code:01 / Evil eye






街を見渡せる丘の上に、その墓はひっそりと建っていた。
その前には、黒いドレスを身にまとい、ドレスと同じ色の黒髪を風になびかせる少女が一人、佇んでいる。
少女は手に真っ赤なバラを持ち、懐かしむように、刻まれている名前を見つめる。

あの"赤い月夜の惨劇"から、今日でちょうど10年目――――幼かった少女も、19歳になっていた。


「―――――ママ…私、もうすぐハタチになるんだよ」









草を踏む音に気付き、黒髪の少女―――は静かに振り返った。

「やはり、ここにいたのか。
「ミハエル…」

真っ白な騎士服を風になびかせ、颯爽と歩いて来るその人物を見て、は溜息をついた。
どうやら朝礼を抜け出した事がバレたようだ。まさか騎士長が直々に足を運んでくるとは思わなかったが。
ミハエルはイリーナを失い、孤独になったの父親代わりであり、剣の師でもある存在だ。
先日40になったばかりだが、鋭い切れ長の瞳に髪を後ろに撫でつけた姿は、騎士団長として10年務めあげた威厳さえ感じる。
当然、教団の仲間からも人望が厚く、街の住民からも慕われていた。しかしにとっては、少々口うるさい存在ともいえる。

―――またお説教かな、とはウンザリするように肩をすくめた。

「どうしても今日は朝一番に来たかったのよ」
「そんな事だろうと思っていたさ。何、私も花を持ってきただけだ」

魔剣教団、騎士団長でもあるミハエルは、の予想とは違い、優しい笑みを浮かべ持っていたバラの花束を掲げた。
その意外な反応に、は思わず訝しげな表情で再度振り返る。
いつもならここで"やる気がない"だの何だのと、長ったらしい説教が始まるはずなのだ。
そんなの心情を察したのか、ミハエルは軽く声をあげて笑った。
普段は部下に対し厳しい顔しか見せない彼が、唯一、の前でだけ見せる顔だ。

「私だとて、今日くらいはイリーナに花を添えに来たい。元仲間としてではなく、一人の友人として、な」
「…ミハエル…」
「あの夜…彼女を救えなかった事は、今でも後悔しているんだ」

ミハエルはそう呟くと、片膝をついて花束を墓の前に置いた。真っ赤なバラは、イリーナが大好きだった花だ。
その気遣いが嬉しくて、も軽く目を伏せ、ミハエルが母の為に祈りをささげている姿を黙って見守っている。
しばし沈黙が流れた。聞こえるのは、緩やかに吹く潮風が木々を揺らす音だけだ。

「…早いものだな。あれから10年か…」

不意にミハエルが静寂を破り、はハッとしたように顔を上げた。
ミハエルはゆっくり立ち上がると、墓の後ろに残る"かつて屋敷だったもの"を、感慨深い眼差しで見つめている。
この場所には、昔、やイリーナが住んでいた屋敷があったのだ。

「まさか彼女の娘までが騎士になるとは…。イリーナがもし生きていたなら、きっと喜んでいただろうな」

その言葉に、は僅かに微笑む。"そうであって欲しい"と、彼女もまた思っていた。

あの惨劇の夜――――は己の運命を知った。そしてその運命に抗うように"悪魔を狩る者"として、自らを鍛え上げたのだ。





10年前――――目覚めた時、は孤児院の一室に寝かされていた。
ミハエル率いる騎士団が駆けつけた時、は書斎で意識を失っていたらしい。
意識のないに付き添ってくれていたのは、孤児院の院長であるシェスタだった。
彼女はの母、イリーナから"自分に何かあったら娘を頼む"、と言われていたそうだ。

――――ママは?

そう訊かなくても、何も言わないシェスタの様子で、母親の身に何が起きたのか、には分かった。
いや――――分かっていたのだ。
意識を失う前に起きた全ての事を、は何故かハッキリと覚えていた。――――母、イリーナの命が尽きた瞬間の事までも。

咆哮、冷気、銃声、殺意、獣の怒号…恐ろしい悪魔達の存在が、あの小部屋に隠れていても分かった。

『――――いい?部屋の外で何が起きたとしても…何が聞こえたとしても、あなたは出てきちゃダメよ』

あの夜、母イリーナはに対し、そう言った。
しかしそれは無理な話だったのだ。
獣のような遠吠えが近くで聞こえた時。恐怖よりも母親の身を案じる気持ちの方が勝っていた。
何も考えずに教えられたとおりドアを開け、は部屋を飛び出した。
そしてそこで幼い少女が見た光景は――――血まみれで横たわる母親の姿だった。

狼のような風貌をした悪魔が、母に触れているのは許せなかった。傷つけようとしているのが許せなかった。
その怒りが頂点に達した時、の中で何かが"目覚めた"。
何故かは分からないが、身に付けた時から胸元で怪しく光るアミュレットから強い力が流れ込んでくるのが分かり、その後はただ、己の怒りを解き放っただけ。

――――目の前の悪魔が憎い。母を傷つけた獣など殺してしまえばいい。

自身の中から恐ろしいほどの殺意が沸きあがって来たのを、は今でも覚えている。
全身が熱くなり、次から次へと力が漲る感覚でさえも。

(パパは悪魔だった…。その血を半分受け継いでいる私も、悪魔なの?)

目覚めた時、あの狼のような悪魔の言葉を思い出し、多少の動揺はした。
髪の色も銀色に変化したまま。
―――シェスタなど周りの人間達は、母親を目の前で殺された恐怖でそうなったと思いこんだようだ―――
銀色の髪と、同じ色の瞳。鏡に映る、異形の少女は、自分じゃないみたいに思えた。
しかし、それでも自分を蔑む気持ちは、不思議と沸いてこなかった。
それは悪魔でありながら、人間を助けたスパーダの存在があったからかもしれない。

(悪魔を狩る悪魔がいたっていいじゃないか)

そう考える事で、は己の進むべき道を決めた。

―――母の仇を討つ。

目の前の悲しみよりも、母を殺した悪魔に対する憎しみの方が勝っていたのだ。

その後、は自分の正体を隠したまま、イリーナの遺言通り、シェスタが院長を務める孤児院に世話になった。
そして10歳になってすぐ、ミハエルに「戦い方を教えて」と自ら志願したのだ。

幼い少女の申し出に、ミハエルは当初かなり驚いた。剣を使っての戦闘など、子供に教えられるはずもない。
だがあの夜、自分が間に合わなかったせいでイリーナを助けられなかった後悔は深く胸に刻まれている。
ならばその娘であるを鍛え、悪魔から身を守る術を教える事が、亡き友人に対する償いになるような気さえした。
ミハエルはそう思いなおし、の頼みを承諾した。
そして15歳になった時には、自ら長を務める騎士団への仮入団も許可したのだ。当然には騎士として戦えるほどの力があると思ったからだ。
騎士長にそう思わせるほど、の戦闘能力はずば抜けていた。
剣の扱いも、今では若手の中でも一番の腕だと、彼女を預かるチームリーダーのサガロも言っている。
そして昨日、は正式に、教団から認められた騎士となった。
年齢が若い事や女というリスク、多少の問題児である事は差し引いても、その実力を評価されての事だった。
は着実に、母イリーナと同じ道を歩もうとしている。


――――だからこそ"もったいない"と、ミハエルは思っていた。


ミハエルは未だ母の墓前から動こうとしないに視線を戻すと、小さく息を吐いた。
彼女の格好は普段のロングコートとは違い、今はドレスだが、その配色はまるで同じなのだ。
上から下まで黒づくめ。とても魔剣教団の騎士には見えない。

「お前も昨日から正式な教団騎士だ。もう"仮"でも、新米という軽い存在でもない」
「…何よ。やっぱりお説教?」
「それが嫌なら、そろそろ定められている制服を着たらどうだ。騎士服は黒じゃなく、白だと何度言ったら分かる?」

魔剣教団の定めた制服は全てが白く、デザインもまるで中世から抜け出たようなものだ。
教団の人間は全て、その定められた制服を身につけるのが古くからのならわしだった。
しかしはその白い制服を一度も身に付けた事はない。
逆に黒のロングコートを羽織り、顔まで隠れるほどフードをすっぽりとかぶっている。
"ありゃ騎士というより、まるで魔女だな"と、誰かが陰で話してるのを、ミハエルは聞いた事があった。
これではが騎士仲間から浮いてしまう。いやすでに浮いていると言っていい。
イリーナ以来、二代目となる女騎士は教団のルールも守らない破天荒な人物だ、と周りの仲間からも完全に忌み嫌われる存在だった。
いや破天荒なだけじゃなく、が周りからうとまれるには、もう一つ大きな理由があった。

「私だって何度も言ったでしょ。"喪に服してる"の」
「イリーナが亡くなって10年だぞ。お前はいったい何年…いや何十年、喪に服すつもりだ?」
「…母を殺した悪魔を狩るまでよ」

の強い言葉に、ミハエルはハッとしたように口をつぐんだ。
イリーナを殺した悪魔はあの夜以来、この街には現れていないが、があの日からずっと仇となる悪魔を追い続けているのはミハエルも痛いほど分かっていた。
はどんな事をしても、その悪魔を見つけ出し殺すつもりだろう。
魔剣教団の概念を打ち砕く、"銃"という武器を使ってでも――――

「…話はそれだけ?なら私は行くけど――――」
「待て」

サッサと歩き出そうとするに、ミハエルは慌てて声をかけた。

「今夜、時間あるか?」
「…何?デートのお誘いとか?」
「バカな事を言うな。私はお前の父親代わりだぞ」
「分かってるわよ。軽いジョークじゃない。私だってデートは若い男としたいもの」

いつものように軽口を叩けば、ミハエルが呆れたように溜息をついた。

(子供の頃は…。いや、イリーナがまだ生きていた頃はあんなにも素直な少女だったというのに…どこでしつけを間違えたのか)

すっかり街中で遊んでるような女の物言いが板についてきたに、ミハエルは内心首を傾げる。
しかしは子供の頃からどこか少しませていた少女だった。ミハエルが知らないだけなのだ。

「デートをする相手は選べよ。それより…今夜もし、そのデートの予定がないなら孤児院に顔を出せないか?」
「…孤児院に?」
「最近顔を見せてないだろう?久しぶりにみんなで食事でもしないか」

は騎士になった時点で孤児院を出て、今は教団の持つ寮で生活をしている。
最近は悪魔の出現も多い為に忙しかったりもして、孤児院へ顔を出す回数はずいぶんと減っていた。

「ほら、あのネロとかいう少年もお前に会いたがっていたぞ?」

――――ネロ、か。確かにしばらく顔を見ていないし会いたい、とは思った。
ネロとは孤児院の前に捨てられていた、いわゆる捨て子で、何故かになついている7〜9歳くらいの少年だ。
自らも家族のいない身となったからか、両親の顔すら知らない孤児院の子達は可愛がっている。
実の親に捨てられたネロに対しても、情にも似た感情があった。
特に彼の珍しい髪色が自分と同じという事もあり、親近感が沸くのだ。
そのネロが自分に会いたがっていたと聞けば、顔を見せてやりたいとも思う。
しかしが孤児院へ寄りつかなくなったのには、ただ単に忙しかったというわけではなく、他にも理由がある。

「…嫌よ。どうせクレドの家族も来るんでしょう?」

はその名を出し、徐に顔をしかめた。
クレドの家族、とは最近になって孤児院へ来るようになった夫婦の事で、クレドはその夫婦の息子だ。この夫婦には他にキリエという娘もいる。
この一家は敬虔な信徒であり、純真無垢に神であるスパーダを信じ、その救いの手が人々に向けられると信じている。
それゆえ自分達を神の代替者として、恵まれぬ孤児達に救いの手を差し伸べていた。
息子のクレド、そして妹のキリエはそんな両親の手伝いをしている。
もちろんもスパーダは信じているし、敬愛している存在だ。だからこの一家がどうスパーダを崇めようとかまわない。
ただはこの清廉潔白すぎる一家が苦手だった。

「さあ、今夜は分からないが…。何故だ?あの家族の何が気にいらない。孤児院の子供たちに色んなプレゼントを贈ってくれる優しい家族じゃないか」

ミハエルはの言葉に驚いたような顔をした。ミハエルもまた、敬虔な信徒全てを聖者だと信じ、いい人間だ、と考えている。
そういう盲目な思いこそ、は苦手だった。
元々スパーダを崇めてはいても、この街の人々のように敬虔な信徒ではないのかもしれない。

「苦手なのよ。真面目で信心深い…ううん、信心深"すぎる"人間を相手にするのは」
「だから何故だ?」
「彼らは自分達が聖者だと信じてる。だから問題児の私にすら優しく接してくれる。でも…心のどこかで蔑んでる気がするの」
…」
「ボランティア、なんて聞こえはいいけど、あれは余裕のある人間がする行為でしょ。彼らと話してると憐みを受けてる気がして嫌なの」
「これまた捻くれた答えだな」

の心情も知らず、ミハエルは呆れたように苦笑を洩らした。
それにはもむっとしたようにミハエルを睨む。

「悪かったわね、ひねくれ者で!どうせママとは出来が違うのよ」
「いや…お前はイリーナそっくりだ。その気の強い性格がな」

プイっと顔をそむけるに、ミハエルは笑いながら言った。

(――――"イリーナとそっくり"か)

その一言はの胸を熱くさせる。強がってはいても、いくつになっても、母親という存在はいつだって恋しいのだ。
それでも素直になれないは、目を細めてミハエルを睨んだ。

「どうせ気が強いわよ」
「そう睨んでも怖くないぞ。いいから今夜くらい顔を出せ。私もゆっくり時間がとれるのは久しぶりなんだ」
「……そう言われても…」

珍しく引き下がらないミハエルに、は内心困り果てた。
といって今夜、大事なデートがあるというわけでもない。ただ、本当にあの一家、いや…正しく言えば、息子のクレドが苦手なのだ。

(あのガキ、生意気に説教してくるからなぁ…)

ふと冷めた表情で自分を見下すように見るクレドの憎たらしい顔を思い出し、は溜息をついた。
両親が敬虔な信徒であるという事は、その息子もまたしかり。
しかも将来は教団騎士になるという夢を持っている。
だからこそ、女の身で騎士の職に就いているに対し、子供ながら評価も厳しいのだ。

『何故騎士の証である制服を着ないんだ?』
『銃など、教団の騎士が使う武器ではない。邪道だ』

人の顔を見れば、まるでどこかの上司――この場合ミハエルやリーダーのサガロだ――のような事を言ってくる。
6歳は離れている子供にグチグチ言われる事ほどイラつくものはない。
"くそまじめ"でジョークも通じず、物事を一直線上でしか見れない人間は、にとって一番の天敵だ。
スパーダを信じる事に迷いはない信徒ではあっても、人生は楽しみたい。信徒とはいえ一人の人間なのだ。
人を嫌いもすれば、腹の立つことだってある。
しかしクレドの家族は、どんな人間に対しても優しく、慈悲深い。自分を犠牲にしてでも他人を守ろうとするところまである。
同じ人間なのに、まるで彼らが"神"のようだ。
例え目の前で自分の家族が殺されても、その殺した相手が悪魔に襲われれば、身を呈して守り抜くような気さえする。
でも果たしてそれが美しいのだろうか?はそう思わなかった。人間には心があり、感情がある。
大切な人が傷つけられれば、その傷つけた相手を憎み、同じ目にあわせてやりたいと思うのが普通だ。
はそういった感情を殺してまで"神"に仕えていたくはなかった。

「―――とにかく。用事がないなら来い。今夜の6時だ。分かったな?それと…髪を染め直しておけ。根元が伸びてる」

答えに困っているを見て、ミハエルは強引にそう言うと、「これから教皇様のところに顔を出すから本部に戻る」と言い残し、サッサと歩いて行ってしまった。
7年ほど前、"魔剣教団"先代の教皇ソレムニスが亡くなり、当時司教であったサンクトゥスが新たな教皇となったのだが、なかなかの人格者らしく、 教団使徒たちも、サンクトゥス教には前以上の忠誠を誓っているようだった。
呼ばれれば、まるで飼い犬のごとく、彼の元へと駆けつける。
ミハエルも同じなのか、足早に去って行き、その後ろ姿に「勝手なこと言ってっ」と怒ってみたところで、聞き入れてくれるはずもない。

「ったく…髪を染めろ?分かってるわよそれくらい」

独り文句を言いながら、髪の根元へと触れる。
ミハエルが言った通り、黒髪の根元が伸びて、銀色の髪が太陽の光に反射し、キラキラ光っていた。
あの夜以来、の髪は銀髪のままだった。だがそれでは街の中で目立ちすぎるという事で、今は前の髪色に染めているのだ。

「それより今夜クレドの奴も来て、またウダウダ生意気な事言ってきたらどうすんのよ。絶対今度こそ!殴っちゃいそうなのにっ」

相手が子供だからと我慢しているとストレスがたまる。といって暴力を振るえば周りに「大人げない!」と説教を食らうだろう。
どっちにしろにとって、悪いことだらけだ。

「どうか、あのガキが来てませんように…!」

は何故か母の墓の前で、そんな大人げない願いを、天に祈った。











「…何だ。魔女か」

「―――――っ!(って来てるじゃないのっ)」


あまり気乗りはしなかったものの、結局ミハエルの誘いを受け、自分に会いたがっていたと言う少年ネロに会いに、は孤児院へとやって来たのだが…
チャイムを鳴らそうとした瞬間、ドアが先に開き、驚く彼女を出迎えたのは、彼女が一番会いたくないと亡き母に祈りまで捧げていた人物、クレドだった。
おそらく12〜14歳だろうが、くっきりとした眉に、彫りの深い顔立ちは、もう少し上の年齢にも見える。
その上すでにと同じくらいの身長―――165センチはある―――だから尚更、年齢より老けて見えた。

「誰が魔女ですって?」

の神経を逆なでする、クレドの遠慮のない第一声に、ピクリと口元が引きつる。
教団の仲間達に陰でそう言われているのは知っていたが、面と向かって言われたのは初めてだ。
クレドは相変わらずの堅い表情を変えないまま、「あんたしかいない」と冷静に言い放った。

「こんな夜にその真っ黒いコート…。しかもフードまで被ってたんじゃ夜道ですれ違った人はさぞ恐ろしい思いをするだろうな」
「………っ(こんのガキャー!)」

子供とは思えないほど大人びた口調で説明され、の口元が更に引きつる。
いっそこの場で殴ろうか、と思うほどクレドの生意気な態度に腹が立っていた。
が、クレドはを押しのけ、外へ出ようとする。
一瞬帰るのか?と期待もしたが、彼が上着を羽織っていない事に気付き、は慌ててクレドの腕を掴んだ。
周りを海に囲まれた城砦都市フォルトゥナの街を、しかも更に気温の下がる夜にシャツ一枚で出歩くなど肌寒いどころの話ではない。

「ちょっと!そんな格好でどこ行くの?外はもう暗いわよ」
「離してくれ。魔女の相手をしてる暇はない」
「む…っ。あのね…外はもう子供の歩く時間じゃないの。どうしても行くってんなら親を呼ぶわよ」

親を呼ぶ、と言ったからか。それとも子供扱いしたからなのか。クレドは徐にを睨みつけた。

「…父さんも母さんも今はいない」
「…いない?じゃあ今夜はあんた一人で来たの?」
「違う……二人は妹を……キリエを探しに出てるんだ」
「キリエを?」
「ああ。それとネロにシエラも」

クレドの説明に、は首を傾げた。
こんな時間に、その三人はどこへ行ったというのか。

「ちゃんと説明して。三人はどうしたの?」

何も応えようとはしないクレドに、「探しに出てる、とはどういう意味?」と再度問いかける。
最初は言いたくなさそうにしていたクレドだったが、説明しない事には解放してもらえないと思ったのか、ようやく重たい口を開いた。

「まだ暗くなる前に、シエラがネロとキリエを連れて夕飯の買い出しに行ったんだけど、まだ戻らない」
「ええ?暗くなる前って…日が落ちてから、軽く一時間以上は経つわよ?」

シエラとは、この孤児院で働いている女性だ。とそう歳は離れていなかったように思う。

「店は近所なんだから普通で行けば往復でも10分くらいなのに…。こんな時間まで帰らないなんて変だわ」

この時期、フォルトゥナは日が落ちるのが早い。は時計を確認して、眉をひそめた。

「だからさっき来たミハエル騎士長に話して、父さんと母さんは彼と三人で探しに行った。でも心配で―――」
「あんたも探しに行こうとしたのね…」

その言葉に、クレドは無言のまま頷いた。
しかしこの時間に彼一人を外へ出す事は出来ない。いつ悪魔が現れ、襲ってくるかもしれないのだ。

「分かった。私も探しに行くから、あんたはここで待ってて」
「…僕も行く!キリエは僕の妹だ」
「ダメよ!あんたはまだ剣も扱えないでしょ?もし悪魔がらみだったら危険だわ」
「剣なら訓練してる!僕だって戦えるさっ!」

それは普段の冷静なクレドではなかった。妹がよほど心配なのだろう。色白の頬が興奮で赤みをさしている。
しかしいくら規則破りの常習犯であるでも、こんな夜に彼を連れて出歩く事は出来なかった。

「ダメったらダメ。多少剣を扱えたからって悪魔に通用するとは思えない。ここは私が行く。これでも教団騎士よ」

ここぞとばかりに騎士らしく、きっぱりと告げれば、クレドは悔しそうに顔をゆがめた。
クレドは破天荒なのやり方全てを否定し、騎士などとは認めていない。
そのに「悪魔には通用しない」と言いきられ、彼のプライドが少なからず傷ついたようだ。
だが今はそんな事にまで気を遣っている余裕は、にもない。

「いい?シェスタはいるんでしょ?彼女の傍にいてあげて。不安だろうから」

クレドが何か言う前に、はそう言って彼を院内へと連れ戻した。
そうする事で諦めたのか、クレドは深く息を吐くと、渋々といった顔で頷く。

「分かった。キリエ、それにネロとシエラを…頼む。必ず無事に連れ帰ってくれ」
「任せて」

不安げなクレドに頷いて見せると、は暗い街へと飛び出した。
走りながら教団から支給されている"カリバーン"と呼ばれる"対悪魔"用の騎士剣を握りしめる。
そしてもう片方の手には――――ハンドガン。それも母親が愛用していた改造銃が握られていた。

「今朝、手入れしておいて良かったわ」

人っ子一人いない街を走りながら、は独り呟いた。
すっかり手に馴染んだ母の忘れ形見であり、今ではの良き"相棒"でもある。

"仮にも魔剣教団の騎士が銃など…そんな物は邪道だ"

以前クレドに言われた言葉が、ふと脳裏をよぎる。いや、同じ言葉を何度、教団の騎士達にも言われただろう。
は他の騎士達とは違い、剣だけでなく、銃器も扱う。それが仲間達にうとまれている最大の理由でもあった。

(バカらしい…。悪魔を狩るのに必要な物ならば何でも使えばいいのよ。変なこだわりを貫いて、結局悪魔を倒せず逆にやられたら意味がない)

はこれまで、剣一本で悪魔に立ち向かい、逆に殺された仲間を大勢見て来た。
己の大剣のみで悪魔と戦ったスパーダを崇めるのは勝手だ。しかし純粋な悪魔だったスパーダと彼らでは持ちうる力がまるで違う。
ただの人間が、狡猾で残虐な悪魔に対し、近距離攻撃だけで立ち向かうには限界があるのだ。はこれまでの戦いでそう結論付けた。
それにが母の銃を使うには彼女なりの意味がある。

――――この銃で母の仇を討つ。

10年前の、あの夜、おそらくは母親が悪魔との戦闘で使用したはずの銃だ。
は対悪魔用に改造された母親の形見を、更に自分用に改造させた。もちろん"その道のプロ"にだ。
連射速度を上げさせ、更に表面も強化させ、自分の魔力に耐え得るほどの弾が撃てるよう、中身も改造させてある。
それゆえに以前の外観の面影はない。だが元の"魂"は母親の愛用した銃だ。
は改造した職人に、最後の仕事を頼んで表面に名前を彫らせた。その名も――――<Irina>――――彼女の母親の名前だ。

「今宵も赤い月…嫌な予感がするわね」

は夜空を見上げ、呟く。その時、不気味な色の月が雲に隠れた。








街から少し離れた場所にある森の手前で、はふと足を止めた。
すぐ近くで、獣の遠吠えのような声が聞こえたような気がしたのだ。

「…あの店の距離から考えて…やっぱりここが一番怪しいわね」

先ほどは三人が最初に向かったであろう、店の前に行ってみた。
孤児院の人間がいつも買い出しに利用する食品などを扱う店だ。
すでにこの時間では店も閉まっていたが、その近くで、はクレドとキリエの両親に会った。
二人は動揺しながらも、反対側は全て探したと言い、残るはこの森だけだと言う。
ただこの森には普段から、かなりの確率で悪魔が出現する事も多く、騎士でもない街の人間は誰も近づこうとはしなかった。

「ミハエル騎士長がお一人で森へ向かいました。私達は孤児院に戻れと言われて…」

そう説明するクレドの母親に、は「私もミハエル騎士長の後を追います」と告げ、二人には彼と同様、孤児院へ戻るよう促した。
いくら大人でもこの時間、それも赤い月が出ている夜に出歩くのは危険すぎるからだ。
二人はに何度も頭を下げ、「娘やネロ達を頼む」と言い残し、孤児院へと戻って行った。

「…赤い月の出る夜は、悪魔が人を喰らいに闇から戻る、か」

ふと昔、母親に聞かされた話を思い出した。
ここフォルトゥナでは、赤い月の浮かぶ夜を"凶兆"としている。
確かにこの夜だけは、普段以上に悪魔が出現する事が多いのも事実だ。
なのにの探している悪魔は未だ現れない。

「…さっきの鳴き声…まさか奴じゃないわよね」

ふと森に目を向け、呟く。先ほど聞こえた獣の遠吠えが、遠いあの日、聞いたものに似ていた気がしたのだ。

「…もし奴なら……今夜の私は運がいい」

今でもこの瞳が、あの鋭い眼光を覚えている。
この耳が、あの地鳴りのような唸り声を覚えている。そして心が――――母親を奪われた悲しみを覚えている。

「もし奴なら…今度こそ逃がすもんか。必ず息の根を止めてやる」

母の形見である銃―――<イリーナ>を握りしめ、は低く呟いた。
同時に彼女の大きな銀色の瞳は、暗闇の中でも怪しい光を放ち始める。

(感じる…この感覚。匂い…。すぐ近くに悪魔が、いる――――)

自分の運命を知り、与えられた力を使いこなすため、はこれまでに数え切れないほどの悪魔と対峙してきた。
それこそ、教団に入るずっと前…子供の頃からだ。もちろん自分には悪魔に対抗できる力があると信じたからこそ出来た事だった。
その甲斐あってか、悪魔と戦うたびに、己の体に流れる悪魔の血が、色濃く反応するようにまでなってきた。
今では80%ほど、コントロールできるようにもなった。これも悪魔である父の血を受け継いだおかげだろう。
その"悪魔の血"が騒ぐのだ。近くに"敵"がいる、と伝えるように、彼女の瞳が疼く――――と、その時、森の中から悲鳴のような声が響いてきた。

「……ミハエル?!」

反響していたからハッキリとは断言出来ない。だが今、聞こえた声はミハエルのものに似ていた。
まさか騎士団長ともあろう彼が、悪魔に後れを取るとは思えないが、もし足手まといになる存在が傍にあれば……分からない。
もしミハエルがネロ達を見つけ、一緒にいたならば…そう考えたは、迷うことなく森の中へと駆けて行く。
雲に隠れた月明かりの届かない暗い森の中でも、の瞳は遠くまで見通せるほど、冴えきっていた。

「…いた!」

森の中心まで来たところで、前方に人らしき影が動いた。
かすかに金属音が聞こえるのは、おそらくミハエルが悪魔と戦っている音だろう。
は足を速め、無造作に生えている木々の合間を一気に走り抜けた。

「ミハエル!」
「…?!来たのかっ」

森の更に奥まで行くと、色々な遺跡が遺されている広いスペースへと出る。
ミハエルはそこで下級悪魔"スケアクロウ"と戦っていた。
少し苦戦しているのか、普段の戦闘では乱した事もないミハエルの騎士服が、ところどころ破け、腕からはかすかに血が滲んでいる。
"スケアクロウ―案山子―"とは、"魔界で生まれた甲虫の一種で、それが群れをなし布袋に入り込んだものだ。
知能は低いが、一つの生命体のように布袋を操り、数が多ければそれなりに面倒な相手だった。
案の定、ミハエルを取り囲んでいるスケアクロウは軽く見ても二十体以上はいる。通りでミハエルが手こずっているわけだ。

「クレドに聞いたの!それよりネロ達は?!見つけたの?」

問いかける間、も飛びかかってくるスケアクロウをアっという間に三体ほど<イリーナ>で撃ち抜く。
そして剣を真横に振り、更に二体のスケアクロウを斬り飛ばした。

「後ろにある遺跡の陰に隠れている!」

仮にも騎士長である自分の前で銃を撃ちまくるに顔をしかめつつも、ミハエルが応える。その間もスケアクロウを斬る事を忘れない。
が言われた方向へ視線を向けると、ネロが僅かに顔を覗かせた。大方の声に気付いての事だろう。

!」
「ネロ!キリエとシエラもそこに?!」
「うん、一緒だ!」
「じゃあ終わるまで隠れてて!すぐ終わらせるから!」
「分かった!」

そんな会話を交わしつつも、は次々にスケアクロウを狩って行く。
撃たれたり斬られた悪魔達は、血のような黒い霧を吹きあげて最後には消滅していった。

(そう言えば…さっき聞こえた遠吠えは、こいつらだったのかしら…。それとも気のせい?)

辺りを見渡しても、それらしき悪魔の気配はせず、スケアクロウの大群しか見えない。
どうやら探していた敵は今夜も現れなさそうだ。

「さすがに、この数じゃ面倒ね」

手ごたえのない雑魚でも数がいればそれなりに力を使う。はいささか疲れ気味に呟いた。

「どうした?もう疲れたのか?」
「ミハエルこそ息が上がってるんじゃないの?」
「バカ言うな。まだまだ!」
「もう歳なんだし無理して腰、傷めないでよね。結婚もしてないんだから!」
「お前こそ、そんなじゃじゃ馬では誰も嫁にもらってくれないぞ?」
「いいのよ。私より弱い男なんて願い下げだわ!」
「まあそれもそうだな!」
「そうよ!結婚相手はスパーダくらい強い男じゃないとね!」
「おい、高望みにもほどがあるぞ?!」

互いにそんな会話を楽しみつつ、向かってくるスケアクロウを消滅させていく。
十分ほど経った頃には、あれだけいたスケアクロウも全て塵と化していた。

「ふう。やっと終わった」

最後の一匹を空中から撃ち殺したは、ロングコートの裾を翻し、地面へと着地した。
ミハエルは相当疲れたのか、そのまま遺跡の前に座り込んでいる。

(やっぱり歳なんじゃないの?)

内心そう突っ込みながら、はコートについた土を払う。
そして「ネロ!もう出てきて大丈夫よ!」と未だ隠れている子供たちに声をかけた。

「うわ…あんなにいたのに全部やっつけたのかよ!すっげー!」

の声を聞いて安心したのか、遺跡の陰に隠れていたネロが、クレドの妹キリエの手を引き、姿を見せる。
その後からは孤児院で働いているシエラが怖々と顔を出した。

「あ、あの…ありがとうございました…」
「いいのよ。これが私達の仕事だし。それより怪我はない?」
「は、はい。私もこの子達も怪我はしてません」

シエラはやっと安心したのか、いつもの可愛らしい笑顔を見せた。

「それより…どうして買い出しに行ったあなた達がこんな森に来てるの?」

シエラ、そしてネロとキリエも揃ったところで、気になっていた事を尋ねると、ネロが気まずそうに頭を掻いた。

「ごめん。俺が森に行こうって言ったんだ。前に来た時珍しい花が咲いてたの思いだして…だからとキリエにあげたくて…」
「えぇ?あんたが言いだしたの?っていうか森に近づいちゃ危険だって事、あんたも分かってるでしょっ」

今日だけじゃなく、以前にも森に近づいたというネロに、も思わず声を荒げる。
ネロは首をすぼめながら、小さな声でもう一度「ごめん」と呟いた。

「でも森に入る手前に咲いてたんだよ!だから大丈夫かと思ってさ…。でも今日に限って森の入口で奴らが現れて…」
「で…逃げるはずが逆に森の中へと追い込まれたってわけ?」
「うん…何とか逃げ回ってたんだけど、森を抜けようにもそのうち暗くなって方向感覚もなくなっちゃったんだ。ごめん…」
「シエラもあなたがついていながら子供達を危ない目に合わせるなんて」
「す、すみません!まだ明るかったし、森に入らないなら大丈夫かと…」

が怖い顔で睨むと、ネロとシエラはシュンとした様子で俯いた。そこへキリエが二人の前に出る。

「ネロとシエラを怒らないで下さい。その花を見たいって、私がお願いしたの」
「キリエ…」

泣きそうな顔で訴えるキリエに、も困ったように頭を掻いた。
クレドと同じまでとはいかないが、妹のキリエも逆の意味で苦手なのだ。

(この天使みたいな顔と向き合うと、どうも自分が汚れてる気がするのよねぇ…。この歳にして非の打ちどころがないと言うか何と言うか)

そう、にとってキリエは"いい子"すぎるのだ。子供ならもっと我がままでもいいのに、とさえ思うほど。
彼女は両親以上に面倒見が良く、他人に優しい。自分に出されたお菓子でも、孤児院の子供たちが欲しがれば、簡単にそれを渡してしまう。
誰かが孤児院の子をイジメれば、身を呈して守り、怪我をして帰れば優しく手当てをしてあげる。

(きっと"天使"とか"女神"って、キリエみたいな女の子の事を言うのよね)

ふと目の前の少女を見ながら、そんな事を思う。
それくらいキリエは大人よりも大人で女性特有の優しさを持っていた。(この場合、大人びているクレドとは少し違う)
その容姿も素晴らしく、亜麻色の柔らかそうな髪を肩まで伸ばし、大きな瞳に鼻筋の通った顔は、可愛いというよりは美人の部類に入るだろう。
将来、旦那候補がわんさかと寄ってくるんだろうな、とは真面目な顔で想像していた。

(ま、あのクレドが蹴散らしそうだけど)

クレドの憎たらしい顔を思い出し、早くみんなの無事な姿を見せて安心させてやるか、とは溜息交じりで思う。
それくらいの優しさは彼女にもあるのだ。

「分かったわ。とりあえず戻りましょう。こんな場所にいたんじゃ、またいつ悪魔が出るか分からないし…」
「そ、そうですね!院長達も心配されてるでしょうし…!―――あらやだ!卵が割れてるっオムレツにしようと思ってたのにっ」
「あ〜俺、腹減ったよ〜」
「もうネロったら…」

助かった事で安心したのか、それぞれが思い思いの事を口にし、森の出口に向かって歩き出す。
が、そこではふと後ろを振り返った。さっきからミハエルが何も話さないのが少し気になったのだ。
厳格な彼ならば、危険な行動をしたネロ達を一言くらい怒鳴りつけても良さそうなものだ。

「ミハエル?何してるの?そろそろ戻りましょ」

がそう声をかけても、ミハエルは未だ地面に座り込んだままだった。
こちらに背を向け、頭を垂れながらジっとしたまま動かない。

「やだ…そんなに疲れたの?ホントに歳なんじゃないの?――――」

と、いつもの軽口を飛ばし、ミハエルの方へ一歩歩き出した、その瞬間――――唐突にミハエルが立ち上がった。
いや、自らの意思で立ち上がったというよりは、糸人形のような不自然な動きだ。
何かがおかしいと感じたは、静かに足を止めた。

「…ミハエル?どうしたの…?」

に背を向け、俯いたまま、ミハエルはジっと動かなければ返事もしない。その姿がどこか不気味だった。

「…ミハエル…返事をして」

は警戒しながら再び足を前に出す。その手には<イリーナ>が握られた。

「…おーい、!何してんだよー」
「――――っ!こっちに来ちゃダメ!」

なかなか来ないを呼びに、ネロが戻ってくるのが見えて、咄嗟に叫ぶ。
だがその僅かな隙。がミハエルからほんの少し視線を外した時。彼の体に異変が起こった。

「…うう…っ…ぉぉ…ぅおおおおっ」
「ミハエル!」

突然体をガクガクと揺らして叫び始めたミハエルを、は信じられない思いで見つめていた。
彼の両肩がボコボコと波打つように左右対称で動く。人間の体の構造では絶対に無理な動きだ。
そしてその動きが激しくなり、次に背中が大きく盛り上がり始めた。

「な…何なの…?これは」

ミハエルの背中が徐々に盛り上がり、巨大になっていく様は、まるで悪夢を見ているようだった。
その膨らんだ背中もまた、あちこちがボコボコと波打ち、まるで彼の肉体の中で何かが暴れているようだ。

「まさか…悪魔…?」
「ぅおおおおおお、お、おぉ…!!!!」

その存在にが気付いた瞬間、ミハエルは再び声を上げると、不気味に動いていた肉体が激しさを増し一気に弾け飛んだ。

「ミハエル――――」

パァァァンっとまるで風船が割れたかのように粉々になったミハエルの肉片が、の頬に飛び散る。
あまりに突然の事で言葉が出てこない上に、目の前に現れた巨大な影が、の体を凍りつかせた。

「な…何だよ、これ…ミ、ミハエルが…バラバラになって…中から化け物…?」

の背後で全てを見ていたネロは、あまりの恐怖に腰を抜かし地面にへたり込んだ。
更にその後ろではシエラとキリエの悲鳴が上がる。それを合図に、目の前の靄の中から不気味な笑い声が響いてきた。

≪…クックック……また会ったな…ガキ≫

「……お…前…っっ!!」

闇から聞こえる地鳴りのような低い声を、は過去にも一度、聞いた事がある。
そう認識した時、雲が流れ、姿を現した真っ赤な月が、森を照らし出した。

≪――――俺を覚えているか?≫

赤い月明かりに姿を現したのは、巨大な狼の姿をした悪魔――――あの夜、の母、イリーナを噛み殺したマンナーロだった。








「―――――覚えてるか、ですって?」

は目の前の悪魔に対し、何のためらいもなく<イリーナ>を向けた。

「忘れるわけないじゃない。ずっと、ずっと――――この日を待ってたのよ!!」

叫ぶのと同時にトリガーを引く。静かな森に、数発の銃声が響き、休んでいたであろう野鳥たちが一斉に夜空へと飛び去った。

≪…ほう。随分と成長したなぁ。あのガキがそんなものまで扱えるようになったとは≫

マンナーロはその巨体からは考えられない速度で銃弾を交わし、あざ笑う。

「…普通の弾じゃきかないってわけね。やっぱり"アレ"を使うしかないか」

は軽く舌打ちをしながら、後ろにいるネロ達へ素早く視線を向けた。

「ネロ!早く二人を連れて逃げて!!」
「わ…分かってる…けど…足が動かない」
「はあ?いつも悪魔なんか怖くないって言ってるクセに!」
「こ、こんなデカイ奴、見た事ないんだから仕方ないだろっ」

腰を抜かし、声を震わせながらも、食ってかかってくるネロに、は呆れたように息をついた。
動けない、と言われてもそのままにしておく事は出来ない。マンナーロ相手に、ネロ達を守りながら戦うのは大きなリスクが伴う。
いくらでも必ず守るとは言い切れなかった。それに彼らの前でデビルトリガーを引くわけにもいかない。

「ったく世話の焼ける…。スパーダの血縁なんじゃないかって騒いで損したわ。同じ髪色でどうしてこうも弱いのかしら」

子供を相手に、よくそこまで言える、とネロは思ったが、敢えて口にはしない。
言えば倍の文句が返ってくる事は実体験済みだからだ。触らぬに何とやら…だ。

(だいたい同じ銀髪だからって何でスパーダの血縁になるんだ?)

思えば初対面の時から、はそんな事を言って騒いではいたが、ネロにとってスパーダとは"おとぎ話"の中のヒーローでしかない。
こんな伝説を信じてるなんて、の方が子供みたいだ、とネロは常日頃から思っていた。

「ほら立てる?」

そんな事を思われてるとは知らないは銃を構えながらも少しずつ後退し、ネロの傍まで行くと、彼の細い腕を引っ張る。
そうする事で、ネロは何とか立ち上がる事が出来た。

「サ、サンキュ…」
「いい?私があいつを銃で威嚇する。その間にあんたはキリエ達を連れて森を抜けるの。出来る?」
「う、うん…」
「出口は月と反対側へ行けばあるわ。そこの小道を真っすぐ…分かる?」
「…な、何となく…」

ネロは震えながらも気丈に頷く。それを見ては微笑んだ。

「いくら子供でも男なんだから。あんたが二人を守りなさい」
「わ、分かってる」

の言葉に、先ほど思っていた事を読まれたんじゃないかとドキっとしつつ、何とか頷く。

「なら行って。私もあいつを倒したらすぐに帰るわ」
「………気をつけて」

ネロは心配そうにそれだけ言うと、何とかキリエ達の方へ走って行った。
二人を任された責任感からなのか、体の震えも止まったようだ。

「…頼もしいわね。将来が楽しみ」

そんな事を独りごちながら、は前方で薄気味悪い笑い声をあげているマンナーロを睨みつけた。

(ナメてくれちゃって…)

この瞬間、襲おうと思えばいくらでも襲えたはずだ。
だがマンナーロは余裕の笑みさえ浮かべて、とネロのやり取りを眺めていたのだ。

≪ガキがガキのお守とは…大変だな≫

「ギャラリーなんかいらないでしょ。あんたの目当ては私――――いいえ。"こっち"だったわね」

そう言いながら胸元からが取りだしたのは、深紅に光るアミュレットだった。

≪…おお…その石…!今度こそもらうぞ!!≫

アミュレットを見せた途端、マンナーロの顔から余裕が消え、雄たけびのような声を上げた。
はすぐにアミュレットをしまうと同時に、マンナーロへ向けて三発ほど発砲する。
その威嚇の間に横へと移動し、大きな木々の隙間を走り抜けた。
マンナーロは咆哮を上げながら木々をなぎ倒し、の後を追ってくる。

「そんなに欲しいの?この石が!」

≪…寄こせぇ!!その石をオレに寄こせぇ!!≫

マンナーロの鋭い爪が、大木をえぐり取っていく。あの爪に一度でも触れたら、体など簡単に切り刻まれるに違いない。
は新しい弾を込めながら、自分の中の力が目覚めるのを静かに待っていた。

「…ミハエルはどうしたの?!」

木々の合間からマンナーロを銃撃しながらも、引っかかっていた事を尋ねる。
さっきまでは"本物"のミハエルだった。いや、今朝会った時もそうだ。
昨日も、一昨日も、ミハエルは普段と何ら変わりなかった。なのに、いつマンナーロと入れ替わったんだろう?
その答えを求めるかのように、は最後に発砲すると、今度は背中に背負っていた剣を抜いた。

「…"ふり出しに戻る"、か。結界を張ったわね」

気付けば先ほどの遺跡の前へ戻って来ていた。は辺りを見渡し、悪魔の結界がある事を確認する。

≪逃げられたら困るからな…≫

「逃げる気なんか元々ないけど…。さあ答えて。ミハエルをどうしたの…?」

ズン…っという地響きと共に、目の前に現れたマンナーロを睨みつける。
その体は<イリーナ>の銃撃を受けても傷一つ、ついてはいない。

(どんなけ頑丈なのよ…)

やはりこの銃を持ってしても"デビルトリガー"を引かなければ、あの強化された獣の肉体を傷つけるのは難しそうだ。
内心舌打ちをしながら剣を構えると、マンナーロは愉快そうに笑い始めた。

≪クク…ッァハハハ!!!≫

「何がそんなにウケるのかしら」

≪何もかもさ…。お前の考えてる事を当ててやろう…≫

マンナーロは余裕の態度でそう言うと、攻撃態勢にいるを見下ろした。

≪お前が想像してるのはこうだろう?オレ様が、"いつ、あの人間と、入れ替わったのか―――"?≫

「だったら…?」

≪クックック…そうではない。そうではないのだ…≫

「…何が違うの?」

さも愉快そうに笑うマンナーロに、もいい加減イラ立ってくる。
だがマンナーロにとっては、それすらも"面白い事"でしかない。

≪オレはあの男と入れ替わったのではなく……"交わった"のだ≫

「……何ですって?」

思わず目を見開いたを見て、マンナーロは更に笑い始めた。

≪交わったと言っても、男女のアレとは少し違うぞ≫

「…分かってるわよ!」

何を勘違いしたのか、突然ボケた事を言うマンナーロに、は思わず突っ込んだ。

(何こいつ?トボケた悪魔ね…。記憶にあるイメージとは少し違う)

どこか人間臭さを出すマンナーロに、は内心呆れていた。

「で?交わるってどういう意味?まさか…ミハエルを殺したの…っ?」

≪殺したのとも、また違う。オレと一体化しているのだからな…。そう、10年前にな≫

「………っ」

10年前と言えば、マンナーロが達を襲撃した頃だ。
そんな昔からミハエルと一体化していたとは、どういう事なのだろう。
それが本当だとすれば、今日まで接してきたミハエルも、このマンナーロだったという事になる。

(いや…それは、ない。それなら、いくら何でも気付くはずだ。そう、それに例え他の人には分からなくても私にはわかる。私が今日まで会っていたミハエルは確かに…)

は剣を握る手にじっとりと汗をかいているのが分かり、軽く柄を握り締めた。

≪気付かなかっただろう?そりゃそうだ…。お前と接していた時は、本物のミハエルだったんだからな!≫

「……本物…?」

の動揺した姿に、マンナーロは楽しくて仕方がないといった様子で話し始める。

≪ああ、そうさ。オレはミハエルの肉体を最初から奪うのではなく、まずは精神から奪い、徐々にこの体をのっとったってわけだ≫

「精神……」

≪オレが眠りについている間、ミハエルは何も知らぬまま普段のように過ごせるってわけだ。だがオレ様が目覚めると――――≫

「さっきのように体はバラバラ…?」

≪そうじゃない。あくまで精神に憑依してただけだ。だが10年もそうしていると、少しづつ奴とオレの全てが一体化してくる。肉体も、精神も、な。たった今"脱皮"してオレと奴が一つになったってわけさ!≫
「な…」

マンナーロはそう言い放つと、自らの肉体を指差した。

≪10年前のあの夜…お前に燃やされたこの体は灰になっちまった…。超速再生が間に合わずにな…≫

「…あらそう。9歳のガキにやられて人間の体に精神だけ逃げ込んだってわけ?」

≪黙れ!!オレは探した…あの夜、この街をさまよい…隠れ蓑になる"宿主"を…≫

「それが…ミハエル…?」

≪あの男はあの後すぐに駆けつけて来た。肉体的にも精神的にも強いのは分かった…それにお前と面識がある≫

「私に近づく為に…ミハエルを?」

剣を握るの手に力が入る。自分のせいでミハエルを犠牲にしたのなら、あまりにその罪は重い。

≪そうさ。すぐ傍でお前を見張れる…あの男の見たもの全てオレの記憶に入り込んでくるからな…。あの男は常に"を守る"事しか頭になかったよ…≫

「―――――ッ」

≪"を守る""愛しいイリーナの忘れ形見…を守る―――"≫

「……っっ?」

それを聞いて思わず息を呑む。気づいては、いた。
ミハエルの、母への密かな想いに…。二度と報われる事はない想いに。
気付いていたからこそ、マンナーロの放った彼の本心が胸を痛くさせた。

≪その強い思いがオレに力を与え、肉体を再生する事が出来たのさ。ついさっきな。お前も見ただろう?あの男の最期の姿を≫

「………!!」

≪完全に復活したオレの肉体が、あの男の全てを崩壊させた。本人はその最後の最後まで、自分が宿主にされてる事など気付かないまま死―――≫

「黙れ…黙れ!黙れっ!!」

激しい憎悪に突き動かされ、はマンナーロの前に一瞬で移動した。
そして物凄い早さで騎士剣の"イクシード"を噴射させ、マンナーロの足を斬りつける。

――――"イクシード"。
それは教団から支給されている剣"カリバーン"に備え付けられた、剣撃のスピードを速めるための推進剤噴射装置だ。
剣の柄がバイクのアクセルのような構造になっており、その柄を捻る事で装置が燃焼。
そして柄の根元に併設されたクラッチレバーを握る事で、推進剤が噴射される仕掛けになっている。
(その際、イクシードはバイクのエンジン音にも似た轟音を発する)

鋼の堅さを誇るマンナーロの肉体でも、イクシードで噴射させた剣と、"デビルトリガー"を引き、魔力の加わった炎の斬撃には敵わなかった。

≪…ぐぁぁっ!≫

右足を斬りおとされ、たまらずマンナーロが膝をつく。
だが同時に、マンナーロは鋭い爪を持った手を横払いし、その攻撃がの腕を掠めた。

「…くっ…!」

後ろに飛びのき回避したつもりが、マンナーロの爪に掠ったらしい。
握っていた剣、そして赤い血がボタボタと足元に落ちる。かろうじて繋がってはいるが、傷口は深い。
剣を握れるほどの力は入らなそうだった。

≪…オレの右足を切り落としてくれた礼に、右腕を切り落としたつもりだったんだがな…!≫

右腕を抑えるの姿に、マンナーロは愉快そうな笑い声を上げる。

≪お前の腕はゆっくり頂くとしようか…。いや、それともあの男のようにオレ様のコレクションになるか?≫

「…黙…れ!!お前みたいなハイエナ崩れは私が切り刻んでやるわ…」

≪無駄だ!何度切り刻まれてもオレ様の体は再生する!ほら見ろ!お前に切り落とされた足もこの通りだ!≫

マンナーロの言うとおり、確かに失ったはずの足が再生している。
は内心舌打ちをしながら、かろうじて動く左手で<イリーナ>を構えた。

≪そんな銃だけで何をするつもりだ?さっきは油断したが、もうその剣は握れまい。お前が悪魔の子だとしても何が出来る?もう終わりだ≫

マンナーロはゆっくりとその巨体を起こし、手負いのへと近づいてくる。
は歩いてくる悪魔に対し、何発か発砲したが、ただの弾ではこのマンナーロには通用しない。

(もう一度デビルトリガーを引ける…?いや、そうしなければ勝てない…)

は腕の痛みをこらえ、心を集中させる。悪魔の力は弱い心じゃコントロール出来ないのだ。
しかし、上級の悪魔に傷つけられた肉体は、その毒気にやられたのか、思うように動いてはくれない。

(…手…ううん、体全体が震える…。かろうじて骨は無事みたいだけど思ったより傷は深いみたいね…)

当然、にも再生能力というものはある。だがマンナーロのように超速再生するまでの力が、まだこの時のにはなかった。

≪どうした?血を垂れ流しすぎて貧血か?随分と顔色が悪いが…≫

「…う…るさい…!このくそ犬…っ」

≪……口の悪いガキだ…。お仕置きが必要だな…≫

マンナーロのプライドに触れたのか、鋭い眼光がを射抜く。
咄嗟に<イリーナ>を向け発砲したが、震える手では狙いが定まらず、周りの遺跡を砕いただけだった。

≪…最後の力も尽きたか?さあ……今度こそ、死ねえぇぇぇ!!!!≫

まさに狼の遠吠えのような咆哮を上げると、マンナーロがの方へものすごいスピードで走ってくる。

(――――ダメ、避けきれない!)

血の足りなくなった肉体は、の足を凍りつかせたまま、ピクリとも動かない。

(ごめんね…ミハエル…私のせいで…。ごめんね…ママ……仇を討てないかもしれない…)

目の前に迫る悪魔を真っすぐに見据えながら、は最後の力を振り絞って<イリーナ>のトリガーを引いた――――。









それは一瞬だった。にも何が起きたのか分からない。
ただ、目前に迫っていたマンナーロが、の頭へその鋭い爪を振りおろそうとした時――――その悪魔の肉体は字のごとく真っ二つに引き裂かれていた。

≪…ぐあぁっぁぁぁっ!!な…ん…何だ…これはぁ…!!!≫

さすが悪魔だ。体が二つに分かれても、まだ話す事が出来る。
その場にへたり込みながら、は呑気にもそんな事を考えていた。
マンナーロではないが、いったい何が起きたと言うのだろう。
今まさに己の体を引き裂かれると思った瞬間、攻撃してきた悪魔の体の方が見事に真っ二つになったのだ。
もちろん彼女は咄嗟に銃のトリガーを引いただけ。
仮に弾が当たったとしても魔力も込めていない弾で悪魔の体が二つに分かれるはずもない。
しかし周りに誰かがいる気配など、ない。
とりあえずは助かった、と安堵したいところだが、何が起きたのか分からない以上、も油断は出来なかった。

≪……ク…ックソォォッ!誰だ!オレ様の体を切りやがったのはっっ!!!≫

よほど頭に来たのか、マンナーロは未だ叫び続けている。地面に転がる二つの体。
いや、切り離された下半身の方はすでに塵と化して消滅している。
という事は、頭さえ無事なら、マンナーロは何度でも再生できる、ということだろうか。

(でも10年前、私が無意識で発した炎で全身を焼かれ肉体は滅んだと言っていた…。弱点はもしかして…)

何となく分かった気がして、は残りの力を振り絞り、銃を握る。
が、その時、今までしなかった何者かの気配を感じ、は咄嗟に銃を構えた。


「やれやれ…。そんな体になっても、まだ騒ぐか。下級の悪魔とは見苦しいものだ」

「―――――ッ」


静かな声がすぐ近くで聞こえ、はその方向へと銃を向ける。

「…誰?!」

暗闇からゆっくりと誰かが歩いてくる。そしてその姿が月明かりに照らされた時、は思わず息を呑んだ。



「―――――っスパーダ…?!」



輝くようなプラチナブロンド、そして空のように澄んだスカイブルーの鋭い瞳―――――その男は、静かな眼差しで、の事を見下ろした。






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