15章 / 月の行方(1)



その宿は瀞霊廷内の外れにある森を抜けた山地に、ひっそりと佇んでいた。
緩い坂になっている長い石畳を歩いて行くと、趣のある家屋が見えて来る。

"山居料亭・田牧"

その名は表札かと見間違えるほどの目立たぬ姿で柱に木彫りされていた。
すでに連絡を受けていたのか、門前に初夏らしい菖蒲色の着物を纏った若い娘が立っている。
娘は歩いてくる二人に気付くと、すぐに深く頭を下げた。この料亭の仲居だろう。

「――――お待ちしておりました」

仲居の案内で門をくぐって緩い石畳の階段を上がれば、すぐに広い庭園が姿を現す。
仲居は正面入口へは向かわず、色とりどりの花で飾られた庭先を通り、更に奥へ歩いて料亭の離れの間へと二人を案内した。

「――――おこしやす」

離れの引き戸を仲居が開けると、そこには深々と頭を下げた和服美人が出迎える。
仲居とは違う京紫に染め上げた紬単衣の着物に白の染帯をはんなりと着こなし、優雅な所作で顔を上げたのは、この料亭の女将だった。
見た目の歳の頃は30代。色白で細面、涼しげな目元には小さなホクロがあり、それがいっそう女将の色香を引き立たせている。

「お久しゅう。元気にしてはった?紅ちゃん」
「いやぁ、ほんまにお久しぶりどすなあ。ギンちゃんたら最近ちぃとも来てくれんようならはって寂しかったんどすえ」
「堪忍なー。ボクも隊長なってからは、えらい忙しゅうなって、よお休みも取れへんねん」
「ほんま忙しないんどすか?どこぞにええ人見つけはったんちゃうかー言うて、うちの子ぉらも寂しがっとったんどすえー」

女将は口元に浮かべた笑みを、その白い手で覆う。
そしてふと、切れ長の瞳を後ろに佇む一人の少女へと向けた。

「ほなら、こない可愛らしい子まで連れてはるんやから……まさかギンちゃんのええ人?」
「い、いえ私は――――」

女将の艶っぽい視線を向けられ、ギンの後ろに隠れるように立っていた少女は慌てたように首を振る。
しかしその頬はほんのりと紅色に染まっているのを女将は見逃さなかった。

「ちゃうちゃう。この子はボクの部下や。ちゃん。ボクの隊の五席やねん」
「あ、あの…です!初めまして」

ギンに紹介されたは硬い動作でぺこりと頭を下げる。その新鮮な行動に、女将も目を丸くして微笑んだ。

「あれまあ、部下さんかいな…!失礼言うて堪忍どすえ。――――ここの女将をしております。田牧紅子と申します」

女将もまた、両手をつき柔らかい所作で頭を下げる。

「ギンちゃん…隊長さんには以前から懇意にして頂いてて――――ささ、どうぞ。話の前にお部屋へ案内いたしやす」
「あ、で、でもこの子が――――」

先を歩いて行こうとする女将を呼びとめ、は先ほどから自分の腕の中で眠っている子犬を見下ろす。
その可愛らしい姿に女将も優しい笑みを浮かべた。

「ギンちゃんから聞いております。その子もどうぞお連れんならはってかまへんどすえ。さ、お上がりやしとおくれやす」

女将の言葉には後ろにいるギンを仰ぎ見る。ギンが優しい目で小さく頷いてみせると、もホッとしたように笑顔を見せた。

「さぁさぁ、気にせんと。どうぞ中へ」
「は、はい。じゃあ…お言葉に甘えて、お、お邪魔…致します(?)」

あまりに丁寧な対応で緊張したのか、はおかしな挨拶と共に草履を脱ぐ。
それを後ろで眺めていたギンは軽く笑いを噛み殺すと、自分もまた草履を脱ぎ、慣れた足取りで女将の後からついて行った。
静かな廊下には仄かにお香の匂いが漂い、古の趣ある離れの風情を一層引き立たせている。

「惣右介さんとギンちゃんが、ご贔屓の"京桜の間"を用意しときましたんえ」
「…"そうすけ"…? 」

女将の言葉にが首をひねると、ギンはかすかに微笑むだけだった。

「ええ。護廷十三隊の隊士さんやったら知ってはりますやろ?藍染惣右介さん。――――さ、どうぞー」

その名を聞き、が驚く声を上げる前に、女将は襖を開けると二人を座敷へと通した。

「わぁ…素敵…」

女将の案内した部屋は掛け軸一つとシンプルな生け花以外、特に飾り立てられているわけではない質素な部屋だ。
だが、庭に面した障子を開け放てば手入れの行き届いた艶やかな花達が、存分に堪能出来る。

「ええ眺めどっしゃろ。当館自慢の庭どす。惣右介さんもこの庭がえらい気に入らはって。うちへ来てくれはった時はいつもこの座敷なんどすえ」
「藍染隊長も…ここへ来るんですね」
「へぇ。もうかれこれ100年近くにはなりますやろか。惣右介さんの下にギンちゃんが入った頃からやから…その頃は二人でよお来てくれはりましたわ」

の問いにギンより先に女将が口を開く。
話をする間も、お茶を用意する手は休めない。

「ギンちゃんと最初に会うた時はまだちっさいボンで、そら可愛らしかったんどすえー。まあ少々ませてはりましたけどなあ」
「紅ちゃん、そない話はええてー」

きゃらきゃらと手を振りながら笑う女将に、ギンもばつの悪そうな顔で頭を掻く。
で大きな瞳をパチクリとさせ、ギンの方を仰ぎ見た。

「え、市丸隊長って、いつから護廷十三隊に入ったんですか?そんな小さい時から、こんな料亭に来てたんですか?」
「…昔すぎて忘れたわ。ボクは藍染隊長に大人の世界も見て勉強しろー言われて連れまわされてただけやしなぁ」
「よお言いますわぁ。ギンちゃんたら今はこない立派にならはったけど、あの頃は惣右介さんにも"こない場所つまらーん、帰るー"て我がまま言い放題どしたやろー」
「いつの世も子供は駄々子て相場は決まっとるやろ。青春真っ盛りの少年が料亭来て何がおもろいねん。ま、今は藍染隊長に感謝してるでー。色んな経験させてもろて」

ギンは女将の淹れたお茶を口に運びながら苦笑いを浮かべている。
は初めて聞くギンの過去に興味があるのか、女将の話に真剣な顔で耳を傾けていた。

「でも…藍染隊長が気にいるのも分かります。こんな場所にこんな素敵な料亭があるなんて知りませんでしたけど」
「おおきに。そうどすなぁ…この辺り一帯は貴族はんの土地やから、中心地の方はおろか護廷十三隊の方達も滅多に来はらしません」
「貴族…ですか」
「へぇ。この辺りにあるお屋敷は、みーんな貴族はんが住んではります。この料亭は老舗やからと残してくれはって何とか続けさせてもろてますのんや」
「そうなんですか…」
「貴族はんは、あいさに時々お忍びで見えるくらいやし気にせんと寛ぎやしとおくれやす。お夕飯もお部屋にお持ちしますさかいに」
「は、はい。ありがとう御座います」
「まあ可愛らしい。ギンちゃんにこない部下さんが居はるなんてなぁ」

女将はそう言いながら意味深な笑みを浮かべ、ギンに視線を送る。
その視線の意味を理解したギンは、湯飲みを置いてゆっくりと立ち上がった。

ちゃん、庭の花が綺麗やから見て来たらどうや?」
「え…」
「うちの庭は見ごたえありますのんえ。そのワンちゃんも自由に遊ばせはってかまへんし」
「は、はあ」
「ボクは紅ちゃんに夕飯の相談してるし。料理は何でもええか?」
「あ…はい。お料理は隊長にお任せします。じゃあ……お言葉に甘えて」

はまだ女将と話をしていたいという風だったが、ギンの言葉には素直に頷くと、子犬を抱え女将に軽く頭を下げて庭へと下りた。
こんな風にノンビリするのは正月以来で、は疲れ果てた身心を癒すよう、庭先の艶やかな花達を眺めながら子犬と歩いて行く。
それを見届けたギンは障子を静かに閉めると、女将の方へ呆れ顔のまま振り返った。

「…紅ちゃん、しゃべりすぎやで。ヒヤヒヤしたわ」
「嫌やわぁ、ほんまの事でっしゃろ?別にあれくらいの話ならええかと思て」

女将はがいなくなると、先ほどまでの優しい顔を一変させ、少しだけきつい目でギンを見上げる。
そして溜息一つ吐き出すと、立ち上がりギンの白い羽織を脱がせてやった。ギンも当然のように身を任す。
気のおける者同士という空気が伺える雰囲気で、それが二人の付き合いの長さを物語っているように見える。

「それより惣右介さんは知ってはるん?正月に顔も見せん思たら、こない休みでもない日ぃに来るやなんて珍しい事もあるもんや思て驚いたんはこっちどすえ」

「しかも部下の子とワンちゃんまで連れて来はるやなんて」、と女将は溜息をついて羽織を箪笥の中へとしまう。
女将の迷惑そうなその顔にギンは苦笑いを零し、足を崩して再び座った。女将がつかさず湯のみにお茶を注いで庭先へと視線を送る。

ちゃん連れだすのに犬が必要やってん。それに…正月は藍染隊長が来はるんやからボクが来んでもええやろ?」
「いけずな事、言うて…。でもほんまにどないしはったん?部下のお人を連れて来るやなんて初めての事やないの。それもワンちゃんを餌にしてまで」
「まあ…ちゃん今ちょっと落ち込んどるから休ませよう思てな。隊舎におっても心が休まらへんやろし…ほんで紅ちゃん事思い出してん」

「藍染隊長にも話してあるし心配せんといて」、とギンが付け加えれば、女将は目に見て分かるほど安堵の表情を浮かべた。
付き合いの長い、いや、自分の"想い人"に義理だてしてたらしい女将を見て、ギンは内心苦笑いを零す。
この女将との付き合いも長いだけに、心のうちが手に取るように分かるのだ。

「ほなら安心やわ。ここは惣右介さんの隠れ宿みたいなものやから、いくらギンちゃんでも内緒で女の子を連れ込んだなら報告せなあかん思てたとこどす」
「堪忍してぇなぁ。ボクはもう子供やないで」
「へぇへぇ。えろう、すんません。ほな、お夕飯はいつもの、お出ししたら宜しいでっしゃろか」
「紅ちゃんに任せるわ。適当に見繕って」

テーブルの上にある菓子皿の蓋をあけ、中からせんべえを取りだしながら、ギンは軽く肩を竦めた。
それを横目で見ながら女将は部屋着として用意してある浴衣を取りだすと、ギンの前へ置く。

「それにしても…さんはほんまに部下ってだけの関係なんどすか?」
「何を勘ぐってはんねや?しょーもない質問はかなんなー」
「そない言うたかて勘ぐりたくもなりますやろ。ギンちゃんが惣右介さん以外のお人と見えるなんて事、これまで一度もなかってんから。それも可愛らしい女の子やなんて」
「せやから言うたやん。落ち込んどるから静かな場所で休ませたかってん」
「落ち込んどる言うだけで連れて来はるなんて、よほど大切なお人なんやと思うのが普通でっしゃろ。ギンちゃんがそない優しい男やなんて知りまへんどしたなぁ」

嫌味全開で目を細める女将に、さすがのギンも辟易したように肩を竦めた。

「何や、今日はやけに絡むなあ…。まーだ桜子のこと根に持っとるん?」
「当たり前でっしゃろ。人の娘にえげつない事しはってから…」
「50年も前の話やん……。それにあれは向こうからの色仕掛けやで?紅ちゃんも知ってはるやろ?」

言いながらギンは立ち上がると、障子を開け放った。
広い庭園の奥に目を向ければ、が子犬を抱いて佇んでいるのが視界に入り、ギンは小さな溜息をつく。

「それを我慢するんが男どす」
「"据え膳食わぬは何とやら"言うやん。って、まさか桜子にボクがおること言うてへんやろね」
「言うてやしまへん。まーた焼けぼっくいに火ぃついたらかなんしな。――――あの子も今は若女将やし本館の方を任せてますよって」
「そら懸命やわ。――――それよりボクはそろそろ可愛い部下を迎えに行かなあかんし、その話は堪忍な」
「もう…いつもはぐらかさはるわ」
「そない怒っとったら藍染隊長に嫌われんでー?」

庭先に置いてある草履を引っ掛け笑うギンの背中を、紅子はバシっと叩いた。

「余計なこと言わんと、はよ行きよし」

それまでの柔らかい口調から一転。少々きつめの物言いに、ギンはまたも苦笑いを浮かべる。
こんな言い方をされたのは、子供のころ以来だ。

「紅ちゃんに本気で怒られんのも久しぶりやわ」

そう言いつつも、ギンは少しも堪えてないかのような笑みを浮かべ庭先へと下りる。
その後ろ姿を見送りながら、女将は深々と溜息をついた。

「……ギンちゃんが部下や思てても…あの子の方はまんざらでもあらへん言う顔してはったけどなぁ」

ギンがに声をかけている姿を見ながら小さく呟くと、女将は静かに障子を閉めた。



「――――ちゃん」

不意に後ろから声をかけられ、はハッと息を呑んで振り向いた。

「市丸隊長……」
「綺麗やろ?ここの花」
「…はい。何か久しぶりです、こんなにノンビリ花を堪能したのは」

はそう言いながら目の前の牡丹を眺めた。そろそろ季節も終わるのか、花弁が散り始めている。

「来週には紫陽花が一斉に咲き始める思うで」

ギンは奥にある蕾を見つけて微笑んだ。
言われるがまま、その蕾を黙って眺めていただが、

「…突然、"ギン太の散歩しよかー"なんて言うからどこへ行くのかと思ったら…。隊長の言う犬の散歩って、こんな遠方まで来る事ですか?」

ふと思い出したように顔を上げた。
その顔は心なしか呆れているようにも見えて、ギンは苦笑しながら頭を掻いた。

「まさかこんな料亭に来るなんて思わないし、何も用意してこなかったじゃないですか。それに吉良副隊長にも――――」
「あー大丈夫やて。ボクかて色々準備はしとる。イヅルには話してあるしちゃんの休暇も了承済みや」

ギンはの抱く子犬の頭を優しく撫でながら微笑む。しかしは休暇と聞いて目を剥いた。

「きゅ、休暇って…私は必要ないって何度も――――」
「あのまま任務を続けるなんて出来ひんかったやろ。ちゃんは少し休まなあかん。イヅルも心配しとったで」

ギンに優しく頭を撫でられ、は無言のまま俯いた。
確かにギンの言うとおり、身心ともに疲れてはいる。
でも死んでいった仲間達がいるのに、自分だけこんな場所でノンビリ静養していていいのか、とも思う。

「……何で…こんな事になっちゃったのかな」

誰に言うでもなく、が呟く。そっと触れた腕には痛々しい姿で包帯が巻かれていた。


「出発する前日は…今日と同じ綺麗な夕日で…穏やかな一日だったのに……」


はその時の事を振り返るように、赤く染まり始めた空を見上げた――――










高いところにあった太陽がゆっくりと傾き、少しづつその色をオレンジ色へと変えて行く。
その姿を眺めていたは、柔らかく吹いた風が自分の長い髪を浚っていくのを抑えるようにしながら、ふと口を開いた。

「……"夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ あまつそらなる人を恋ふとて"」

窓の外をぼんやりと眺め、何かを呟いたに、ギンはふと顔を上げた。

「ん?何やそれ」

ずっと下を向いていたせいで首が痛いのか、ギンは軽く首を鳴らしながら、窓辺に立つの方へ視線を向けた。
その手元には大量の書類が重なっていて、ギンは随分と前からそれらと睨みあいを続けていたのだ。

「…何でもありません」

は窓を閉めると、意地悪な笑みを浮かべる。

「何やねん。気になるやん」
「市丸隊長には一生分からない"和歌"ですよー。それより書類の方は出来あがったんですか?早くしないと吉良副隊長が戻ってきちゃいますよ」

すでに執務の時間は過ぎていて、今は隊舎の中も静かだった。
やはり正月休み明けの後は誰もが早く帰りたいらしい。仕事初めからすでに一週間以上は過ぎたと言うのに今日はやけにボンヤリしている隊士が目立っていたのだ。
特に日中ポカポカ陽気だった今日は誰も残業することなく、全員が定時で帰って行った。
と言って席官は他の隊士と同じような時刻には帰れない。
一年の始まりは終わりの時以上に仕事が集まってくるのだ。この日のギンも当然のように残業で、もそれに少しばかり付き合っていた。

「そう思うならちゃんも手伝ってえなー。バカみたいに多いねんもん、この書類」
「それは隊長さんが目を通してハンコを押さないといけない書類です。五席の私が見ていいものじゃありません」
「……つれないなあ。相変わらず」

お茶を淹れながら首を振るを見て、ギンも情けない声を出す。
そんな隊長に、も苦笑いを浮かべながら、淹れたての熱いお茶をギンの前に置いた。
ここ半年で、ギンの好きな茶葉や温度は熟知している。

「お、おおきにー。ちょい休憩しよか」
「ダメですよ、それは。吉良副隊長が戻る前に半分以上終わらせる約束です」
「ちょっとくらいええやん。美味しいお菓子もあるでー?」
「え、お菓子?」

その言葉に反応したを見てギンはニヤリと笑みを浮かべると、机の引き出しから某有名和菓子店の袋を取り出した。

「あ!それ"雅"の袋!」
「さっすが目ざといなあ、ちゃんは」
「だって"雅"は瀞霊廷でも有名な店だし…女性死神からも人気が高くて、あそこの金平糖とかどら焼きは並ばないと買えないんですよー!」

想像以上に食い付いてきたを見て、ギンも思わず噴き出すと、手にした袋を机の上に置いた。

「そら良かったなあ。コレはその"並ばんと買えない"ゆう金平糖とどら焼きや」
「えーっホントですか?!どうしたんです?まさか隊長が並んだなんて事……」
「んなわけないやんか」

の発言に苦笑すると、ギンは袋から箱を取り出し、その包みを破いて行く。
そして中からが目当てのお菓子を取りだし目の前に置いた。

「ボクのファンが"食べて下さいねー"言うてくれはってん」
「え…そうなんですか?」

その話には一瞬表情を曇らせたが、ギンは気付かず、「ええやろ」と笑っている。
ギンのファンと言えば三番隊には大勢いる。その中の誰かにもらったんだろう。

「…それは良かったですね!ファンからの贈り物なら家に持って帰って隊長一人で食べればいいのに」
「あれれ……何で不機嫌になるん?喜ぶ思て出したのに」

プイっと顔を反らすにギンも首を傾げる。
それでもは顔を反らしたまま、「私がもらったものじゃないですから」とギンに背中を向けた。

「それに吉良副隊長が戻るまでと思ってましたけど…私そろそろ行かないと。これから橘さんに鬼道の指南受ける約束してるので」
「また?初日もしとったんちゃうん?」
「お互いに空いてる時は指南してもらう約束なんです。今日もたまたま空いてるみたいで」
「ふーん…」

慌てて帰り支度をするを眺めながら、今度はギンが仏頂面で頬づえをつく。
おおかた吉良が戻るまでは、とギンに付き合ってくれてたのだろう。
しかし吉良は吉良で副隊長の仕事が山ほどあり、今は他の隊舎まで出かけている為、まだ戻らない。

「…ボク一人で残業せいっちゅう事や」
「もうすぐ吉良副隊長も戻ってきますよ。それまで隊長はお菓子食べながら待ってたらいいじゃないですか」
「こんなん一人で食べてもうまないしー」
「"雅"のは一人でも美味しいですよ!――――それじゃお先に失礼します!」

は帰り支度を済ませると、ギンが何かを言う前にサッサと執務室を出て行ってしまった。

「…………」

バン!とドアが閉められ、ギンは無言のまま頭を掻くと、急に静かになった室内を見て溜息をつく。
机の上にはが淹れてくれたお茶、そして彼女の為にと取っておいたお菓子が空しく並んでいる。

「いくら美味しいお菓子でも、一人やったらまずいねんけどなあ」

そうボヤきつつ、金平糖の袋を破り、机の上にザラザラと出して、ギンはその一粒を指で摘まんだ。
綺麗な淡い水色のソレは、金平糖には珍しいラムネ味らしく、先ほどが言ってたように、女性死神の間でも人気がある味らしい。
その為いつ行っても売り切れで、買う為には朝早くから並ばないと買えないのだ。
以前が"瀞霊通信"を読みながらそうボヤいていた事を、ギンは覚えていた。
だからこそ、いつもお菓子を差し入れてくれる三番隊の女性隊士に、それとなくこの店の話をし、買いに行ってくれるよう頼んだのだ。
なのにたった今、その努力も空しい結果に終わり、ギンは溜息をついた。

「……橘副官補佐、なぁ…」

摘まんだ金平糖を口に放り込み、ガリっと噛み砕きながらその名を呟く。
つい先日、自分と藍染の事を訝しげに見ていた男の顔が脳裏をよぎり、ギンは静かに立ち上がった。

――――聞かれたんじゃないのかい?

ひどく底冷えのするような藍染の言葉を思い出しながら、ギンは窓を開け放つと、外を見下ろした。
隊舎からはちょうどが出てきて、修練場の方へと走って行く姿が目に留まる。
慌てたようにちょこまかと走って行く様は、まるでリスのように見えて、ギンは軽く微笑む。

(聞かれてたら…か。その時の事も考えてネタ、仕込んどかなアカンなあ)

油断をしていた、と言われればそうなのかもしれない。
あの夜は珍しい顔ぶれが集まった事で、藍染の斬魄刀解放の瞬間を皆に見せるチャンスでもあった。
一度ソレを見た者は、完全に藍染の手中へと収める事が出来る。今思えば、だからこその油断だったのかもしれない。
しかし…二人にとっても予想外の事が起きた。
てっきり帰ったと思っていた男が酒を買って戻って来たのだ。これは藍染、いやギンの誤算といっていい。
橘の性格を考えれば、隊長を残して自分だけ帰る事は絶対にしない男だ、と分かったはずなのだ。

藍染の始解を皆に見せた後、全員を催眠状態にして二人は裏庭へと出た。
そこで今後の計画についてチラっと話した、と思う。

――――分かってるね、ギン。現世では"あの男"が密かに動き出している。主役が揃うそれまでに全員を催眠状態にし、同時に"破面"の数を…

その時、初めて橘の霊圧に気付いた二人は、一瞬だけ殺気をまとったかもしれない。
だがそれも一瞬で打ち消した。二人にしたらほんの僅かな変化。時間にして言えば数秒もなかったくらいの。
しかし橘はその微妙な変化に気付いたようにギンは感じた。いや藍染も感じていただろう。

――――やあ、帰ったかと思ったよ。

"いつもの藍染隊長"として、優しい笑みすら見せながら話しかけた藍染に対し、橘は一瞬、ほんの僅か、身を引いたようにギンには見えた。

――――こんな場所に出て、お二人で…何をしてるんですか?

その問いに藍染は酔いざましだよ、と笑って答えた。橘もそれ以上、何も尋ねてくる事はなかった為、その場は何をするでもなく見逃したのだ。
だがもし橘が二人の会話を聞き、何かを感じ取ったのだとすれば、今後の計画にどんな支障をきたすかも分からない。

『…分かってるね。ギン』

別れ際、藍染の目がそう言っているように見えたのは、ギンの思いすごしでもないはずだ。

「……"あの子"が悲しむような事は、あんましたないねんけどなぁ…」

自らの斬魄刀を抜き、それを夕日に向けて掲げる。脇差のような短い斬魄刀は、オレンジ色の光によってキラキラと輝いて見えた。
だがギンが目の前に見える銀杏の木に刃先を向けた途端、その鋭い刃は物凄い早さで伸びて突き刺さり、切っ先は太い木を簡単に貫いていた。
始解の句を読まずとも、斬魄刀解放に至れるのは隊長格なら当然の事だが、もし読んでの解放だったなら、こんな木など一瞬で切り倒していただろう。

「最近…気が進まへん事ばかりやわ……」

手元に戻って来た"神槍"を軽く撫でると、ギンは溜息交じりで夕日を眺めた。
その時、ふと先ほどが口にしていた和歌を思い出す。

「……"夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ あまつそらなる人を恋ふとて"、か…。意味深やなあ」

ガシガシと頭を掻きながら沈んでいく太陽を少し寂しげに見つめた。

「…"夕暮れには雲の果てまで物思いをする、遠い遠いあの人を思って"…。――――はて。誰の事を思ての歌やろな」

和歌の意味を口にして苦笑いを浮かべると、心地いい風がギンの髪を浚っていった。










「――――よし今日はこれで終わりにしよう。明日も早いしな」

橘は夕日が沈んでいく空を見上げ、攻撃の手を止める。それを見て、はホッと息を吐いた。
職務初日の日も、は約束通り修練場で橘に鬼道の指南を受けたのだが、いざ体を動かしてみると相当鈍っていたらしい。
動きが鈍い、詠唱が遅い!だのと散々注意され、何度も繰り返した事からもヘトヘトになってしまった。
そして今日は注意された事を改善する為の訓練だったが、今回も最初からハードでも、そろそろ限界だったのだ。

「ほら、飲め」
「あ、ありがとうございます」

渇いた喉がくっついて軽く咳込んでいるに、橘が水を渡す。
それを一気に飲み干したところで、は生き返ったと言わんばかりにその場へ倒れ込んだ。
鬼道の訓練といっても橘は実戦と同じ状況下を設定してやる為、相当な運動量も伴う。
当然斬魄刀を使わず、鬼道のみでの回避や攻撃を求められ、休み明けのボケた体には相当きつかったのだ。
大量の汗が噴き出してくるのを感じながら、は暫く冷んやりとした風をその火照った頬に受けていた。

「なかなか上達したな、も」
「そ、そうですか?散々怒られた気がしますけど」

水を飲んだ後、同じように隣へ寝転んだ橘に、は苦笑いを零す。
でもそう言ってはいるものの、橘の厳しさは嫌いじゃなかった。
誰も死なせたくはない、という橘の優しさが厳しさになって表れている、とも気付いたのだ。
橘はの言葉に笑いながら「それは当然だ」とオレンジに染まりつつある空を見上げた。

「虚は……俺達がミスをしたって待ってはくれないからな」

と同様、橘も虚と戦ってる時に命を危険にさらした事がある。ほんの小さなミスが、死に繋がる事もあるのだ。
ここ数年で、変わった能力を使う虚が出現するという報告も増えている。
特に最近は似たような報告が頻繁にあり、橘は明日の朝には部下を連れてその調査へ出る事になっていた。
もちろん今回はも同行するよう、橘に今朝言われたばかりだ。しかも今回の偵察は五日間ほどかかるという話だった。
と言うのも、その虚が出現する場所が限定されておらず、これまでの痕跡を全て回る為、暫くは野営するというのが理由だ。

「今度の虚だって、どんな能力を持っているのか分からん。それに実態がつかめないのが現状だしな」
「…そうですね。私も今以上に実戦積まなくちゃ」

も相槌を打ちながら一緒に夕日を見上げた。年が明けると尸魂界も少しづつ日が長くなって来る。
春も近い証拠だ。

「ところで…市丸隊長はどうしてた?」

不意にギンの事を聞かれ、は内心ドキっとしたが顔に出さず起き上がった。

「隊長なら執務室にこもってますよ。今朝から書類が山ほどきちゃって」
「そうか…何か変わった様子は?」
「いえ、特に。相変わらずサボってばかりで困っちゃいます。――――でも、どうしてですか?この前もそんなこと聞いてませんでした?」

唐突なその問いには訝しげに首を傾げる。橘は何かを考え込むように視線を彷徨わせると軽く頭を振った。

「いや…いい。俺の気のせいだろう」
「何です?途中で言いかけてやめるなんて気になるじゃないですか」

珍しい事もあるものだ、とは思った。
橘は普段から思った事はハッキリ言葉にする方だ。こんな風に言いかけた事を途中でやめるような性格ではない。
それに今話してた内容がギンの事だったからか、は余計に気になった。

「市丸隊長がどうかしたんですか?」
「いや…そういうわけでもないんだが…」

橘はそう言いながらも困ったように頭を掻き、軽く息を吐き出した。
何でもないと言いつつ、本人も何かを確かめたいように見えた。

「橘さん?」
「……実は…」

答えを促すよう首を傾げると、橘はふと顔を上げを見た。

「この前の夜なんだが…みんなで集まったろう?」
「この前?お鍋した時ですか?」
「ああ。そうだ…」
「あの日は楽しかったですね!あのメンバーで飲むなんてなかったから…シロ…じゃなくて、日番谷隊長も珍しく楽しそうでした」

は思い出したように笑顔になると、

「そう言えば…橘さん途中でお酒買いに行ってくれたから見てないですよね。藍染隊長の始解!」
「え?あ、ああ…そういやそうだな」
「藍染隊長の斬魄刀"鏡花水月"って流水系で凄く綺麗なんですよー。霧と水流で乱反射させて敵を撹乱させるみたいなんですけど――――」
「…あのな、。実はその藍染隊長なんだが…」
「え?」

楽しげに話すを見て、橘は軽く咳払いをした。

「藍染隊長が何ですか?」
「いや…その夜の時なんだが…市丸隊長と藍染隊長が二人で話してるのを見たんだ」
「そうなんですか?」
「あの夜…俺が酒を買いに行っただろう?で、買い物から戻って来たその時、裏庭で二人が話してた。あの二人は普段それほど親しい感じじゃなかったから気になってな」
「ああ、だって市丸隊長と藍染隊長は五番隊で上司と部下でしたし今でも時々会ったりしてますよ。前に市丸隊長が熱を出した時も看病に来てましたし」

の説明に橘は訝しげな顔をすると、「そうか…」と小さく頷いた。
その表情に気付き、は更に首を傾げると、「何か気になります?」と苦笑する。
だが橘は「いや…それならいい」と軽く肩を竦めてみせた。

「ちょっと…"元上司"と部下という感じにも見えなかったんでな。会話の内容も……」
「え…?会話って…?」
「いや。何でもない。俺の聞き間違いだろう」

橘はそう言って苦笑すると、さてと、と一息ついてから立ち上がった。
も慌てて立ち上がると、「今日はありがとう御座いました」と頭を下げる。
橘も忙しい身での指南をしてくれているのだ。

「いや…また時間が出来た時にな」
「はい。でも橘さん忙しい体だし、あまり無理も言えませんね」

がそう言って笑うと、橘はふと真面目な顔で彼女を見下ろした。

「大丈夫だ。それに…部下が弱いとフォローも大変だからな。お前には強くなってもらわないと」
「うわ…きついなあ」
「冗談だ」

一瞬落ち込んだを見て、橘も軽く笑う。そしての頭にポンと手を乗せ優しく撫でた。
その行為に驚き顔を上げると、橘は愛しむような目でを見つめている。その眼差しにの鼓動が僅かに早まった。

「た、橘…さん?」
「……何だかお前を見てると危なっかしくて放っておけない」
「……え?」

放っておけない、と言われ、一瞬ドキリとしたが、橘は笑いながら「そういう意味じゃないぞ」と肩を竦めた。

「俺の妹が生きていれば…お前と同じくらいだった」
「あ…妹、さん…」
「この前話しただろう?」

橘の言葉に、も小さく頷く。
確か彼の妹と弟は虚によって殺されたと話していた。

「お前を見てると…時々二人の事を思い出すんだ。何故かな、別に似てるわけでもないのに…何にでも一生懸命なところがだぶって見えるんだ」
「橘さん…」
「ま、そういうわけで…お前にはつい厳しく指導してしまう。――――生きていて欲しいからな」

橘はそう呟くと、軽く体を伸ばした。も照れ臭そうに鼻先を指で掻くと、同じように両腕を伸ばす。
夕日はとっくに沈み、薄っすらと月が顔を出していた。

「私、死にませんよ」
「…何?」
「明日からの任務も足を引っ張るような真似、するつもりはないです。だから変な心配しないで下さいね!」

は明るく笑うと、橘の背中をポンと叩く。そのお返しとばかりに橘もの頭を掴み、「ならもっと腕を鍛えろよ」とぐりぐり回した。
知らない人が見れば、仲の良い兄妹に見えただろう。

「もー痛いですよー。それより汗で風邪ひいちゃうし戻りましょう」

は首の痛みに顔をしかめつつ、苦笑すると自分の荷物を持った。
そして二人で隊舎へ戻る為、修練場を後にしようと歩き出す。その時、の視界に何かが動き、ふと足を止めた。

「…あ!」
「どうした?
「た、橘さん、あれ……」

は驚いたように、修練場の隅っこを指差している。橘もその方角へ視線を向けて、小さく声を上げた。

「あれは…って、おい!」

いち早く駆けだすに、橘も慌てて後を追って行った。










「……あちゃー。市丸隊長ってば、まだいるみたいね」

修練場から戻って来たは隊舎にある自分の部屋へは帰らず、隊首室へと戻って来ていた。
薄暗い廊下に、部屋の明かりが漏れているのを見て、困り果てたように息をつく。

「参ったなあ…。あの様子だと徹夜かしら」

山ほどあった書類と対峙していたギンを思い出し再び溜息をつく。その時、の胸元がモソモソと動いた。

「コラ、ダメよ。顔出しちゃ…誰かに見つかったら大変―――――」

「あれ?くん?」

「ひゃ――――」

突然背後から声をかけられ、はビクリと肩を跳ねさせた。

「き、吉良副隊長……お、お疲れ様です」

声で分かってはいたものの、無視など当然出来るはずもなく。
は引きつった顔でゆっくりと振り向いた。だが不自然に荷物を胸元に抱え込んでいる。
夜食を買いに行っていたのか、吉良のその手には近所の弁当屋の袋を提げられていた。

「どうしたんだい?こんな時間に。忘れ物?」
「い、いえ、そういうわけでは……」

歩いてくる吉良に愛想笑いを見せながら何とか言い訳を考えようと頭を働かせる。
だがその時、またしても胸元がモソモソと動き――――それに気付いた吉良が目を丸くした。

「き、気のせいかな…今、くんの胸元が動いたような――――」
「ち、違…え、えーとこれはですね……って、きゃ……っ」
「……う、わぁっ」

マズイと慌てて首を振った瞬間、ソレはの胸元からひょっこりと姿を現し、驚いた吉良は思い切り体を飛びあがらせた――――。




「……全く!隊舎に連れてくるなんてっ」
「す、すみません……。私が怪我させちゃったので、どうしても放っておけなくて、つい…」
「つい、じゃないよ!どーするんだ?アレ!」

首をすぼめるに対し、吉良はぷりぷりと怒りながら、執務室を駆けまわっている子犬を指差す。
尻尾は痛々しく火傷を負っているがすこぶる元気のようだ。
先ほどの胸元で動いていたのが、この子犬だったらしい。
修練場から帰ろうとした際、が見つけて怪我をしていた為―――その怪我も、が放った鬼道の被害だった―――連れ帰って来たのだ。
といって隊舎にある自分の部屋ではすぐにバレてしまう為、今夜は自分の執務室に置いておこうと思ったところを吉良に見つかったというわけだ。

「まあまあ、イヅル…。そない怒らんでもちゃんかて反省してんねんから――――」
「隊長は黙ってて下さい!!だいたい夜食がそんな悲惨な状態になったのもくんのせいなんですからねっ」

おかずとご飯がグチャグチャになった弁当を箸でつつきながら、呑気に笑うギンに対し、吉良は怖い顔で振り向いた。
と言うのも、先ほど子犬に驚いて飛び上がった際に、持っていた弁当を吉良が吹っ飛ばしてしまったのだ。
吉良の怒りっぷりに、ギンもヒラヒラと振っていた手を思わず引っ込める。
それを見ては更に頭を深々と下げた。

「かさねがさね申し訳も……」
「もうええって。それよりちゃん、お茶淹れてぇな」
「あ…は、はい」

シュンとしているを見かねたのか、ギンがそう頼むと、は急いでいつものようにお茶を淹れ始める。
それを横目で見ながら、吉良は盛大な溜息をついた。

「…全く…市丸隊長はくんに甘いんだから」

小声でそうボヤくと、吉良も自分の机に戻り、おかずとご飯がごちゃ混ぜになった弁当を見つめ溜息をついた。
そんな副隊長の姿にはもう一度「すみません」と謝り、お茶を置く。
そしてギンの前にも湯のみを置くと、足元にすり寄って来た子犬を抱きあげた。
助けたせいなのか、子犬はすっかりになついている様子だ。

「それで…どうする気だい?その犬」

の淹れたお茶をゆっくりと飲みながら、子犬とじゃれあうに吉良が尋ねた。
はここへ隠そうとしていたらしいが、当然執務室で動物を飼う事は出来ない。
もちろんが今、借りている部屋でも同じことだ。

「分かっていると思うけど、隊舎での動物の飼育は無理だ。飼うなら一軒家を借りなくちゃ」
「そ、そうなんですけど…。一軒家を借りるお金はないし…」

流魂街ならともかく。瀞霊廷内で一軒家を借りるとなればそれなりの家賃は取られる。
席官とはいえ、五席になったばかりのの給料はまだまだ安い方で、一軒家を借りる余裕などないに等しい。
死神の住居は瀞霊廷内―――普通の隊士なら家賃の事情で殆どが隊舎寮内―――と定められており、流魂街に借りるという事も出来なかった。

「後先考えずに連れてくるから…。っていうか、その犬飼うつもりなのかい?」
「だって捨てられないし…」

は腕に抱かれ、嬉しそうに尻尾を振っている子犬を撫でる。
そして首についていた首輪に目が行き、はその子犬をギンへと見せた。

「それにほら、見て下さいコレ!この子の名前"ギン太"っていうんです。隊長の名前と同じ子を捨てるなんてとても…」
「……ぶほっ」

脇を抱え、子犬を突き出すの言葉に、ギンは思わず弁当を噴き出した。
見れば確かに子犬の首元には飼い犬の印でもある首輪が付けられていて、そこに"銀太"と名前が書かれている。
まるきり同じではないにしろ、犬と同じ名という事実に、ギンは何とも言えない顔で子犬――ギン太を見つめた。
先ほどまでプリプリと怒っていた吉良でさえ、小さく吹き出している。
だがギンにジロリと睨まれ、慌てて口元を隠した。
そんな二人の様子にも気付かず、は困ったように溜息をつくと、

「なので…今夜はこの子連れて野宿します。朝になったら…日番谷隊長か、更木隊長に頼みに行こうと思って…」

その名を聞き、ギンはふと顔を上げた。

「あの二人がOKしてくれはるやろか」
「でも気軽に頼めるのは、その二人しかいないし…」

二人は当然、隊長だけに与えられる一軒家に住んでいる。もしかしたら飼ってくれるかもしれない。
といって冬獅郎がすんなりOKしてくれるかも分からなければ、更木隊長とて同じ事だ。
そもそも更木隊長が動物の世話などしてくれるのかも分からない。(最悪、鍋の具材にされそうだ)(!)
といって今のの知り合いで一軒家に住んでいるのはその二人しか思い浮かばなかった。残る一人は――――

「はあー。しゃーないなあ」
「……え?」
「た、隊長?」

徐に箸を置き、の手から子犬を浚っていくギンに、吉良、そしても驚いたように顔を上げた。

「この子は暫くボクんちで面倒みたるわ」
「……っ?」
「ちょ、隊長!そんな簡単に引き受けて大丈夫なんですか!」

吉良も思わず立ち上がる。しかしギンは子犬を机の上に置くと、弁当のおかずだった卵焼きを楽しげに与えている。
子犬はお腹が空いていたのか勢い良く卵焼きをがっついていて、ギンは"ギン太"の頭を撫でながら、目の前に立っているを見上げた。

「大丈夫も何も…しゃーないやん?ちゃんを野宿させるわけにもいかへんし、かといって他の隊の隊長さん方に預けるのも悪いやろ」
「しかし――――」
「幸いボクんちも一軒家やし何も問題あらへん。それに…同じ名前の犬を捨てるのは可哀想やし…」
「でも隊長だって忙しいんですから犬の世話だけでも大変ですよ?散歩はどうするんですか」
「ボクは"自分の散歩"も趣味やしなぁ、そん時に一緒に連れてったらええやろ」
「わ、私も連れて行きます。あの…早起きすれば仕事にも差し支えないし…」

ギンの提案にも助け舟を出す。だが吉良はあくまで渋い顔だ。
犬の世話にかこつけてギンが今まで以上に仕事をサボるんじゃないかと懸念しているようだ。
その吉良の様子にギンも気づき、苦笑いを浮かべた。

「ほな、こうしよ。この子を飼ってくれる人が見つかるまでの間、ボクとちゃんで世話するわ」

それなら文句ないやろ?とギンが肩を竦めれば、吉良も渋々ながら頷いた。

「仕方ないですね。ならちゃんと飼い主募集の張り紙、作って下さいよ」
「あ、それは私が作ります!」

とりあえず捨てなくていいと分かったからか、が元気良く手を上げる。
そして早速自分の部屋から紙とペンを持ってくると、子犬の里親を見つける為の張り紙を作りだした。

「ボクも手伝おか?」

一生懸命、張り紙に載せる文章を考えているに、ギンが声をかける。
だが「隊長は仕事して下さい」ときっぱり言われ、ついでに吉良からも睨まれたギンは、仕方なしに自分の机へと戻った。
そして今は机の上で丸くなっている子犬の頭を撫でると、"ギン太"と入っている首輪を指で軽く持ち上げる。

「ギン太ねえ…。誰がつけたんやろ」
「きっと隊長に片思いしてるファンの子ですよ。でも手に負えないイタズラっ子だから捨てたのかも」
「……前々から聞こう思っててんけど…ちゃんてボクのこと、どういう目で見てるん?」
「もちろん尊敬してます」
「…おべんちゃらが上手なったなあ」

張り紙にペンを走らせながら笑うに、ギンがつかさず突っ込む。
そして二人のやり取りに苦笑しながら、吉良も自分の仕事を再開した。

「ところで一緒にいた橘くんはどうしたんだい?くんに子犬を任せたまま帰ったのかな」

ふと吉良が思い出したように顔を上げる。
はいったん手を止めると、

「橘さんは私が子犬を連れて帰った事は知らないんです。明日早いといって先に帰りましたから」
「そうか。でも明日早いって…ああ、例の虚退治だったね。あれ?確かくんも同行するんじゃ――――」
「はい。これ終わったらすぐ帰ります」
「……って、ええ?明日ちゃんも行くん?!あかんあかん。ボクの世話で忙しいやろ?」

の言葉にいち早く反応したギンに、吉良は苦笑したが、だけはふくれっ面でギンを睨む。

「私は市丸隊長の秘書でもお茶くみでもないんですからね」
「そんな風には思てへんけど。得体の知れん虚の元へ部下を行かすのは心配やろ。しかも長期なんやで?野営もせなあかんし――――」
「橘さんだって部下ですよ。それに他の隊士達だって同じじゃないですか」
「男は別や。少しでも虚を倒して名を上げる為に自分から名乗り出る奴ばかりやしな」
「……でも橘さんは違うと思います」

ふと妹達の事を話していた橘を思い出し、は呟いた。
弱い魂魄を守る為に死神になったと話してた橘は、自分の名をあげたがっているようには見えなかった。

「…ふーん」

ギンは何かを考え込んでいる様子のを黙って見ていたが、不意に苦笑いを浮かべると、机に肘を置いて、頬杖をつく。

「随分とあいつのカタ持つなあ。まさか惚れてるんちゃう?」
「…ち…違います!そんな事より手を動かした方がいいですよ。吉良副隊長が見てますし」

からかってくるギンに対し、は軽く目を細めると、咳払いをしながら睨んでいる吉良へと視線を向ける。
吉良の目は明らかに口より手を動かせ、と言いたげだ。
その視線に気づき、ギンは軽く肩を竦めると、再び書類に目を通しハンコを押していく。
だがふとの方へ目を向けながら、気付かれないほどの小さな溜息をついた。
そしてもまた、同じように溜息をつく。

―――まさか惚れてるんちゃう?

そんな他愛もない一言、それも冗談をまともに聞いて落ち込む自分もどうかしてる、と内心苦笑した。
いちいちギンの言う事に反応していてはキリがない。そんな事は分かってる。なのに心が勝手に反応してしまうのだ。

(さっきも変なヤキモチ妬いちゃったしな…)

ふとギンがファンからもらった、と話してた事を思い出し、更に落ち込む。
流せばいいのに、と自分でも思うのだが、どうしてもギン本人に嫌な態度を取ってしまう。

(それもこれも隊長が最近おかしな事ばかり言うからだわ…。この前の夜だって――――)

そこでは僅かに首を傾げた。

(あれ…何だったっけ。確か鍋をしたあの夜も隊長に何か言われた気がしたのに、良く思い出せない)

つい三日前の事。それもたった今、ギンとの会話を思い出したからこそ、こんな気持ちになってるはずなのに、その内容が全く思い出せない。

(やだ…疲れてるのかな)

あの夜の事は楽しかった、という記憶があるのに、何をしたか何を話したか、そこを考えると一つも浮かんでは来ないのだ。
ハッキリ覚えているのは、藍染が見せてくれた斬魄刀の能力だけだった。

(そんな飲みすぎたっけ?)

あれこれ考えながら首を傾げる。
乱菊や橘、そしてギンに藍染。彼らがどういった経緯であの鍋に参加したのかは覚えていた。
しかし中間だけがすっぽり抜け落ちている事に気付く。
考えれば考えるほど深みにはまって行き、は軽く首を振った。

「どないしたん?ちゃん。渋い顔して」
「い、いえ何でもないです」

の様子に気付いたギンに声をかけられ、慌てて笑顔を作る。
まさか飲みすぎ(?)で記憶喪失だとも言えない。

(最近飲みすぎてたからなあ。少し控えよう)

少しばかり反省しながら、思いついた文章と、子犬の似顔絵を紙に書いていく。
だが不意にその紙を横から掻っ攫われ、は慌てて顔を上げた。

「―――ぶっ……ぁはっはっは!これ何や?キツネか?」
「ちょ、隊長、返して下さいよ!」

が油断してた隙にギンが手元から張り紙を奪い大笑いしている様子に、吉良も何事かと顔を上げる。

「見とーみ、イヅルー。これ何に見える?」
「……ぶっ…」
「な、吉良副隊長まで笑うなんてひどいですよ!」

ギンに見せられたの絵に、吉良も同じ反応をする。
見る人が分かりやすいようにと描いた絵だったが、はこんなに笑われるとは思っておらず、ひどく後悔していた。

「せやかて、これどう見ても子犬に見えへんでーちゃん絵心ないなぁ」
「返して下さい!こんなの、だいたいでいいんですっ」
「でもコレ見はった人が"キツネもらるんですかー"言うて来はったらどないすんねんなあ」
「キツネじゃないですってばっ――――」

あまりの言われように顔を真っ赤にして振り返る。――――その瞬間、大きく開けた口の中に何か甘いものを放り込まれた。

「……ん、これ…?」

じんわりと口内に広がる味に、は驚いたように顔を上げると、ギンは優しい笑みを浮かべた。

「金平糖や。さっきちゃんが食べてくれへんかったラムネ味」
「え…」
「何や疲れた顔しとったし、そういう時は甘いもん食べるとええ言うやろ?」
「市丸隊長……」
「他に、めっちゃ人気のどら焼きもあんねんけど――――」

そう言いながら、ギンは後ろに回していた手をの前にかざす。
細く長い指が摘まんでいたのは、どら焼きの袋だった。

「――――頂きます」

ギンの気遣いが嬉しくて、は今度こそ素直に手を差し出す。
そんなを見て、ギンは満足そうに微笑むと、しなやかな指先を袋から離し、どら焼きを彼女の掌へと落とした――――










「…ふあぁぁぁ」

思わず我慢できずに盛大な欠伸をしたを見て、先頭を歩く橘が怖い顔で振り向いた。

「コラ、!たるんでるぞ!」
「す、すみません…!」

慌てて口元を隠し、頭を下げた。その光景を見ていた隊士達は全員笑いを噛み殺している。
今日は予定通り、瀞霊廷内で騒ぎになっている、虚が出現したというエリアを見周りに行くのに、三番隊から十名連れて来ていた。
その虚の報告を受けてからは、護廷十三隊が順番にこうした見周り等を行っている。今週は三番隊の担当だった。

「だいたい今日は朝が早いと言っておいただろう。何で寝不足で来るんだ」
「それはその……」
「まさか昨日の犬と関係してないだろうな」
「……う」
「そうなのか?」

の反応に、橘は呆れたように溜息をついた。
そこで道すがら、仕方なく昨日の事を全て説明したに、橘は頭が痛いというように目がしらを指で押さえている。

「それでお前は市丸隊長にその犬を押しつけた、と…そういう事か?」
「お、押し付けたなんて人聞きの悪い…!あれは隊長の方から言い出して――――」
「それはお前が野宿するなんて言い出したからだろう!で…その"里親募集"の張り紙を作ってて寝不足だっていうのか?」
「……はあ」
「全く…呆れて物も言えんな。大事な任務の前日に夜更かしをするなんて」

さっきからポンポン言いたい放題では?とは思ったが、それは口が裂けても言えない。

「すみません…」
「とにかく。報告されている虚は今まで見て来たものと違う危険な奴らだ、と頭に入れて動け。油断はするなよ」
「はい」
「よし!ではこれから虚出現地帯の流魂街北東へ向かう!全員、油断せず、周りに気を配れ!」
「「「「「はい!」」」」」

橘の言葉にを含め、他の隊士達も改めて気持ちを引き締めると、集中しながら探知能力を高める。
ここから先は流魂街で、そこから街の外れへと向かう。達は橘の誘導で林の中へと入って行った。

(…今日から五日。この一帯で野営をしながら謎の虚を追わなくちゃいけない…)

ふと出発前、心配そうな顔で見送ってくれたギンの顔を思い出す。
ほんまに行くん?と、およそ隊長らしかぬセリフを吐き、吉良に怒られていたギンは、子犬を抱きながら「こいつの面倒は見てるし心配せんでええ」と言ってくれた。

――――無茶したらあかんで。

おどけた様子で子犬の手を持って軽く振る、そんなギンの姿を思い出しながら、隊長の為にも頑張ろうと、心に決めて歩き出す。

この時はまだ、この後に待ち受ける悪夢の襲撃を、は想像すらしていなかった。






今回から第二幕といった感じです。未来を描きつつ現在を進行してく流れになってます。
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※それと前のデザインが何故か画像が反映されなくなっていてタグを直したりアップロードしなおしても無駄でしたので思い切ってデザイン変更しました。



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