「一応の応急処置は済ませた。あとは体力をつけ、熱が下がるまで安静にさせてあげてくれ」
部屋の外で待っていると、四番隊の伊江村三席が顔を出し、そう言ってくれた。
それを聞いて心底ホっとしていると、彼は訝しげな顔で寝室の方へ振り向き、
「それと…報告にあった怪我の痕跡はどこにもなかったよ」
「え…?」
「確か…出血しているという事だったが…」
「は、はい。羽織りの袖口に血が…。だから私はてっきり隊長が怪我でもしてるのかと――」
「いや。そのような傷口はどこにもなかった。それに…私も確認してみたが、羽織りのどこにも、そのような血痕は見当たらなかった」
「え、そんなはずは…っ」
「見間違いじゃないか?…とにかく。大事に至らなくて良かった。後は君に任せてもいいのかな?」
「…はい」
「では頼む。我々はこれで失礼するよ」
伊江村三席はそう言うと、何かあったらまた呼んでくれと、部下を連れて帰って行った。
今の話を聞いて疑問は残ったが、市丸隊長に大事がなくて良かったと、彼を見送り、急いで寝室に戻る。
「隊長…?入ります」
襖を開けると市丸隊長がゆっくりと私を見て微笑んだ。
「…あぁ…ちゃん…ほんま心配かけたなぁ…」
少し息苦しそうに、それでも笑顔を見せてくれる市丸隊長を見て、私もつい笑みを零した。
そのままゆっくりと中へ入り、静かに傍へ座る。
「具合はどうですか?」
「…ん〜まあ…しんどいのは確かやね…天井がグルグル回ってる感じやわ…」
「…そんなお体で抜け出すからです…」
私の言葉に、市丸隊長はちょっと苦笑すると、深々と溜息をついた。
市丸隊長には聞きたい事がいっぱいある。
「隊長…」
「…ん?」
「…どこに…行かれてたんですか…?そんなお体で」
「…………」
私の問いに、隊長はふと視線をこっちへ向けた。
その瞳は熱のせいで、少し潤んでいる。
こんな彼は、普段あまり見る事はない。
「…ちょっと寝たきりが退屈で散歩したかっただけや…綺麗な雪も降っとったし…」
「散歩って…動くのすらツラいのに?」
「…散歩はボクの趣味やからね。まあでも…途中でやっぱりしんどくなって引き返したんやけど…後のことは記憶にないなぁ…」
苦笑交じりで話す隊長の言葉が、どこまでが本当なのか、今の私にはよく分からなかった。
でも、こうして無事に戻ってきてくれた事だけでも、本当に良かったと思う。
「分かりました…でももう二度と抜け出すなんて事しないで下さいね。心臓に良くないですから…」
「…ほんま、ごめんな…」
どこまで分かっているのか、市丸隊長はふっと笑みを浮かべた。
それでも、私の手をとり強く握ると、「ありがとう…」と一言、呟いて、ゆっくりと目を閉じる。
薬が効いてきたんだろう、と私は隊長の手をそっと布団の中に入れると、「ゆっくり眠って下さい」と言って立ち上がった。
彼は何か呟いたようだったけど、それは聞き取れず、そのまま静かに部屋を出る。
これから吉良副隊長のところへ報告に行かなくちゃならない。
事情はまだ知らないはずだから、今頃心配しているだろう。
「はあ…何か…大変な一日だったな…」
そんな事を呟きながら、居間へ向かうと、先ほど気になっていた羽織りが綺麗にたたんで置いてあった。
それを手に取り、袖口を何度も確かめたけど、私が見た血はどこにもついていない。
伊江村三席がなかったと言うのだから、そうなんだろう。
でも、こうして実際に見てみないと納得いかない。
「ホントにない…。確かに見たはずなのに…」
倒れていた市丸隊長を抱き起こした時、確かに袖口に血のような染みがついていたのを見た。
いや…見た気がした。
隊長格しか着れない羽織りは白…それに赤い付着物があれば見間違うはずはないのに。
でも今、こうして見てみても、そこは綺麗なほど真っ白で。
どこを見ても赤い染みは見当たらない。
「疲れてたのかな…」
目頭を押さえて溜息をつく。
昨日から殆ど睡眠をとっていないからか、目の奥が熱くなっている。
今日も隊長を探して走り回っていたせいで、今更ながらに疲労感が襲ってきた。
「ダメダメ…まだやる事があるんだから…」
羽織りを元に戻し、たたんでおくと、吉良副隊長の下へ行こうと部屋を出た。
その瞬間、目の前に誰かが立っていて、ぶつかりそうになった。
「きゃっ」
「うぉ」
誰かいるとは思わず、慌てて顔を上げると、その声の主は驚いたような顔で私を見下ろしていた。
「あ…橘さん…」
「お、おう…か…驚かせるな」
「す、すみません…。まさか誰かいるとは思わなくて…。あの…どうしたんですか?こんな時間に」
すでに深夜に近い。
通常ならば、副官補佐と言えど、自室に戻り、とっくに休んでる時間だ。
「いや…吉良副隊長から話を聞いて心配になったんだ。市丸隊長はまだ戻らないのか?」
「あ、いえ。先ほど戻られました。今から報告に行こうと思ってたんです」
「何だ、そうか…。それは良かった」
橘さんはホっとしたように息をつき、
「現世での任務から戻ってきたら、隊長が行方不明だと聞いて驚いたよ…。で、どこへ行っていたんだ?」
「それが…寝たきりで退屈だったから散歩に、と…」
「散歩…?」
その説明に橘さんは一瞬呆気に取られたようだった。
が、すぐに苦笑いを零し、「市丸隊長らしいな…」と呟く。
きっと私が来る前にも、市丸隊長が急にいなくなったりした事があるんだろう、と、橘さんの様子を見て思った。
「それで容態は?インフルエンザなんだって?」
「はい…今、伊江村三席に診てもらったところです。まだ熱が下がらなくて…暫くは安静にと言われました」
「そうか。まあでも…大事に至らなくて良かった」
「はい」
「それで…看病はがしていると聞いたが…お前も少し疲れてるようだな。大丈夫か?」
「…何とか。隊長はグッスリ眠ってますし、今から吉良副隊長に報告を済ませたら、少し休もうかと思ってます」
「いや、それはオレから伝えておこう」
橘さんはそう言って、「でも…」と渋る私の頭をクシャリと撫でた。
「お前も寝不足で疲れてるんだろう?酷い顔してるぞ?吉良副隊長にはオレから伝えておくから、お前はもう寝ろ」
「橘さん…」
「隊長の看病をお前一人に任せてるんだ。お前まで倒れられたら困るしな」
そんな事を言いながらも、気遣ってくれている橘さんの気持ちを察し、ここは素直にいう事を聞く事にした。
正直、今すぐにでも寝れそうなほど、身体は疲れている。
「分かりました…。ありがとう御座います」
「こんな事で礼などいい。じゃあな」
「はい。お疲れ様でした」
隊舎の方へ戻っていく橘さんに一礼して見送る。
最初こそ、上手くいってはいなかったが、ここ最近は橘さんも認めてくれていて、それが何より嬉しく感じた。
三番隊でも上手くやっていけそうだな…良かった。
そう思いながら部屋に戻り、使われていない客室へと足を向ける。
が、その前に、と足を止め、隊長の寝室を覗いた。
さっきとは違い、そこにはグッスリと眠る市丸隊長の姿がある。
それを確認して少しホっとすると、襖を静かに閉め、与えられた部屋に向かう。
夕べはここを使用していないから、布団も綺麗に敷かれたままだ。
素早く着替え、冷たい布団に潜り込むと、一気に睡魔が襲ってくる。
明日も早くに起きて、朝食の用意をしなければならない。
日が昇るまで、それほど時間はないが少しでも寝とかなければ…
そんな事を思っているうちに、すぐに意識が遠くなっていった。
あの騒ぎから三日が経った頃、風の噂に、一人の娼婦が冷たい冬の川で見つかった、と聞いた。
流魂街では特に珍しい事でもない、そんな話に耳を傾けたのは、それがどんな意味を持っているのか分かっているからだ。
「何も殺すことなかったんちゃいます?」
顔を庭先へ向け、そんな言葉を口にしてみても、隣にいる男は苦笑いするだけで応えようとはしなかった。
ギンも心の底からそう思っているわけではない。
藍染もそれを分かっているからこそ、敢えてその話には触れず、視線を台所の方へと向けた。
「彼女はよくやってくれてるようだね」
「…ほんまになぁ…何や新婚さんの気分ですわ」
「ははは…ギンにそんな願望があったのは意外だね」
「別に願望とちゃうけど、こうして毎日、食事の用意をしてくれたり、部屋の掃除してくれたりしてんの見てると、結婚ってこんな感じかなぁと」
そんなギンの言葉に、藍染はふっと笑みを浮かべ、「ほだされたのかい?」と言った。
その問いにギンは応えず、ただ笑う。
台所からは普段からでは考えられないほど、賑やかな声が響いてきた。
「ギンは部下に恵まれているようだ。心配して来てくれるんだから」
「そら、ボク、人気者やし」
おどけるギンに、藍染も「そうだね」と笑う。
でもすぐに目を細めると、ゆっくりと立ち上がった。
「が…その人気のせいで、彼女が嫌な思いをしないよう、気をつけてあげた方がいい。女はすぐ嫉妬をする生き物だからね。もう懲りただろう?」
藍染の言葉に、ギンも苦笑しながら、「怖いなぁ」と肩を竦める。
「でも…そんなに心配してくれるなんて、藍染隊長もちゃんのこと、気に入らはったんちゃう?」
出て行こうとする藍染に、そんな言葉をぶつける。
藍染は背中を向けたまま、小さく笑ったようだった。
「ギンは僕のように出来ないだろう?それに同じようにしろとも思わない」
「…雛森ちゃんの事ですか?」
「明日には隊に復帰するんだろう?今日一日はゆっくり身体を休めるといい。霊力が戻るようにね」
そう言って静かに部屋を出て行く藍染に、「おおきに」と呟き、そのまま布団に横になる。
襖の向こうからは、再び明るい声が響いてきて、ギンはふっと笑みを浮かべた。
「あ、藍染隊長。帰られるんですか?今、食事の用意が――――」
「いや僕はいいよ。ちょっと様子を見に来ただけだからね」
「そうですか。わざわざありがとう御座います」
そう言って頭を下げたのは、吉良副隊長だった。
昼休みを利用し、市丸隊長の様子を見に来たついでに、昼食の用意を手伝ってくれていたのだ。
「では僕はこれで。市丸隊長のこと、宜しく頼むよ」
藍染隊長はそう言って部屋を出て行った。
それを見送りながら、吉良副隊長は僅かに首を傾げると、
「それにしても…藍染隊長がお見舞いにくるなんて、珍しいね。最近は付き合いなかったように思ったけど」
「市丸隊長は元部下だからって色々と心配してくれてるみたいです。この前も一緒に探すの手伝ってくれたし…」
「ああ、そうだったんだってね。まあでも優しい人だよね。隊を離れても心配してくれるなんて。それに真面目で仕事をサボるような人じゃないし。市丸隊長も少しは見習って――――」
「誰が誰を見習うて?」
「だから市丸隊長が藍染隊長を――」
そこで吉良副隊長は言葉を切った。
「い、市丸隊長!」
二人で振り返ると、そこには市丸隊長が目を細めて――元々細いけど――立っていた。
「お、起きてきて大丈夫なんですか?」
「もう熱は下がってるし平気や。それより…ボクが、何やて?イヅル…」
「い、いえ!あの別に……」
肌にピリピリとした霊圧を感じ、吉良副隊長の笑顔が引きつっている。
これもいつもの光景だから、私は口を挟むことなく――呆れてるとも言う――お皿にお粥をよそうと、テーブルの上にドンっと置いた。
「モメてないで、早く食べて下さいね。お薬も飲まなくちゃいけないんですから」
「…あらら、怖いなぁ、ちゃんは…って、またお粥なん?」
「何か文句でも?」
「え、い、いや、そない怖い顔せんでも…」
ジロっと睨めば、市丸隊長は笑顔を引きつらせながら、椅子へと座った。
吉良副隊長は話題がそれ、ホっとしたように息をつくと、お茶を淹れながら、「まだ体力は完全に戻ってないんですから我慢してください」と、湯のみを置く。
市丸隊長は深々と溜息をつき、諦めたように項垂れた。
「はぁぁ…渋柿食べたいなぁ…」
「あんな消化に悪いもの、ダメですよ。それより、これ食べて薬飲んで、また寝て下さいね」
「えぇぇ…起きたばかりやし眠ない…」
「横になるだけでいいです。まだ熱も下がったばかりで体力は戻ってないんですから」
「…………(無言の抗議)」
「何か文句でも?」
「……ありません」
更に目を細めた私を見て、市丸隊長は肩を落とした――第五席の私が、隊の隊長に勝った、珍しい瞬間だ。
吉良副隊長も苦笑いを零しながら、「くんは市丸隊長の事を心配して言ってるんですよ」と代弁してくれる。
「分かってるよ。それもこれもちゃんのボクへの愛情や思て我慢するわ」
「ちょ、愛情って――」
「せやかて愛情なかったら、こないに世話してくれへんやろ?」
「………」
ニッコリと微笑みながら、しれっとそんな事を言う。
返答に困っていると、吉良副隊長が助け舟を出してくれた。
「隊長…無駄話してないで、ちゃんと食べて下さいね。じゃないと明日の仕事に間に合いませんから」
「…はあ。イヅルは気が利かへんなぁ…」
市丸隊長はそう言いながらも、お粥を食べて、「美味しい」と微笑む。
「今日はまた味がちゃう」
「毎日同じだと飽きると思って」
「さすがちゃんは、よう気が利くわぁ。誰かさんとちごて」
「…ゴホン!と、とにかく。僕は仕事に戻りますから…隊長は安静にしてて下さいねっ」
市丸隊長の嫌味に顔を赤くしながら、吉良副隊長は咳払いをして、私に「後の事は頼むよ」と早々に部屋を出て行ってしまった。
それには私も苦笑しながら、使った食器を洗う。
ここ二日ほど、こんな賑やかなお昼が続いていた。
「イヅルも毎日、毎日こんでもええのに。なぁ?ちゃん…」
「心配なんですよ。吉良副隊長だって」
洗った食器を拭きながら、クスクス笑えば、後ろから大きな溜息が聞こえてくる。
普段は人を入れない市丸隊長も、毎日の部下の来訪に、ウンザリしているようだ。
「さて、と。私これから買い物してきますね」
「えっ」
「そんなに驚かなくても…」
お皿を仕舞いながら、軽く噴出すと、
「夜はもう少し栄養のあるメニューにしますから、そのための買い物ですよ?」
「え、お粥とちゃうの」
「はい。少しづつ通常の食事に変えていかないと。隊長ほどの霊力なら、そろそろ体力も回復すると思いますし」
そう言ってエプロンを外すと、隊長はスプーンを咥えたまま、ジっと私を見ている。(まるで子供のよう)
「…何ですか?人の顔、ジっと見て…」
「いや…ちゃんも色々と考えてくれてるんやなぁ思て」
「当たり前です。別に意地悪でお粥作ってるわけじゃありませんから」
「分かってるけど、でも…何や嬉しいなぁ。ほんまにボクの奥さんみたい――――」
「行って来ます!!」
またしても、とんでもない事を口にする隊長に、私は急いで部屋を出た。
が、すぐに引き戻し、
「それ食べたら、すぐ寝室に戻って下さいね!」
「分かってるて。気ぃつけてな?奥さん♪」
苦笑いを零しながら、市丸隊長は笑顔で手を振っている。
奥さんと言われ、一瞬赤くなった私は、軽く咳払いをしながら、すぐに隊舎へと続く小道を歩いて行った。
「あの」
隊舎の廊下を少し進んだ時、突然呼び止められ、私はハッと足を止めた。
「市丸隊長の容態はどうなんですか?」
声をかけてきたのは部下の子達で、5人ほど心配顔で立っている。
彼女達は隊長の私室に近づく事は許されていないから、こうして聞きにきたんだろう。
ああ見えて(!)市丸隊長はファンが多い。
その事は三番隊に来てから、よく分かった。
「あの…熱は下がったわ。後は安静にしてれば、もう大丈夫よ」
そう教えると、心配そうだった彼女達の顔に笑顔が浮かぶ。
その中で一人、前に出た子がいた。
「あの…私達、隊長のお見舞いに行きたいんですけど…」
「え…?」
「お願いします。隊長の顔を見たらすぐに戻りますから」
真剣な顔で頼まれ、言葉に詰まる。
一応、卯ノ花隊長からも、インフルエンザは移る病気だから、隊員達を近づけない方がいい、と言われている。
まあ、もう熱は下がったのだから大丈夫だとは思うが――吉良副隊長や藍染隊長も顔を出している事だし――それでも、まだ完治したわけじゃない。
それに許可されていない隊員達が隊長の部屋へ行く事も、通常なら許されることではないし、まして第五席とは言え、私の一存で決められることでもない。
「…ごめんなさい。それは私が勝手に許可を出せる事じゃないの。それに熱は下がったとは言っても、まだ安静にしてないといけないし…」
こんなに心配している隊員たちに、こんな事を言うのは心苦しいと思いながらも、正直に告げる。
彼女達は目に見えて落ち込んだように項垂れると、「分かりました…」と、最初に頼んできた隊員が頷いてくれた。
「ホントにごめんなさい。でも明日には隊長も仕事に復帰するし、そんなに心配しないでね」
「はい…」
「それじゃ…私、買い物に行かないといけないから…」
そう言って隊員の肩に軽く手を乗せると、そのまま廊下を歩いて行く。
皆の落ち込んだ様子に何となく罪悪感のようなものを感じながら、隊舎を後にした。
「おう、」
「あ…阿散井くん」
買い物の帰り、よく見知った人物が前から歩いて来た。
真っ赤な髪に派手な刺青。
第十一番隊・阿散井恋次・第六席だ。
「久しぶりだな。お前、三番隊に移動になったんだって?それも第五席で」
「まあ…何とか」
「やったじゃねぇか。おめでとさん」
阿散井くんはそう言って私の髪をグシャグシャと撫でる。
その力の強さで、首がガクガクと揺さぶられ、「痛いよ…」と苦情を言った。
阿散井くんは「悪い悪い」と言いながらも、悪びれた様子もなく、楽しそうに笑う。
彼とはいつも、こんな感じだ。
一応、学院では先輩だった彼も、私とは同じ歳。
それに十一番隊が行う飲み会に、乱菊さんが私をいつも無理やり連れて行くせいで、自然に十一番隊の彼らとは仲良くなった。
「ところで…噂に聞いたけど、市丸隊長、倒れたんだって?」
「え、あ…うん。倒れたって言うか…インフルエンザで」
「げ、、マジ?大丈夫なのかよ」
「うん。もう熱は下がったし、後は体力戻るまで安静にしてれば、明日には仕事に戻れるって。って言っても、最初は軽めの仕事になると思うけど」
「へぇ、そっか。んで?お前はそんな荷物抱えて何やってんだよ」
阿散井くんは訝しげな顔で、私が抱えている袋を指差した。
「あ、これ夕飯の買い物。今、市丸隊長の看病するのが、私の仕事なの」
「はあ?第五席にもなったお前が、隊長の看病?」
「だ、だって他に頼める人がいないって吉良副隊長が言うから…」
「ったく吉良の奴…そんなの下のもんにやらせりゃいいのによ」
吉良副隊長とは同期だからか、阿散井くんはそんな事を平気で言う。
でも私にとって吉良副隊長は上司に当たるから、笑うしかない。
「そうなんだけど…市丸隊長も、知らない人だとイヤやーって言うし…」
「…チッ。我がままそうだもんな、市丸隊長も」
「うん、時々子供みたいに」
そう言って笑うと、阿散井くんも小さく噴出して笑った。
こんな事が言えるのも、同じ歳で気心が知れてるからだ。
「まあ、でも…よくあの十番隊長さんがお前を三番隊に移動させたな」
「え?」
「何つーか…お前の事は異常に甘やかしてたろ?」
「そ、そうかな…」
「そうだよ。オレ達が飲み会開くと、必ず渋い顔で参加してただろ。乱菊さんがよくからかってたけど、あれ、お前が酒で潰れるの心配だったからじゃねぇの?」
「シ、シロちゃんは心配性だから…でも私もそろそろ上に行く時期だろうって事で、三番隊に行けって…私も色々悩んでたから」
「まあ…そういやお前、いつも愚痴ってたもんなぁ?簡単な任務ばかりだーって」
「そ、そうだっけ…?」
ニヤリと笑う阿散井くんに、顔が赤くなる。
だいたい十一番隊の皆と呑む時は、ベロベロにされて、言った事もよく覚えていないことが多いのだ。
まあ、そんな状態になるのが分かってるからこそ、シロちゃんもうるさいのが嫌いなクセに、その飲み会に顔を出してたんだろうけど。
「言ってた、言ってた。それも日番谷隊長の前で散々な」
「…う…そのせいで、いつも次の日は嫌味たっぷり言われたわ…」
「そりゃそうだろ。あんだけ絡んでたら。自分とこの隊長にあんなに絡むの、お前と乱菊くらいじゃねぇか?」
「そ、それは言わないでよ…今はそんな事…」
「ホントかぁ?市丸隊長にも、キツイ事とか言ってんじゃねぇの?」
「い、言ってないわよ、そんなには…」(!)
先ほど、「お粥はイヤやー」と駄々をこねる(?)市丸隊長に、軽〜く説教した事を思い出し、顔が引きつる。
阿散井くんはニヤニヤしながら、「どうだかなぁ」と、私の額を指で突付いた。
「そ、それより…阿散井くんはどこに行くの?今、仕事中じゃ…」
「あ、ああ。いや…まあ…ちょっと、これから六番隊に挨拶に…」
「…六番隊に?挨拶って…まさか――――」
他の隊に挨拶に行く、という事は移動しか考えられない。
阿散井くんは、少し照れたように頭をかきながら、
「その、まさかだよ。オレ、来年の春から六番隊に移動になるんだ」
「え…じゃあ…役職は…」
それを聞いてピンときた。
今、六番隊には副隊長が不在だ。
そして彼の実績、実力を考えれば――――
「お、おう……まあその…何だ…副隊長、って事でよ」
指で頬をかきつつ、明後日の方を見ながら、照れ笑いする阿散井くんに、私は思わず、「凄い!」と声を張り上げた。
「おめでとう〜!副隊長なんて凄いわ、阿散井くん!」
「い、いや、そんな騒ぐほどの事じゃ――――」
「騒ぐほどの事だよ!だって阿散井くん、ずっと朽木隊長に追いつきたいって言ってたじゃない!」
「ま、まあ…つか、いつか追い越す気でいるけどな」
そう言ってニヤリと笑う阿散井くんに、私も嬉しくなる。
彼はずっと、ある思いを抱えていたのを知ってるから。
「そっかぁ…でも…十一番隊も寂しくなるね」
「そうでもねぇよ。ただでさえ賑やかな隊だしな」
「それは言えてる。一角さんや、弓親さんがいれば、静かになる事はないか」
「ああ。それと…副隊長もな」
苦笑気味に肩を竦める阿散井くんの言葉に、あの可愛らしい、十一番隊の副隊長を思い出す。
副隊長なのに、「やちるでいいよ♪」なんて気軽に言ってくれる彼女も、他の皆と同じで、とにかく賑やかだ。
「でも阿散井くんが副隊長かぁ…凄いなぁ」
「別に凄くねぇよ。お前だって第五席だろ?そのうち、もっと上にいくチャンスくらい来るだろ」
「うん…でもまずは五席の役割をきちんと出来るようにならなくちゃ。今はまだ見習いみたいなものだし…」
そう言ってから、ふといいことを思いついた。
「あ、ねぇ。阿散井くんの副隊長、昇進祝いしようよ!」
「えっ?」
「一角さんや弓親さんも誘って、皆で!ね、やろう」
「や、でも、まだずっと先の話だぜ?」
「来年の春なんてアっと言う間じゃない。それにその時はきっと忙しくなって、皆で集まる時間もなくなりそうだし…今のうちに」
「今のうちにって…」
「決まり!私が段取りするから任せておいて」
「や、でもお前の五席になった祝いもしてねぇのに…」
「そんなのいいよ。長いことかかって、やっと五席って感じだし…」
「それでも凄いじゃねぇか。なれねぇ奴だっているんだしよ」
阿散井くんはそう言いながら、今度は優しく頭を撫でてくれる。
彼は見た目も怖そうだし、言葉も乱暴だけど、本当は凄く優しい人だ。
「あ、そうだ。じゃあオレの昇進祝いしてくれるっつーなら、お前のも一緒にやろうぜ」
「え…?」
「いーだろ?その方が一角さん達も喜ぶし…ああ、そういや来月は日番谷隊長の誕生日だったよな。その時に一緒にやっちまおうか。どーせ今年も一角さん達、乱入する気でいるだろーし」
「あ、そっか」
来月、と言っても、もう一週間くらいだけど、12月にはシロちゃんの誕生日がある。
毎年その日は騒ぐ理由が出来るといって、一角さん達がお酒目的で宴会を開いてくれるのだ。
お酒の飲めないシロちゃんは、最後にいつも酔いつぶれた皆を介抱するハメになるから、毎年逃げようとするけど、結局これまで一度も逃げ切れたことはない。
自分の誕生日なのに、何故酔っ払いの介抱をしなきゃなんねぇんだ、とよく文句を言っていた。
でも今年も同じような状態になりそうだ、と内心苦笑した。
「じゃあ…シロちゃんにバレないように計画しておく」
「ああ、んじゃあ、任せるよ。決まったら連絡してくれ」
「うん」
「じゃあ、またな」
「うん。朽木隊長への挨拶、頑張ってねっ」
「お、おう…」
その事を思い出し、緊張が蘇ってきたのか、阿散井くんは顔を引きつらせながらも、六番隊の方へ歩いて行った。
「はあ…でも凄いなぁ…副隊長か…」
阿散井くんを見送った後、三番隊・隊舎へ戻りながら、溜息をつく。
六番隊といえば、貴族でもある朽木隊長が率いてるとあって、阿散井くんが今まで所属していた十一番隊とはノリも雰囲気も全く違う、エリート集団だ。
大丈夫かな、と少し心配しつつ、まあ彼なら持ち前の根性ですぐに打ち解けるだろう、と思った。
「私も頑張ろう…」
阿散井くんの昇進を聞いて、私も少しばかり勇気が湧いてくる。
早く一人前の死神になれるよう、明日からまた訓練しなくちゃ。
そう思いながら、隊長のいる離れへと向かう。
「…もさぁ…嫌な感じよね」
「ほーんと。ちょっとくらい会わせてくれてもいいのにねー」
そんな声が聞こえてきて、ふと足を止めた。
見れば、細い通路脇の奥にある物置から声が聞こえてくる。
この時間、隊員は職務についているはずだ。
どうしたんだろう、とそっちへ足を向けると、再び声が聞こえてきた。
「ちょっと市丸隊長に可愛がられてるからって、いい気になってるんじゃない?大して実力もないクセにさあ」
「言えてる!だって十番隊じゃ、ただのヒラだったんでしょ?」
「そんな人が市丸隊長の恋人気取りで、付きっ切りで看病してるなんてムカツクー」
「副隊長も、副隊長よ。何であんな人に隊長の看病、任せちゃうかなぁ」
「吉良副隊長にも媚売ってるんじゃなーい?ちょっと綺麗だからって、それ武器にして昇進してんだから、ホント最低ー」
「だいたい三番隊に来てから、大して仕事してないんじゃない?怪我したりで殆ど休んでるじゃない。今だって看病を理由に隊舎に顔も出さないしー」
「市丸隊長の傍にいるのが仕事なんて、そんな仕事なら私だってしたいわよ」
その会話を聞きながら、自然と足が震えた。
内容で、それが自分の事を言ってるのだと分かる。
中にいるのは、先ほど市丸隊長の見舞いに行かせてくれと言ってきた子達だと、声で分かった。
まだ皆と馴染んでないとは言え、ここまで嫌われてるなんて知らなかった。
それも、そんな風に見られてたなんて…
胸の奥が鷲づかみにされたような痛みが走り、思わず抱えていた袋をぎゅっと握り締めた。
このまま、この場から走り去ってしまいたい。
そう思った瞬間、「…誰っ?」という声と同時に、目の前の扉が急に開いた。
「あ…さん…っ?」
私を見た瞬間、目の前の子も、後ろで固まっていた子達も、驚いたように目を見開いた。
出来れば何事もなかったように笑顔を見せたかったけど、彼女達の表情を見て、軽く息をついた。
理由はどうであれ、職務時間に彼女達がサボっていたのは事実だ。
「ここで…何しているの?今は職務時間でしょう」
「い、いえあの……」
「あなた達は確か…四班よね?四班はこの時間、見回りしてるはずよ?」
「は、はい…すみません…ちょっと頭が痛くて休んでました…。彼女達は付き添いで…」
いかにも、と言った嘘を並べる部下に、言葉が詰まる。
けど、いくら見え透いた嘘だからといって、今はモメない方がいい。
「…分かりました。あなただけ四番隊に行って診てもらって。残りの子達は自分の職務に戻って下さい」
「はーい、分かりました」
そう言いながら、ゾロゾロと出てくる彼女達は、開き直ったような態度だ。
多分、私に聞かれたことも分かってるんだろう。
なのに気にもしないような顔で、「買い物、ご苦労様です」と言って、歩いて行く。
そしてクスクス笑う小さな声が耳に届き、ぎゅっと袋を握り締めた。
一気に走って隊長の部屋へと向かう。
それでも、まだ彼女達の笑い声が、聞こえるような気がして、強く、唇を噛んだ。
「…ええ、匂い」
「あ…隊長…起きたんですか?」
夕飯の用意をしていると、不意に気配を感じ、ドキっとした。
振り返ると、いつの間にか市丸隊長が後ろに立っている。
その顔色を見る限り、体調も良くなってきたようだ。
「そない何時間も寝てられへんよ。すーっかり元気になったし」
「そ、そうですよね…。あ、もうすぐ夕飯出来ますから――――ひゃっ」
そう言った瞬間、額に冷んやりとした手が触れて驚いた。
市丸隊長はそっと私の前髪をはらい、笑顔で顔を覗き込んでくる。
「どないしたん?何や元気ないみたいや」
「…そ、そんな事、ないですよ…?」
目の前で微笑む市丸隊長に、引きつりつつも笑顔を見せる。
でも隊長は、訝しげな顔のまま首をかしげ、「嘘つきやね」と微笑んだ。
「う、嘘なんか――――」
「あ〜アカン、アカン。ボクには分かるねん。ちゃんをいつも見とるから」
「…い、いつもって…」
「外で何やあったん?」
「い、いえ…」
これ以上、隊長の何もかも見透かすような瞳で見つめられたら、心の奥の痛みまでバレてしまいそうで、慌てて視線を反らした。
さっきの事は隊長に言うべきではない。
あれは第五席として、まだ何も成し遂げてない自分のせいだ。
あんな事くらいで、いちいち落ち込んでいたらキリがないし、市丸隊長にだって笑われる。
ゆっくりと鍋をかき回しながら、そんな事を思っていると、後ろにいた隊長が不意に隣へと立った。
「ふーん…何や寂しいなぁ…悩んどるなら力になりたいのに」
「な、悩んでなんか…それより出来たら持って行きますから、隊長は横になってて下さい」
「えぇ?これ以上、横になっとったら床ずれ出来てまうわ…そんなん出来たら、ボク、おじいちゃんみたいやんか」
「と、床ずれって…」
スネたように唇を尖らせ、そんな事を言う市丸隊長に、思わず噴出してしまった。
この人の言う事は、いちいち駄々っ子のようで可愛い…なんて、本人には言えないけれど。
「あ、やっと笑ろた」
「だ、だって隊長が変なこと言うから…」
嬉しそうな笑顔を見せる隊長を見上げ、笑う。
床ずれが出来た隊長を想像してしまった。
確かにそれでは本物のおじいちゃんみたいだ。
「変なことちゃうやん、ほんまの事やで?この三日三晩、事あるごとに"横になってろ"やの、"隊長は寝てて下さい"なんて言われ続けて、素直に寝とったけど、もう限界やわぁ」
「素直って…どこが素直なんですか?言うたびに、"イヤやー"とか"ねむないー"なんて我がまま言ってたのに」
笑いながらそう言うと、市丸隊長はふっと笑みを零し、ポンと私の頭に手を置いた。
顔を上げると、優しい瞳が私を見下ろしている。
「やっぱちゃんは笑顔が似合うわ」
「…え?」
「出来れば…いつもそないに笑ろてて欲しいなぁ」
「…市丸隊長…」
「ま…そういうわけにもいかんかもしれへんけど…何や悩んでる事があれば、何でもボクに言うてな。少しは役に立つかもしれへんし」
隊長の優しい言葉に、目頭がジワリと熱くなる。
涙が零れ落ちないよう、慌てて俯くと、クシャっと頭を撫でられた。
「あ〜お腹空いたぁ…ご飯、何作ってくれとるん?」
「あ…あの…消化にいいものと思って鍋焼きうどん…って、あぁっ」
「な、なになにっ?」
突然大声を上げた私にギョっとしたのか、市丸隊長がビクっと飛び上がった。
火にかけたまま忘れていた鍋がグツグツと煮だっていて、急いで火を止める。
少し煮すぎた感じのうどんに溜息をついて、恐る恐る振り返ると、隊長は苦笑いを浮かべながら、
「ほんま、消化に良さそうやなぁ」
「す…すみません…もう一度作り直して――――」
「ああ、ええよ、それで」
「え、で、でも――――」
「ちゃんの作ってくれはったもんなら何でも美味しいし。少しくらい伸びたてかまわへん」
市丸隊長はそう言うと、笑いながらテーブルについた。
「お腹ペコペコやし、それちょうだい」
「は、はい…」
言われたとおり、すぐに隊長の前に鍋を置いた。
隊長はそれを食べながら、「ん、美味しい」と嬉しそうに微笑んでくれる。
伸びたうどんが美味しいはずないのに、嫌な顔一つしないで食べてくれている隊長を見て、つい笑みが浮かぶ。
こんなところでも、隊長の優しさを感じて、それが凄く嬉しかった。
「…ありがとう…御座います」
「ん?何で?お礼言うのはボクの方やんか。熱出して迷惑かけた上に看病までしてもろて…こうして食事まで作ってもろてるし」
ふと顔を上げて、不思議そうな顔をする。
そんな隊長に小さく首を振った。
「こんな事くらい、当たり前です。私は…いつも市丸隊長に助けられてますから」
初めて会った時もそうだった。
虚に殺されかけた私を、隊長は二度も助けてくれて…
もっと腕を磨け、と剣術指南まで引き受けてくれた。
ちょっと元気がない時だって、すぐに気づいてさっきみたいに、さり気なく笑わせてくれる。
それだけで、重苦しかった心が軽くなっていくんだから、不思議だ。
まるで、私の事を全て分かってくれてるような、そんな優しさが、隊長にはある。
「…助けてあげるで」
「…え…?」
「ちゃんが困っとるなら何度でもや…」
いつもの笑顔を浮かべながら、そんなドキっとするような台詞をサラリと言う。
それだけで、胸の奥のもっと深いところが、小さな音を立てる。
これまで感じた事のない、それに、思わず目の前で微笑んでいる隊長を見た。
「どないしたん?ホッペ赤いやん」
「な…何でもないです」
「ほんま?って、まさかボクの移って熱が出たんちゃう?」
「だ、大丈夫です。あの…洗濯物、取り込んできますね…っ」
笑顔で誤魔化し、急いで庭先へと出る。
久しぶりに晴れて、昼間に洗濯物を干しておいたのだ。
今はすっかり日も暮れて、シーツが風にはためいてるのを見て、すぐにそれらを外した。
「はあ…何、赤くなってるのよ…」
熱くなった頬に、冷たい夜風が気持ちいい。
気づけばドキドキと早くなっている鼓動に、小さく溜息をついた。
何だろう、さっき隊長のこと、凄く――――
「な、何考えてるの、私ってば…」
あってはいけない事を考え、慌てて首を振る。
そう、あってはならない事だ。
自分の所属している隊の隊長を、一人の男性として意識した、だなんて――――
「気のせいよ、気のせい…そんな事あったらビックリ――――」
「何がビックリなん?」
「ひゃっ」
突然、背後から声が聞こえて、私は飛び上がった。
そのまま振り向くと、市丸隊長が苦笑交じりで立っている。
「た、隊長…驚かさないで下さい」
「そない驚かんでも…何や、ちゃんがブツブツ言うてるの聞こえたし、気になって――――」
「ブ、ブツブツなんて言ってません」
赤くなった頬を見られないよう顔を反らすと、隊長は後ろで笑いを噛み殺しながら、縁側に腰をかけた。
そして雲ひとつない夜空を見上げている。
シーツを取り込みながら、「そんな薄着でいたら、また熱が出ますよ?」と言うと、隊長は小さく笑った。
「もう大丈夫や。身体もかるなったし…それより…今夜は雪も降ってへんし、綺麗な三日月さんがハッキリ見えるわ」
その言葉に私も空を見上げると、隊長の言うとおり、細い三日月が綺麗な弧を描き、浮かんでいる。
冬の空は澄んでいるからハッキリと見えて、とても美しい月夜だった。
「…綺麗ですね」
「ほんまに」
暫し二人で月見をしながら、静かな時を過ごす。
隊舎から少し離れたこの場所は、何も話さないと、とても静かだ。
吐く息が白く空に舞うのを見ながら、ふと隊長を見れば、彼は少し寂しげな顔で夜空に浮かぶ月を見ていた。
「…隊長…?そろそろ中へ入って下さい。風が出て――――」
「なあ、ちゃん…」
「え…?」
不意に名を呼ばれ、ドキっとした。
市丸隊長は、黙って私を見ていて、その瞳に鼓動がまた早くなっていく。
「隊長…?」
「もし…」
「………?」
「ボクがい〜ひんようなったら……ちゃんは寂しい?」
その言葉に一瞬、息を呑む。
隊長の顔は真剣で、今の言葉がいつもの冗談なのか、判断出来ない。
「…な…いなくなったらって…どういう――――」
「なんて…そないな事ないか…。我がままな隊長がおらんようなったて喜ぶかもしれへんなぁ」
「…ば、莫迦なこと言わないで下さい…っ。冗談でもそんな話、聞きたくありませんっ」
想像、してしまった。
今、この瞬間、もし目の前から隊長がいなくなったらって―――
凄く怖かった。
寂しいとか、そんな言葉では足りないほどに。
私は――――
「私は…市丸隊長がいなくなったら…寂しいです…」
「ちゃん…」
「もし…隊長がいなくなったら…凄く寂しいと思います…」
そんな事、考えたくもないのに、どうして市丸隊長はそんな事を言うのか。
この時の私には、分かるはずもなかった。
「吉良副隊長だって……きっと泣いちゃいますよ?」
言葉が詰まりそうになるのを堪え、おどけてそう言った。
「だから…冗談でもそんなこと、言わないで下さい…」
座ったまま、私を黙って見つめている隊長に、僅かに微笑む。
またいつものように笑って、"冗談"だと言って欲しくて。
でも、隊長は笑ったりはしなかった。
「……何や…そない言われると…嬉しいなぁ」
軽く俯くと、小さな声でそんな事を呟いて、またすぐに夜空を見上げる。
隊長の瞳には、今夜の綺麗な三日月が映って、かすかに滲んでいた――――