パンドラの箱



おかしい。何がおかしいって、兄貴がこんな時間に起きて来たことだ。いつもなら起こしたって起きないし、夕方まではがっつり眠っている。なのにその兄貴が自主的に昼前には起きてきてボーっとしながらテレビを見ている。怖い。何か怖い。最近どうも様子がおかしいと思っていたから尚更、いつもと違うことをされると余計に恐怖を煽られる。こういう時がいてくれたら、どうにかなるけどは今、学校だ。帰って来るのは夕方だし、まだ5~6時間はある。それまでオレだけで耐えられるのか?この重苦しい空間に。

「…竜胆」
「…っ!な、何?(ひぃっ)」

キッチンからこっそり見ていたのがバレたのか?と一瞬ヒヤリとしたけど、兄貴は「オレにもコーヒー淹れてー」と言ってきた。何だよ、そんなことかとホっとして「りょー」と素直に応えておく。きっちり豆から淹れてやれば少しは機嫌も良くなるか?いや、そもそも機嫌が悪いのか?今の声の感じだと普段通りとも言えるし、やっぱり声に張りがないとも言える。いや、でも本当に機嫌が悪いなら、まずはオレに軽くジャブくらいの八つ当たりをしてくるのが兄貴の通常運転だ。でも今日はそれが今のところない。ということは…機嫌が悪いわけじゃないとオレの中で結論が出た。なら何でいつもと違うことをするんだろう。首を捻りながら兄貴のカップに出来上がったコーヒーを注いでいく。

(いや、そもそも本人に聞けば良くね?)

何で早起きしたんだよ、とか、眠れなかったのかよ、とか最初に兄貴が部屋から出て来た時に訊けば良かったんだ。ただ驚きすぎて聞きそびれてしまったから、オレ一人でアレコレ考えこむことになってんだよな。さっき普通に訊けば良かった。

(ってか今からでも訊くか…?)

コーヒーを持って行くついでにサラリと「兄貴、今日早いじゃん」と軽い感じで聞けば、兄貴も「あーそれがさー」と普通に返してくれるかもしれない。よし、この手でいこう。
とりあえずオレの中で明確な目標が出来たことで少しスッキリした。コーヒーカップを手に、キッチンからリビングまでそれを運んでいく。少し足が震えてるのは武者震いだ。

(でも…もしオマエに関係ねえだろ、と八つ当たり魂に火をつけてしまったら…オレは自ら開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまうのでは…?)

そこに気づいた時、ふと足が止まる。兄貴のところまで残すところ3歩といった感じなのに。その時、ソファに座っていた兄貴がふと振り返った。

「どした?それ、オレのコーヒー?」
「え?あーうん。はい」
「さんきゅー」
「………」

至って普通だ。いや、何なら普段より優しい。いつもならコーヒー淹れたくらいでお礼なんか言わないのに。この感じなら聞けば答えてくれるのでは、と思いながら隣にある一人用のソファへ腰を下ろした。

「兄貴」
「…んー?」
「きょ、今日…随分と早起きだけど、どっか行くの」
「…いや別に」
「そ、そっか」

特に用があるわけでもない。兄貴は相変わらずテレビをボーっと見ている。いや実際に見ているのかいないのか。ただ視界に入れてるって感じだ。だいたい兄貴はお昼の情報番組なんか見ない。(いつも寝てるからってのもあるけど)

「あのさ」

とオレは思い切って気になってたことを訊いてみることにした。

「兄貴…元気ねえけど何かあった?」
「…あ?」
「い、いや、ないならいいんだけど」

視線だけをオレに向けて来る兄貴にドキッとして、慌てて付け足した。パンドラの箱はこの世のありとあらゆる災厄が入ってると言われてる絶対に開けてはならない箱だ。オレはパンドラのようにはならないぞ、と心に誓い、自分の部屋へ引っ込もうとした。でもその時、ガシッと手首を掴まれ「うぁっ」と変な声を上げてしまった。まさかいきなり鉄拳が?と焦ったオレを見上げた兄貴は「ちょっと聞きたいんだけどさ」と特に怒った様子もなく、そんなことを言い出した。兄貴がオレに聞きたいことがあるってのも普段と違いすぎてビビったものの。自ら話してくれるなら、と「な、なに?」となるべく笑顔で応えてみた。

のことなんだけどさー」
「……あ、ああ、うん」

何だ、やっぱ絡みか、と思いつつ、もう一度ソファに座ると、兄貴は溜息を一つ吐いてから口を開いた。

「最近、ちょっと変なんだよなァ」
「……変って…はいつも変だろ」
「あ?」
「い、いや…嘘。ジョーダンだって」

いきなりギロっと睨まれ、ビリビリと殺気を感じた。のことになると相変わらずこえぇ。オレは気持ちを落ち着かせるのに手にしていたコーヒーを一口飲んだ。そして軽く咳払いをすると、改めて「が変ってどんな風に?」と尋ねる。途端に兄貴は「あー」とか「うー」とか言い出して珍しく歯切れが悪い。マジで気になって来て「何だよ」と身を乗り出すと、兄貴は頭を掻きつつ、またしても深い溜息を吐いた。

「それがさー…最近させてくんねーんだよ」
「………は?何を」
「あ?だからアレだよ」
「アレ?」
「アレっつったら一つしかねえだろっ」

いきなりキレだした兄貴にギョっとしたのと同時に、アレの意味が頭に浮かんで「あ、ああ!アレね!」と大げさなほど大きく頷く。まさかそんな内容だとは思わず、その話にも少し驚いた。だいたい兄貴にベッタリのが兄貴を拒むなんてありえない。いっつもオレがいようと平気でベタベタしては「蘭ちゃん、ちゅーして♡」と強請るようにまでなってんのに。

「え、でも何で?」
「それはオレが知りて―んだけど」

兄貴が大げなほどに溜息を吐いて背もたれに頭を乗せた。でもそうか。最近元気がなかったのはからエッチを拒まれてたからか。そりゃにベタ惚れなんだから兄貴も落ち込むに決まってる。ただが何で拒むのか、オレもさすがに分からない。ただ心当たりがあるとすれば…。

「…兄貴、変なこと強要したんじゃねえの」
「あ?変なことって何だよ」
「だから……縛ったり…とかさ」

と結婚する前、付き合ってた女達とどんなプレイをしてたのかオレは知らない。いや知りたくもない。けど兄貴のことだから遊びで色んなことを試したりはしてたかもしれない。もしそれをにもしたんだとしたら――。そう思った時、兄貴は不思議そうな顔でオレを見ると、「いや縛るだろ、普通」ととんでもないことを言いだした。

「は…?縛った…の…?」
「縛ってるけど…何だよ、その顔は」
「い、いや…別に…」

当然と言った顔で肯定され、自分の口元が引きつったのが分かった。いくらが可愛いからって縛るか、普通。いやでも兄貴ってどっちかと言えばSだし、エッチにマンネリして来たら、そういうこともやりかねない人ではある。(!)ただがそれをされてどう感じたかだよな。

「…は…どうだったんだよ。その…縛った時の反応は」
「…どうって…そりゃ喜んでたけど」
「は?!よ、喜んでた…の?アイツ」
「そりゃ喜ぶだろ。、縛られんの好きだし」
「……っ?!」

そんなの初耳だ。いや別に普段から二人のエッチの話なんか詳しく聞くわけでもねえから当然だけど!
変に心臓がバクバクして息苦しくなって来た。あの可愛いがまさかそういうプレイが好きだなんて想像もつかない。

(いや、でものヤツ、あんまものを知らねえし、よく分かんねえで兄貴の望みを素直に受け入れてんじゃねえだろうな…)

そこでオレに天啓が下りた。そうか。今まではよく分からないまま受け入れてたけど、も最近は前より世間のことを理解してきてるし、学校に行けば同世代の人間がいて、そこから色んな情報も入って来るだろう。だから自分が兄貴にされてる行為の知識を得ていても不思議じゃない。だから拒むようになったんだとしたら、意味は分かる。

「はあ…なーんでさせてくんねーんだろ」
「そ、そりゃ……嫌になったんじゃねえの、やっぱ」
「は?何で」
「何でって…それはだから……恥ずかしい、とか…」
「何で恥ずかしいんだよ。可愛いのに」
「……可愛い?」

兄貴は縛られたを見て可愛いと思ってんのか。え、実は兄貴って変態だったのか?長いこと兄貴と一緒にいるオレでさえ知らなかった裏の顔があるのか?ちょっとプチパニックになりかけたオレをよそに、兄貴はまたしても溜息を吐いて項垂れている。いや、そんなに縛りたいのかよ。

「やっぱこの前のリボンが好みじゃなかったのか…」
「…え、兄貴、リボンで縛ったわけ?」
「だってに似合いそうなのがあったんだよ」
「……」

身体を縛るのに似合うリボンってどんなんだよ。と頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。ってか体にリボンを巻き付けてプレゼント風にして欲情してんじゃねえだろうな、兄貴のヤツ。

「また別の買ってみっかなー」

兄貴はケータイで何かを検索しながら、そんなことを言いだした。

「え、まだ買うの?やめてやれよ」
「あ?何でだよ」
「だって、拒んでんだろ?ってことは縛られんの嫌だってことじゃね?」
「やっぱそうなのか……今朝も縛ってやろうとしたら"今日も縛らなくていい"とか言い出してさー。ちょっとショックで眠れなくなったわ」
「は?朝から何してんの?!」

ギョっとして思わず突っ込むと、兄貴は怪訝そうな顔でオレを見ている。やべえ、余計なこと言ってしまったかもしれない。

「何だよ。普通朝やるもんだろ、アレは」
「いや、何でだよ。何も学校行く前にヤることねえじゃん」
「は?学校に行くからやるんだろ?」
「は?」
「あ?」
「「………」」

何となく会話がかみ合わず、互いに顔を見合わせると、兄貴は片方の眉だけ上げて訝しそうにオレの顔をマジマジと見て来た。

「つーか、さっきから何言ってんだよ、竜胆」
「あ?何ってだから……をエッチん時に縛るって話だろ?」
「………………ハァッ?!」

オレの言葉に石化した兄貴は、たっぷり数10秒たった頃、その端正な顔を真っ赤にして怒りだした。

「誰がエッチん時に縛るんだよ!オレにそんな趣味ねえぞっ」

災厄とは突如として襲ってくるものである――。By.灰谷竜胆
その後、兄貴からバチボコにシバかれたオレは、やっぱりパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない、話を聞いてやろう、なんて思ってしまったことを激しく後悔をした。
でも待って。ひとこと言いたい。"アレ"の定義とはいったい?

そして数時間後、が帰宅した。

「ただいまー蘭ちゃん竜ちゃん!」
~!お帰り。今日は学校どうだった?」

いつもの如く、膝の上にを抱えた兄貴がすこぶる上機嫌でほっぺにマーキングをし始めた。でも兄貴はふと何かに気づいたのか、の髪型を見て驚いている。

「は?これ、誰に縛ってもらったんだよ」
「あのね、のんちゃんに教えてもらいながら自分で縛ったの。どうかな」
「いや可愛い。メチャクチャ似合ってる」
「ほんと?」
「ほんとー。あ、でももしかしてコレのせいでオレにやらせなかったんか」
「だっていっつも蘭ちゃん、わたしの髪を縛る為に一回起きてくれるでしょ?眠たいのに…だから申し訳ないなぁと思って。自分で出来るようになれば蘭ちゃん起きなくてもいいでしょ?」

なるほど、そういうことか、とオレは全てを理解して盛大に溜息を吐く。でも兄貴は感激したのか、「オレの為だったのかよ」とうれし泣きをしそうな勢いでのホッペにちゅーをしまくってる。いや、分かるけど。

、優しいなーマジで」
「え…ら、蘭ちゃんもいつも優しいよ」
「そりゃーのこと愛してるから優しくしか出来ねえわ」
「…え」
「なーに赤くなってんだよ。可愛すぎるしベッドにさらってい?」
「えっ!」

最後にの唇へちゅっとしてる兄貴の皮を被ったあの男は誰だ。
ジトっとした目で睨んでいると、やっとオレの存在に気づいたが驚いたようにこっちを見た。

「え、竜ちゃん、何で目の周り青いの…?」
「………パンドラの箱を開けたからだよ」
「……???」

オレの答えに案の定、は首を傾げて兄貴を見上げながら、いつもの質問攻撃をした。

「蘭ちゃん…ぱんどらの箱ってなーに?」
「んー?パンドラの箱ー?そりゃパンツとどら焼きが入った箱♡」
「え、ぱんつとどら焼き…美味しそうだね」

いや、何でだよ!ってか兄貴もシレっと嘘を教えるな、嘘を!も「美味しそう」って食いもんどら焼きだけじゃねえか。

とりあえず、灰谷家は今日も平和でなによりだ。