Night:3. Prohibited love
一晩中、何度も何度も、その登録名を見ては、幻なんじゃないかと思った。
――藍堂英
黒主学園・高等部、そこのナイト・クラスに通う彼と、こんな風に知り合えるなんて、自分でも信じられない、とは溜息をついた。
「まーだ起きてたの?」
その声にハッと顔を上げると、ルームメイトで親友の京子がバスルームから出てきた。
今日は朝から沢山動いて疲れたのか、「足が痛い」とボヤきながら、ベッドに寝転んでいる。
もそれなりに疲れてはいたが、明日の事を考えると、そんな疲れも吹っ飛んでしまう。
「明日デートなんでしょー?早く寝ないとお肌に悪いよ〜?」
「う、うん…」
からかうように言ってくる京子に、は頬を赤くしながらも慌ててベッドの中にもぐりこんだ。
携帯は目覚ましとして使う為、枕元へと置いておく。
そんなを眺めつつ、自分のベッドで風呂上りのストレッチをしながら、京子はハァっと溜息をついた。
「でもいいなぁ、は。藍堂センパイからデートに誘われるなんて…っていうか、やっぱ藍堂センパイって目当てだったのねー」
「そ、そんなんじゃないと思うけど…」
布団に横になっても頭が冴えているは、寝返りを打ちながら京子に視線を向けた。
京子は屈伸運動をしながらも、そんなを半目で睨む。自分は架院のメアドを聞けなかった事で、少し僻んでいるらしい。
「じゃあ何でデートに誘うのよ」
「き、気まぐれだよ、きっと…。藍堂センパイは人気あるって、京子も言ってたでしょ?明日は単に暇だったから――」
「そうかなぁー。気まぐれで、わざわざ授業の後に中等部の学園祭にまで来ないわよ。寝不足になるだけじゃない」
「…藍堂センパイは…優しいから…」
「もー。何ではそうなのよ。もう少し自信持ったら?あのナイト・クラスの王子様にデートに誘われたのよ〜?」
最初は僻んでいた京子も、あまりに弱気な親友を見て、呆れたように笑った。
でも正直、は京子が言うように自信なんか持てない。
浮かれてはいたものの、ちょっと冷静になって考えれば、あの藍堂が自分の事を本気で誘うわけがない、という思いが強くなってきた。
「とにかく!気まぐれでも何でも明日はデートするんだから頑張ってよね。それで藍堂センパイを本気にするくらいの気合い出しなさいよ」
「…ほ、本気って…。それに藍堂センパイに憧れてはいるけど、別にそれ以上の感情はないもん…」
「もぉー。まだそんなこと言ってンの?藍堂センパイの前でがどんな顔してるか教えてあげよっか?」
ストレッチを終えた京子はそんな事を言いながら、ベッドに腰をかけると、を見てニヤリと笑った。
どこか意味深な京子の言葉にドキっとしながらも、は「どんな顔よ……」と半分だけ布団で顔を隠す。
「リンゴみたいに真っ赤になって、ぽぉーっとしてる!」
いつになく楽しげな顔で笑う京子に、は慌てて顔を出した。
「し、してないもん」
「してたじゃない。藍堂センパイを見る目なんか、もう恋してる乙女って感じだったわよー?」
「な、そんな事ないっ」
京子のからかいなんていつもの事なのだが、何故か今日はもムキになって言い返す。
それには京子も苦笑いを浮かべた。
(そうやってムキになるトコが怪しいのに…って案外鈍感なのよねぇ)
「もう寝るから…!お休み」
「はいはい。お休み、」
ガバっと布団に潜ってしまったを見て、京子は軽く肩を竦めると、自分もベッドへ潜り込んだ。
「明日、頑張ってね」
電気を消す前に、もう一度だけそう言うと、「うん…」と、の小さな声が聞こえてきた。
「ふあぁぁ……」
特大の欠伸をしつつ、藍堂がバスルームから出てきた。眠気を取ろうとシャワーに入ったのだが、あまり効果はなかったようだ。
「大丈夫か?英」
「…あれぇ…暁も起きたの…?」
バスローブを羽織ながら、ミネラルウォーターを一気飲みすると、藍堂はベッドの上に起き上がっている架院を見た。
架院もまた欠伸を噛み殺しつつ、「そりゃあれだけ目覚まし鳴れば起きるだろ」と不満顔だ。
ようは"オマエがうるさくて起こされた"的な事を言いたいらしい。
その遠まわしな嫌味に苦笑しながらも、藍堂は鏡の前で身なりを整えると、クローゼットを開けて今日、着ていく服を選び出した。
「何着ようっかなぁ…。やっぱデートなんだしビシっとスーツ?」
「アホか…。女子中学生とデートするのにスーツ着てく奴いるか?そういうのは年上のお姉さまとデートする時に着るもんだ」
と、架院はどこかズレた事を言っている。
藍堂は目を細めながら、手に取ったスーツを元に戻すと、「僕は年増は好みじゃない」と他の服を選び始めた。
「つーか年増ってどんだけ上を連想してんだよ!…でもへぇ…英が年下好きだとは知らなかった。しかもロリコンだったとはね」
「僕はロリコンじゃない!っていうか僕らの年齢じゃ、人間の子は皆、年下だろ!」
「はいはい…そうだったな…」
ムキになる藍堂に笑いを噛み殺しつつ、架院は前髪をかきあげた。
全くからかい甲斐のあるイトコだ、と内心思いながら、再びベッドの中へと潜り込む。
「おい、暁もそろそろ起きろよ。間に合わないだろ?」
「……オレまで時間通りに行く必要ないだろーが。ちゃんと着いていくから心配すんな」
「とか言って、ずっと寝てる気じゃないだろうな。来なかったら承知しないぞ」
布団に潜ってゴロゴロしている架院を睨みながら、藍堂はバスローブを脱ぎ捨て、選んだ服に着替えていく。
架院は無言のまま布団から手だけを出して軽く振った。
それは「分かってる」という意思表示の他に、「サッサと行け」という意味合いだろう。
藍堂はそれを見てムッとしたものの、約束の時間まで残り10分なのを見て、急いでジャケットを羽織った。
「絶対追いかけて来いよ!僕一人でも平気だけど、二人で動けって枢さまの命令なんだからな!」
部屋を出る際、そう怒鳴ると、藍堂は思い切りドアを閉めた。
「ったく…暁はフットワーク重たいんだから」
いつもは自分も極度に重いくせに、そんな事をボヤきつつ、一気に階段を駆け下りた。
約束の時間まで残り9分。藍堂の足ならば待ち合わせ場所まですぐだ。
「あれ?藍堂」
階段を飛び降りたと同時に名前を呼ばれ、藍堂は慌てて振り返った。
「そんなに急いでどこ行くの?それもこんな時間に」
「あ…。一条……副寮長…」
サラサラの綺麗な金髪に、人懐っこい笑顔で歩いてくる、月の寮の副寮長、一条拓麻を見て、藍堂の顔が引きつった。
一条は寮長でもある玖蘭枢の親友であり、唯一枢の事を呼び捨てに出来る存在だ。
それゆえに藍堂は何となく、一条の事はいけ好かない、とちょっとだけ思っている。もちろん口に出しては言わないが。
「別に…この時間に外出しちゃいけないっていう校則はないだろ」
「そうだね。外出許可さえ取れば問題ないけど…藍堂が昼間に出かけるなんて珍しいからさ。あ、もしかしてデート?」
「……う…何でもいいじゃないですか。詮索しないで――」
「ああ、分かった♪枢に言われてたレベル:Eの後始末?」
「………分かってるなら聞かないで欲しいんですけど」
トボケている一条に、藍堂の目がぐっと細められる。それでも一条は気にしないといった笑顔で、
「まだ始末してなかったんだ☆」
「……………ッ」
ニッコリ天使の微笑を浮かべながら、サラリと嫌味を言う一条に、藍堂の額に怒りマークが浮かぶ。
「…今日で終わりだよ…」
「そっか!じゃあ頑張って!僕はこれから寝るんだー。読んでた漫画が面白くて、つい夜更かししちゃったし!」
「………そうですか。では僕はこれで。一条副寮長」
相変わらずニコニコ顔の一条に、バカ丁寧に頭を下げると、藍堂はすぐに寮を飛び出した。
ドアの閉まる瞬間、「頑張ってね〜♪」という能天気な声が聞こえたが、軽く舌打ちをしながら、待ち合わせ場所へと急ぐ。
「ったく…何で僕が一条の奴に嫌味を言われなくちゃならないんだっ!それもこれも、みぃーんな、あのレベル:Eの奴らのせいだっ」
藍堂はプリプリ怒りながら林の中の小道を突っ切ると、一旦、高等部の敷地の外へと出た。
敷地内からも中等部には行けるのだが、下手にデイ・クラスの生徒に見つかるとやっかいなのだ。
「う〜眩しい…やっぱサングラス持ってきて正解だったな…」
日の光に顔を顰めながら、藍堂はサングラスをかけると、中等部の門へと走って行く。
時計を見ると約束の時間まで残り2分。一条のせいでタイムロスだと内心文句を言いながら、藍堂は足を速めた。
「あ、いた…」
その時、門の前に一人の少女を見つけた。約束の時間よりも先に来ていたのか、落ち着かないような顔で辺りを見渡している。
その姿を見て、藍堂は自然と笑顔になった。
「ちゃん!」
少女の名前を呼びながら手を振る。それに気づいた少女は慌てたように顔を上げ、照れ臭そうに微笑んだ。
「ごめんね、待った?」
門まで走って行くと、は慌てて首を振った。
「私も今、来たトコです」
「そっか、なら良かった」
そう言いながらも、藍堂は内心苦笑いを零した。が約束の時間前からここに立っていたのは雰囲気で分かる。
そのの可愛い嘘に、藍堂も笑顔になった。
「じゃ、行こうか」
「は、はい…」
藍堂がそう言って歩き出すと、も緊張した面持ちで着いてきた。
今日はも中等部の制服ではなく、可愛らしいデニムのワンピースを着ている。
長い髪も軽くアップにしているせいで、細く白い首筋がよりいっそう綺麗に見えた。
(柔らかそう…)
やはりヴァンパイアの血は誤魔化せず、藍堂の目は自然とそこに向いてしまう。
その時、不意にが顔を上げたのを見て、藍堂は慌てて視線を反らした。
「藍堂センパイ……そのサングラス――」
「え?あ、これ?いや今日は天気もいいし眩しいかなぁと思ってさ」
の指摘にドキっとしつつ、笑顔で答える。は特に気にした様子もなく、「似合いますね」とニッコリ微笑んだ。
その素直な笑顔に、藍堂もつられて笑顔になる。
(やっぱ可愛い子だよな…。いい子っていうか…)
隣を歩く小柄な少女を眺めながら、内心ふと思う。これから自分がすることを思うと、少しだけ罪悪感を感じた。
でも、そうしないと、藍堂たちの追うレベル:Eは姿を現さないかもしれないのだ。
(クソ…あの野郎、雲隠れしやがって…)
藍堂はあの夜、捕まえられなかった事を少し後悔していた。
あの夜、とは藍堂とが出会った夜の事だ。
あの日は監視下から逃げ出したレベル:E達のリーダーが、を狙ってこの近くまで姿を現したのだが、あと一歩というとろこで逃げられてしまった。
そして次に姿を見せたのが、それこそと再会した、あの街中。
リーダーの気配を追って出向いたものの、他のレベル:Eがたちを襲い、結局はまた逃げられてしまった。
そこで藍堂と架院は気づいたのだ。レベル:Eのリーダーが現れる時、近くにという少女がいるという事を。
「あの子はアイツの好みって事かもしれないな…」
架院の言った何気ない一言に、藍堂も頷いた。
「アイツは他のレベル:E達をそそのかすくらい頭がいい。多分まだ理性全ては失っていないだろう。今のうちに捕まえないとやっかいな事になる」
架院にそう言われ、藍堂は仕方なく、という少女を囮にする事を考えたのだ。
それは少々荒っぽいやり方で、もちろん枢には報告していない。枢はそういった事を嫌うからだ。
でもこのまま見つけられなければ、狙われているも危ない。そこは心を鬼にして、デートを口実に学園の外に連れ出した。
何も気づいていないには申し訳ないと思いつつ、なるべくならバレないよう、レベル:Eのリーダーを始末したかった。
「いつもより人通りが少ないですね。平日だからかな」
街中に出ると、はそう言いながら辺りを見渡した。確かに普段に比べ、今日はそれほど混雑している様子はない。
「そうだね。僕は人ごみが苦手だから良かったよ。それより……どこか行きたいところはない?」
ふと足を止めての顔を覗きこむ。その動作ではドキっとしたように顔を上げた。
見れば頬が少し赤い。こうしたデートに慣れていないのは、その顔を見ただけでも分かる。
「えっと……私、こういうの初めてで…」
案の定、恥ずかしそうに呟くに、藍堂は笑いを噛み殺した。
(ホント可愛いな…真っ赤になっちゃって)
あまり身近にいないタイプだから余計にそう思う。藍堂は暫し考えたあげく、「じゃあ…」との頭を軽く撫でた。
「少しこの辺歩こうか。色んなお店もあるし…。あ、買い物もしたいから付き合ってくれる?」
「あ、はい」
藍堂の提案に、はホっとしたように微笑んだ。藍堂が決めてくれた事で安心したんだろう。さっきよりはリラックスしたようだ。
「じゃ、行こう」
そう言って促すと、は笑顔で頷き、藍堂の後からついてくる。その姿を見ていると、自然と顔が緩んでしまう自分に、藍堂は内心苦笑した。
何かコレじゃ目的忘れちゃいそうだよなぁ…。ちゃんホント可愛いし…。こんな風に三歩下がってついてくる子なんか身近にいないし。
それ以前にでしゃばって男の僕より先を行こうとする瑠佳とか、年下のクセにいつも舐めた態度の莉磨とか、ホント何で周りにはあんな女しかいないんだろう。
大人しそうな女でも、そこは貴族だから気位が高いの多いし、結局はこっちが気疲れしてしまう事が多かったもんな。
はぁ〜。どうしてヴァンパイアの女って、プライド高くて気が強いのばっかなんだろう…やだやだ。(※←自分の性格は棚にあげている)
「藍堂センパイ…?どうしたんですか?」
「えっ?」
小さく溜息をついた藍堂に気づき、がふと顔を上げた。その顔は何となく悲しそうだ。
「あ、いや…ちょっと考え事…」
と言いかけたが、が僅かに俯いたのを感じ、ドキっとした。
今、自分が溜息をついた事を変に誤解したのかもしれない、と慌てて笑顔を作る。
「…ってかちゃん見てたら、つくづくナイト・クラスの女子に嫌気がさしてたっていうか…」
「……え?」
藍堂のその言葉に、はひどく驚いたように顔を上げた。
そして訝しげな顔をすると、困ったように微笑む。
「…それ…逆じゃないですか…?」
「え、逆って……」
「私はてっきり藍堂センパイが私といてもつまらないって思ってるのかも…なんて――」
「まさか!ちゃんといると新鮮で楽しいよ」
慌てて首を振りながらそう言うと、の顔がかすかに赤くなる。そういうところも可愛い、と内心思いつつ、藍堂は苦笑いを零した。
そもそも身近にいる女が顔を赤くする時は、たいがい怒ってる時くらいだから余計にそう思うのだ。
(ああ、でも…瑠佳は枢さまの前だと、こんな顔してるか……え、って事はちゃんも、瑠佳が枢さまを想うように僕のこと……)
「藍堂センパイ…?」
「え?あ、ゴメン!とにかく…つまらないとか思ってないし気にしないで。ただ僕の知ってる女の子って皆、気が強くて、でしゃばりなのが多いから、ちゃん見てると新鮮なんだ」
黙ってしまった藍堂を見て首を捻るに、笑顔で説明すると、は驚いたように目を丸くした。それでもすぐに真っ赤になり、「気が強いのは私も同じですけど…」と苦笑する。
その言葉を聞いて、今度は藍堂が目を丸くする番だった。彼女が気が強いなら、瑠佳なんかは最強の部類に入るな、と。
「藍堂センパイの前だと緊張しちゃって…猫かぶってるだけですから」
「え、緊張なんかしなくていいよ。もっと普通にして?今日はデートなんだしさ」
「…はい」
藍堂の言葉に嬉しそうに微笑むは、やっぱり可愛らしかった。
「あ、じゃあ…どっか入る?」
再びデート再開という事で、二人はゆっくりと歩き出す。だが藍堂はふと立ち止まり振り返ると、の方へ自然に手を差し出した。
「え…?」
「手、繋ごうよ。デートなんだし」
「……えっ?手…」
「あ、イヤだった?」
心配そうに屈んでくる藍堂に、は慌てて首を振った。それを見てホっとしたように微笑むと、藍堂はもう一度の方へ手を差し出す。
その手を恐る恐る掴むと、藍堂は軽くその手を引っ張り、ぎゅっと握り締めた。
「……ッ」
「わ、小さいね、ちゃんの手!僕の手にすっぽり収まるよ」
真っ赤になっているには気づかず、藍堂は繋いだの手の小ささに感動している。
それでも手を繋いだまま歩き出すと、「お腹空いたねぇ」と言いながら、どこか入ろうか、と店を探し出した。
はそれに相槌を打つだけで精一杯だ。意識はどうしても繋がれた手に向いてしまう。
こんな風に男の人と手を繋いだ事は初めてで、は一気に顔が熱くなったのを感じた。
(どうしよう……手が固まっちゃって動かせない……それに汗かいちゃったらどうすれば…っ)
内心、焦りながらも、隣を歩く藍堂の横顔を見上げた。綺麗な青い瞳はサングラスで見えないが、今は逆にそれがホっとする。
手を繋ぎながらあの瞳で見つめられれば、それこそ体全体が固まってしまう。
藍堂は食事の出来る店を探しながらも、途中にある店に立ち寄ったりして楽しそうだ。
前から欲しかったという、服やCDなど、あれこれ買いながら、にも色々と話しかけてくる。
こんな風にしていると、やっとデートをしてるという実感が湧いてきて、は緊張しながらも、藍堂の話に耳を傾けた。
「ここ、結構美味しいんだ」
藍堂オススメの喫茶店はレトロな作りになっていて、中は結構広い。今はランチタイムも終わったせいで、客は数組しかいなかった。
ウエイトレスに案内された窓際の席を断ると、藍堂はその広い店の一番奥の席に座った。
「はぁ〜お腹空いた。何食べよっか」
そう言いながらメニューをへ差し出すと、藍堂はやっとサングラスを外し、ホっと息をついている。
今日初めて見た藍堂の瞳は、目の前で見ると本当に綺麗で、は赤くなった顔をメニューで隠した。
「僕、パンケーキセットにしよう。ちゃんは?」
「え?あ…じゃあ…同じものを…」
「了解♪――あ、じゃあパンケーキセット二つと…飲み物は…」
ウエイトレスに注文している藍堂を見ながら、は小さく息を吐き出した。
こうやって異性と喫茶店に来るのも初めてで、一緒に歩く以上に緊張してしまう。
二人で食事をするというのが、こんなに緊張するとは思ってもみなかった。
(良かった…サンドウィッチにしなくて…)
先ほどメニューを見ながら軽いもの、と思ったが、よく考えれば藍堂の前でサンドウィッチにかぶりつく事になる、と慌てて同じものに変更したのだ。
よく彼とデートの際、かぶりつく物は食べられない、という話を聞くが、もその気持ちが初めて分かった。
(藍堂センパイの前で大口なんか開けられないわよね……)
そう思いながら、チラっと藍堂を見る。サングラスを外したせいで、こうして向かい合っていると妙に照れ臭い。
(やっぱり…カッコいい…っていうか綺麗な顔立ちだなぁ……他の客も皆、彼を見てるし…さっきのウエイトレスだって顔が赤くなってたもんね)
そんな事を思いながら先に運ばれてきたコーラを口に運ぶ。(これも藍堂と同じものにした)
「ごめんね、疲れた?」
「え…?」
「いや、僕の買い物ばかり付き合ってもらっちゃったし…結構歩いただろ」
「そんな事…全然疲れてません」
「そう?なら良かったけど…。あ、もし足が痛くなったらすぐ言ってね。前みたいに送ってあげるから」
そう言って笑っている藍堂に、は顔が赤くなった。
初めて会った時、足を怪我したは藍堂に抱きかかえられて寮まで送ってもらったのだ。
「あ…あの時は本当にありがとう御座いました」
「そんなのいいよ。男として当たり前」
藍堂はそう言ってニッコリ微笑んだ。その笑顔にドキっとして視線を反らすと、ちょうどそこへ注文した料理が運ばれてきた。
「お待たせしました」
ウエイトレスの子はそう言いながらお皿をテーブルに置くと、チラチラと藍堂に視線を送っている。
そして徐に「あの…」と声をかけてきた。
「黒主学園でナイト・クラスの方ですよね」
「え?僕?」
「はい。目立ってるからすぐ分かりました〜!時々ここへも来てくれてますよね」
「ああ、うん。ここの料理、気に入ってるんだ」
ウエイトレスの質問に、笑顔で答えている藍堂を見て、は内心、やっぱりモテるんだ、と息をついた。
でも確かにこれだけ目立つ容姿なら、こんな事もしょっちゅうあるんだろう。
藍堂は慣れた様子で受け答えしながら、そつない笑顔を向けている。
だが不意にそのウエイトレスがの方へ視線を向けて、「もしかして彼女ですか?」と聞いている。それにはドキっとして顔を上げた。
藍堂は少し困ったようにへ視線を向けると、苦笑いしながら、
「っていうか…そこまで君に答えなくちゃダメかな」
「え、い、いえ……失礼しました。ごゆっくりどうぞ」
藍堂のハッキリした物言いに、ウエイトレスの子は慌てたように頭を下げると、そのまま厨房へと戻って行った。
それを見ながら溜息をつくと、藍堂はに優しい笑顔を見せる。
「ごめんね。さ、食べよっか。このパンケーキ美味しいよ?」
「あ…はい……」
"彼女"と聞かれ否定されなかった事にホっとしつつ、藍堂に促されるまま、お皿へ目を向ける。
が、そのパンケーキの間にたっぷり生クリームが塗られていて、はギョっとした。
「ん、美味しい」
藍堂は上手にナイフで切り分けながら、その甘ったるそうなパンケーキを美味しそうに食べている。
その何ともミスマッチな感じが、妙におかしかった。
「ん?何がおかいしの?」
クスクス笑っているを見て、ふと藍堂が首を傾げた。口元には僅かに生クリームがついている。
「ここ、ついてます」
「え?あ……」
はそっと手を伸ばし、そのクリームを指で拭ってあげた。その突然の行為に、藍堂はドキっとしたように頬を赤くする。
「あ、ありがとう……」
「いいえ…藍堂センパイって甘いの好きなんですね」
「ああ、うん、まあ……」
「何かイメージと合わない。見た感じ、ケーキとか苦手そうだし…」
「そう…かな…。毎年、聖ショコラトル・デーにもらったチョコとかも二日でぺロっと食べちゃうんだけど」
クスクス笑うに、藍堂も照れ臭そうに頭をかく。
「そうなんですか?コーヒーとかブラックで飲みそうなのに」
「うぇ…ブラックなんか苦くて飲めないよ。まあ、暁とかは確かにブラックで飲んでるけど…」
「ああ、架院センパイ、似合いそう。何か大人っぽいですもんね」
顔を顰めてる藍堂に微笑みながら、はパンケーキを美味しそうに頬張っている。
が、藍堂は少し不満そうな顔でそれを見ていた。
(何だろう、暁の事を誉められて何となーく嫌な気分なんだけど。っていうか僕だってブラックコーヒーくらい………無理か)(!)
「ちゃんは……大人の男が好きなの?暁みたいな…」
「え…?」
「あ、いや、だから……ブラックコーヒーが似合うような奴っていうか…そんなのが好みなのかなぁ…なんて……」
何でこんなこと聞いてるんだ?と自分で疑問に感じながら、藍堂はチラっとを見た。
はキョトンとした顔をしていたが、ふと笑顔になり、「私は甘党の人の方がいいかな」と微笑む。
その言葉に、藍堂は何故か頬が赤くなった。
「そう…なんだ」
「はい。だって私も甘いもの好きだし…付き合った人が甘いの苦手だったら、こうして一緒に食べられないですから。それも寂しいかなあ、なんて」
「………」
「あ…あの…これ美味しいですね、ホントに」
はハッとしたように顔を赤くすると、慌ててパンケーキを切り分け始めた。
藍堂もそうだね、と返しながら、何となくから視線を反らす。
(何だ…胸の奥がドキドキしてきた……っていうか何、こんな事で赤くなってんだ?僕は!)
もうクリームがつかないよう、上手にパンケーキを口に運びながらも、それが喉を通らない。その感覚に藍堂は戸惑いを覚えた。
少女が言った"こうして一緒に食べられないですから"という一言に、何となく喜んでいる自分にも驚く。
心のどこかで、また彼女とこうして一緒に出かけてくる事を望んでいるかのように、"じゃあ、また来ようか"なんて言葉を口にしそうになった。
ダメダメ…呑気にデートを楽しんでる場合じゃない!今日は奴を必ず仕留めなくちゃ、枢さまに合わせる顔がないし、
こんな事に気を取られてちゃ奴が傍に来ても――
そう思った時、ふと違和感を感じて、店内にある大きな窓へ視線を向けた。そこは通りに面していて、離れていても外の様子がよく分かる。
外が薄っすらと夕日に包まれる中、今も店の前を急ぎ足で歩く人たちが見えていて、藍堂は今感じた違和感が何なのかを確かめるように意識を集中した。
(―――いた!)
店の前を歩いていた人が一瞬途切れた時だった。通りの向こうから藍堂たちの方をジっと見ていた人影が、素早い動きで移動したのが見えた。
(間違いない…アイツだ!今、僕らの…いや、ちゃんの事を見ていたのは…)
「藍堂センパイ…?どうしたんですか?誰か知り合いでも…」
「え、あ、いや…何でもないよ」
黙って窓の外を見ている藍堂に気づき、が首を傾げたが、藍堂は慌てて笑顔を作って誤魔化した。
それでも意識は外へと向けておく。いつ、どこから襲われてもいいようにバリアーを張っておかなければならない。
(クソ…暁の奴、ちゃんと来てるんだろうな……こっちは囮なんだから上手くやってくれないと…)
そう思いながらも、藍堂は食べ終わったに気づき、「そろそろ出ようか」と、優しく微笑んだ。
「すみません、ご馳走になっちゃって…」
「いいよ。これくらい。デートは男が払うもんだろ?」
藍堂はそう言いながらの手を繋ぎ、ゆっくりと通りを歩いていく。
その際も近くにレベル:Eの気配がないかどうか、アンテナを張り巡らせていた。
は手を繋ぐのが恥ずかしいのか、さっきと同じように表情が硬い。それに気づいた藍堂は、ちょっと笑いながら、の顔を覗きこんだ。
「そう言えば…ちゃんの行きたいところ行ってなかったよね」
「え…?」
「まだ門限まで時間あるし……どこかない?見たいものとか、行きたいところとか」
藍堂の言葉に、は僅かに首を傾げた。そしてふと顔を通りの向こうに向けると、
「あ、じゃあ…あの店…見ていいですか?」
「ん?ああ…あれって…ペットショップ?」
「はい。私、動物好きなんです。でも寮じゃ飼えないから、時々あの店に寄って、犬とか猫とか触らせてもらうんです」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ…行ってみよっか」
藍堂はそう言うと、の手を引いてペットショップへと入っていく。その後にしっかり後ろを確認したが、今のところ怪しい気配はない。
(ってか、ついでに暁の気配もないんだけど…!ちゃんと来てんのかアイツ!)
内心、呑気なイトコに腹を立てながらも、店内にいる犬や猫を見て「可愛い」と連発しているに、笑みが零れる。
店の主人もの事を覚えているのか、「いつも来る子だね。抱っこしたいならしてもいいよ」と、笑顔で出てきた。
「いつもありがとう。オジサン。この子、抱っこしてもいい?」
「ああ、いいよ」
そう言うと主人はが見ていたスコティッシュホールドの仔猫を出してあげた。
「わぁ…可愛い!私、猫を飼うなら絶対、スコティッシュがいいなぁ」
そう言いながら仔猫に頬を寄せているに、藍堂は(君の方が可愛いと思うけど…)と心の中で思った。
はさっきの緊張していた表情ではなく、今は自然な笑顔がこぼれていて、仔猫の鼻先にちゅっとキスをしている。
その様子を見ていると、藍堂は何となく仔猫が憎たらしく思えてきた。
「見て、藍堂センパイ。可愛いでしょう」
「……うんまあ…っていうか…コイツ、何でこんなに顔が丸いの…?耳も変だし…障害持ってるとか――」
「やだ、違いますよ。この子はこういう品種なんです。こうやって耳が犬みたいに前に垂れてるのが特徴で」
「へぇ、そうなんだ…。ふーん、ホント…耳垂れてら…」
そう言って屈むと、藍堂は仔猫の頭を撫でようと手を伸ばした。
だがその瞬間、仔猫がフゥゥー!っと唸り声を上げ、前脚で藍堂の手の甲を思い切り引っかいた。
「いてっ!!」
「あ…藍堂センパイ大丈夫ですか?!」
それにはも慌てて仔猫をケースに戻そうとした。
だが興奮した仔猫はの腕からピョンと飛び跳ねると、素早い動きで店の隅へと逃げていく。
店の主人は慌てて追いかけると、仔猫を抱えてすぐにケースへと戻した。
「ふう…驚いた…大丈夫かい?君…」
「あ、いや僕は平気だけど……って、…腕から血が…」
傷口を舐めつつ、藍堂は後ろを振り返って驚いた。が顔を顰めて二の腕を押さえている。
それを見て店主も慌てたように歩いて来た。
「あちゃー。腕から逃げる時、爪を立てられたんだね…」
「はい…あ、でも大丈夫です。これくらい」
「いや、でも結構切れてるよ。仔猫とはいえ、爪はもう鋭いからね。カッターナイフと同じくらい、よく切れるんだ…。ああ、こっちに来なさい。手当てしてあげよう」
店の主人はそう言ってを店の奥へと連れて行く。この店は自宅でもあるらしい。
「そこの君もおいで」
「いえ、僕は大丈夫ですから、彼女をお願いします」
「そうかい?じゃあ、そこで待っててくれ」
そう言って主人も奥にある自室へと入って行った。それを見送り、藍堂は深々と息を吐くと、仔猫に引っかかれた傷口をぺロリと舐める。
確かに鋭く切れてはいるが、こんな傷くらい、ヴァンパイアの治癒能力を持ってすればすぐに治ってしまう。
「…ったく。本能で気づいたのか?お前…」
「フゥゥー!!!」
仔猫はケースに戻ってもなお、藍堂が近づくと、毛を逆立て威嚇してくる。それを藍堂は冷めた目で見ていた。
その瞳は先ほどの蒼とは違い、真っ赤に染まっている。
「外で会わなくて正解だな……僕ばかりか彼女にまで爪を立てやがって…」
そう呟きながら、仔猫のケースを除きこむ。
すると藍堂が触れた場所が一瞬で凍りつき、仔猫はビクっとしたように威嚇するのを止めると、端っこで丸まり、尻尾を隠して震えだした。
動物の本能で藍堂の正体に気づいたようだ。
「チッ…血臭が充満してる……」
店内に漂う、の血の香りに、藍堂はゴクリと喉を鳴らした。
普段、タブレットで誤魔化してはいるが、こうして強い血の臭いを嗅ぐと、理性が吹っ飛びそうになるのだ。
「僕が理性飛ばしてどうすんだよ……ったくっ」
イライラしながら舌打ちすると、藍堂は血の臭いを少しでも消そうと、店のドアを開けた。外の空気が流れ込み、多少は疼きも抑えられる。
その時だった。店の奥からガシャーンという派手な音と共に、「うわっ」という主人の声、そしての「きゃぁぁ」っという悲鳴が店内に響いた。
「ちゃん……!!」
藍堂は慌てて店の奥へと飛び込んだ。ところ狭しと置かれている動物達のケースにぶつかりながら、細い通路を行くと、そこにドアがある。
そのドアを思い切り開けて中へ飛び込んだ。
「…っな…っ」
そこは主人の住居スペースのようだった。ソファやテーブルといった家具類が並べられ、普通のリビングになっている。
だが今は窓のガラスが飛び散り、棚やソファがひっくり返っているという惨状だ。
何があったんだ、と藍堂は息を呑んだが、ふと床の上に倒れている主人を見つけて、すぐに駆け寄った。
「おい!何があったんだ!ちゃんはどこだ?」
「う…ぅ……あ…あんた…」
額から出血してはいるが、主人は僅かに意識があるらしい。
顔を顰めながら体を起こすと、リビングの割れた窓を指差し、震える声で「あそこから…」と呟いた。
「あそ…こから…知らない男…が飛び込んで…きて………」
「何だって?!それで?!彼女はどうしたんだ!」
「……つ…連れて行かれた……」
「…………ッ」
その話を聞いた瞬間、藍堂は主人の額に手を翳し、今あった記憶を消し去った。主人は意識を失ったように、その場へ倒れる。
それを見届け、藍堂はすぐに窓から外へと飛び出し、気配を探った。
そこは店の裏に辺り、狭い通路が伸びている。どっちへ逃げたか探ると、かすかにの血臭が漂ってきて、藍堂はすぐに走り出した。
「クソ…!僕とした事が……っ」
自分への怒り、そしてを連れ去ったであろう、ヴァンパイアへの怒りに、藍堂は唇を噛み締めた。
彼女は出血している……レベル:Eのヴァンパイアなら理性なんかないに等しいはず……急がなければ――
スピードを上げ、血の臭いを頼りに走って行く。その時、背後から「英!」という声と共に、架院が姿を現した。
「暁!何してたんだよ!」
「表通りを見張ってたんだよ!まさか裏から襲ってくるとは思わないさ」
そう言いながら横に並んだ架院を、藍堂は軽く睨むと、「ちゃんが危ない」と一言、言った。
架院もその言葉に頷き、スピードを上げる。
「奴は俺達が動き回ってたせいで最近は人を襲ってない。今は血に飢えてるはずだ」
「……早く助けないと……彼女が――」
「ああ。一滴残らず喰われるぞ」
架院はそう呟くと、「止まれ、英」と声をかけ、分かれ道の手前で足を止めた。
「……こっちか…?」
「間違いない…ちゃんの血の臭いがする…。前に味見したから僕には分かる」
「…よし。じゃあ行くぞ」
二人は右の通路を曲がり、更に狭くなった道を走って行く。
途中、小さな石段を上がったり下がったりとしながら、廃墟ビルの立ち並ぶ辺りまでやって来た。
「ここで奴も止まってる……」
「……クソ!どこだ!」
藍堂はイラついたように足元の瓦礫を蹴飛ばした。架院はそんな藍堂の肩を掴み、「落ち着いて血の臭いを探せ!」と怒鳴る。
「奴は今まで俺達の目を盗んで逃げ延びたくらいにしぶとい奴だ…。ここで逃したら、もうこの街へは戻ってこない」
「分かってるよ!!」
藍堂はそう怒鳴ると、の血の臭いに意識を集中させた。すでに日は落ちて、辺りは薄暗く、ヴァンパイアの本能が疼きだす。
昼間よりも数倍、神経が研ぎ澄まされるこの時間帯、藍堂たちは僅かな血臭も嗅ぎ分けられるのだ。
「…ここだ!」
更に奥に歩いて行くと、そこには壊れかけたビルが並んでいた。その中へとの血臭が続いている。
二人は慎重にドアを開けながら、真っ暗なビル内に足を踏み入れた。外よりもはるかに暗い室内も、ヴァンパイアの瞳の前では昼間と同じくらいによく見える。
「血の跡だ…」
架院が床に落ちていた血液を指で掬う。点々、と落ちているそれは、ビルの地下階段へと続いていた。
「地下か……袋のネズミだな」
「英、この先は二手に分かれよう…。お前が降りて奴を上にあぶりだしてくれ」
「…分かった。ヘマするなよ?」
「そっちこそ」
藍堂は架院のその言葉に目を細めると、そのまま静かに階段を下りていく。架院はその手前に立ちながら、辺りの気配を探ってみた。
「…やはり上にはいないか……それで逃げたつもりか…?レベル:Eめ…」
低い声でそう呟く架院の瞳も、今は真っ赤に染まり、暗闇に赤い光を放っていた。
その頃、はワケが分からぬまま、見知らぬ男に浚われ、真っ暗闇の中、ガタガタと震えていた。
目の前には荒い呼吸を繰り返す、目の血走った男。今にもに飛び掛ってきそうな気配だ。
「へへへ……ここまで来れば大丈夫だろう…」
「あ…あなた…誰……?」
「うへへへ……。いい臭いだなぁ……」
「きゃっ」
男の手が、の腕を掴み、飛び上がる。
いきなり廃墟ビルに連れ込まれ、はパニックに陥っていた。暗い室内で、男の目は異様に赤く光り、ハァハァと荒い息遣いが聞こえてくる。
「ここでゆっくりアンタを味わってやるよ……へへ…」
「や…っぁ」
腕を引っ張られ、男に抱き寄せられたは、激しく手を動かしながら抵抗した。
それでも男の力は強く、振りほどく事が出来ない。
「へへ…さっきから、いい臭いがするぜ……」
「キャァっ」
男はの服の袖を破くと、先ほど怪我を負った場所を、長い舌でベロリと舐め上げた。
その感触に全身、鳥肌が立つ。それと同時に、先日あった変質者の事を思い出し、は息を呑んだ。
(この人……あの時の変質者によく似てる…。顔とかじゃなく…そう…雰囲気が似てる…。どう言う事…?何で私が…)
この前の事は、ただ単に偶然、変質者と遭遇した、とそう思っていた。でも今日は違う。
デートで行った先のペットショップで襲われ浚われてきたのだ。そんな事、普通では考えられない。
しかも、この短い期間に、二度も変質者に襲われること事態が、すでに普通じゃないのだ。
「やめて…!離して…!!」
腕の傷口に吸い付き、舐め上げてくる男に恐怖を感じ、は思い切り暴れた。
だがそのまま床の上に押し倒され、強く背中を打ち付ける。その痛みに意識が遠のきかけた。
「へへ…無駄だぁ…お前は俺の獲物さ……ずっと…お前を狙ってた……」
「……私……を……?」
「お前の血は……凄く甘い香りがする……」
「……血……?」
朦朧とする中、男の言っている意味が分からず、は何とか起き上がろうとした。
だが強打したしたせいで、体を動かすだけで背中に激痛が走る。
「そろそろメインを頂くか……」
「や…だぁっ」
男の手がの襟元にかかり、慌ててそれを振り払おうとした。男はその両手を拘束すると、片手での襟元を掴み、思い切り引き裂く。
ビリビリ…っと布の裂ける音に、は思い切り叫んだ。すでに声は掠れ、本当に出ているのか分からない。
ただ服を裂かれ、これから自分が何をされるのか、それだけは想像できてしまう。
「へへ…透き通るような肌だな……柔らかそうだ…」
「やだぁぁぁっ」
男が圧し掛かってくるのを感じ、は必死に抵抗した。背中の痛みも堪え、何とか男を押しのけようと体を捩る。
だが至近距離で男の顔を見た時、その赤い瞳と、口元から見える鋭い牙に、思わず息を呑んだ。
「ひ…っ」
この男は普通じゃない。そう本能で感じ、は全身総毛だった。その瞬間、首筋をベロリと舐められ、ビクンと跳ねる。
ハァハァと荒い、男の息遣いが耳元で聞こえ、ゾっとした。
「たまんねぇ…」
「…やぁぁっんんっ」
すぐ近くでブツ…っという音が頭に響き、首筋に激しい痛み、そしてそれを感じた時、の中でフラッシュバックが起きる。
全てあの時と同じだ、とは気づいた。その時、ジュルル…っと何かを啜る音が聞こえて、は体が竦んだ。
「や…ぁぁっ!!藍堂センパイ………助けて――」
男が自分の血を首から啜っている、と気づいた時、脳裏に藍堂の優しい瞳を思い出し、は思い切り叫んでいた。
「―――ちゃん!!」
その時、部屋の中に声が響き、男はハッとしたようにから離れた。振り返ると、そこには赤い目のヴァンパイア――
「…早かったじゃねぇか…貴族のヴァンパイアさんよ…」
「貴様……っ」
「先に頂いたぜ…?思った通り……甘くて……俺好みの味だったなぁ……」
「―――ッ」
男の口から真っ赤な血が滴っているのを見て、藍堂は怒りで拳を振るわせた。
その瞬間、藍堂の足元が一瞬で氷に包まれ、男の足元まで一気に凍りつく。
それを見た男は、自分の足が動かない事に気づき、「何だこりゃぁ」と必死に抵抗した。
「彼女の前で殺すのはイヤだったけど……お前は許さない……」
「て、てめぇ……何しやがったぁっ」
「暁に任せるまでもなく……この藍堂英が冥土に送ってやる……」
「や、やめろ…!俺はまだレベル:Eに堕ちちゃいねぇ!!」
「黙れ………お前はもう……口を開くな…」
「うあぁぁっやめろーーーっ」
藍堂が手を翳すと、パキッパキッという音と共に、男の体が足元から凍りついていく。そして最後には顔全てを覆いつくした。
「……下種が…」
恐怖の表情で凍っている男を睨み、藍堂は鋭い手刀でそれを簡単に破壊した。その瞬間、崩れ落ちた氷の中の男は砂となって水に溶ける。
それを見届けた藍堂は、深く息を吐き出すと、急いで倒れているの方へ駆け寄った。
「ちゃん…!大丈夫――」
を抱き起こそうとして、藍堂の手が止まった。の衣服は裂かれ、白い肌が露出している。そして首筋には咬み傷があり、そこから僅かに出血していた。
「…ちゃん……」
「……あ…い…どうセンパイ…?」
抱き起こしたに意識があることにホっとして、藍堂は優しくを抱きしめた。かすかにその手が震えているのは気のせいじゃない。
「ゴメン……ゴメン、ちゃん…僕がついていながら、こんな……」
「…ど…うして…センパイが謝るの…?助けに…来てくれたのに……」
はかすかに微笑むと震える手で、そっと藍堂の頬に触れる。その手をぎゅっと握り締め、藍堂はの体を抱き起こした。
念のため、首の傷を見たが、思ってた以上に吸われてはいないようで、藍堂は心の底からホっとした。
(この分じゃ…貧血くらいで済みそうだ…)
そう思いながら、自分のジャケットを脱ぐと、の肩からかけてあげた。あの男に服を裂かれ、あまり若い男の目には良くない状態だ。
「あ、ありがと…う…」
「泣かないで…」
藍堂の行動で、自分の格好に気づき、の瞳に涙が浮かぶ。恥ずかしいのと、怖い気持ちが入り混じって、自分の体を抱きしめた。
「大丈夫…もう大丈夫だから……」
「…な…何なの…?あの人……この間の変質者と同じだった……わ、私の首に…」
「…し。もう大丈夫だから……」
「ま、まるで…吸血鬼みたいに…私の血…を啜ってた……いやっ」
「ちゃん…っ」
男に血を吸われた事を思い出したのか、は急に震えだした。その体を藍堂が強く抱きしめる。
――このままじゃ恐怖で彼女の神経がおかしくなってしまう。
「…大丈夫だよ…もうあの男はいない……」
「……藍堂…センパイ……?」
優しくの頭を撫でながら、強く抱きしめる。本来なら、ここまでの記憶を全て消さなければならない。は全てを見ているのだ。
前のように誤魔化すのは難しい気がした。
――なのに…躊躇ってしまうのは、あまりに楽しかった彼女との時間のせいだろうか。
「……ごめんね、ちゃん……僕がデートに誘ったせいで…」
彼女を囮にするべきじゃなかった、と藍堂は後悔していた。
目的は遂げても、どこかすっきりしない。むしろ、胸が痛んだ。
「……なん…で…センパイが謝るんですか…?」
ふとが顔を上げて、藍堂を見つめた。その瞳は涙で濡れているが、恐怖で歪んでいた先ほどとは少し違う。
「…だって…僕のせいなんだ…」
「…そんな事…私は思ってない…っ」
震える体で叫ぶに、藍堂は唇を噛み締めた。もう限界だ、記憶を消すしかない。
「……今…僕が怖い記憶を取り払ってあげるから……心配しないで…ちゃん」
「………っ」
藍堂の言葉に、がハッと息を呑む。そして僅かに体を離した。
「……藍堂センパイは……何者ですか……?」
「――――ッ」
の問いに、藍堂は思わず息を呑む。の目はどこか、悲しげに揺れている気がした。
「教えて……藍堂センパイは……何者なんですか……?」
暗い部屋の中に、の切なげな声が、小さく響いた。
「はあぁぁぁ?!!教えただとっっ?!!」
「うん♡」
驚愕に打ち震える架院を前に、藍堂はニッコリ微笑んだ。しかも語尾にハートマークまでつけて。
これには架院の額もピクっと動く。
「うん♡…じゃねぇよ、このバカ!何で教えたんだよ!つーか、ちゃんとその後に記憶消したんだろうな!!!」
「ううん♡」
「―――ッ?!!!」
またしてもハートマークつきで答えられ、架院は青ざめた顔のままフラフラとベッドに腰をかけた。
――今はすでに月の寮に帰ってきている。
「お、おま…消してない…って…嘘だろ…?」
「嘘じゃないよ。消してないものは消してない」
「……な……なんでだよっ!」
ケロッと言いのける藍堂に、架院もいい加減、イライラしてきた。
人間にレベル:Eを目撃された&成り行きで自分達の正体をバラしたにも関わらず、その記憶を消してない、という藍堂に、架院は軽い眩暈すら覚える。
「おい英!お前正気か?」
「正気だよ。彼女は大丈夫だって。誰にも言わないって約束してくれたし」
「はあ?!んなもん信じられるか!いいか?この学園の中で俺達の正体を知ってるのは、理事長とガーディアンの二人だけだぞっ?」
「知ってるよ」
「なのにお前は勝手に中等部の子を――」
「いいだろ?あの子に嘘はつけなかったんだよ…」
「どー言う意味だこらっ」
すねたように唇を尖らせる藍堂に、架院は思い切り怒鳴った後、やっぱりフラついて、ベッドに寝転がった。
頭に血が上がりすぎたせいかもしれない。
「はあ…ダメだ。俺も血が足りねぇ……」
「あ、僕、タブレット持ってるけど」
「いらねぇよ!!」
藍堂のトボケた態度に、架院はガバっと起き上がり、怒鳴った。
おかげで喉もヒリヒリと痛む。
が、深く息を吐き出し、何とか気持ちを静めると、目の前でシュンとしている藍堂を見た。
「で…?あの子に嘘はつけないって、どういう意味だよ、英」
架院のその問いに、ふと藍堂が顔を上げる。その表情は落ち込んでいるというよりも、どこか嬉しそうだった。
「怒らない?」
「は?」
「言っても怒らないかって聞いてんの」
「…はあ……またワケの分からない事を…」
「ムっ。じゃぁ言わない」
「言えよ!!」
架院も項垂れたと思えば、すぐに顔を上げて怒鳴る。何だか漫才コンビのようだ。
藍堂は若干、目を細めてはみたものの、このまま事情を話さなければ枢さまに言う、と架院に脅され、渋々ながらに口を開いた。
「だから……きになっちゃったんだ…ちゃんのこと…」
「あ?よく聞こえねー」
「ムッ……だからぁ!!好きになっちゃったんだ、ちゃんのことーー!!」
「―――はあ?!」
こんなに大声で告白する奴も早々いないだろう、というくらいのデカイ声、そしてその内容に、架院は本気で目が飛び出るかと思った(!)
「な…何言ってンだ?お前…」
「何って……ちゃんが好きって言ったんだよ」
「聞こえてるよ!!あんだけデカイ声で叫べばっ。そうじゃなくて…つか、あの子に惚れたって…そう言ったのか?」
「ほ、惚れてるって言われると…照れるけど、まあそんな感じ――」
「照れんな!!」
「ム…いちいち怒鳴るなよ、うるさいなぁ暁は……」
「怒鳴りたくもなるだろーが!仮にも人間の子に俺達の正体勝手にバラして、あげく好きになっちゃった、だあ?アホかっ」
普段クールな架院が、ここまで興奮するのは珍しい。藍堂も、内心(珍しいから携帯で動画でも録ろうかな)とふと思う。
でも実際そんな事をしたら、きっと思い切り殴られるだろう、とそこは我慢しておいた(!)
「仕方ないだろ…?すっごくいい子だったんだよ…。可愛いなぁとは思ってたけど、でも今日一日デートしてたらさ…何かホントに可愛くて…
あ、それに彼女、俺の口元についたクリームを自分の指で拭いてくれたんだよ?可愛いと思わない?
あれが瑠佳だったら拭いてくれるどころか、バカにして散々笑って、タオル投げてくるだけだよきっと。なのにちゃんはすぐ拭いてくれて…
しかも自分の指で♡
それに僕と同じ甘党だし、食べ物の好みが合うって大事だろ?あ、あとさ、手を繋いだだけで真っ赤になるんだよ?かーわいいと思わない?ねぇ暁――」
「だぁーーうるっさい!分かったよ!!」
何故を好きになったかという経緯を延々と説明され(半分ノロケに聞こえたが)架院は髪をかきむしりながらベッドに突っ伏した。
それには藍堂もキョトンとした顔だ。
「…はぁぁ。だからお前、さっき俺に先に帰れって言ったんだな…」
「うん。ちゃんに説明したかったし…っていうか僕があいつを殺したとこ、何気に見られてたから、ホントは記憶消そうと思ったんだけど…」
「出来なかったってわけか…」
「うん、まあ…。納得させるのに時間かかったけど…でも最後はきちんと理解してくれたよ」
「で…?彼女は寮に送ったのか」
「うん。でも格好が酷かったから新しい服、買ってあげてその後に。だから少しだけ門限過ぎちゃってさぁ…大丈夫かな。今頃怒られてるんじゃ――」
「おい、お前、どこ行く気だっ」
いきなり立ち上がってドアの方へ歩いていく藍堂を見て、架院は慌てて腕を掴んだ。
「いやちょっと心配だし、ちゃんの部屋の様子を見に行こうかと――」
「行かないでいい!つーか部屋の場所まで聞いたのかよ……」
「そりゃその辺は抜かりないさ」
そう言いながら嬉しそうにピースをする藍堂に、架院は深々と溜息をついた。
「先に帰れっていうから、ちゃんと後始末したかと思えば……ホントお前は驚かせてくれるよ…」
「仕方ないだろ?好きになっちゃったんだから。言っとくけど、彼女の事、皆に言ったらマジで怒るからな」
「…言わねーよ。言ったら俺までとばっちり受けて怒られんだろーが」
「よろしい。ま、人の恋路を邪魔する奴は馬に踏まれて死んじまえって言うしね」
「蹴られて、だ。バカ……つーかそれ前に俺が言った言葉だろ……って聞いてねーし!」
「あ、ちゃんからメールだ♪なになに…げ!やっぱり寮長に怒られたって!しかも罰として寮の庭の草むしりって!くそ〜僕が変わってあげたいよ…」
「………………楽しそうだな、英」
メールを読みながら、一人浮かれているイトコに、架院はウンザリした目を向けたのだった…。
「はあ……」
寮長にたっぷり怒られた後、部屋に戻ってきたは、言われた通り、すぐに藍堂へとメールを送った。
出来れば、そのまま眠ってしまいたかったが、相部屋の親友がそれを許してくれない。
「で?どうだったのよーデート!」
「どうって……た、楽しかったよ…?」
「きゃー♪そりゃそうよねぇ!だって門限過ぎたくらいだもんねぇ……ふふふふ…しかも何気に服が違うし」
「…こ、これは…着てった服が汚れちゃって……」
「きゃー!何して汚れたのよ、もう」
「な、変な勘違いしないでよ!何もないわよ?」
グリグリと肘で突付かれ、は真っ赤になった。京子はそんなを見ながら、「嘘〜キスくらいしたんでしょ?」とニヤニヤしている。
それには耳まで赤くなり、は慌てて布団に潜った。
「あ、ちょっと!その顔は図星?!っていうか、もう寝るのー?もっと聞かせてよー」
「…疲れたの…!お願いだから寝かせて」
「だから何して疲れたのよ!」
「…な……何もしてないってばっ」
そう言って背中を向けると、京子はつまんなーいと言いながら、自分のベッドに入ったようだ。
少しして部屋の電気が消えると、はホっと息を吐いた。
今も多少動揺はしている。今日、自分の身に起こった事も、何となく夢を見ているようだ。
藍堂センパイが……ヴァンパイア……ううん、ナイト・クラスの生徒、全員が……そう言ってた。
しかも理事長もそれを知っていて、彼らを受け入れてる。そして平和主義を貫こうとしている…
嘘…みたい……何だか頭の中がグチャグチャだ……私を襲った男も…本当にヴァンパイアだったんだ。
ふと、あの恐ろしい光景を思い出し、はぎゅっと目を瞑った。
あの時、藍堂が不思議な力を使って、あの男を倒したのを見た時は幻を見たんだと思っていた。
恐怖と、痛みで混乱してるんだと思った。
だけど……違った。藍堂センパイは………人間じゃなかった…
そんな突拍子もない事を、すぐに受け入れられたのは、どこか尋常ではない襲われ方をしたせいかもしれない。
―――僕が……怖い?
悲しげな目でそう呟いた藍堂の顔を思い出し、は胸が痛んだ。
思わず首を振ると、藍堂は少しホっとしたような顔で微笑んだ。
そして最後に、「すぐ怖い記憶を消してあげるから」と言ってくれた。でも、はそれを拒否した。
ナイト・クラスの秘密は絶対に口外しない。一生誰にも言わない、と約束し、だから記憶を消さないで欲しい、と藍堂に頼んだのだ。
忘れたく…なかった。
今日のデートのこと。初めて手をつないだこと…それらのもの全て、覚えていたかったから。
藍堂センパイは……そんな私の我がままを受け入れてくれた。それが……嬉しかった。
「私……藍堂センパイのこと……」
藍堂の事を考えると、胸の奥が今もドキドキする。決して同じ世界では生きられない相手だと知っても、心に芽生えた淡い想いは消えなかった。
「……好き……」
そう呟いただけで涙が溢れてくる。そっと指で唇に触れると、さっき、重ねた藍堂の唇の熱さが、まだ残ってるようだ。
首筋に触れれば、口付けられた傷口に甘い疼きが走る。その傷口から、藍堂の熱が伝わってきて、体中に彼への想いが溢れてくる気がした――
「ちゃん……僕が…怖い?」
何もかも話し終えた藍堂センパイは、不安げな顔で私を見ていた。
でも、こんな体験をしたのに、不思議と目の前の彼の事を怖い、とは感じなかった。
「怖くない…です」
「…ホントに?」
悲しげに瞳を揺らす藍堂センパイに、私は小さく頷いた。
とても信じられないような話を聞いて驚いたけど、最初に感じたのは、ただ悲しい、という思いだけ。
人間の自分と、ヴァンパイアの彼は、決して相容れない関係になる。
そんな大きな渦に飲まれれば、私の淡い想いも、その渦に飲まれて消えてしまう。
「誰にも…言いません…絶対に誰にも…」
だから記憶を消さないで欲しい、という私を、藍堂センパイは優しく抱きしめてくれた。
今日の事を忘れたくない、と言う私に、「僕も忘れたくない」と言ってくれた。
「……ッ」
「…藍堂センパイ……?」
不意に苦しげな息を吐き出す彼にドキっとして、顔を覗きこんだ。そしてその瞳が赤く光ってるのを見た瞬間、息を呑む。
「ど、どうしたんですか?具合悪いの…?」
「ち、がう……血の臭いが……」
「血の…臭い…?」
ハァ…っと深く息を吐いた藍堂センパイは、ズルズルと私の首筋に顔を埋めた。
「我慢……してたんだけど……これ以上、限界……僕から離れ…た方がいい…」
「…センパイ……」
「僕ら…ヴァンパイアには……この臭いは…麻薬と一緒なんだ…」
そう言って藍堂センパイは私の体を離した。その顔はいつもの優しい彼ではなく、血を吸う衝動を堪えているヴァンパイアそのものだった。
「……ちゃん…っ?」
かすかに震える体を抱きしめると、藍堂センパイは驚いたようだった。正直、さっきの男を思い出すと恐怖もある。
だけど今、私の腕の中にいる人は、さっきの男とは全く違う。
「…吸って…下さい…」
「………ッ?」
「私なら……大丈夫だから……」
「な…何言って……」
「苦しいんでしょう…?楽になるなら…そうして……」
そう言って藍堂センパイを見上げると、赤い瞳が悲しげに揺れていた。
「ダメだよ……僕は…」
「お願い……じゃなければ私をここに置いて行って下さい……怪我をしてる私といたら藍堂センパイ、もっと苦しくなっちゃう…」
「ちゃん……」
「お願い……します…」
そう言ってぎゅっと藍堂センパイを抱きしめると、彼の体がかすかに跳ねた。
呼吸するのも苦しそうで、そんな彼を見てると胸が痛くなる。
「…ハァ……ちゃ……ッ」
「―――ん、」
その時、首筋に熱い吐息がかかり、ヌルリと傷口を舐められビクンと体が跳ねた。
ピチャリ、ピチャリ、と血を舐める音が耳に響き、鼓動が一気に早くなる。
初めて感じる舌の柔らかい感触に何度も体を震わせながら、藍堂センパイの肩をぎゅっと掴んだ。
「あ…藍堂センパ…イ…ん、」
傷口から溢れる血を舐めながらも、藍堂センパイはそこへ噛み付こうとはしなかった。
そのまま傷口から首筋に彼の唇が移動していくのを感じ、ドキっとする。
僅かに視線を向けると、赤い瞳が私を見つめていた。
「………ちゃん…」
熱い吐息の中、名を呼ばれ、ビクンと跳ねる。藍堂センパイは首筋を愛撫するように舐めると、そのまま私の腰を抱き寄せた。
「あ…藍堂…センパイ…?」
先ほど男に破られたせいで、肌が露出しているのが恥ずかしく、僅かに身を捩った。
「…ん…」
熱い息、血を舐める音、それらに麻痺して体中が震えてしまう。
それでも藍堂センパイは首筋に顔を埋めたまま、私の血を舐め上げていく。
そしてそのまま唇を耳元へと滑らし、私の耳朶を軽く舐めた。その感触に思わず声が跳ねる。
「あ、藍堂センパ…」
彼の名を呟こうとした瞬間、頬を引き寄せられ、その瞬間、耳元にあった彼の唇が、頬、顎へと移動した。
そのまま最後に唇を軽く舐め上げられ、小さく声が漏れる。
藍堂センパイの口元は血で赤く染まり、薄く開いた口元からは、鋭い牙が見えている。
至近距離でそれが見えた時、私の唇と彼の唇が重なり合っていた。
「…ん…ぅ」
突然の行為に驚き、体が強張る。それでも腰を抱き寄せられ、逃げる事は敵わない。
重ねられた唇は血で濡れていて、かすかに血の味がする。
「…あ…いどう…センパ……イ…」
何度も重ねられる唇に、苦しくて身を捩る。その時、僅かに開いた隙間から、藍堂センパイの舌が滑り込んで来て、鼓動が大きく跳ねた。
「ん…、ふ…」
器用な舌先が動くたび、血を啜る時のような水音がして、体中の熱が逆流し始める。
藍堂センパイは私の舌を何度も吸い上げ、口内を愛撫していく。その行為に頭の後ろが痺れて、軽い眩暈がした。
「……っつ…」
僅かに彼の牙が唇に触れ、ビクっとした。
それに気づいたのか、藍堂センパイはハッとしたように唇を離すと、戸惑うような顔で私を見つめている。
「……僕…は…何を…」
「藍堂…センパ…イ…」
「ちゃん…っ?」
彼の唇から解放された瞬間、体中の力が抜けて、その場に崩れ落ちる。
その体を抱きとめながら、藍堂センパイは泣きそうな顔で私を見つめた。
「…ゴメン…あんな事するつもりじゃ……」
その言葉に何度も首を振ると、藍堂センパイは悲しそうな顔で私を強く抱きしめてくれた。
この瞬間、言葉は交わさなくても、お互いに同じ想いなんだと、何故か気づいて、嬉しい気持ちと一緒に、胸が痛くなった。
同じ想いでも、行き着く先に未来はなくて。
結ばれない運命だと、痛く、苦しい恋を、知った――