ。
「苦し…」
深呼吸をして息を整えながらも、鼓動だけは静まってくれず、そのせいで息苦しい。
そのまま少しの間、動かずに、ただ黙って夕焼け色に染まっていく空を眺めていた。
私…どうしたんだろ…
初めて第五席として、隊員達の前に立った時よりも、更にドキドキしている。
顔も未だに熱くて、本当に熱があるみたい…
外は涼しいのに、一向に収まらない熱の原因は、いつもどこか、飄々としてる市丸隊長のせいだ。
"ボクはずーっとちゃんの事を見てきたんや"
ふと、さっき言われた言葉を思い出す。
冗談まがいのプロポーズをした後、市丸隊長は、ハッキリそう言った。
そして、その後のあの行動…
一瞬、本当にキスされるのかと思った。
でも、突然いつもの隊長の顔に戻って、何事もなかったかのように笑っていた彼に、私は戸惑っていた。
私の…思い過ごし?ただの勘違い?
また市丸隊長のイタズラに引っかかっただけ…?
それなら…それでいい。
また普段のように文句を言えばいいだけだから。
でも…あの時の市丸隊長の瞳は、イタズラで見せたものには思えなかった。
それに例え、本当にからかわれただけだったとしても、こんなにも意識してしまってる自分がいて。
あの時、市丸隊長が、一人の男に見えてしまったから――
「何よ…いつも嘘っぽい笑顔で誤魔化しちゃって…ズルイんだから」
私の知らない、市丸隊長の顔を見た気がしたのに、また彼が分からなくなった。
いつも笑顔で人を煙に巻く隊長と、さっきの真剣な目をした隊長…
どっちが本当の顔なんだろう…
「…はあ…戻ろうかな…」
本当に熱があるわけじゃないのだから、いつまでも、こんな場所でサボっているわけにはいかない。
そう思って立ち上がろうとした。
が、その時、足首に鋭い痛みが走り、その場に蹲る。
「い…ったぁ…」
そっと触れてみると、そこが少し熱を持っている。
痛めてるのに思い切り走ったせいで、また腫れてきたみたいだ。
「どうしよ…これじゃ歩けない…」
溜息をついて、途方にくれた。
でも戻らないわけにも行かず、仕方なくびっこを引きながら歩き出す。
その振動で痛みが走り、思わず顔を顰めた。
「……?」
「………っ?」
その声にハッと顔を上げると、そこには元、私の上司が驚いたような顔で立っていた。
「…シロちゃん…」
「お前…何してるんだ…?どうした、その足…」
慌てて駆け寄ってきたシロちゃんは、私の体を支えると、心配そうに顔を覗き込んできた。
「あ、あの…ちょっと捻挫しちゃって…」
「何?任務でか?」
「え、あ…えっと…修行中にちょっと…」
「…はあ…。の事だし、また無理したんだろ…。ったく…。ああ、それで四番隊に治療に来てたのか」
「え?あ、う、うん、まあ…」
本当は違うけど、理由を話すわけにも行かず、そこは笑って誤魔化した。
シロちゃんは特に疑った様子もなく、「三番隊舎のお前の部屋まで送ってく」と言って私の肩を支えてくれる。
「ありがと…。あ、でも部屋じゃなくて…執務室に戻らないといけないの」
「…執務室…?隊長のか?」
「うん」
「何でお前が市丸の部屋に?って言うより、お前が一人で歩けない状態なのに、市丸の奴は何やってんだ」
「…な、何って仕事に決まってるでしょ?色々溜まってて隊長は忙しいのっ!シロちゃんこそ、こんなとこで何してたのよ。怪我でもしたの?」
そう言ってシロちゃんを見れば、呆れたように溜息をつきながらも、「オレは…松本に頼まれて痛み止めの薬をな…」と呟いた。
「え、痛み止めって…乱菊さん、どうかしたの?」
「え?ああ…いや、ただの飲みすぎだ。二日酔いで頭が痛いから、薬もらってこいとさ」
「…ふ、二日酔い…」
その説明に、唖然としつつ、乱菊さんらしいと苦笑が洩れた。
そうこいしてるうちに、すぐ三番隊舎が見えてきて、シロちゃんは執務室に続く廊下まで送ってくれた。
「ホントにここまででいいのか?」
「う、うん。私も一応、三番隊の五席なんだよ?それなのに十番隊の隊長さまに肩かしてもらってたら、しめしがつかないでしょ?」
「…前はよく隊長のオレにおんぶさせてただろーが」
「あ、あれは乱菊さんに飲まされて酔っ払ったから仕方なく――」
「…はいはい…分かったよ。でも…あまり無理はするなよ?」
シロちゃんは苦笑いを浮かべながら、そう言うと、ちょっとだけ心配そうな顔をした。
こういうところは変わってないなぁと思いながら、笑顔で頷く。
「シロちゃんも。あまり乱菊さんとケンカしちゃダメだよ?」
「うるさい…早く行け」
私の言葉に、ぶすっとした顔を見せると、シロちゃんはしっしと手を振っている。
それには苦笑しながら、私も手を振った。
そのまま足を引きずりつつも、隊長の待つ執務室に向かう。
どんな顔で戻ればいいのか分からなかったが、久しぶりにシロちゃんと話して、少し気持ちが落ち着いてきた私は、執務室のドアの前にたち、軽く深呼吸をした。
「…ただいま戻りました」
そう言って中へ入ると、すぐに正面の机に目をやる。
が、そこには隊長の姿がなく、思わず目を擦った。
「あれ…隊長…?」
何度擦ってみても、そこにいるはずの市丸隊長の姿は見えず、私は唖然とした。
ポツンと残された机には、書類の山。
どう見ても終わったものじゃなく、これから判を押さなければならないものばかりだ。
それを眺めて、事情を飲み込んだ私は怒りで手がプルプルしてきた。
「…い、市丸隊長〜〜〜っっ!!」
一瞬、驚いたものの、すぐその状況が把握出来て、私は握り拳を固めた。
"だいじょぶ、だいじょぶ。逃げたりせぇへんて。ちゃんとちゃんが帰ってくるの、大人しく待ってるし♡"
「信っじらんない!!涼しい顔で、あんなこと言ってたくせに、もうトンズラしてるんだからー!!」
そう怒鳴ってはみたところで、市丸隊長が顔を出すはずもなく、私は思い切り溜息をついた。
ちょっとだけ緊張して戻ってきた自分は何だったんだ、と思いながら、体の力が抜け、吉良副隊長の椅子に腰を下ろす。
机の上には私のやらなきゃいけない書類が積み重なっていて、それを見ると更にガックリきた。
「はあ…吉良副隊長も、市丸隊長に逃げられるたびに、こんな思いしてたのかな…」
ふと吉良隊長の心情を思い、かなり同情した。
市丸隊長を頼まれたのに、私まで逃げられるとは…もう溜息しか出てこない。
「こうしてても仕方ない…。仕事しよ…」
市丸隊長を探すと言っても、この足じゃ無理だと気づき、仕方なく書類に目を通す。
自分の部屋に戻るのも面倒なので、ここでやる事にした。
「はあ…何だかんだ言って、もうこんな時間…?これじゃ夜中までかかっちゃう…」
時計を見ながら、そうボヤくと、報告書を書いて行く。
チラっと視線を向ければ、斜め向かいの机の上には、市丸隊長の"お仕事"が山ほどつんであり、その横には飲みかけのお茶が入った湯のみ茶碗。
「…はあ…何だか置いてきぼりにされた気分…」
そう呟きつつ、市丸隊長の机にべぇっと舌を出すと、私は再び書類に目を向けた。
「そろそろ…行動を起こさないとね」
「…分かってますって。ぼちぼちボクも動いてるし、心配しないで下さいよ」
「…ならいい。ギンの事は信用してるよ」
そう言って怪しい笑みを浮かべる目の前の人物に、いつものように微笑んでみせる。
すると彼は思い出したように、顔を上げた。
「そう言えば…最近、ギンの隊に新しい子が入ったんだって?」
「……さすが耳が早いなぁ」
「その子は雛森くんの友人らしいからね」
彼はクスっと笑い、メガネを外すと、窓の外に視線を向けて、オレンジ色に染まっていく空を見上げた。
「今更、新しい子を入れるなんて…何か目的でもあるのかい?」
「…目的なんて別にないですよ。ただ隊に新鮮な空気でも入れよう思っただけですわ」
「そうか…。でも…その子のこと、特別可愛がってると聞いたよ?」
「……まあ…ほんまに可愛い子やからね」
「へぇ…ギンが一死神を、それほど気に入るなんて珍しい事もあるものだ」
ふと、こっちを見た彼は、そう言ってニヤリと笑った。
「何でですのん。ボクかて、そらぁ可愛い女の子には興味ありますよ?」
そう言って肩を竦めてみせると、彼はクスクス笑いながら、ゆっくりとメガネをかけ直し、静かにドアの前に立った。
「…そうか。そんなに気に入ってるなら………連れて来てもいいんだよ?」
「…まさか。足手まといになるだけですわ」
「ふふ…なら仕方ないが……しかし洗脳するのはたやすいだろう?ギン、君くらいの男ならね」
彼はそう言うと、静かに部屋を出て行った。
今は使われていない倉庫は、普段、誰も来る事はない場所で、こうして密会するにはちょうどいい。
「はあ…」
彼の気配が遠ざかるのを感じ、軽く息を吐き出す。
窓の外を見れば、明るい空に早々と星が光って見えた。
「洗脳…なぁ…。そない簡単にいけば、誰も苦労せぇへんよ…」
苦笑交じりに呟くと、そのまま部屋を出る。
急いで戻らないと、彼女が帰ってきてしまうだろう。
そう思いながら、自分の執務室に向かうと、ドアが僅かに開いている事に気づいた。
「あちゃ〜。もしかしてちゃん、帰ってきてもーたかな…?」
頭をかきつつ、怒られる事を覚悟して、静かにドアを開ける。
「ちゃん、ごめんなぁ…。ちょっと気晴らしに――――」
そう言い訳しながらそっと顔を覗かせると、シーンとしたまま返事が返ってこない。
もしかして、相当怒ってるのかと、中へ入ると、イヅルの机の上に、突っ伏したまま眠っている彼女を見つけた。
「何や…眠ってもーたんか…」
少しホっとすると、足音を立てないように近づき、そっと覗き込む。
彼女は書きかけの書類の上に顔を乗せ、スヤスヤと眠っていた。
「…子供みたいやなあ」
無邪気な寝顔を見て、ふと笑みが零れる。
「こんなとこで寝てたら風邪引きさんになるで…?」
そう言いながら自分の羽織りを彼女の肩にかけると、そっと髪を撫でた。
朝からずっと書類と睨めっこをして疲れたんだろう。
それでも彼女は起きる気配はない。
そのまま起こさず、静かに彼女の寝息を聞いていた。
「…ほんま…何事にも一生懸命なんやな…」
書き終えた分の書類を眺め、ふとそんな事を思う。
最初に初めて彼女を見た時も、そう思った事を思い出し、自然と笑顔になった。
"…洗脳するのはたやすいだろう?"
先ほどの彼の言葉を思い出し、かすかに胸の奥が鳴る。
サラサラと手から零れていく、彼女の髪を見つめながら、小さな溜息が零れた。
「……洗脳なんて…この子に通用せぇへんよ…隊長」
そう呟いて、そっと彼女の髪に口付ける。
頬にかかる髪を指でよけて、そこにも軽く口付けを落とした。
「…ほんま…いつまでボクの理性が持つか…」
さっきの自分の行動を思い出し、失笑する。
もう少しで素の自分を見せるところだった、と内心、呆れながらも、惜しい事をしたかな、と少しだけ思う。
「今だけや…。なあ?ちゃん…」
せやから、もう少しだけ…ボクの我がままにつきおーてな?
囁くように、綺麗な髪に口づける。
その時、窓の向こうでは、青白い月が光を放ち始めていた――――