08.あの日嘘つきだった僕たちへ
『おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになっておかけ直しください。こちらは――』
半間との最後の電話からほぼ毎日のようにかけてたケータイは、遂に繋がらなくなった。
住んでいたマンションも親が解約、荷物などの処分は頼んだのか、半月後に管理会社が依頼した回収業者が荷物を運び出しにやって来た。もしかしたら半間が荷物を取りに戻ってくるかもしれないとマンションに残っていたは「不法侵入だよ!」と管理会社の人間に追い出されてしまった。
「気は済んだかい?」
半間の部屋にあった荷物を乗せたトラックが走り去っていくのを見送っていると、後ろから声をかけられる。振り向かなくとも、相手は誰か分かっていた。
「刑事さんこそ。修二が来なくて残念だったね」
合い鍵を使い、が半間の部屋へ不法侵入したのを知りながら、見て見ぬふりをして見張っていたのは気づいていた。を聴取したあの時の刑事だ。
「君もこれで理解したんじゃないのかい?半間は待つに値しない男だって。君が健気に彼を待つ姿を見ていて、もしかしたらと私も一瞬期待したんだけどね。ヤツはとっくに遠くへ逃げてるだろうな」
「だったら警察が無能ってことになるんじゃないの?」
「こりゃ手厳しいな…」
刑事は頭を掻きつつ豪快に笑っている。は呆れたように睥睨すると「修二は絶対に捕まらないと思う」とだけ言って、その場を立ち去った。刑事はもう、の後をついては来なかった。
「刑事にも見限られたか…」
行く当てもなく歩きながら、不意に苦笑が洩れた。
(この女に張り付いていても修二は現れない…そう思われたんだ)
実際、この半月もの間、半間は姿を見せなかったし、電話もあれからかかっては来なかった。遂にはふたりで過ごしたマンションも空っぽになり、もう半間が立ち寄りそうな場所に心当たりもない。
「…潮時かな」
ふと、弱音が零れ落ちる。
"最低な男に引っかかった事故だと思って、オマエは新しい男でも見つけろよ"
あの最後の言葉が、半間の本音だったのかもしれないとは思った。あの半間が、一人の女に本気になるはずもなかった。を軟禁して乱暴したのも、単に勝手に離れて行かれたことへの苛立ちだけで、その後のことは半間が言った通り、ヤりたい時にヤらせてくれる体の相性がいい女くらいに思っていたのかもしれない。
「バカ…だなぁ…」
不意に涙が溢れた。
「あんなヤツの言葉を信じるなんて…」
酷い男だった。友達だと思っていたのに、いきなり拘束されてレイプをされた。なのに愚かにも言われたことを信じて、全てを許してしまった自分が情けなかった。
「…う…っ」
涙が次から次に零れ落ちて、頬を濡らしていく。
"泣くなよ…"
そう言って濡れた頬にキスをしてくれた。その後に優しく抱きしめてくれた光景が脳裏を過ぎる。あれさえも嘘だったというんだろうか。
(やめよう…今更考えたって仕方ないよ…私は…ハッキリフラれたんだから忘れなきゃ…)
そう思いながら涙を拭う。けれど明日からどう生きていけばいいのかすら今は分からない。
「新しい男見つけろって…バカじゃないの…」
こんなにも心が打ちのめされて、また人を好きになれるはずがないとさえ思う。
「………」
ふと顔を上げれば、そこは自宅マンションだった。あてもなく歩いていたつもりが無意識に帰ってきてしまったらしい。母はいないのか、窓を見上げると真っ暗だった。
「…く…ははは…」
思わず笑ってしまった。結局、自分はここに帰るしかないんだと悟る。母がいなくて良かったと思う。今はどんな顔で会えばいいのか分からなかった。警察署からの帰り道、もう二度と母に会うことはないと思いながら半間のマンションまで走った。あの時は一緒に逃げるつもりでいたのだ。
重たい足どりでマンションに入ると、エレベーターのボタンを押す。その時――遠くからバイクの排気音が聞こえて来た気がしてハッと息を飲む。その音は少しずつ近づいて来てるようだった。
「…修二…?」
よくバイクで家まで来てくれた時のことがフラッシュバックのように頭に流れ込み、思わず足が動いていた。マンションのエントランスまで戻り、外に飛び出る。マンション前の道路は一方通行で来る方向は分かっていた。排気音と共に薄暗くなった道路にヘッドライトの明かりが近づいて来る。
「修二…!」
気づいたら名前を呼んでいた。その瞬間、目の前でバイクが止まる。小さく息を飲んだ瞬間、バイクに乗っていた男がヘルメットを外した。
「……ッ」
「あれ…?」
驚いたようにへ視線を向けたのは、半間ではなかった。しかし着ている白いジャンパーは見覚えがある。男は黒髪に前髪が金色で半間と似たような髪型をしていた。呆然と立ち尽くすを訝しげに見ている。しかし「えっと…、さん?」と訊いて来た。ビクリと肩を揺らし、は小さく頷いた。
「良かったー!もしかしてそうかなと…いや、オレ、さんの顔は遠目からしか見たことなかったんで」
「え…」
男はホっとした様子でバイクから降りて来た。
「あ、オレ、大吾って言います。半間さんとは芭流覇羅作る前からつるんでました」
「…バルハラ…」
その名前は知っている。去年、半間がしばらく帰って来なかった時期に副総長をしていたチームだ。大吾と名乗った男が着ているジャンパーはその時のものだと気づいた。
「ああ、もうこのチームはないんスけどね。愛着あるんで未だに着ちゃってんスよ」
がジっと白いジャンパーの袖に垂れている赤いテープキーホルダーを見ているのに気づき、大吾が頭を掻きつつ苦笑している。大吾の他愛もない話を聞きながらも、は何故この人は自分のところへ来たんだろうと思っていた。半間の仲間はこれまで紹介してもらったことはない。ふたりで新宿を歩いていた時、時々仲間らしい男達に声をかけられていたのをはただ見ていただけだ。なのに何故の自宅を知っているんだろう。そう思った。
「あの…もしかして修二を…探してるんですか?だったら私のとこには――」
「え?!あ、いや…違うんス!実は…」
大吾はそこで言葉を切ると不意に辺りを見渡した。誰か見ている人間はいないか探ってるような感じだ。もしかしたら刑事が張り込んでいるか警戒しているのかもしれないと思った。
「刑事なら…いないです」
「え、マジっすか?なら良かった…」
大吾はホっとしたように息をつくと言葉を続けた。
「実は…夕べ半間さんから急に電話きたんスよ」
「…え…修二からっ?」
大吾の言葉に心臓が大きな音を立てた。
「はい…抗争後に稀咲さんがあんなことになるし、半間さんは手配されるしでワケ分かんなくて何度か電話入れてたけど繋がんねーし、そのうち解約されたっぽくて繋がらなくなったから心配だったんスけど…夕べ知らない番号からかかってきて、もしやと思って出たら半間さんでした」
「……修二…修二は元気そうでしたか…?」
「ああ、はい。相変わらず"警察だりぃ~"って笑ってました」
「……」
その話を聞いて自然と涙が溢れた。その口癖すら懐かしいと感じる。大吾はの涙を見て気まずそうに頭を掻いた。
「えっと…それで…半間さんから少し前に預かった物があるんスけど、そのことでかけてきたようで…」
「…預かってる物?」
「ああ…これっス」
大吾はポケットを漁ると何か箱のようなものを取り出した。
「これ、天竺の抗争前に半間さんから預かってたんスよ。自分が持ってたら落としそうだからオマエ、少しの間預かっててくれって。オレ、チーム入る前から半間さんには可愛がってもらってたし付き合いも長いんで信用して預けてくれたみたいで」
「…何なんですか?」
いきなり現れた半間の元仲間の話に頭が追いつかない。彼には連絡が来たんだ、と少し悲しくなったのもある。どうしようもない虚しさを感じた。しかし大吾の次の言葉では言葉を失った。
「実は…これさんへのプレゼントっす」
「…え…」
「東卍との抗争が終わったら渡すって言ってて…何かお詫び…みたいなこと言ってましたけど。ずっと帰ってねえからーなんて笑ってたけど、あれでも地味に心配してたみたいっスよ?」
「…しん…ぱい?」
「チームのことでほったらかしてっからフラれそうって…」
「…うそ…」
「え?いや…マジっす」
大吾の言葉に、思わず呟く。半間がそんなことを心配するはずがない。自分とのことは本気じゃなかったと言ったのは半間なのだ。
大吾はの様子を心配そうに見ながら、手にしていた箱を差し出した。
「夕べ、半間さんはオマエに預けたもん必要なくなったから売っぱらって金にでもしろって言って来たんスよ。でもオレ、やっぱりこれはさんに届けるべきだと思って…。ああ、家は前に半間さんを送って来たことあるんで知ってたから」
大吾の話は聞こえていたが心が追いついていなかった。半間が自分にプレゼントを用意してたとは思わない。フラれるなんて心配するはずもない。なのに――。
大吾から手渡された小さな箱は綺麗なラッピングが施され、そのリボンを見れば有名ブランドのものだと一目で分かる。
「あ…中身は見てないっス!」
「…これ…ほんとに…修二が…私に?」
「はい。まあ…半間さんはオマエの好きにしろって言ってたんで、オレの勝手な判断で持って来たんスけどね。ちゃんと渡せて良かったっス」
大吾は笑顔で言うと「じゃあ…」と再びバイクへまたがった。
「あの…」
「……?」
箱をジっと見つめたまま動かないに、大吾は優しい笑みを浮かべた。
「半間さん、帰れない日が続くといつも言ってました…。早くに会いてぇーって…」
「……ッ?」
「ったくコッチは彼女もいねえのに惚気ないで下さいよーって返してたんスけどね。本気で惚れられるような子と出会ったんだなーと思ってオレも嬉しかったんスよ」
「まさか…」
大吾の勘違いだ。そう言いたかった。実際、この耳で聞いたのだ。本気じゃなかったと。
「きっと…半間さん今頃寂しがってんじゃねぇかな…」
「…修二が…?」
「無事に逃げ切ってほとぼり冷めたら…また会えますよ」
大吾はそれだけ言うと、バイクのエンジンをかけて去って行った。テールランプが見えなくなるまで見送っていたが、排気音も聞こえなくなった時、ふと手の中にある箱へ視線を戻した。
"さんへのプレゼントっす"
大吾に言われた言葉を思い出しながらリボンを解いて行く。その指先は震えていた。手のひらサイズのクリスタルケースをゆっくり開けていくと、そこには可愛らしいデザインの指輪が入っていた。
「う…そ…」
一気に涙が溢れて頬を濡らしていく。顎からポトリと落ちた雫は、指輪の石を濡らし、更にキラキラと輝きを放ったように見えた。
「…修二の嘘つき…」
指輪の入った箱を抱きしめながら、は崩れ落ちるように膝をついた。
"が好きだ――"
でも、あの言葉は嘘じゃなかった。今はそれが分かっただけで十分だった。
(修二にもう一度会おう…)
そんな想いが胸を過ぎる。半間に言われた別れの言葉を鵜呑みにして一時は諦めようと思った。けれども、隠そうとしていた本音を知った今、どうしても会いたくなった。
「何年かかったって…絶対…見つけるんだから…」
半間からのプレゼントを手にしながら、はそれだけを誓ってかすかに微笑む。少しだけ、希望を持てたことが嬉しかった。