19章 / 迷月(2)




走っている―――。

何もない真っ白な闇の中を、訳も分からず、ただ走り続ける。
時々走馬灯のように襲ってくる虚や、自分に微笑みかける仲間達の姿が駆け抜けて行く。
その中をは必死に走り続けていた。
誰から逃げているのか。誰を追いかけているのか。それすらも分からないのに、気ばかりが焦る。

(どうして?何で私は必死に走ってるの?)

自問自答しながら、その答えを出す前に先へと進む。止まれば死んでしまうかのように走り続けた。

(私は…どこへ行こうとしてるの?この先に、何が待っているというの?)

不思議なくらい体が軽く、疲労感もない。いつまでも走っていられる。そんな気がした。
ただ、唯一、胸の奥がチリチリと焼けるような、かすかな痛みを感じた時。回りを駆け抜けて行く走馬灯の中に、優しい笑顔を見つけた。

――――市丸…隊長…

そこで初めて彼を探していたのだと気付き、手を伸ばした。

――――待って、行かないで。

不意に沸き上がる感情。色々な想いが一気に溢れて来る中、は泣きながらギンを追いかけて行く。
縮まらない差がもどかしくて走り続けた。なのに途端に重くなる足。それがもつれて転んだの前から、ギンが遠のいて行く。

――――行かないで…市丸隊長!!

ギンの名を呼び、泣き叫びながら、は必死に手を伸ばした―――。





「…ん……?」

僅かに手が動いた事で、不意に覚醒したはぼんやりと視界に広がる天井を見上げる。
涙のせいで、それが歪んで見えた。

(…何で私…泣いてるの…?それに…胸も苦しい…)

目覚める瞬間、何かを叫んだような気もするが、良く覚えていない。夢を見ていたはずなのに、どんな夢なのかすら覚えていなかった。
なのに胸が痛くて、何故か悲しくて、溢れている涙はそんな痛みに同調しているかのようだ。

(…凄く熟睡出来たような感覚はあるのに…だるい…)

頭が重く、朦朧とする意識の中、かすかに聞こえる小鳥の囀りを聞いていた。
部屋の中に僅かな光が差し込んでいる。もう朝なのかな、とふと思いながらも、それ以上考える事が出来ないのは、未だ静かな睡魔が襲ってくるためだ。

(何だろう…凄く眠い…)

何かを考えようとするたびに、またスーっと睡魔が襲う。
まるで誰かが"何も考えるな。今は眠れ"と言っているような感じだ。
しかし不意に体が空腹を訴えた。その音が刺激になり、は何度かゆっくりと瞬きをしながら視線だけを動かしてみる。
視界に入るのは襖や掛け軸といった和の風景。そこで、ここは隊舎ではない事を思い出した。

(そっか…私、市丸隊長に無理やり休暇をとらされて料亭に連れてこられたんだった…)

と、そこまで思い出したのは良かったが、小さな違和感を覚えた。
ギンとここへ来たのは昨日だったのか、いや随分と経っているような気もする。

(あれ…私はいつここに…昨日…じゃないわよね。だって市丸隊長が毎日この辺を色々と案内してくれたし…)

今の状況を思いだした途端、一瞬で色々な記憶が流れ込んできて、は軽く目を瞑った。
――――そう、昨日は確か一緒に釣りへ行ったはずだ。
ギンが以前、藍染と良く釣りをしていたと言って、をそこへ連れて行ってくれた記憶がある。
しかし具体的な事は思い出せない。どんな会話をしたのか、どんな魚を釣ったのか。
でも確かに行った、と言う記憶だけが残っている。

「やだ…もしかして夕べは飲みすぎちゃったのかな…」

夕飯の後、ギンと向かい合い、酒を呑んだ事をふと思い出し、この気だるさや記憶が曖昧なのはそのせいなのかと思った。

「…はぁ…何かやらかしたかな…」

酒を飲みすぎるとろくな事はない。以前の反省を思い出し、は溜息をついた。
少しづつ感覚が戻って来たのを指先で感じ、は静かに体を起こしたが、急にギシギシとした痛みが背中に走り顔をしかめる。

「何でこんなに体が痛いの…?」

まるで長い間、眠っていたかのようだ。軽く肩を動かしながら、ふと庭先へ目を向ければ、太陽の光が辺りを照らしている。
日の照り方からして、今はすでに昼に近い時間だろう。
もしかして寝坊しちゃったかな、と思いながら、は身なりを整えるとゆっくり立ち上がる。
少しだけフラつくが、それも二日酔いのせいだろうと思った。

「市丸隊長、もう起きてるかな」

庭へ続く襖を開け放ち、眩しいくらいの日差しに目を細めつつ、外の空気を吸い込む。そこへ仔犬のギン太が嬉しそうに駆けて来た。

「ワンワン!」
「あ…ギン太、おはよう。隊長に出してもらったの?あ、もしかしてお散歩に連れてってもらったとか」

縁側へと下りてギン太を抱き上げる。途端に頬を勢いよく舐められた。
暫くの間、外にいたのだろう、ギン太の体から太陽の匂いがしては微笑んだ。
そこへ砂利を踏む音が聞こえ、ハッと顔を上げる。

「――おはようさん」
「…あ…」
「お寝坊さんやな。今日は瀞霊廷に戻る日やのに」

そこには苦笑気味に歩いてくる、ギンの姿があった―――。









四十六室の居住区域内へ入った直後――。

「―――遅かったな」

その声と共に、ギンは足を止めた。背後に感じる霊圧でふと笑みを浮かべたまま振り返る。
陰から姿を現したのは、両目を覆った九番隊、隊長東仙要だった。

「藍染さまがお待ちかねだ」
「そら、すまんかったなぁ。これでも急いだつもりやねんけど」
「この大事な時に何をしていた。計画はすでに始動しているんだぞ」

東仙の問いに、ギンは軽く肩を竦めた。相変わらず固い男だ、と内心苦笑しながら。
自分が子供の頃から知ってはいるが、こういう真面目なところは少しも変わらない。

「せやから急いだー言うてるやん。それより準備は?」
「全て整っている。先ほど朽木隊長と阿散井副隊長が朽木ルキアを連れて戻った」
「…ほな後は現世から"彼ら"が来るのを待つだけ、いう事やね」
「藍染さまの予想では一週間以内にこちらへ来るだろうとの事だ」
「…もっと早くてもええねんけどなぁ」

苦笑交じりで言うと、ギンは小さく息を吐いた。その些細な反応に気付いた東仙は、訝しげに眉を寄せる。
目が見えない分、相手の言動で微妙な変化を感じ取るのは人一倍優れていた。

「何を迷っている?市丸」
「……迷てる?ボクが?そんなわけないやんか」

ふと顔を上げ、東仙を見つめる妖しい笑みには先ほどの憂い顔は見られない。
東仙はギンのそんな変化に気付き小さく息をつくと、「ならいい」と一言、呟いた。
例え同胞となる相手でも、ギンは決して本音を言わない。東仙もそれは良く理解している。

「これからすべき事は分かっているな?」
「もちろんや。とりあえずボクはまだ休暇中の身やから…明日まではココにこもってるわ」

ぐるりと見渡し微笑む。この殺風景な居住区の主達は、すでに向こうで屍となっている。
もちろんギンが実行した。
東仙は暫く様子を伺うよう黙っていたが、言いかけた言葉を呑みこむと、

「では私は通常通り定例会議に出て来る。明日、また交代しよう」

ギンが返事をする前に、東仙は静かに姿を消す。残るは静寂ばかりで、ギンはそこで初めて息をするかのように深呼吸をした。

ここまで来たら、もう止められない。前へと進むだけだ。ギンの目的はただ一つ――。
それを忘れてはいない。

生ける者が己しかいない空間を見つめながら、ギンは昨日までの過去を全て払うように、寂しげな笑みを浮かべた。これから先の時間は、破滅へのカウントダウンだ、とでもいうかのように。











「本当にお世話になりました。ギン太の面倒まで見てもらって」

仔犬を抱きかかえ、笑顔で頭を下げるに、紅子も頭を下げた。

「こちらこそ楽しい時間を過ごさせてもらいましたえ。また…何かありましたら、どうぞ気軽にお越しやしとくれやす」
「はい。ありがとう御座います」

屈託のないその笑顔に、紅子はただ黙って微笑む。
これから先、が知るであろう、辛い現実を思いながら。
それは今、この瞬間、紅子も感じている辛さだった。

「それじゃ――」
ちゃん…」
「…え?」
「最後にうちから一つだけ…言わせてもろてもええやろか」
「…?はい」

歩きかけたに、つい声をかけた。そこで前を行くギンの"影"がふと振り返る。
余計な事は言わない方がいい。
それは紅子も分かっていた。しかし―――。

「…悲しい事や…辛くて苦しい事があった時には…無理をせんと自分の心に素直になって…泣いてもええ思いますえ」
「…え?」
「護廷隊ゆう仕事は確かに大変なお仕事どす。せやけど…その前に心のある一死神。その心を…大切にして欲しいんどす」
「…紅子さん…」
「自分に…正直に」

驚いた表情のに、紅子は優しく微笑みかけた。

「…ちゃんの心の赴くままに…生きたらええ」

その一言に、は僅かに息を呑んだが、すぐに泣きそうな顔になると静かに頭を下げた。

「…ありがとう、御座います」

紅子の心遣いに感謝をすると、は素直にお礼を言った。

「また…今度は幼馴染とでも遊びに来ます」
「…気ぃつけて帰り」
「はい。―――あ、市丸隊長!先に行かないで下さいよ!」

紅子に笑顔で頭を下げながら、は慌てて走りだした。護廷十三隊の一隊員に戻る為、そこでどんな辛い未来が待ってるとも知らずに。

「…ギンちゃん…。あんなええ子、悲しませたらあかんで…」

紅子はそう呟きながら、ギンの幻、、、、を追いかけて行くの後ろ姿を見えなくなるまで見送り続けた。







「――でもホントにいいところでしたね。女将さんは綺麗で優しいし食事も美味しいし、お風呂も良かったし…。また行きたいなあ」

瀞霊廷に戻る道中、は一人で料亭での思い出話に花を咲かせていた。
任務に戻れば、また戦いの日々が待っている。
その事を今だけは忘れたいとでも言うように話し続けた。
仔犬のギン太は先ほどからの腕に抱かれ、気持ちよさそうに眠ったまま。そんな寝顔を見ながらは明るく話し続ける。
しかし竹林の間から、遥か遠くに瀞霊廷の影を見つけると、ふと溜息をついた。

「…このまま行けば朝には瀞霊廷かぁ…」

その声に反応するかのように、隣を歩くギンが苦笑いを浮かべた。

「何や。あないに休暇とるん嫌やー言うてたのに、いざ戻るとなれば憂鬱なん?」
「そ、そういうわけじゃ…。ただ…周りに迷惑をかけたから顔を合わせづらいなあ、と…。特に仕事を押し付けてしまった吉良副隊長と、何も言わずに来たシロちゃんには…」

いや、さすがに吉良にはギンから報告してあるだろう。となれば問題は冬獅郎の方だ。
今回の件では特に心配をかけ、散々世話になっている。
例え不本意での休暇だとしても、急にいなくなれば更に心配をかけただろう、と思った。
ギンもそれを察したかのように苦笑すると、

「まあ…十番隊長さんの事やからイヅルんとこに乗り込んで来たやろねえ」
「…ですよね。はあ…帰ったらまず吉良副隊長に謝らないと」
「大丈夫やってー。イヅルはあの性格やしきちんと説明してくれてる思うで。十番隊長さんもそない無茶はせんやろ」
「…もう。ホント市丸隊長は呑気なんだから」

相変わらずのギンの態度に、は深い溜息をつく。
それでも自分の為に休暇をとり、瀞霊廷から連れだしてくれた事は感謝していた。
普段は飄々として周りを振り回してはいても、辛い時は必ず助けてくれる。
初めて会った時からそれは変わらない。はそう信じ、またこの先もそれは変わらないと信じたかった。

「市丸隊長…」
「んー?」
「…今回の休暇の件…本当にありがとう御座います」

そう言いながら軽く頭を下げれば、ギンはふと足を止めた。
も顔を上げ、ゆっくりとギンを見上げる。

「私…本当に感謝してるんです。あのままだったら…きっと死神を続けて行く事が出来なかったと思うし…」
「………」
「市丸隊長がいてくれたから私―――」

と、そこまで言って言葉を切る。
その先を言ってしまえば、告白するようなものかもしれないと躊躇したのだ。
ギンは無言のまま、を見つめていた。その表情からは何も伺えない。

「な、何か言って下さいよ。照れ臭いじゃないですか」

何も言おうとしないギンを見ていると急に恥ずかしくなり、そのまま足を進めて先に瀞霊廷へと歩き出した。今、自分が口にしようとした気持ちをギンに悟られているのではないか、と感じたのだ。
その時――。瀞霊廷の方から警鐘のような音が聞こえてきて小さく息を呑む。

「市丸隊長!この音…瀞霊廷で何かあったんじゃ―――」

慌てて振り返り、そして不意に言葉が途切れた。いや、呆気にとられたといっていいかもしれない。
何故なら――そこには誰もいなかったからだ。

「…市丸…隊長…?」

今の今までそこに立っていたはずのギンの姿が、忽然と消えている。
"まるで狐につままれたような―――"という言葉はこんな時に使うものかもしれない。

「…市丸隊長?どこですか?冗談はやめて下さいっ!こんな時に―――」

辺りを見渡しながらが叫ぶ。一瞬は驚いたが、また普段のようにからかって隠れたのかもしれない、と思ったのだ。しかし名を呼んでみても、返事もなく気配すら感じない。
すぐに霊圧も探ってはみたが、それさえも全く感じなかった。
そもそも瀞霊廷までは一本道であり、どこにも隠れるスペースなどない。辺り一面は竹林になっているだけで隠れる木々さえないのだ。

「…市丸隊長…?」

不安げに呟くのその声を、不意に吹き付けた風がかき消していく。
遠くでは未だ警鐘が鳴り響いていた――――。

















旅禍―――そう呼ばれる者達が尸魂界に侵入。

"瀞霊廷に入る寸前、三番隊隊長市丸ギンが迎撃に出たが、そのまま旅禍を取り逃がした"

その一報を聞いた時、十番隊隊長、日番谷冬獅郎は少なからず自分の耳を疑った。
三番隊の隊長を務めるほどの男が旅禍を取り逃がした、という事実にもだが、休暇を取っていると思っていたギンが、いつ瀞霊廷に戻っていたのか、とまずはそこに驚いたのだ。
その件についてギンは護廷十三隊の総隊長である山本元柳斎重国に呼びだされていた。
今回のギンの失態におき、護廷十三隊の隊長格全てが徴集され、冬獅郎も当然の事ながらその場に向かった。

「何ですの?いきなり呼びだされたかと思えば、こない大げさな…。尸魂界を仕切る隊長さん方がボクなんかの為に揃いも揃って…でもないか。十三番隊長さんがいらっしゃいませんなあ」

色々な事に疑問を抱きながら、冬獅郎は久しぶりに姿を見せたギンの様子を伺っていた。
どこへ行っていたのか。いつ休暇から戻ったのか。一緒に行ったは今どうしてるのか。
聞きたい事は山ほどあったが、まずは総隊長の詰問が終わらなければギンも、そして冬獅郎を含めた他の隊長達もこの場から解放されない。
あまり手間はかけてくれるな、と内心願っていた。
しかし冬獅郎の気持ちとは裏腹に、ギンは山本総隊長の詰問に対し、相変わらずの態度でのらりくらりと交わすだけ。
あげくギンのそんな態度が他の隊長達にも火をつけ、言葉の攻撃を仕掛ける始末。

「…始まったよ。バカ親父どものバカゲンカが…」

冬獅郎はウンザリしたように息を吐いた。
だが間に総隊長が入り、ギンに弁明を求めると、ギンはあっさり自分の失態を認め謝罪をした。

「旅禍を取り逃したのはボクの凡ミス。どんな罰でも受けますよ」

飄々と言ってのけ、その場にいた全員が一様に驚きの表情を見せた。
そこへ静かに、しかし厳しい声が飛んだ。

「ちょっと待て、市丸。その前に聞きたい事がある」
「…………」

珍しく口を挟んだのは、五番隊隊長の藍染惣右介だった。
だが、何かを含むような視線をギンに向け、藍染が更に口を開こうとした、まさにその時。
再び旅禍が侵入した、という警告と共に、突如警鐘が響き渡った。

「侵入者ァ?旅禍か!」

そこで先ず最初に動いたのは交戦好きな十一番隊長の更木剣八だ。
仲間の静止も聞かず、凄い勢いで飛び出していく。
皆は無言でその後ろ姿を見送っていたが、この騒ぎでは一隊長の失態を追求をしている場合でもないと、山本総隊長が深々と息を吐いた。

「仕方ない。隊首会は一先ず解散じゃ。市丸の処置についてはおって沙汰する。各隊、即時に廷外守護配置についてくれい」
「………」

この時ばかりは他の隊長からも苦言が出る事はなく、それぞれの任務へ向かう為、次々に退室して行く。その中で冬獅郎だけはの事を聞く機会だとばかり、ギンに歩み寄ろうとした…が、その前に彼へ近づいたのは、先ほど何かを問いかけようとしていた藍染だった。

「随分と都合良く…警鐘がなるものだな」
「……よう分かりませんなあ…。言わはってる意味が」
「それで通ると思っているのかい?僕を―――あまり甘くみない事だ」

藍染はそれだけ言うと静かにその場から立ち去って行く。
ギンは振り向きもせず苦笑いを浮かべると、

「…相変わらずやなあ…。最後の警鐘くらいゆっくり聞いたらええのに。―――じきに、聞かれへんようになるんやから」

「……?」

その小さく呟かれた意味深なセリフに首を傾げていた冬獅郎だったが、廊下を歩いて行くギンを見て慌てて後を追った。
今のやり取りや先ほどからギンに対する藍染の物言いが気にはなっていたが、とにかく今はの事を聞くのが先だ。
冬獅郎は前を歩いて行くギンに、「市丸!」と呼びかけた。

「これは…十番隊長さん」

不意に呼びかけられたギンは、振り向きざまにニコリと笑みを浮かべる。
その様子から、ギンには自分の気配が分かっていたんだろう、と冬獅郎は思った。

「いつ休暇から戻ったんだ?」
「いつて…嫌やなぁ。旅禍と対峙した日ぃですやん」
「何…?」
「帰って早々、いきなり出くわしてビックリしてもーたわぁ。せやからあんな凡ミスを――」
「…じゃあはどうした?一緒じゃねえのか」

ギンと一緒に戻ったのならの姿を一度くらい見かけてもいいはずだし、本人が顔を見せに来てもいいはずだ。しかし今日まで冬獅郎は一度もを見てはいない。
思わず食って掛かる冬獅郎に、ギンは一瞬小首を傾げ、不意に笑った。

「あれぇ、イヅルから聞いてへんねや。ちゃんならまだ休んではるよ」
「何だと?」

てっきり一緒に戻ったと思っていただけに、冬獅郎は驚いた。
そんな気持ちを察したのか、ギンは苦笑気味に頭を掻くと、

ちゃんは精神的にかなり参っとったしなぁ。でも隊長のボクが長々と付き添うのも無理あるし、知り合いに預けてボクだけ戻ってきてん」
「…待て。預けて来たって、いったい誰に…」
「信用出来る人やし大丈夫や。彼女も元気になったら自分から戻ってくるやろし―――」

と、そこでギンは言葉を切った。冬獅郎が思い切りギンの胸倉を掴んだのだ。

「ちょ、何やのー。乱暴やなぁ」
「てめえ…が心配だから連れだしたんだろ!なのに何で一人で置いて来たっ!」
「…せやから言うたやん。いつまでも隊長不在っちゅうわけにもいかへんし―――」
「なら場所を言え!俺がを迎えに行く!」

あからさまに敵意を向けて言い放った言葉に、ギンの顔から笑みが消える。
真っすぐに自分を睨みつけるその鋭い瞳が、冬獅郎の心を映しているようにギンには見えた。
その純粋さは、ギンがとうの昔に捨てて来たものだ。

「…それは言えへん」
「何だと…?!」
「ボクかて可愛い部下を危険に晒すような事はせえへんし…そこは信用してもらわんと困るとしか言いようがあらへん」
「…市丸、てめえ…っ」

更に胸元を掴み上げ、怒りを露わにする冬獅郎に、ギンはふと笑みを浮かべた。

「それに…こないな騒ぎの中、ほんまに彼女を連れ戻してええの?」
「…なに…?」
「今、彼女を連れ戻したら…得体の知れへん旅禍と戦う事になるかもしれへんよ」
「―――――ッ」

ギンのその一言は、冬獅郎の胸に突き刺さった。
確かにはこの前の戦闘で仲間を失い、深く傷ついている。
そんな彼女をまた戦いの中に置くのは冬獅郎にとっても辛い選択だ。
それならば静かな場所で休ませてやりたい、と思う。

(…市丸は…そこまで考えて…?)

そこで初めてギンの意図を悟った。

「…本当に安全な場所で信用のおける奴に預けたんだろうな…?」
「さっきも言うたけど…そこは信用してもらうしかないなぁ」

ニヤリと笑うギンに、冬獅郎は言いかけた言葉を敢えて呑みこんだ。

「…チッ。分かった」

この男は信用できない。今でも心の奥ではそう思っている。
それは何故なのか、冬獅郎自身にも分からないが、を三番隊へ引き抜いた後から何となく感じているものだ。
しかしに対しておかしな事はしないだろう、という漠然とした確信もある。
冬獅郎は深く息を吐き、掴んでいた手を離した。

「もしに何かあれば…俺はお前を許さねえぞ、市丸」
「…怖いなあ。ボクが何するー言うん?」

崩れた襟元を直しながら笑うと、ギンが再び歩き出す。その後ろ姿を見ていた冬獅郎だったが、ふと気になった事を思いだした。

「市丸…」
「まだ何か用でも?」

静かに足を止め、振り向かないまま溜息をつく。
そんなギンの様子を冬獅郎は探るように見つめた。

「…藍染隊長と何かあったのか?」
「はて。何の事やろ」
「さっき…藍染隊長に何か言われてたろ。アレはどういう意味だ」
「…さあ。ボクにもさっぱり」

肩を竦め、そこで初めてギンは振り向いた。その表情からはやはり何も感じ取る事は出来ない。

「なら…質問を変える」

冬獅郎にはもう一つ、疑問があった。

「市丸…お前は旅禍が侵入する事…知ってたのか?」
「…何でボクが?さっきも言うた通り、戻って来た日に初めて出くわしてんけど」
「それにしては休暇から戻って早々、旅禍と遭遇したってのも…かなり都合良かったもんだな」
「どういう意味ですのん?」
「まるで旅禍がその日、尸魂界へ来る事を知ってたから、を危険にさらさない為に置いてきたようにも思えるって言ってんだよ」
「………」
「そう…。確かさっき藍染隊長も言ってたよな。"都合良く"…それとかぶらねえか?」

冬獅郎の話を無表情で聞いていたギンだったが、最後の言葉を聞いて、不意に笑みを見せた。
それは冬獅郎も今まで見た事がない、どこか不気味で冷たい、不敵な笑みだった。

「まさか。十番隊長さんの考えすぎや」
「………そうである事を祈ってるよ。俺もな」
「おしゃべりしてる暇ないんと違う?今はその旅禍を迎撃しに行かなあかんのとちゃうやろか」

ギンはそう言いながらニッコリ微笑むと、「ほな」と軽く手を上げ、歩いて行く。その姿が見えなくなると、冬獅郎も静かにその場を後にした―――。
















四十六室の居住区に足を踏み入れた途端、その霊圧を感じギンは足を止めた。

「日番谷くんに捕まっていたみたいだね」

建物の中から姿を現したその人物は、かすかに笑みを浮かべながらギンの前へと歩いてくる。
ギンも軽く肩を竦め笑ってみせると、「参りましたわ」とだけ答えた。

「まあ彼を利用する下準備みたいなものだよ。ギンは上手く交わしていればいい」
「簡単に言わはるわぁ。十番隊長さんも幼馴染の事になると理性がなくなるし大変なんですから」
「それを利用しようと決めたのは我々だ。なのに彼女を置いてくるとはね」

藍染惣右介は先ほど仲間の前で見せていた優しい顔とは別の、冷やかな笑みを浮かべた。

「やはり情が移ってしまったかな?」
「…そんなんとちゃいますよ。ただ今回の計画には雛森ちゃんの方がうってつけやと思ただけですわ」
「確かにそうかもしれないね。雛森くんは僕に陶酔しきっている。動かすのは造作もない事だろう。しかし…仲間が死んだくらいで参ってしまうとは、彼女も案外、脆いな」
「藍染隊長が無茶しはったからやないですか。あの男一人殺す為に、あないな数の虚なんか使うからちゃんまで巻き込んで――――」
「怪しまれない為だよ。それにギンにはギリギリで教えてあげただろう?彼女が危ないと」
「……何や試された気分でしたけどなぁ」

藍染の一言にギンは苦笑いを零した。を含めた三番隊への襲撃は、何か感じ取り二人に疑問を抱いていた橘を消す為、全て藍染が描いたものだ。
小さな虫を消すには多少大げさだったと言わざるを得ない。しかしギンの言葉に藍染の顔から笑みが消えた。

「もちろん試したんだよ。ギンが助けに行くかどうかを、ね」
「…藍染隊長も人が悪い」

ふと藍染を見つめ、ギンが呟く。しかし藍染は冷たい笑みを浮かべ、ギンの方へと歩いて行った。

「そうかい?これまで何に対しても感情を現さなかったギンが、あの子と相対する時だけ感情を見せる…。それが私は面白いと感じるんだよ」
「せやからボクは何も―――」
「彼女に全く情はない、と言うのかな?この、私に―――」
「……………」

藍染の静かなる問いがギンの胸をざわつかせる。
それを悟らせない術は幼い頃から身に着けていた。しかし今は通用するかどうかの確証はない。
そんなギンの心を知ってか知らずか。藍染はたたみかけるように、ゆっくりと口を開いた。

「そうそう。昨日、彼女が目覚めたようだよ。今、ここへ向かっているだろう。もちろん、"隊長"と一緒に、ね」
「―――ッ」

藍染の言葉にギンが弾かれたように振り向く。
普段から感情を押し殺してはいても、予想範囲外の事が起きた事で僅かな動揺を見せてしまった。
ギンのそんな反応も全て分かっていたというように、藍染は口元を僅かに歪ませている。
その笑みの意味を、ギンはすぐに理解した。

「…鏡花水月、ですか」

鏡花水月――――藍染の持つ斬魄刀の名だ。
五感全てを支配出来る能力を持ち、それを持ってすれば、一度刀の解放を見たに幻覚を見せる事など容易い。
そして藍染ならば、ギンのかけた催眠を解き、鏡花水月を使いを連れて来る事など、造作もない事だろう。無表情で問いかけるギンに、藍染は僅かに笑ったようだった。

「おや?意外…とでも言いたげな顔だね、ギン」
「…彼女の事、藍染隊長がそこまで気にしはるとはボクも思いませんやん?」
「ギンが特別に気にかける者の事を、私が気にかけるのは当然だろう」
「……はて。ボク、そないに言いましたっけ」

いつもの調子で笑い、軽く肩を竦めるギンに対し、藍染は答えなかった。
かわりにギンの肩へポンと手を置くと、

「これから始まる楽しい"祭り事"に、彼女だけ参加させないのは可哀想だからね」

その藍染の言葉は、明らかにギンの反応を楽しんでいる。
腹心の部下だとて、藍染にとってはいい遊び道具なのだろう。

「何か不満かい?ギン」
「いいえー。藍染隊長がええならボクは何も言う事ありませんよー」
「そうか。なら良かった」

ギンが苦笑気味に応えると、藍染は満足げに頷いた。

「…ああ、もうこんな時間だ。そろそろ私も次の段階に移るべく、準備に入るよ」

ふと思い出したように呟きながら、藍染はギンに微笑んだ。
それは先ほどの冷笑ではなく、普段、隊士達にも見せている"優しい藍染隊長"の顔だった。

「阿散井くんに日番谷くん…。付箋は引いた。"手駒"も揃った。――――後の事は君に任せよう」

言いながら、ギンに背中を見せ、藍染は歩き出した。

「戻って来た"彼女"をどうするか、もね」
「…そら、おおきにー」

おちゃらけて応えるギンに、藍染は苦笑しながら歩いて行く。
しかし口調とは裏腹に、藍染の背中を見つめるギンのその瞳には、今まで見せた事もない冷めた感情が映っていた――――








「…何…これ…」

警鐘を聞き、瀞霊廷へ急いで戻ったは、目の前で右往左往している隊士達を見て唖然とした。
普段の平和な空気はなく、どの隊の隊士達もピリピリした顔で、武器を手に大声を張り上げている。
その中には通常、他の隊と動く事は滅多にない四番隊までいる。
ならば、すでに怪我人が出ている、という事なのだ。

―――いったい何があったの?

事態が呑みこめず、は前から走ってくる隊士達に声をかけようとした。
しかし「邪魔だ!どけ!」などと怒鳴られ、慌てて脇へと退く。腕の中で眠っていたギン太も驚いて目を覚ましたのか、小さく鼻を鳴らした。

「ギン太…ごめんね、驚かして。とりあえずお前を隊舎に連れてってあげる」

事態を把握出来てはいないが、この状況ではもすぐに厳戒態勢の中で動かねばなるまい。
休暇から戻ったばかりとはいえ、五席という立場なのだから当然だ。

「そっか…。もしかしたら市丸隊長も、このただならぬ様子を感じ取って先に戻ってるのかも…」

先ほど忽然と姿を消したギンを心配して急いで戻って来たが、瀞霊廷の騒動を見れば多少は納得もいく。

「だとしても一言くらい言ってくれればいいのに…」

そこだけは未だ腑に落ちなかったが、今はあれこれ考え込んでいるひまはないし、その疑問もギン本人を見つけて聞けばいい事だ、
今はまず五席としての任務を遂行しようと、は足早に三番隊の隊舎へと向かった。

「―――くん?!」

その時、不意に名を呼ばれ前方を見れば、吉良が走ってくるのが見えた。
当然この騒ぎで三番隊も動いているのだろう。吉良の後ろには隊士達が揃っている。

「どうしたんだい?休暇中のはずじゃ――」
「いえ、もう大丈夫です。それよりこの騒ぎは…いったい何があったんですか?」

尋常ではない隊士達の緊迫した様子を感じ、は緊張しながら尋ねた。

「ああ…いや実は旅禍が瀞霊廷内に侵入してね。今、護廷十三隊を総動員で迎撃する為、捜索中なんだ」
「…旅禍?それは…」
「まだハッキリと彼らが何者なのか、何の目的なのかは分かっていないが、現世から来たらしい」
「…現世?!まさかそんな――」
「とにかく今は詳しい話をしている暇はない。もし動けるならくんも捜索チームに加わってくれないか」

突然の侵入者出現に吉良も動揺しているのか、普段よりも落ちつかない様子だ。

「相手は五人…。数時間前に瀞霊廷に侵入した際、散り散りに飛ばされ、今は単独で動いているかもしれない」
「五人…」
「十一番隊の斑目三席がその中の一人と対峙し、負傷したとの話もある。くんも充分に気をつけてくれ」
「あの一角さんが…負傷…?そんなバカな…」

十一番隊の隊士達とは普段から仲が良く、彼らがどれほど強いかも良く知っている。
その中でも三席を務める一角は更に戦闘能力が高い。
その一角が負傷したという事は、旅禍もただ者ではないと言う事になる。

「そ、それで怪我の具合は…っいえ…旅禍の人相とかは…」
「それもハッキリしないが…人間という話だし一目でソレと分かるはずだ。しかし…」
「何ですか?」
「その中の一人は死覇装を着ているという情報もある。詳しい話を聞きたければ十一番隊に聞けば何か分かるだろう。何人かが接触したらしいから」
「分かりました。探してみます。それでその…市丸隊長は戻ってますか?」

一通り情報を得ると、は一番気になっていた事を尋ねた。
すると吉良はふと苦笑気味に肩を竦め、

「僕もさっきから探してるんだけど見つからないんだ。きっと単独で捜索してると思うんだけど…」
「そう…ですか」

居場所がハッキリせず多少ガッカリしたものの、今はそれよりも旅禍の迎撃が先だ。
ギンはその時に一緒に探せばいい。

「分かりました。ではこの子を置いたらすぐに捜索に加わります」
「そうしてくれ。――ああ、そうだ」

そのまま行きかけた吉良だが、不意に足を止め振り向くと、

「旅禍の事は市丸隊長に聞けば、もっと詳しい事が分かるかもしれない」
「…え?」
「最初に旅禍を迎撃したのは市丸隊長らしいんだ。でも結局逃げられたらしくて、山本総隊長の怒りに触れてね。処罰を決めるのに隊首会を開いてたんだけど…この騒ぎで中断したらしい」

苦笑気味に話すと、吉良は「とにかくそう言う事だから急いで」と言葉を残し、部下達と歩いて行ってしまった。
しかしは今の話を聞き、訝しげに眉を寄せる。

「……市丸隊長が…旅禍と?」

いったい、いつの間に――?

先ほど姿を消してから、この何時間かの間にそんな事があったのだろうか。
多少の距離があったとはいえ、も瞬歩を使い急いで戻って来たのだ。
なのに、その間にギンは旅禍と対峙していた――いや、その前にあのギンが"旅禍を取り逃がした"などとは、とても信じられない。

「…何が…起きてるの…?」

漠然とした不安が、少しづつ形になればなるほど言い知れぬ恐怖が足元から這い上がってくる気がして、は軽く身震いをした。
あの料亭で過ごし穏やかになったはずの心も、ここへ戻った途端にざわつき始めている。
自分の曖昧な記憶にさえ、違和感を感じるのだ。
料亭にいた時の記憶を辿ろうとしても、更にそれは遠のいて行く。
先ほどまで一緒だったはずのギンにも、長い間、会っていないような気さえしてきた。

(何かが…おかしい…)

頭の奥でそう警告する声。
仲間の死。強引な休暇。そして突然姿を消したギンと、思いもよらぬ旅禍の侵入――
全てが無関係のようでいて、どこかで繋がっているような、そんな漠然とした恐怖。
しかしその恐怖が何なのか、どこから来るのかまでは、この時のには分からなかった。

「…ギン太…少しの間、ここで大人しくしててね」
「くぅん…」

三番隊隊舎の自分の部屋に連れて行くと、子犬は不安そうにを見上げた。
その不安を取ってあげるように優しく頭を撫でる。
とりあえずの食料と水を用意しておけば、暫くはしのげるだろう。

「終わったらすぐ帰ってくるからね」

最後にそう声をかけ己の斬魄刀を手にすると、はすぐに隊舎を飛び出した。
まずは散り散りになって逃げているであろう旅禍を探さねばならなかった。
そう思う反面、この良く分からない不安を取り除くには、まずギンを探して事情を聞きたいというのが本音だ。しかし遠くの方から不意に大きな霊圧を感じ、その後に派手な爆発音が響くのを聞いたは小さく息を呑み足を止めた。

「この霊圧…」

感じた事のないそれは旅禍を示していた。

「……?!」

その時、不意に背後で名を呼ばれ、弾かれたように振り返れば、そこには懐かしくさえ感じる幼馴染の顔があった。

「…シロ…ちゃん…」
「…本当にか?!いつ戻って来たっ」

驚いたように走ってくる冬獅郎には引きつった笑顔を見せながらも、逆に歩み寄りその手を取った。

「シロちゃん…!それより市丸隊長、見てない?!隊首会出てたんでしょ?」
「…あぁ?!てめえ、散々心配かけておいてそれかよ!」

開口一番ギンの名を口にするに、冬獅郎はあからさまにムッとした顔で彼女の手を振り払う。
それでもは冬獅郎の腕を再び掴み、必死に哀願した。

「それは…ごめん…。後でちゃんと謝るから、今は知ってるなら市丸隊長がどこにいるか教えて」
「……お前…」

いつになく真剣なの顔に、冬獅郎は思わず言葉に詰まった。
確かに腹立たしい、という気持ちもあるにはあったが、その想いを呑みこみ深々と息を吐く。
とりあえず生気のなかったの顔に活力が戻ったのは、ギンが強引にとった休暇のおかげだろう、と思ったからだ。

「市丸の野郎がどこに行ったのかは知らねえ。だが旅禍の迎撃に出ろ、と山本のじいさんから言われたんだ。瀞霊廷内にはいるだろ」
「……そう。分かった」

やはり居場所はハッキリ分からないか、と内心ガックリしながらも、は冬獅郎に礼を言うと、すぐに走りだす。それには冬獅郎も慌てたように追いかけて行った。

「おい!つーかお前、もう大丈夫なのか?」
「…え?何が?」
「何がって……任務について平気なのかって聞いてんだよ」
「あ…うん、まあ…。ごめんね…シロちゃんにも色々心配かけて…。もう大丈夫だしそれより旅禍を何とかしないと」

質問の意味が分かったのか、は曖昧に笑った。
しかし冬獅郎から見れば、心ここにあらずといった様子だ。
休暇中に何があったのかは分からないが、が今一番気にしているのは旅禍の事ではなく――。

「…チッ。アホらしい…」
「え…?」
「お前は吉良と合流しろ。一人で無茶するなよ」

不意に足を止めた冬獅郎に、も振り返る。
だが冬獅郎はすでに塀の向こう側へと消えていた。

「…シロちゃん…?」

急に怒った様子で去った冬獅郎に軽く首を傾げた。
だが何故怒らせたのか、という理由を考える前にその霊圧を感じた。

「この霊圧―――――阿散井くん?」

徐々に大きくなっていくのは今、まさに戦闘中だからだろう。恋次の傍にもう一つ大きな霊圧を感じる。は一瞬躊躇したが、すぐに恋次のいる方向へと走り出した。
先ほどから瀞霊廷のあちこちで戦闘の気配を感じていたが、恋次と対峙している旅禍は更に強いと感じる。

「まさか…旅禍と一人で戦ってるの?」

霊圧を探ってみれば恋次の周りに他の死神の気配はない。
一対一ならば、あの恋次が旅禍に後れを取る事はないだろうが、先ほど一角がやられたと聞いたばかりだ。も多少の不安を覚え、足を速めた、まさにその時――不意に腕を掴まれ、突然脇道に引きこまれた。














「…い、市丸隊長…っ!」

驚いて顔を上げれば、目の前にはギンが苦笑混じりでを見下ろしていた。

「…ど…どこに行ってたんですか!いえ、それより何故いきなりあの場から姿を――」
「まあまあ、落ち着いてえなあ、ちゃん」

顔を合わせた途端、一気にまくしたてるに、ギンも慌てたように後ずさりする。
しかしは一向に落ちつく様子もなく、呑気に苦笑いを浮かべているギンを怖い顔で睨みつけた。

「落ちつけるわけないじゃないですかっ!市丸隊長は帰り道で急に姿を消すし、戻って来たらこの騒ぎだし、もう何が何だか――」
「…そうかぁ。そら…悪かったなあ」

(ボクの"替え玉"はあまり気のきかん奴やってんなあ…)

は藍染の見せたギンの替え玉に気付いてもいないようだ。でもそれは無理もない事だ、とギンは宥めるようにの頭を撫でた。

「急に瀞霊廷から大きな霊圧感じたし慌てて戻って来てしまってん。ちゃんならついてくるやろう思て」
「それにしたって一言くらい声をかけてくれても…」

は未だ納得がいかないといった顔をしていたが、ギンと会えた事で少しは落ち着いてきたのか、軽く息を吐きだすと思いだしたように声を上げた。

「あ、それより今、阿散井くんが旅禍らしき人物と戦闘してるようなんです!」

そう言われ、ギンもふと顔を上げた。
遠くの方からは良く知った霊圧と先日相対した旅禍の少年の霊圧を感じ、僅かに笑みを浮かべる。
思った以上に早く2人は顔を合わせたようだ。

「…ああ、そうみたいやなぁ。でっかい霊圧感じてボクもこっち来てみてんけど」
「じゃあ早く応援に行かないと…!阿散井くんだけじゃ危険かも――」
「…ちょい待ち!」

ギンは走って行こうとするの腕を掴み、慌てて引き戻す。
そもそもギンがわざわざ彼女の前に姿を見せたのは、これが目的だったのだ。
しかしは驚いたように振り返ると、

「何ですか、市丸隊長!早くしないと――」
ちゃんは行かんでもええ」
「……えぇ?行かなくてもいいってどういう…」

ギンの言葉にの瞳は当然戸惑いの色を浮かべている。
それはそうだろう。敵を迎撃しようという護廷十三隊の隊員に隊長自らがそれを止めるなどありえない話だ。だがギンには遂行しなければならない事があり、今、彼女に彼らのところへ行ってもらっては計画も来るって来る場合がある。

ちゃんはまだ戦える状態とちゃうやろ。旅禍は阿散井くんに任せとったらええ。仮にも副隊長なんやし」
「でも一角さんもやられたっていうし、旅禍はどんな力を秘めているか分からないんですよ?応援に行った方が――」
「あかん。応援ならボクが呼んでおくし、ちゃんは隊舎に戻り」
「え、でも…っ」
「頼むから。そうしてくれへん?大丈夫や。旅禍なんてすぐに鎮圧出来る」
「……市丸隊長…」

いつになく真剣な眼差しのギンに、もそれ以上反論する事も出来ずに言葉を詰まらせた。
それと同時に、先ほどから感じていた小さな不安が胸を過る。
何がどう、とは説明できないが、普段とは違うギンの様子を敏感に感じたのかもしれない。

「分かり…ました。隊舎に戻っていればいいんですよね」
「…そうや。ボクも旅禍を一掃したらすぐ戻るし」

素直に頷いたに、ギンはホッとしたような笑みを浮かべると、彼女の手を放した。

「ほな、途中で旅禍と出くわさんよう隊舎まで送るわ」
「………」

そこまでしてくれるんですか――。
そんな言葉が出そうになったが、は敢えて口にはしなかった。
ただ優しく微笑み、前を歩くギンの背中を見ながら、それまで感じていた小さな不安が次第に大きくなって行くのを、は心の中で漠然と感じていた―――。





久々の更新です〜!
やっとパソコンの修理も終えました。