Night:5. With you at morning and night.?
雪もちらつき始めた12月。黒主学園は中等部、高等部ともに、長期休暇へと突入した。
毎年この時期は寮に住む生徒全員が帰省をする。夜間部の生徒も例外ではなく、それぞれが家や別荘へと帰っていく。
藍堂英や架院暁も同じで、今日は朝から荷造りをしていた。
明日は毎年恒例でもある、藍堂の家に、架院も行く予定となっていた……はずだった。
「…は?!帰らない?」
「うん」
驚いて、架院が顔を上げると、藍堂は荷造りをしながらも不満気な顔で頷いた。
ついさっきまでは、「今年は枢さまも、うちの別荘に誘ってみようかなぁ」なんて言っていたにも関わらず、急に帰らないと言い出した従兄弟に、架院も訝しげな顔をした。
「何だよそれ。どうしたんだ?急に」
「………」
架院の問いにも応えず、藍堂は黙々と荷造りをしている。
帰らないというわりにはダウンコートに手袋、マフラーと、かなり重装備なものを入れるのを見ながら、架院は溜息をついた。
「……じゃ、お前はどこに行く気だ。そんな荷物持って…」
「…雪山」
「はあ?」
突拍子もない答えが返ってきて、架院は思わず荷造りしていた手を止めた。
突然雪山に行くなどと言い出した藍堂の心理がサッパリ分からない。
「何言ってんだお前…雪山って…遭難しに行く気か?」
「何でわざわざ遭難しに行かなくちゃ行けないんだ!違うよ!」
いつもの架院のからかいに、藍堂は普段どおりムキになって言い返すと、むぅっと唇を尖らせた。
よく分からないが、相当機嫌が悪いようだ。
でもその原因が全く分からず、架院は深々と息を吐き出した。
普段から突拍子もない事を言ったり、したりはしている藍堂だが、今回は更にバージョンアップしている。
「じゃあ何しに行くんだよ…」
と呆れつつ尋ねると、藍堂は目を細めながら、振り向いた。
「雪山に行くならやることは一つだろ。スキーだよ」
「はあ?!」
スキー、と聞いて、さすがに架院も驚いた。どちらかと言えばインドア派の藍堂が、何故いきなりスキーなのか。
そう思っていると、藍堂が荷造りを終えて立ち上がった。
「さて、と。じゃあ、そう言う事だから僕は行くよ。別荘の使用人には連絡入れておくし暁は先に行ってていいからさ」
「…ああ……っておい!ちょっと待て!英!」
徐にコートを羽織り、出て行こうとする藍堂に、架院は見事な突っ込みを入れ、その腕を引っ張った。
理由も聞かされず、ハイそうですか、と見送るわけにはいかない。
何といっても架院はこの休暇中、藍堂の別荘に世話になる予定だったのだ。
なのに主は来ないだなんて、冗談じゃない。
「何だよ、暁!僕には時間が―――――」
「ふざけんな!いきなり帰省はしないでスキーに行くなんて、せめて理由を言え!」
「あれ、言わなかったっけ?」
「………ッ(ピキッ)」
藍堂のすっとぼけた答えに、珍しくクールな架院の額にも怒りマークが浮かぶ。
「ぜんっぜん!まるっきり!何も!聞いてねーよっっこのバカ!」
「むっ。僕はバカじゃない。この前提出した論文だって枢さまが"藍堂は凄いね"って誉めて下さって―――――」
「んなこと言ってんじゃねーよ!」
更にすっとぼけた正論が返って来て、架院は頭に血が上がった勢いで再び叫んだ。
自分の従兄弟ながら、この天然なところは、気に入っているところでもあるが真剣な話の時は少々疲れる。
「そんな事より、何でいきなりスキーなんだ。そこを教えろっつってんのっ」
「ああ…」
はぁはぁと息を乱している架院を見て、藍堂もやっと気づいたように荷物を置いた。
そしてコートのポケットから自分の携帯を出すと、何故か悲しげな顔で溜息をつく。
「…さっきちゃんからメールの返事が来たんだ…」
「あ?ああ…そういや来てたな」
先ほど藍堂は、休暇中は架院と別荘で過ごす旨を、彼女にメールで知らせていた。
そして荷造りを始めてすぐ携帯が鳴り、藍堂は「ちゃんからメールの返事だゥ」と喜んでいたのだ。
だが架院もその時、家に電話を入れていたので、彼女からのメールがどんな内容だったのかまでは知らない。
ただ思い返せば、藍堂の様子が、その直後おかしくなった気がする、と今更ながらに思い出した。
それまでは「休暇中はちゃんに会えなくて寂しい」だの、「彼女も誘いたかった」だのとグチグチ言っていたのが、急に黙々と荷造りを始めたのだ。
架院はやっと静かになった、とホっとしたくらいで、大して気にも留めていなかった。
それが、いきなり「僕、帰るのやめた」発言があり、驚いたのだ。
「…彼女からのメールがどうかしたのか?」
また原因は彼女か、と内心呆れつつ尋ねると、藍堂は泣きそうな顔をしながら、携帯メールを開いて見せた。
「見てよこれ!ちゃんはこの休暇中、泊りがけで近くのスキー場に行ってるんだ!」
「は?」
藍堂の発言にギョっとしつつ、目の前に突きつけられたディスプレイに視点をあわせる。
そこには可愛い顔文字と一緒に、からのメッセージがあった。
―――――――――――――
2010/12/23 12:03
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From ちゃん💓
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Subject Re;おはよ(*^_^*)
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休暇中は架院センパイと
別荘に行くんですね!
凄いなあゥ
ゆっくり羽伸ばして来て下さい(^^)
私は夕べから京子と、他に学園
祭で同じグループだった子たち
5人で●●スキー場に来てます。
たこ焼きの売り上げが思ったより
あったから一泊だった予定が
二泊になりました☆
でもスキーは下手だから練習で
終わっちゃいそうです(T_T)
藍堂センパイも風邪引かないよう
気をつけて、楽しい休暇を過ごし
て来て下さいね🥰
―――――――――――――
その文面を見て、架院はそう言う事か、と思い切り頭を項垂れた。
「…事情は分かった。でも何でお前まで行く必要がある?彼女はお前に休暇を楽しんで来いって言って―――」
「楽しめるはずないだろー!このグループの中に男もいるんだからさっ!」
「…男?」
一瞬で目を吊り上げる――ヴァンパイアモード――藍堂の迫力に、架院はぎょっとした。(目は赤くなり牙まで見えているのは気のせいじゃないはずだ)
「男って…」
「…僕、見たんだ。前に学園祭を見に行った時に。暁も一緒に行ったろ?」
そう言われて架院も思い出した。
あれは藍堂がに出逢ってすぐの頃。藍堂に朝から無理やり中等部の学園祭に連れて行かれたのだ。
「あ、ああ。そんな事もあったな…」
「あの時、ちゃんは同じグループ内の男に口説かれてたんだ。まあ僕が気づいてすぐに邪魔したけどさ…」
「…へぇ。ああ、で、このスキー旅行にその男も一緒だから心配ってわけか」
「当たり前だろ?彼女に好意を持ってる男と泊りがけなんて!心配で呑気に別荘なんか帰ってられないよ」
「………」
一人プリプリ怒っている藍堂を見て、架院は内心苦笑いを零した。―――それであんなに機嫌が悪かったのか。
突然の帰省中止発言もそれで納得がいった。まあ確かに驚いたが、今の藍堂は相当にハマっている。
他の男と泊りがけで旅行なんて知れば、不機嫌かつ心配になるのも当然の心理だ。
特にここ最近は会う暇もなく、メールや電話でしか話せていないと落ち込んでいたのも知っている。
架院はさて、どうしようか、と軽く息をついた。
「んで?英も今からこのスキー場に行くのか」
「もちろん。このスキー場はここから車で三時間くらいの場所にあるしね。今から出れば夕方までには着く」
「…そりゃそうだけど…ホテルの部屋取ったのか?」
「…………あ」
藍堂の表情を見て、架院は「やっぱり…」と苦笑いを浮かべた。この時期、予約もなく泊まれるはずなどない。
いきなり行っても、雪の中、野宿するハメになるだろう。とことん呑気な従兄弟に、架院は溜息をついた。
「仕方ないな…俺も行くよ」
「え?暁も?何で?」
「英だけじゃ心配だからだよ。それに俺だけお前の別荘に行ったって暇なだけだろが。――――――ちょっと待ってろ」
架院は携帯でどこかへ電話を駆け出した。
「…もしもし。ああ俺。うん。あのさ、ちょっと頼みがあるんだけど…ああ。俺と英、ちょっとスキーやりに行きたくてさ―――――」
その会話を聞きながら、藍堂はソワソワしながら時計を見た。今のこの瞬間も、はあの男とスキーをしているかもしれないのだ。そう考えると気が気じゃない。
しかし架院の言うとおり、泊まるところが確保できなければ、行っても無駄になる。藍堂は大人しく、架院が電話を終えるのを待っていた。
「……ああ、取れた?サンキュ。んじゃ、学園に戻る前に一度はそっちに顔出すから。じゃね」
架院はそこで電話を切ると軽く息をつき、後ろで不安そうに待っていた藍堂を見た。
「部屋、取れたぜ」
その一言に、藍堂の顔にもやっと笑顔が戻る。
「ホント?」
「ああ。オヤジの名前で頼んでもらったら、ビップ用の部屋が開いてるってさ」
「やった!さすが伯父さん!」
「…はあ。ったく…少しは計画性を持って行動しろよ」
「分かってるよ!そんな事より暁も早く用意しろよっ」
「はいはい…」
藍堂に急かされ、架院は溜息交じりで肩を竦める。
全くゲンキンなヤツだと呆れながら、途中だった荷造りを再開したのだった。
「―――きゃっ」
ボスっという鈍い音と共に、は思い切り顔を顰めた。そこに京子が笑いながらスキーで滑ってくる。
「大丈夫ー?!」
「だ、大丈夫じゃないわよ…思い切りお尻打っちゃった…」
立ち上がる力もなく、その場に寝転がると、京子は苦笑しながら、その横に座った。
ここは初心者コースで、今はまだそんなに人も多くない。
今日でスキー歴二回目となるに合わせて、スキー歴5年の京子が付き合ってあげているのだ。
「ごめんね、京子。上級者コースに行きたいでしょ」
「いいのよ。まだ夜もあるし。それに私がいなきゃ、久保が来ちゃうわよー?さっきだって"俺が教えようか"なんて言ってたくらいだし。そうなったら困るでしょ?」
「う、うん、まあ…」
京子の言葉にも苦笑いを浮かべる。
学園祭で英と顔を合わせてからは、久保も前のような強引なアプローチはしてこない。
それでも久保はまだの事を諦めてはいないらしく、ここへ来る事が決まってからは、さり気なく誘ってきたりするのだ。
と言うのも…
「でも久保もめげないわねー。藍堂センパイの事は内緒だから知らないのも分かるけど、何度断られても、まーだを狙ってるんだから」
ケラケラと笑う京子に、はかすかに頬が赤くなる。
「まあでも、と藍堂センパイって擦れ違いが多いし、会う時間も少ないんでしょ?だから久保もがフリーだと信じて誘ってくるんじゃないかな」
「…でもホントの事を言うわけにはいかないし…」
「だから何でよ〜。そりゃ藍堂センパイは高等部でも人気者で、との事がバレたら大変なのも分かるけどさあ」
「…い、いいの…。私は今のままで充分楽しいし…」
「けどこの先もずっと内緒ってわけにはいかなくない?私達も来年は高等部に上がるんだし。だってコソコソ会うの嫌でしょ?」
京子の言葉に、は小さく頷いた。も出来れば、たまに外でデートしたりもしてみたい、と思っている。
最初のデートの時は事情があって出来たことでも、今は藍堂の立場を考えるとそんな事は言えず―――二人の事は架院以外の仲間には秘密なのだ―――結局会うのは寮の中となってしまう。
でもそれは短い時間だったとしても少しでも2人で会えるから、とも少なからず満足はしていた。
(けど―――――暫くは藍堂センパイに会えないんだ…。休暇っていつ終わるんだっけ…)
ふと藍堂の事を思い出し寂しくなる。
先月からはお互いに何かと忙しかったりして、結局一度も会うことが出来ないまま、休暇に入ってしまったのだ。
出来ればその前に少しでいいから会いたかった、と思いながら、はやっと重たい腰を上げた。
「、まだ滑る?」
「うーん…そろそろホテルに戻ろうかな。ちょっと疲れちゃった」
「そう?じゃあ私は上で滑ってこようかな。もうすぐナイタ―始まるし」
「そうして。私はホテルのカフェでココアでも飲んでくる」
「OK。あ、一人で戻れる?」
「うん。スキー外していくから」
「じゃあ私、ちょっと行って来るね」
「うん。気をつけてね」
京子は軽く手を上げると、慣れた足取りでリフトの方へ滑っていく。
それを見送りながらは足からスキー板を外し、ホっと息をついた。
ここから数分歩いた所にスキー場のホテルがある。
そこまでスキーを担いで歩かなければならない。それが少しだけ億劫だ。
「よいしょっと…。疲れてると板まで重い…」
息を吐き出しつつ、他のスキー客の邪魔にならないよう、コースを外れ雪の中をゆっくりと歩き出す。
動く事で、先ほどから何度も転んで打った足やお尻が痛んだ。
「…っいたた…明日、筋肉痛になってそう…」
ブツブツ言いながら、新雪に足を取られないよう、ロッジに向かって歩いていく。
積もったばかりの雪の上を歩くには、かなりの労力がいった。
疲労の溜まった足に、スキー靴はかなり重たく感じるのだ。その時、よいしょ、とスキーを抱えなおした瞬間、
「…わっ」
深いところに足がはまり、はそのまま前のめりに転んでしまった。
スキーを投げ出し慌てて手をついたはいいが、それも雪の深さに埋まってしまう。
おかげで顔まで雪に埋まり、その名の通り雪だるまみたいになってしまった。
「…っ冷た〜い…」
しかも痛い、と顔を顰めながら、何とか起き上がろうとした。だが最初に埋もれた足のせいで、なかなか立ち上がれない。
「はあ…私ってどうして、こうドジなんだろ…」
自分のドン臭さに呆れながら髪や身体についた雪をはらう。
その時、上から滑り降りてきた人物が、不意にの真横で綺麗に停止した。
「…大丈夫っ?さん!」
「……っ久保くん…?!」
その声に驚いて顔を上げると、目の前に久保が慌てたようにしゃがみこんだ。
「怪我は?」
「だ、大丈夫。ちょっと転んだだけだから…」
「じゃ、立てる?」
「あ、うん…」
そう言ってはみたものの、足が埋まっていて一人じゃ立てそうにない。それを見た久保が手を差し出してきた。
「掴まって。僕が引っ張るから」
「あ…ありがとう…」
一瞬躊躇ったが、仕方なく久保の手に掴まった。久保は嬉しそうにの手を両手で掴むと、一気に引っ張り上げる。
すると埋もれていた足も抜け、はやっと自由になった。
「あ、ありがとう…」
「いや、ちょうど降りてきて良かったよ。今、野沢さんに会ったら、さんが一人でロッジに戻るって聞いてさ」
「あ、そうだったんだ…」
内心、京子のヤツ余計な事を、と思ったが、助けてもらったのは事実だし、と笑顔を見せる。
久保は案の定、「僕もロッジで休もうかな」と自分のスキー板を外してしまった。
出来れば一人でいたかったが、こうなるとそうも言えない。
しかも久保はが何か言う前に、サッサと彼女の板を担ぎ、「コレは僕が運ぶよ」と歩いて行ってしまう。
仕方なくもその後からついて行った。
「ご、ごめんね。せっかく滑ってたのに…」
「こんな事でお礼なんかいいよ。ああ、部屋まで運んであげるから」
「え?あ、そこまでしてもらわなくても―――――」
部屋までついてこられるのはまずいと、も慌てて久保のウエアを引っ張った。
しかし久保は「遠慮すんなって」と言いながら、軽い足取りでホテルの中へと入って行く。
こういう強引な性格は相変わらずで、は小さく溜息をついた。
(藍堂センパイからもメールの返事こないし…)
こっそり携帯を確認しがら、着信がない事で更に落ち込む。
(まだ別荘についてないのかなあ…)
朝、メールを送ってからは何の音沙汰もなく、は少し憂鬱な気持ちのまま携帯をしまった。
「板、ここに置いておいていい?」
「え?あ…うん」
部屋に着くと、久保は当然のように部屋の中まで入って来た。
は曖昧に応えながら、どうやってこの場を切り抜けようかと考えを巡らせる。
京子達は少なくとも、あと一時間は滑っているだろう。
皆が帰って来るまでの時間、久保と2人きり、という状況は何となく気まずい。
どうしようかと考えている時、久保が笑顔で振り向いた。
「そうだ。ねえ、皆が戻るまでその辺2人で散歩でもしない?」
「…え?」
「このホテルの裏手に上がると夜景スポットがあるって、さっきフロントの人が教えてくれたんだ。良かったら見に行かないかなと思ってさ」
「あ…うん…」
久保の提案には少し考えたが、部屋の中で2人きりでいるよりは散歩をしてた方がいい。
そう思いなおし、は久保と一緒に部屋を出た。
「ちょうどナイターが始まったから上から見れば凄く綺麗だと思うよ」
すでに5時を回っていて外もだいぶ暗くなってきている。スキー場はライトアップされ、滑り降りて来る人達を照らしていた。
「きっと皆は今夜ヘトヘトだろうね。昼に来てからずっと滑りっぱなしだし」
ホテル裏に続く雪道を歩きながら久保が笑う。それに相槌を打ちながら、はもう一度携帯を確認した。
しかし何度見ても藍堂からのメールはない。
(最近は一日に少なくても3回はメール来てたのにな…。やっぱり学園を離れると自分達の世界の方が良くなっちゃうのかな…)
ふと、そんな事を思い、気が沈む。
普段なるべく考えないようにはしているが、自分と藍堂達の住む世界が違う事を忘れているわけじゃない。
人間、不安な時は悪い方へと考えてしまいがちだが、今のもまた、心に隠していた不安を感じ、溜息をついた。
「どうしたの?さん」
「え?あ…何でもない。それより…下の景色が凄く綺麗ね」
少し急な坂を10分ほど上がって行くだけで、下の街並みが見渡せる場所に出て、は何とか笑顔を作った。
久保もまた、下に広がる景色を見て、「ホントだ」と楽しげに微笑む。
「今日はまだ誰も来てないみたいだな。―――――ああ、ちゃんとベンチもある」
久保は夜景が見える方向に置かれたベンチを見つけ、「あそこに座ろうぜ」との腕を引っ張った。
いきなり手を繋がれたとしては躊躇ったが振り払う事も出来ず、促されるまま隣へ座る。
「うわ、この下、落ちたら上がって来れなさそうだし気をつけて」
ベンチの前は急な斜面となっていたが柵などは設置されていない。
久保はそう言いながらも嬉しそうに目の前の景色を眺めた。
「ここ特等席だな。ホテルの人が用意したんだろうけど」
「…うん。そうだね」
ちょうど雪も舞い始め、前方に見える夜景が彩られていく。それを眺めながらは白い息を吐き出した。
(どうせだったら藍堂センパイと見たかったな…)
更に藍堂との距離を感じ、胸の奥がかすかに痛む。
今頃、架院や他の仲間達と休暇を過ごしているのかと思うと、何とも空しい気持ちになって来た。
(ダメだな、私…。ちょっとメールの返信がないだけで、こんなに落ち込むなんて…)
藍堂の事情を考えれば我がままなど言えるはずもなく。
自分の事で余計な心配をかけるのも嫌だから、と今日まで色んな事を我慢してきた。
しかし、こんなに離れていると、普段抑えていた思いがどんどん溢れて来てしまう。
(藍堂センパイと毎日会いたい。誰よりも藍堂センパイの一番近くにいる人間になりたい…)
そう思いながら自分がこんなにも独占欲の強い女だったのか、とは内心苦笑を零した。
(誰かを好きになると…自分の知らない自分がどんどん溢れて来るような気がする…。誰でもそうなのかな…)
子供の頃はクラスに絶対一人はいるような、スポーツ万能で明るい男の子が好きで、友達と一緒になって騒いでいるだけでも充分楽しかった。
でも今は違う。大人ではないが子供でもない。
昔のように、ただ遠くから眺めているだけで満足するような簡単な想いではないのだ。
声を聞けば会いたくなる。会ってしまえば触れたくなる。触れられれば、また更に欲が出て、ずっと一緒にいたくなってしまう。
逆に連絡さえなければ、この世の終わりみたいな気分になって、今どこにいるのか、とか誰と一緒なのか、と考えたくない事まで頭に浮かんでくる。
そして想像の中で藍堂の傍にいる女の子に嫉妬までしてしまうのだ。
藍堂を好きになって、自分の中にも、こんなに激しい感情があった事を、は初めて知った。
(どんなに好きでも…終わりは見えてるのに…)
そんな事まで考えて、は小さな溜息をつく。
その時…ふと久保がを見て、「あのさ…」と口を開いた。
「え…?」
「ちょっと聞いていい?」
「う、うん…」
久保の改まった態度に、は内心ドキっとしながらも笑顔で頷く。
久保は軽く息を吐くと、前方に見える景色に目を向けた。
「前に…学園祭に来てた高等部の人とは…どうなってるのかな、と思って。藍堂…センパイだっけ」
「……っえ?」
突然思いだしたかのように藍堂の名を出され、は僅かに鼓動が跳ねた。
これまで改めて訊かれた事がなかった事もあり、少しだけ動揺が出てしまったのかもしれない。
「ど…どうって…何が…?」
なるべく普通に返したつもりが、いつもより声が上ずってしまう。
久保はそんなを見て苦笑すると、
「ほら、あの時デートするって言ってたろ。あの後、どうなったのかなって気になってたんだ」
「…べ、別にあれはセンパイの用事に付き合っただけだし…」
「じゃあ別に付き合ってるとか、そういった関係じゃ――――――」
「あ、あるわけないじゃない…っ。高等部の、しかもナイトクラスのセンパイだよ?あんなに人気がある人なのに私となんて…。だ、だいたい何でそんな事、聞くの?」
どう誤魔化そうかと焦ったせいで、つい早口になる。
久保は苦笑しながらも不意に、「そりゃ気になるよ」と一言、言うと、真面目な顔でを見つめた。
「…分かってると思うけど…僕はさんの事、好きなんだ」
「………っ」
今まで避けて来た話題だったのに、あっさりなされた久保の告白に、はドキっとしたように顔を上げる。
その瞬間、腕を強く引かれ、気付けば久保に抱きしめられていた。
「ちょ、ちょっと久保くん――――――」
「…好きだよ。さん…」
「や…っ」
強く抱きしめて来る久保に、は身を捩って逃げようとした。
しかし久保の力は強く、立ち上がろうとした体を引きもどされそうになる。
「ずっと好きだったんだ―――――――」
「やめ……っ…きゃ…っ」
「さん…っ?」
その時、腕を強く掴まれたはバランスを崩し、雪に足を取られた。
しかも運悪く、緩い斜面の近くにいたせいで足場が崩れ体がゆっくりと傾いて行く。
それを助けようとした久保と一緒に目の前の斜面を転げ落ちて行った。
「きゃぁぁ…っ」
思ったよりも急な斜面だったようだ。
何度も転がりながら半分ほど落ちた2人は、雪が深い辺りに体が埋まったところで、やっと停止した。
「…っつ…」
「だ…大丈夫?さん…っ」
を守るように抱きしめながら転げた久保は、雪まみれになりながらもの顔を覗き込む。
思った以上に雪が深かった為、体の痛みは感じられなかったが、落ちて行く途中、枯れ木に顔を掠めたらしい。
「だ、大丈夫…」
は頬の痛みに顔をしかめながらも、何とか頷いた。
「…さん、どこか怪我でも――――――?」
そう言われ目を開けた瞬間、至近距離に久保の顔があり、ドキっとする。
気付けば久保がに覆いかぶさるような格好だったのだ。
「だ…大丈夫だから…あの…」
柔らかい雪の中に体が埋まって上手く起き上がれない。
今の体勢では気まずいと思ったは早くどけて、と、そう言おうとした。
が、その時―――――久保の手がの頬に触れ、僅かに鼓動が跳ねる。
「…あ、あの…」
「ここ…血が滲んでる…」
「……っ」
そっと指で傷を撫でられ、はビクリと首を窄めた。
「く…久保くん…。あ、あの…早く起きよ――――――?」
そう言いかけた時、久保がゆっくりと顔を近づけて来るのが見えては慌てて顔をそむけると、手で久保の肩を押した。
「…さん…好きなんだ…っ」
「…やっ…」
強引に頬を固定され、は思い切り首を振って抵抗しようとしたが、久保の体重が乗せられているこの体勢では抗う事も出来ない。
動けば動くほど雪に埋まって行くのを背中に感じ、は強く目を瞑った。
「…ぃや――――――」
覆いかぶさってくる久保の吐息を唇に感じ、は心の中で藍堂の名前を必死に叫んだ――――――
「…ったく!何でこんなに道が混んでんだよっ」
先ほどからノロノロとしか進まない車の列を見ながら、藍堂は我慢も限界とばかりに叫んだ。
それを隣で寝ていた架院が呆れたように見ては溜息をついている。
昼には出発して三時間後には着くはずが、渋滞に巻き込まれたせいで四時間半以上も経っていた。
外は次第に太陽が沈み始め、今はチラチラと雪が舞い始めている。
一刻も早くスキー場へ行きたい藍堂にとっては最悪の状況だ。
「これ動くの待ってたら朝になっちまうー!」
「…ったく。少しは落ちつけよ」
「落ちつけない!今頃、ちゃんが僕以外の男どもと仲良くスキーしてるのかと思うと全然っ落ちつかないっ!」
藍堂は日も落ちたせいで先ほどよりは元気になったようだ。
今はスモークを張った窓にべったり張り付き、車の進み具合を見ている。
そのイライラした後ろ姿を見て、架院は小さく息を吐いた。
「そんなに心配なら電話の一つでもして、ホテルで大人しく待ってろって言えば?」
欠伸を噛み殺し、架院が笑う。しかし藍堂は怖い顔で振り返ると、ジトっとした目で架院を睨んだ。
「そんな事したら驚くちゃんを見る楽しみがなくなるじゃないかっ」
「…はあ?何が楽しいんだよ、それの」
「楽しいだろ?ちゃんが僕が来たのを見て驚く。その後に超〜嬉しそうな顔をするんだ。絶対可愛いよ」
「……なるほどねえ…。(オレ的にはそんなお前が可愛いけどゥ)」
一人、その時の事を想像しながらウキウキしている藍堂に、架院は苦笑いを浮かべた。
―――――まあ確かにあの子なら英の想像通りのリアクションをするだろう。その時に英もまた嬉しそうな顔をする。
そんな従兄弟の顔を見るのも悪くない、と架院は思いながら、ふと窓の外を眺めた。
「とりあえず…その彼女の可愛い顔も、もうすぐ見られそうだぜ」
「え?」
その言葉に首を傾げる藍堂に、架院は窓の外をひょいっと指差した。
「あの明かりが目的地だ。もうあと30分ほどで着くだろ」
「マジで?」
藍堂は反対側の窓を開け、身を乗り出すと、遠くに見えるナイタ―の明かりに、思わず笑顔になった。
「やった〜!!やーっと着いたぁ!
「ま、待ちきれないなら車おりて先に行っててもいいけど――――――」
と、そこで架院は言葉を切った。藍堂が外を眺めたまま金縛りにでもあったかのように動かないからだ。
「…どうした?英…。もうすぐ彼女に会えるのが嬉しくて放心してんのか?」
「……いがする…」
「え?」
架院の言葉も耳に入らないといった様子で、藍堂が何かを呟いた。その顔は強張り、どこか青ざめて見える。
「英?お前、どうし―――――――」
「ちゃんの…血の匂いがするんだ…」
「は?」
そう言って振り向いた藍堂の顔には先ほどの明るい表情は見られない。
架院は神経を集中させて、血の気配を探った。
すると、かすかだが風に乗って甘い香りが漂ってくる。といっても、それはごく微量のものだ。
だがの血を口にした事がある藍堂には敏感に嗅ぎ分けられるのだろう。
「どうしよう…。まさか彼女が怪我してるんじゃ――――――」
「まあ、スキーが苦手だって言ってたんだろ?だったら、あり得ない話じゃ…って、英?!おま、本気で歩いて行く気か?!」
突然、止まったままの車から下りた藍堂に、架院が慌てて声をかける。藍堂は動揺した顔で車を覗き込むと、
「すぐそこだし、このまま車で向かうより僕の足の方が早いだろっ?暁は後から来て!」
「あ、おい――――――」
止める間もなく藍堂が走って行く。車から顔を出し、それを見送っていた架院は若干、半目になりつつ頭を掻いた。
「ったく、コートも着ないまま行きやがって…」
苦笑交じりに言いながらドアを閉めると、架院はシートに凭れかかった。と言っても藍堂にとって寒さはそれほど問題ではない。
ただ場所柄、周りからは変な目で見られるだろうな、と架院は溜息をついた。
「…あいつ、本当に惚れてんだな…」
これまで藍堂は誰一人として女に固執した事はなかった。そう、例え相手が同じヴァンパイアでも。
なのに今は人間の少女の事で一喜一憂している。それは架院にとっても予想外の事だった。
時が過ぎれば飽きるだろう、と漠然と思っていたがそれは間違いだったのかもしれない。
「これ以上…隠し通すのは難しいって分かってんのか?あいつ…」
未だに枢や他の仲間には人間の少女との恋は内緒にしている。
しかし藍堂の様子がおかしい事は皆も気づいているようだ。
(瑠佳もちょいちょい俺に探りいれてきやがるし…。この前は枢さまも最近の英を見て何かいい事あった?なんて聞いて来たからな…)
もしとの事が枢に知れたら…と思うと、架院はゾっとした。
そうなれば藍堂一人の問題ではなく、架院も当然の事ながら何かしらの罰を受けるだろう。
「はあ…。どうせなら同族と恋愛しろよな…。英のバカめ…」
開けっ放しの窓から外を眺めると、架院は重苦しい溜息をつく。
スキー場へ近づけば近づくほど、甘い血の匂いは徐々に強くなっていく気がした。
その頃、藍堂はの血の匂いだけを頼りに、必死で走っていた。
車道を走って移動するのは目立つので、公道から少し脇にそれ、道のない雪の中を進んでいく。
少しして下半身が雪まみれになっていると気付いた時、自分がコートを着ていない事を思いだした。
「ったく…僕とした事が…。こんな姿、瑠佳や支葵に見られたら何て言われるか…」
目の前にやっと目的地が見えた事でホッとしながらも、雪を掻きわけホテル前の道へと出る。
の血の匂いはこの裏手から流れて来る。今はとにかく彼女の事が心配だった。
「でも何でスキー場じゃないんだ…?この裏は山道しかないってのに…」
坂を駆け上がりながら、藍堂は少し嫌な予感がした。
次第に甘い匂いも濃くなっていく。と言っても量にすれば少量だ。の血じゃなければ、普段なら気にもとめない程度。
(大した出血じゃなさそうだけど…もしかしたら遭難とかしてるんじゃ…)
てっきり滑っている最中に転んで怪我をしたのだと思っていた。
しかし匂いが漂っている場所が場所なだけに、藍堂も本気で不安になってきた。
「――――――っ?」
ちょうど坂の上に到着したその時、近くで人の気配がして、藍堂は小さく息を呑んだ。
「今の…ちゃんの声…?」
ヴァンパイアは聴覚も人間のそれより優れている。
耳に届いた今の息遣いにただならぬものを感じ、藍堂は自然と走り出していた。
(分かる…すぐ近くに彼女はいる…!)
坂の上は少しだけ開けた場所になっている。なのに辺りを見渡してもの姿はない。
上がって来た道とは逆方向の方角は何もなく、ただ広い空間だけが広がっている。
遠くにはスキー場のライトや町の明かりがキラキラと光って見えていて、その場所にはここを訪れる人達の為に設置されたのか、小さなベンチが数個並んでいた。
「ここは…夜景スポットか…」
そしてさっき感じた気配は"そっち"の方角だった事に藍堂は気付いた。
「―――――ちゃん…!」
急斜面がある方に走り、下を覗いてみれば、誰かがこの斜面を転げ落ちたのだろう。その痕跡を見れば容易に想像はつく。
そして明かりの届かぬ暗い場所でも、ヴァンパイアである藍堂の瞳には、その光景がハッキリと映し出された―――――
「――――――っ貴様…っ!」
蒼い双眼が捉えたのは、男がに覆いかぶさり、無理やりキスをしている光景。
藍堂の瞳が一瞬で真っ赤に染まり、その噛みしめた唇の隙間から鋭い牙が覗く。
「……だ…誰…っ?」
一気に飛び降りた藍堂の気配に久保が気付き、慌てたように体を起こす。
だが、次の瞬間、久保の体は数メートル先まで吹っ飛ばされていた。
「……っあ…藍堂…センパイ…?どう…して…」
不意に体が自由になった事で目を開けたが見たのは、雪が舞う月明かりの中、瞳を怒りで染めて佇んでいる藍堂の姿だった。
「……殺してやる…っ」
「……っ?!」
何故、藍堂がここにいるのか。は一瞬混乱したが、その疑問の前に異様な殺気を感じ、息を呑んだ。
藍堂は怒りで我を失ったのか、雪の上に倒れている久保の方へゆっくりと近づいて行く。
その殺気を纏う藍堂のオーラに、は強張った体を何とか起こし、藍堂の名を呼んだ。
「ま…待って…藍堂センパイ…!!…っつ…」
先ほど落ちた時、あちこちを打ったのか、立ちあがった事で体中に痛みが走る。
それでもは雪を掻きわけ藍堂のところまで何とか追いつくと、必死でその腕を掴んだ。
「…放せ」
「や、やめて…センパイ…!乱暴しないで…っ」
「先に乱暴したのはあいつだろ?僕は許さない…君にあんな…っ!」
不意に藍堂が立ち止まり、怒りのこもった瞳でを見下ろした。
普段は見せた事もないその表情に、の肩がビクリと跳ねる。
ピリピリと肌を指すような痛みは、藍堂の殺気だろう。
それでもは恐怖を堪え、「やめて…」と首を振った。
「…久保くんを殺したら…藍堂センパイが困る事になるでしょう…?私はそんなのイヤ…」
「………っ…」
訴えるようなの言葉に、藍堂が小さく息を呑む。
「彼女の言うとおりだ。英…」
「……暁…」
その瞬間、背後で気配を感じ、上から飛び降りて来る従兄弟の姿に、藍堂の瞳の色がいつもの色へと戻った。
「ちょっと心配になって急いで来てみれば…何してんだ?お前…」
「…っだ、だってあの男がちゃんに無理やりキスを―――――――」
「…チッ。そういう事か…。でもだからって、やりすぎだ。相手はただの人間なんだぞ」
「………分かってる。でも…許せなかったんだ…」
藍堂は深く息を吐くと、自分にしがみつくようにしているを見下ろした。
「…ごめん、ちゃん…」
そう言ってをそっと抱き締めれば、その体はかすかに震えていた。
「あ、藍堂センパイは悪くない……私が彼と2人きりでこんなとこ来ちゃったから…」
は藍堂の胸に顔を埋め、震えている。その体を更に強く抱きしめ、の髪にそっと口づけた。
「……ホントだよ…少しは気をつけてくれないと…。は僕のものなんだから誰にも触れさせないで…」
「…ご、ごめんなさ…い…」
の声も少しだけ震えていて、それはすぐに涙声へと変わり、藍堂はあやすように優しく頭を撫でている。
2人のそんなアツアツぶりを眺めていた架院は溜息交じりで頭を掻くと、「見せつけてくれちゃって…」とボヤきながら、気絶している久保の方へと歩いて行った。
相当な力で飛ばされたのか、辺りの雪は久保の血で赤く染まっている。辺り一面に漂うその血臭に架院は僅かに喉の渇きを感じ、顔をしかめた。
「ったく…。こりゃメインディッシュ目の前にしてお預け食らってる気分だな…」
普段はタブレットで気を紛らわせているとはいえ、本物の血の匂いはヴァンパイアにとって刺激が強すぎる。
このまま咬みつきたい衝動を抑えながら、架院は久保の前へとしゃがんだ。
「あ〜あ…こりゃ肋骨何本かいってるな…。両腕と両足も…か。まあ英が人間に一撃とはいえ本気で攻撃したんだ。生きてるのが奇跡としか言いようがないけど」
しゃがみこみ、久保の怪我の具合を見ながら、架院が苦笑した。
それを聞いては青くなったが、藍堂は「当然の報いだ」と未だ久保へ殺気を放っている。
架院も苦笑交じりで立ち上がると、
「ま、嫌がる女の子を無理やり襲うのは、俺としても許せないし…こいつはこのまま放っておくか?」
「え…?で、でも…っ」
その言葉にはギョっとして顔を上げる。しかし架院は「冗談だよ」と笑い肩を竦めた。
「こいつの記憶は俺が消して血も止めておいてやる。ただし…罰として折れた骨はこのままだ」
「え…?」
「ま、病院にぶち込んでおきゃ、こいつもスキーでコケて骨折したと思うだろ」
「架院センパイ…」
「それでいいか?英」
「……ああ」
本来ならに手を出した人間などこの手で引き裂いてやりたい。しかし藍堂がそれをしてしまえばが悲しむ。
そして、ただの人間を手にかけたヴァンパイアはハンター協会からも狙われる立場になってしまう。
個人的な理由で、仲間…特に枢に迷惑をかけるのは藍堂も嫌だった。
「ごめん、暁…。後始末、頼めるかな…」
「へいへい…。いつもの事だよ。お前の尻拭いなんて」
「…む」
久保の額に手を翳しながら、嫌みを言う架院に、藍堂の目がぐっと細くなる。
だが今の立場上、文句は言えず、藍堂は渋い顔ながらも、「サンキュ」とだけ言っておく。
「それより、せっかく会えたんだ。2人で先にホテルへ戻ってろよ。俺は後から行くから」
「あ、ああ…。じゃあ…そうする?」
藍堂は未だ自分の胸にしがみついているを見た。も今はそうした方がいいと判断し、小さく頷くと、
「あ、あの…ありがとう…御座います。架院センパイ…」
「いいよ。―――――ああ、それより荷物フロントに預けたままなんだ。それ受け取ってチェックイン済ませておいて」
「分かった」
架院の言葉に頷き、藍堂はの手を引いて歩きだす。
その2人のやり取りを聞いて、は改めて隣を歩く藍堂を見上げた。
「あ、あの…でも何で藍堂センパイと架院センパイがここに…?今日から別荘に行かれるはずじゃ――――――ひゃっ…」
そう尋ねた瞬間、藍堂はの体を抱き上げ、軽々と急な斜面を上って行く。
あまりに身軽な動作に、は唖然としながら藍堂を見上げた。
「…はい。歩ける?」
「は、はい…ありがとう御座います…」
上につくと藍堂は黙ってを下ろし、溜息をつく。その様子が少し怒っている気がして、は顔があげられなくなった。
(やっぱりまだ怒ってるのかな。そりゃそうだよね…あんなとこ見られちゃったんだし…。でも私だって久保くんがまさかあんな強引に出て来るなんて思わなかったし…)
頭の中であれこれ考えながらは泣きたくなって来た。
せっかく藍堂に会えたというのに最悪な場面を見られた事で気まずいのも嫌だった。
しかし不意に頭に乗せられた手の温もりにドキっとして顔を上げれば、意外にも優しい瞳がを見下ろしている。
「あ…藍堂センパ―――――」
「そんな顔しないでよ。せっかく久しぶりに会えたんだし」
「……は、はい…」
「とりあえず話は後。まずは僕の部屋に行こう。ちゃんの鼻、真っ赤だし寒そうだ」
そう言って鼻をつつくと、の頬も真っ赤に染まる。藍堂は苦笑交じりでの手を繋くとホテルの方へと歩き出した。
「架院様のお連れの方ですね」
フロントまで行くと、愛想のいい支配人が顔を見せ、藍堂にも挨拶をする。どういったルートで予約した客か知っているのだ。
貴族にへつらうのは人間世界もヴァンパイアの世界も大した変わりはないのだろう。
藍堂は架院の言われたとおりチェックインを済ませ、荷物を受け取ると、と一緒に案内された部屋へと入った。
「わ…スイートルーム?」
はその部屋の広さや豪華さを見て、驚いたように声を上げた。
「私達が泊ってる部屋とは大違い」
「僕の伯父さん…ああ、暁の父上がとってくれたんだ。―――――何か温かい物でも頼むね」
藍堂は荷物を置くと、すぐにルームサービスを頼んでいる。
その後ろ姿を見ながら、は落ち着かない様子で大きなソファへと腰を下ろした。
高そうな調度品で飾られた室内は、どこか月の寮を思わせる。
ベッドルームが三つあるのはさすがにスイートルームといった感じだ。
(…でも…久保くん大丈夫だったかな…。遠目で私には良く見えなかったけど、架院センパイの話じゃ重症っぽかったし…)
同時にクラスメートをもう少しで死に至らしめる事になっていたかもしれない現実を思い出すと少しゾっとした。
された事は腹立たしいが、でもそれはに好意を持っていたからであり、自分が多少気を付けていれば避けられていた事態だったかもしれない。
久保の気持ちには気付いていたのだ。なのに断る事も出来ず、あんな場所まで着いて行ってしまった自分も悪い。
(そうよ…。そのせいで藍堂センパイにまで嫌な思いをさせてしまった…。それにもしかしたら人を殺させてしまっていたかもしれない…)
改めて自分の軽率さに落ち込み、は溜息をついた。
「あいつの事は暁に任せておけば何とかしてくれるよ。心配しないで」
不意に藍堂が隣へ座り、はドキっとして顔を上げた。
「……って、怪我をさせた僕が言う事じゃないけど…」
藍堂はどこか悲しげな瞳でを見つめている。その顔を見ると、の胸が鈍い音を立てて痛みだした。
「あ、あの―――――」
が口を開きかけたその時、部屋のチャイムが鳴り藍堂が歩いて行く。
そこへルームサービスのワゴンが運ばれてきた。
「後はいいよ。こっちでやる」
「かしこまりました。それと…これは頼まれた品物で御座います」
ボーイが一礼して出て行くと、藍堂は自ら紅茶を淹れ、黙っての前へと置いた。
「あ…ありがとう――――――」
そう言って顔を上げた瞬間、頬にぺたりと何かを貼られ、は言葉を切った。
手で触れると、先ほどの傷に絆創膏が貼ってある。
「え…これ…」
「今フロントに電話した時、ついでに持ってきてもらった。それくらいの傷でも…ちゃんの血の匂いは僕には辛いから」
「…ご、ごめんなさい…」
辛い、と言われつい謝ると、藍堂は小さく溜息をついた。
「それより…僕の方こそ…さっきはごめん」
「え…?」
「ちゃんのクラスメートに…乱暴な事して、さ…」
「あ…あれは――――――」
「ちゃんがあいつに押し倒されてるとこ見て…頭の奥で何かが切れたっていうか…」
「藍堂センパイ……?」
酷く悲しげに瞳を揺らす藍堂は、どこか叱られた子供のようで、はさっき以上に胸が痛くなった。
「僕の事…怖くなった…?」
「…え?」
「怖い…?」
藍堂は今にも泣きそうな顔で聞いて来る。も涙が溢れて来るのを堪え、「怖くなんかないですっ」と慌てて首を振った。
「あれは私の為にしてくれた事だし、それに私が怖いのは…この事がバレて藍堂センパイが罰を受ける事です…」
「…ちゃん…」
「そうなったら私との事もバレて…藍堂センパイが皆から色々言われちゃうんじゃないかって…それが心配で――――――」
そう言いかけた時、藍堂がの体を抱き寄せて、強く抱きしめた。
「あ…藍堂センパイ…?」
「…ありがとう…」
掠れるくらいの声が耳に届き、は無言のまま首を振った。
会えなかった間、色々な事を考えては苦しくなったりしていたが、こうして藍堂の腕の中にいると、そんな悩みなど綺麗に消えてしまう。
不思議だなと思いながら、しばし藍堂の心音を聞いていた。
(藍堂センパイの心臓の音…私と同じくらいドキドキしてる…。住む世界が違うのに…この音だけは同じなんだ…)
その時、かすかに体が離れ、ドキっとして顔を上げれば、蒼い瞳と目が合う。
吸い込まれそうなほどのサファイアブルーが、やっぱり綺麗だなと思いながら見惚れていると、それが少しづつ近くなってくる。
そして藍堂の目がゆっくりと伏せられた瞬間、互いの唇が重なり、の鼓動が僅かに跳ねた。
「…ん、」
何度も啄ばむように口づけられ、空気を求めて開いた隙間から、藍堂の熱い舌が滑り込む。
未だ慣れないその行為に、逃げ惑う舌先を簡単に絡めとられ弄ばる。
耳の奥で響くくちゅくちゅとした厭らしい水音が恥ずかしくて、は強く藍堂のシャツを握りしめた。
「…ごめん…」
不意に唇が離れ、呟かれた言葉に、が薄っすらと目を開ければ、藍堂の瞳に呆けた自分の顔が映っているのが見えた。
「嫌だった…?」
切なげに眉根を寄せる藍堂に、は何とか首を振る。
今の行為で全身の力が抜けそうだった。
藍堂は僅かに微笑むと、の唇に触れるだけのキスを落とし、パッと腕を離した。
突然離れた藍堂に、が驚いて顔を上げると、
「こんな事してたら今すぐここで押し倒しちゃいそうだから、もうやめとく」
「……っえ?」
意味深な言葉にの頬が赤くなるのを見て、藍堂は苦笑しながら頭を掻いた。
「いやほら…ここは僕だけの部屋じゃないし、そろそろ暁が戻ってきそうだからさ――――――」
「もう戻ってるけど?」
「――――うわっ」
いきなり冷んやりとした声が聞こえ、藍堂が飛びあがる。後ろを見れば、架院が呆れ顔のまま壁に寄りかかって立っていた。
「…っ架院センパイ…っ」
「あ…暁、いつの間に…!」
「さっきからいたけどな。ってかお前、緊張感なさすぎ。オレが入って来ても堂々とキスシーン見せつけてるし、どうしようかと思ったぜ」
「って、いつからいたんだよ!」
まさか見られてたとは思わず、藍堂もさすがに赤くなる。
架院は苦笑交じりで歩いて来ると、を挟んで反対側へ、どっかりと腰を下ろした。
「確か…"私との事もバレて…藍堂センパイが皆から色々言われちゃうんじゃないかって…それが心配で――――――"ってとこだったかな」
「――――――っ!」
「――――――っ!」
ニヤリと笑う架院に、、そして藍堂の顔までが真っ赤に染まる。
そんな2人を澄ました顔で眺めると、
「オレとしてはお前がまた理性失って彼女に咬みついた時は止めようとスタンバってたんだけど、まあ英にも一応、ちーちゃい理性はあったようだな」
「ふ、ふざけんな!だ、だいたい覗き見なんて趣味悪いぞ、暁っ!見ろ!ちゃんなんかシャイだから、こんなに真っ赤になって―――――」
「ってオレも別に覗きしようと思ってたわけじゃねえよ。お前がいきなりキスしだすから悪いんだろ」
「仕方ないだろ?ちゃんにあんな可愛いこと言われたら誰だってキスしたくなるよ!…あ!ってか暁、お前もしやちゃんの可愛い顔を見たなんて事は―――――」
「あ、藍堂センパイ…っ!あ、あの」
いきなりを抱きしめ、自分の胸に顔を押し付ける藍堂に、は更に顔が熱くなった。
架院は架院でニヤニヤしながらの顔を覗き込むと、
「そういや英とキスしてる時のちゃんは可愛かったなあゥ 必死で恥ずかしいの我慢してるって顔が何気にそそる―――――」
「暁ーーー!!!」
とんでもない事を言いだした従兄弟に遂にキレた藍堂が飛びかかる。
しかし架院は涼しい顔で胸倉を掴んでいる藍堂の手を離すと、「見られたくないなら続きはベッドルームでしろよ」と肩を竦めた。
「ベ、ベッドルームって…っ」
「幸いこの部屋にはベッドルームが三つもある。オレも邪魔者になる気はないから好きに使えよ。ただし―――――血は吸うなよ?」
「バ、バカ言うな…!っていうか…ちゃんはシャイなんだから変なこと言うな」
よほど恥ずかしかったのか、さっきよりも赤くなっているに気付き、藍堂は慌てて話題を変えた。
「そ、それより…あいつはどうしたんだよ?」
「ちゃんとスキー場の方まで運んでから救急車を呼んでおいたよ。記憶も消したから大丈夫だろ」
「そ、そっか…サンキュ」
「まあでも、あいつスキー板持ってなかったから、何してたんだとか詮索されるだろうけどな。あの血まみれの現場よりはいいだろ?」
「あ〜そう言われると…そうだな…」
「ま、今も雪は降り続いてるし、あの現場は雪が隠してくれるさ。そのうち、あんたの友達からも連絡入るだろ」
それを聞いても少しホッとした。
ただの事故で済めば2人に迷惑がかかる事もない。
(久保くんには気の毒だけど…やっぱり私は藍堂センパイの迷惑になるような事態は避けたい…)
藍堂もそんなの気持ちに気付き、優しく微笑む。
「あ、と、ところで…藍堂センパイ、どうしてここに?別荘に行くって言ってたのに…」
そこで聞きそびれていた事を思い出し、が2人を見ると、架院が意味深に笑った。
「それが英の奴、どうしてもちゃんが心配だって言いだして急きょ別荘に行くのやめたんだ」
「え…心配って…?」
架院の説明に驚き、が見上げると、藍堂は顔を赤くしつつ、ニヤニヤしている架院を睨んだ。
「だって心配だろ?男と旅行なんて聞けば」
「え、でも他に京子や他の女の子もいるのに――――――」
「でもさっきみたいな目にあったじゃないか。だから来て正解だったよ」
「あ……ご、ごめんなさい…」
は藍堂の指摘にシュンと頭を下げた。
その様子に気付いた藍堂は慌てたように、「お、怒ってないって」との顔を覗き込む。
「と、とにかくちゃんが無事で良かったし…。それに僕も会いたかったから、こうして顔見れて本当に嬉しいんだ」
「…藍堂センパイ…」
「良く考えたら最初っからこうしてれば良かったんだよな。休暇を利用すれば周りの目を気にする事なく会えるんだし」
「で、でも私はクラスメートと一緒だし…」
「大丈夫。僕らは今日から二日間、ここに泊るし、ちゃんは明日、友達を上手く交わして残ればいいよ」
「あ…そっか。どうせ皆は明日の昼まで滑ってその後にここから実家に向かうんだった…」
「なら何とかなるだろ」
「そうですね」
笑顔で応えるに、藍堂の顔がゆるんでいく。
もで明後日までは邪魔されず藍堂と一緒に入れると思うと胸がドキドキしてきた。
そんなラブラブムードを出している2人を眺めていた架院は徐に目を細め、
「お前ら…オレがいる事、すっかり忘れてるだろ…」
その空しい呟きは今の2人に届く事はなく、架院はウンザリしたように頭を項垂れた。
――――――その頃、ホテルの前に一台の車が到着していた。
「うっわー。寒〜い」
「…ホントにここで撮影なんかすんの?」
車から降りて来た綺麗な顔立ちの男女2人は首をすぼめながら辺りを見渡す。
「…ん?」
だがすぐにその匂いに気付き、互いに顔を見合わせる。
そこへ運転手である女性が車を預け、歩いて来た。
「撮影は明日の朝から始まるから今夜は早く寝てね。ああ、私ちょっとチェックインしてくるわ」
「は〜い」
すぐにロビーへ向かう女性を見送りながら、2人は視線で合図を送ると雪の舞う空を見上げ、鼻を動かした。
「…この匂い…。何かあったのかしらね」
「んあー。事故じゃない?」
「支葵はホント呑気なんだから」
「莉磨が気にしすぎなんだろ…?それより寒いから早くホテル入ろうよ」
そう言いながら欠伸を噛み殺すと、支葵と呼ばれた少年はロビーへ入って行く。
残された少女は僅かに顔を顰めながらも、
「…はあ…この匂い。私達には刺激が強すぎるっての」
未だに漂っている血臭に軽く唇を舐めると、少年の後を追うようにホテルの中へと姿を消した―――――。
久しぶりに更新してみました(驚)
原作も暫く買ってなかったので出てる分だけ買ってみましたが、何だか意外な方向に話が進んで行きましたね…