10章 / 恋月(1)



お昼時という事もあって、乱菊とが二人で来た食堂は、いつもよりも賑やかだった。
死神達が仕事の合間に来ては、その日のランチを注文して、急いで食べてはまた仕事へと戻る。
そのせわしない空間で、二人も同じようにランチを食べて、一息ついていた。
頬杖をつきながら、窓の外を眺めると、少しどんよりとした曇り空が広がっている。それを見ていると、どこか気分も沈んできて、は溜息をついた。


「なーに溜息なんかついてんのよ!」
「あ、すみません…乱菊サン」


コツンと額を殴られ、は苦笑いを零した。乱菊はいつも元気で周りを明るくしてくれる。


「じゃあ明日はこの作戦でいくから。いい?」
「…はあ」


明日、20日は冬獅郎の誕生日で、恋次の昇進祝いもかねたパーティが計画されていた。
同時に、それは恋次が食事に招待されている朽木邸に、大勢で押しかける、といった恐ろしい日でもある。
乱菊や、他の参加する面々――ほぼ十一番隊――は楽しそうに計画していたが、は白哉の家に押しかけると行った非常識なこの計画に、一抹の不安が拭えなかった。


「でもホントに大丈夫なんですか?朽木隊長を怒らせるんじゃ…」
「だから大丈夫だって!行っちゃえばこっちのモンよ♪」
「…………はあ」


呑気に笑う乱菊に、は顔が引きつった。あの豪邸に入ってみたい気持ちはあれど、"朽木隊長を敵に回す事だけは避けたい"。
そんなの思いも、乱菊には届かないようだ。


「あ、ところで例の写真は撮れた?あとはギンだけでしょ」
「…あ…それが……」


不意にギンの名前を出され、はドキっとした。


「えっと、まだ…撮れてなくて…」


女性死神協会で言われた、資金集めの為の写真。
冬獅郎のは、乱菊と二人で何とか言いくるめて(!)無理やり撮れたのだが、ギンの方はなかなか言い出せないままだったのだ。


「あら、まだ撮ってないの?ギンならすぐ撮らせてくれるでしょ?」
「…すみません。最近忙しくて、あまり顔も合わせてないし…」
「この前もそう言ってたわねー。っていうか、ギンと何かあった?」
「え…っ?」


その突っ込みにドキっとして顔を上げると、乱菊はニヤリと怪しい笑みを浮かべた。


「ほら、恋次と一緒に飲んだ日、ギンがちゃんを迎えに来たじゃない?あれくらいから、何かちゃんの様子、変だし」
「そ、そんな事ないですよ!やだなぁ、乱菊サンってば!」
「でもあれからじゃない?ちゃんがギンの話しなくなったのって。前は時々愚痴ってたのに」
「……た、隊長も忙しいし、今は私も仕事が山ほどあって、愚痴るほど一緒にいないから…」


そう説明すると、乱菊は「ふーん」と言うだけで、それ以上何も聞いては来なかった。
内心ホっとしながらも、は再び窓の外を眺めると、乱菊に気づかれないよう、小さく息を吐く。
そしてあの日の事を思い出し、少しだけ、胸が痛くなった――――










いつものうるさい目覚ましが聞こえたわけでもなく。は自然に目を覚ました。


「…あれ…」


音もしない静かな空間で、は一瞬、今日は休日だったかな、と考える。
そして次の瞬間には、不快な頭痛が襲ってきて、思わず顔を顰めた。


「痛たぁ…」


(そうだ…夕べ乱菊さんや阿散井くんとお酒飲んだんだっけ…)


前にも何度か経験のある二日酔いの痛みに、は小さく息を吐き出した。どれほど飲んだのかは覚えていないが、この様子だとボトル一本は軽く空にしているだろう。


(またやっちゃった…今日は休みじゃないのに………ん?)


そこでは気づいた。自分は今、目覚ましで起きてはいない。という事は何時なんだと疑問が沸いた瞬間、慌てて起き上がる。
でも振り向いた先に、いつもあるはずの時計はなく、代わりに水差しとコップが置かれていた。


「…って、ここ、どこ……?」


隊舎の自分の部屋ではない事に気づき、は青くなった。それと同時に今、視界の片隅に入ったものが気になって、ゆっくりと視線を戻してみる。
そしてすぐに二日酔いも吹き飛ぶほどの衝撃を受けた。


「い…市丸隊長…っ?」


自分が今、まさに寝ている布団の隣には、何故か自分の所属する三番隊の隊長、市丸ギンが気持ち良さそうに寝ている。
しかもその体勢から見て、ギンがに腕枕をしていたのは明らかで、顔が赤くなるのと同時に、慌てて自分の格好を確認した。


「…着てる…」


普段どおり、死覇装を着たままの自分の姿に、ホっと息をつく。そして何故、自分が隊長であるギンの寝室、しかも腕枕をしてもらいながら寝ていたのか、という疑問が沸いた。


(夕べは…乱菊サン達と飲んで…それで色々と話してたはず…そこまでは覚えてるんだけど…)


アレコレ考えてみたが、どうしてギンと一緒に寝ているのかが分からず、は途方に暮れた。


(まさか……私ってば酔っ払って市丸隊長の部屋に押しかけた…とか…?)


ふと、そんな恐ろしい想像が駆け巡り、は真っ青になった。これまで、いくら酔っても、そんな失態を犯したことはない。
でもそれは傍に冬獅郎がいてくれたからで、誰も面倒を見てくれる人がいなければ、酔った自分がどうなってるのか分からない。


「ど…どうしよう…」


酔ってたとは言え、仮にも護廷十三隊、隊長の部屋へ押しかけ、あげくズーズーしくも、その隊長の腕枕で寝てしまったとあれば、始末書どころの話ではない。
最悪、除隊、更に"自分の隊の隊長に夜這いをかけた女"という不名誉な噂まで流れ、皆から白い目で見られてしまう――!
一瞬で色々な事が頭をかけめぐり、二日酔いの頭痛なんか吹っ飛んでしまった。とは言え、自分が何故ギンのところに来たのかという理由が分からない。


(もしかして…いつもの悪いクセで隊長に文句でも言いに来たとか…?)


自分が酔うと愚痴を言うのは、周りの人から聞いて知っている。前は冬獅郎の前でもよく言っていた(らしい)。


「やだ…ホントに始末書どころの話じゃ…」


最悪の状況には一人勝手に、瀞霊廷を追い出される自分を想像して青くなった。


「…始末書て何のこと…?」
「――――ッ(ビク)」


その時、不意に背後で声がして、は飛び上がった。


「た…隊長……」
「ふぁぁぁ…おはよ、ちゃん」


特大の欠伸をしつつ、ギンは両手を伸ばしながら起き上がった。その姿はいつもの死覇装ではなく、寝間着にしている着物姿で、相変わらず胸元が肌蹴ている。
は何となく照れ臭くて、視線を反らしながら、夕べの失態をどう言い訳しようか考えをめぐらせていた。


「…あ、あの隊長…私――――」
「ああ…二日酔いは大丈夫なん?かなり酔っとったやろ」
「………ッ(やっぱり)」


(私ってばやっぱり泥酔して市丸隊長ところに…!最悪だわクビだわ私!)


ギンの言葉に、は冷や汗が出てきた。そんな様子にギンは首を傾げると、


「夕べはボクが迎えに行ったからええけど…普段からあんなに飲みすぎてたら危ないで?」
「……………は?」


一人勝手にドキドキしていたは、ギンのその言葉に目が点になった。


「む、迎えに……って、隊長が私を…?」
「そうや。帰りに心配で、行くって言うてた店を覗いたんや。そしたら案の定、ちゃんは眠りこけてて、阿散井くんが送ろうとしとったからボクが――――」
「え、え?って事は私、居酒屋で寝ちゃってたんですか?!」
「…何や覚えてないん?」


の驚きように、ギンも苦笑する。それでもだけは心底ホっとしたように息を吐き出した。


「何だ……私てっきり隊長の部屋に押しかけたのかと……」
「え?何、そんな勘違いしとったんや。せやから始末書がどーとかブツブツ言うてたんやなぁ」


の様子がおかしい理由を知って、ケラケラと笑う。そんなギンを、は赤い顔で睨みつけた。


「笑い事じゃありません!私、ホントにどうしようって思ってたんですよ!っていうか、じゃあ何で隊舎に送ってくれなかったですかっ」
「い、いや…いくら何でも隊長が夜中に部下の部屋へ送っていくなんて出来へんよ…誰かに見られたら、それこそボクが何言おうが、ちゃんは始末書もんやろ?」
「そ、そうですけど!なら隊舎の前に放って行ってくれれば良かったんですよ!何もここへ運んで一緒に寝る事ないじゃないですかっ」
「そんな、ボクがちゃんを放っていけるわけないやんか」
「…………ッ」


困ったように微笑むギンを見て、もさすがに言いすぎたかと言葉に詰まる。元々は飲みすぎた自分が悪いのだ。


「…すみません。寝起きからビックリしすぎて…ちょっと言い過ぎました」
「そんなん、かまへん。それより…あんな場所で無防備に寝たらアカンで」


ギンはそう言って笑うと、の頭をポンポンとたたき、立ち上がった。
その優しい仕草にドキっとしつつ、ギンを見上げる。


「…はい。すみません」
「そろそろ用意しよか。二人で遅刻してもイヅルに怒られるだけやし」
「あ、はい!」


そこで我に返り、も立ち上がる。だが目の前でしゅるしゅると帯を解き、着物を脱ぎ捨てようとするギンに、は慌てて後ろを向いた。


「ちょ!ここで脱がないで下さい!」
「えー?何でー?ボクはいつもここで着替えるし、向こうで着替えるのも時間の無駄――――」
「だからって何で普通に脱いでんですか!っていうか言ってくれれば私が出て行きます!」


真っ赤な顔でそう怒鳴ると、は急いで部屋を出ようとした。でもすぐに腕を掴まれ、引き戻される。


「あー待って!腰紐、結んでくれへん?」
「は?」
「ボクがやると、いつも時間かかんねん」
「…………」


すでに死覇装だけは纏っていたギンは、ニコニコしながらを見ている。そんな笑顔を見上げながら、は溜息をついた。
いつもこの笑顔に騙されてしまう自分を呪いつつ、ギンの手から腰紐を受け取る。


「分かりました。結びます」
「ほんま?おおきに」
「もう……私は隊長の母親でも奥さんでもないんですからね」


そう文句を言いながら、その場に跪き、腰紐を回す。それでもギンは嬉しそうにそれを見ていた。


「でもそうしてると、ほんまにボクの奥さんみたいやん。毎朝、ちゃんに頼もうかなー」
「……バカなこと言わないで下さい…はい、出来ました」


ギンの発言にドキっとしながらも、は何とか腰紐を結ぶと、一息ついて立ち上がった。
ギンは「おおきに」と言いながら、白い羽織りを羽織っている。そのいつもの姿に戻ったギンを見ていると、何となく照れ臭くなり、は視線を反らした。


「じゃ、じゃあ私は一度隊舎に戻ります。隊長は時間になったら執務室へ行ってくださいね」
「えぇーつれないやん。一緒に朝ご飯、食べよう思てたのに……」
「そ、そんな時間ありませんっ。あと30分で定例会議ですから」


やっと普段の自分を取り戻し、ビシっと言えば、ギンは深々と溜息をついて項垂れた。


「…怖いなぁ…寝顔は可愛かったのに…」
「よ、余計な事は忘れて――――」


寝顔を見られた恥ずかしさで、慌てて振り返る。でもその瞬間、強く腕を引かれ、言いかけた言葉は途切れた。


「た、隊長……?」
「忘れたない」
「あ、あの…」


突然、ギンに抱きしめられ、は一気に顔が熱くなった。背中に回っている腕が、更に強くなっていく。


「…夕べは…何や幸せやってん」
「な……何言って…」


抱きしめられている事で、ギンの表情は見えない。でも紡がれる言葉は、どこか切なげで、熱い吐息を耳元で感じた。


「………どう…したんですか?」
「どうもない…。ちょっと…限界がきたんかなぁ…」
「え…?」


小さく呟かれた言葉に、が顔を上げようとした。でもそれは再びギンの胸に押し付けられる。ギンの死覇装からは、かすかにクリスマスローズの香りがした。
そう言えば、この部屋の庭の片隅に、ヒッソリと咲いている。以前、現世に行った部下から、お土産に種をもらったと言っていた。


「……隊長…?…離して下さい…」
「嫌や」
「……嫌って…言われても…」


子供みたいにスネた声で言われ、は苦笑いを零した。突然こんな風に抱きしめられて、驚き、戸惑っているのは確かなのに、どこか満たされる思いもある。
ふと、そんな思いが脳裏を過ぎり、鼓動が早くなった。ギンの傍に居ると、いつも守ってくれているようで、安心するのかもしれない。
抱きしめる腕の強さに、男の人なんだ、と、はこの時、改めてそう感じていた。



「…遅刻…しちゃいますよ…?」
「……………」


静かな部屋でこうして抱きしめられていると、鼓動がどんどん早くなる。それを誤魔化す為に、はなるべく明るい口調でそう告げた。
ギンは無言のまま、相変わらず離そうとしない。次第に互いの体温で体が温まってきたのを感じ、は恥ずかしさでいっぱいになってきた。


「あ、あの…隊長――――」
「このまま……」
「え…?」
「一緒におれたらええのにな……」


不意にギンが口を開き、耳を済ませないと聞こえないほどの小さな声で、そう呟いた。
どういう意味かと問うほど、こういう場面に慣れてもいないは、戸惑い、僅かに体を硬くした。


「たいちょ……」


耐え切れず、もう一度離して下さい、と言おうとした時だった。腕が解かれ、体が離される。驚いて顔を上げたの額に、ギンはそっと口付けた。


「な……何して…」
「これで充電完了や」
「……は?」
「仕事前のパワー補給やな」
「な…」


ニコニコと、普段の顔に戻っているギンの言葉に、は耳まで赤くなった。


「か、からかわないで下さいっ」
「からかってへんて。ボクにやる気を起こさせるのも部下の仕事やん?」
「な、それで何で抱きしめたりキスしたりする必要があるんですかっ」
「何でて、ボクがちゃんを好きやからに決まってるやん」
「…へ、変なこと言わないで下さい!いっつもからかうんだから…っ」
「からかってへんねんけどなぁ…」


そう言いながら肩を竦める。
それでも真っ赤になって「だいたいこれはセクハラです!」と怒るとは対照的に、ギンは困ったように、どこか寂しげに笑うだけだった――――










「はあ……」


乱菊と別れ、一人になった途端、重苦しい溜息が零れる。これからまた隊舎に戻って書類と睨めっこしなければならないと思うと、更に憂鬱な気分になった。
それに、戻ればギンとも顔を合わせることになる。あの日以来、どこか意識してしまって、普通に話せなくなっていた。
それでも乱菊に言ったように、最近は本当に忙しく、特に明日の休みを取るため、はここのところ夜中まで仕事をしている。
そのお陰で、ギンともそれほど会話をする事もなく、は自分の仕事にかかりきりだった。


「おい、!」
「…あ、橘さん…」

隊舎から、三番隊、副官補佐の橘が歩いてきて、は立ち止まった。
橘とはここ最近、よく仕事が一緒になる事で前以上に打ち解けており、時々修行にも付き合ってもらっている。
でもそれも、最近の忙しさのせいで暫く休んでいる状態だった。


「昼飯か?」
「はい。橘さんは?」
「オレはこの間、現世で倒した虚の報告書を隊長に提出してきたところだ」
「そうですか」
「何故かここ最近の虚はおかしなものが多いから、それも報告しておいたよ」
「ああ…この間の虚も変な能力を使いましたよね…何の変化なんだろ」


は橘の話に相槌を打ちながら首を傾げた。現世でのパトロール隊から何度か要請があり、ここのところと橘は一緒に現世へと行っている。それも忙しい原因の一つだった。


「それより…お前、ある程度の睡眠はとってるか?」
「え?あ…まあ」
「フン。その分じゃ寝不足だろう。隊長も元気がなかったが、お前の顔にも覇気がない」
「…っていうか隊長も元気ないんですか?」
「ああ。何だか報告しに行っても、どこか上の空だったな。吉良副隊長も心配してた」
「……そうなんですか。最近話してないから気づかなかった」
「まあ隊長も最近はずっと忙しかったからな。疲れてるのかもしれない。お前も明日は休みだろう?久々に羽を伸ばしてリフレッシュしろ」
「はあ…」


は頷きつつも顔を引きつらせた。明日のパーティの事を思い出したのだ。


(休みといってもリフレッシュどころか、ハラハラしっぱなしかも…)


といって、乱菊があれほど楽しみにしているのだから、中止にしましょうとも言いづらい。
それに主賓の冬獅郎にも簡単にだが白哉の家が会場になった――勝手にだが――と伝えてある。


「何だ、休みがダメになったのか?」
「い、いえ…大丈夫です」
「なら良かった。じゃあ明日はゆっくり休め。オレはこれから遅い昼飯にでも行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい」


がそう言って微笑むと、橘は軽く手を上げて歩いて行った。


「よし!私も仕事しよ」


橘を見送った後、軽く深呼吸をして隊舎へ戻る。途中、ギンの執務室の前を通ったが、声をかけるのをやめ、そのまま隣にある自分の部屋へと向かった。


「うわ、こんなにあるの…?」


部屋に入った途端、机の上に置かれた書類の山に、は頭を抱えた。今朝、少しは減らしたのに、また同じくらい増えている。
下の者が出来ない仕事以外、隊長、副隊長の手が回らない時は、が手伝う事になっているので、それも仕方ない、と椅子に腰を掛けた。


「あ、そっか。もしかして隊長が具合悪いせいで遅れてるのかな…」


ふと先ほど橘が言っていた事を思い出し、隣へ続くドアを見た。今朝も一応挨拶はしたが、それ以外は会話を交わしていない。


(大丈夫かな、市丸隊長…そう言えば今朝も少し元気がなかったかも…)


言われてみるとそんな気もしてくる。は少し気になって隣を覗いてみようか、と思った。だがやはりまだ普通に話しかけるのは意識してしまう。


「もう……あんな事するから…」


ギンには何度もからかわれてきた。でもあの時だけは少し違ったような気がする。


(最後の最後でふざけたけど…あの日の隊長、どこかおかしかった…抱きしめてくる腕の強さも……あの額へのキスも…)


そこであの時の事を思い出し、赤くなった。男の人からあんな風に扱われた事は一度もないにとって、ギンを意識してしまうのには充分すぎる行為だ。


「ダメダメ…あんな事くらいで意識なんかしてちゃ隊長にまた笑われちゃう…」


そう自分に言い聞かせながら軽く首を振ると、はギンの様子だけでも見てみようと椅子から立ち上がった。
同時に、コンコンとノックをする音がして、


くん、ちょっといいかな」
「吉良副隊長……あ、はいどうぞ」


吉良の声に、慌てて机の上を片付ける。そこへドアが開き、吉良が顔を出した。


「ゴメンね仕事中。市丸隊長、どこに行ったか知らないかな」
「え…?いないんですか?」
「うん。僕が今、ランチから帰ってきたらどこにも…。さっきはどこにも行かないって言ってたんだけど…何か聞いてない?」
「いえ…私も今、戻ったばかりなんです」
「そうか…困ったなぁ。まだ書類が溜まってるのに」


吉良はそう言いながら溜息をついた。


「お腹が空いて何か食べに行ったんじゃ…」
「いや、食欲ないって言ってたし。だから僕だけ食堂に行ってたんだけど…」


困ったように腕組みしながら、吉良は壁に寄りかかった。その顔にはと同じように疲労の色が見える。
この一週間、吉良も隊長なみに忙しかったせいだろう。
吉良がこれでは、隊長のギンは相当、疲れてるのかもしれない、とふと思った。


「あの…隊長、どこか具合でも悪いんですか?」
「え、何で?」
「いえ、さっき橘さんが隊長が元気ないって言ってて…」
「ああ…そっか。まあ…ここ一週間くらいは確かに元気ないけど、具合が悪いって事はないと思うよ」
「でも食欲ないって…」


がそう言って心配そうな顔をすると、吉良は困ったように苦笑いを零した。


「いや…それはまあ…精神的なものっていうか」
「…精神的な…?」


怪訝そうな顔をするを見て、吉良は言いにくそうに頭をかいた。


「うん…まあ僕が思うに、市丸隊長が元気ないのは、さんがかまってくれないからだと思うんだけど…」
「は…?私…?」
「ほら、さん最近は忙しかったし、ここへ来ても挨拶もそこそこに自分の部屋にこもってたろ?」
「そ、それは…」
「市丸隊長、時々僕に愚痴こぼしてたんだ。"ちゃんが冷たい"ってさ」
「な、何ですかそれ……私は別に冷たくしたりは…」


吉良の説明に顔が赤くなった。まさかギンがそんな愚痴を言っていたとは夢にも思わない。


「ま、あの人ああ見えて結構寂しがり屋だから、ちゃんが前ほどかまってくれない事でへこんでるんじゃないかな」
「……ま、まさか…」
「今は忙しいんだから仕方ないですよって言っておいたんだけどね、さっきも」
「……………もう…子供じゃないんだから…」
「あははっ。まあそうなんだけど、隊長はああいう人だから」


楽しげに笑う吉良に、も一緒に苦笑いする。確かにギンは他の隊長よりも、多少変わったところがある。


「でも…ホント、どこ行ったんでしょうね、隊長」
「もしかしたら自室に戻ってフテ寝してるかもね」


クスクス笑いながら吉良がそう言った瞬間――
背後から、「誰がフテ寝してるて?」という、冷んやりとした声が聞こえてきて、二人はギョっとした。


「た、隊長!」


慌てて振り返ると、ムスっとした表情のまま、ドアに寄りかかっているギンがいて、吉良とは顔が引きつった。


「何や二人で仲良う話してんなぁ思たらボクの悪口かいな」
「い、いえ悪口なんて……っていうか、市丸隊長!勝手にどこに行ってたんですかっ」


一瞬青くなった吉良だが、そこは副隊長。すぐに説教モードへと入った。それにはギンも笑って誤魔化すと、


「どこて……トイレ?」
「そこは探しました」
「…………の後に、ちょっと小腹が空いて食堂に――」
「そこも探しました」
「………………あ♪その帰り道、バッタリ十一番隊長さんに会うて世間話を――――」
「そんなもん、する人ですか。更木隊長が」
「………イヅル〜また意地悪になったんちゃう?」


ことごとく否定され、ギンは観念したかのように溜息をついた。だいたい、いつも変な言い訳を作っている為、吉良には通用しなくなっている。


「隊長が仕事をサボるからです」
「サボってへんてー。ただ少し疲れたから外の空気を吸いに行っただけやし」
「なら部屋の窓を開ければいいでしょう?全く……すぐ遊びに行っちゃうんですから」
「遊びには行ってへんよ。なあ、ちゃんからもイヅルに何か言うてー」
「え?あ…」


不意に足元にしゃがんだギンが、の着物の裾を引っ張り、見上げてくる。そこで徐に目が合い、はドキっとした。


「あ、あの…吉良副隊長…説教はそれくらいにして、そろそろ仕事に戻った方が…。書類もたまってますし」
「そうそう♪」
「………」


の言葉に嬉しそうに頷くギンを見て、吉良は一瞬怖い顔をしたが、すぐに息を吐き出した。


「そうですね。こんな事をしてたら夜中になっちゃいますし…。じゃあ隊長は部屋に戻っててください。僕は先ほど判子の押された書類を事務処理班に届けてきますから」
「はいはい。分かってるて」


呑気なギンの態度に、吉良は一瞬ジロっと睨む。でもすぐにを見ると、「後は頼むね」と言って、足早に部屋を出て行った。
この後にやらなければいけない仕事が溜まっているせいだろう。


「はあ〜ほんま最近のイヅルは意地が悪いねんから……」


吉良がいなくなった途端、ギンは溜息交じりで肩を竦めた。その態度にも笑いながら、仕事の準備を始める。


「隊長が悪いんですよ?勝手にどっか行っちゃうから。ホントはどこに行ってたんですか?」


そう言いながら、書類を整理して、振り返る。そんなを見て、ギンは嬉しそうに微笑んだ。


「やーっとまともに口きいてくれた」
「……え?」


その一言にドキっとしてギンを見る。ギンはゆっくり立ち上がると、の頭にポンと手を置いた。


「最近素っ気ないし、嫌われたかなぁと心配しててん」
「そ、そんな嫌うなんて……あるはずないじゃないですか」
「……ほんま?最近、ボクのとこにも、あまり来なかったやん」
「う…。そ、それは仕事が忙しかったせいで…。ホントにそれだけです」


不意に屈み、顔を覗き込んでくるギンに、は顔を引きつらせた。近い距離で見れば見るほど、ギンの端整な顔立ちが分かる。
その切れ長の瞳に見つめられると、何も言えなくなってしまうのだ。


「そ?なら良かったわぁ」


ギンはホっとしたように笑うと、頭に置いた手で、の髪をクシャリと撫でる。その感触にすら反応する自分の心臓に、は顔が赤くなった。


「そ、それより早く仕事に戻ってください。まだ山ほどあるんですから」
「分かってるて。もう気力回復したし大丈夫や」
「……気力って…」


大げさに言うギンに、は軽く噴出した。それを見てギンも楽しそうに笑うと、素直に自分の執務室へと戻っていく。
もその後を追うと、散らかっているギンの机の上を簡単に片付け始めた。今朝見た時から気になっていたのだ。


「あ、ええのに、そんなん…」
「ダメですよ。済んだのと分けておかないと間違えちゃうし…もう少し普段から片付けておいて下さいね」
「…だんだんちゃんもイヅルに似てきたなぁ」


椅子に座りながら苦笑いを浮かべるギンは、それでも嬉しそうな顔でが片付けるのを見ている。
ギンのその視線に、若干、鼓動が早くなるのを感じ、は片付ける手を早めた。
その時、の手が机の上に置いてあった湯のみにぶつかり、倒れてしまい、その拍子に残っていたお茶が書類を濡らしていく。


「す、すみません!すぐに拭きますから――――」
「あ、ええって、これくらいボクが…」


が慌てて近くにあったタオルで机を拭こうとした。ギンもまたタオルに手を伸ばし、僅かに互いの手が重なる。
その感触に、は小さく息を呑み、上に重なったギンの手を払うようにして、その手を引っ込めた。


「す、すみません、あの…」
「…………」


顔を赤くして気まずそうに目を伏せるを、ギンは驚いたように見つめた。そして困ったように頭をかくと、一つ溜息をついて椅子へと座る。


「何や、やっぱちゃん、ボクのこと嫌いなんやね」
「……え?」
「あんな慌てて手を振り払うんやから、そうやろ」
「ち、違…私は――――」
「もうええよ…。ボクもからかい過ぎたんが悪いんやし……しゃーない」
「市丸隊長――――」
「ここはええから…ちゃんも自分の部屋戻って仕事して」
「でも――――」


いつもの笑顔ではなく、無表情のまま、そう言ったギンは、それ以上話す気はないというように書類に目を通し始めた。
その横顔は、今までに見た事がないくらいに冷たい。それを見たは言葉もなく、ただ一礼して自分の部屋へと戻った。
違うのに、勘違いさせてしまった自分の態度に腹が立つのと同時に、ひどく胸が痛んだ。


「……嫌いなんかじゃ…ないよ…」


そう呟くのと同時に、涙が一気に溢れてきた。


(隊長のあんな顔…初めて見た……)


素っ気なく視線を反らすギンを思い出すだけで、溢れた涙が頬を伝っては落ちていく。こんな痛みは感じた事もない。
胸のずっと奥底が、ジワジワと痛みを増して、その痛みが体全体を覆っていくようだ。


「…傷つけちゃった…」


何でこんなに苦しいの?シロちゃんとケンカした時でさえ、こんな気持ちにはなった事がない…
痛くて、苦しくて、市丸隊長にあんな顔をされた事が悲しくて…その事が何でこんなに辛いの?何で……


そう、自分に問いかけながら、は震える手を握り締めた。


いつも振り回されては怒ってた。でも隊長はいつだって笑いかけてくれてたのに――


涙を拭い、その場に座り込む。一気に体の力が抜けたように、はそこから動けなかった――――







  
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