09.一瞬だって迷わないで貴方まで辿り着く
2008年6月――。
「だりぃ~雨かよ…」
ポツポツと顔に当たる雨粒に顔をしかめつつ、どんよりとした空を見上げて半間は溜息をついた。梅雨時期らしいジメジメとした空気は気分まで重くするようだ。
「せっかく久しぶりの東京だってのに…ついてねぇー」
次第に強くなって来た雨を避ける為、半間は目についたコンビニの駐車場の隅へバイクを止めた。監視カメラを避けるように着ていたパーカーのフードをすっぽり羽織ってから店内へ入る。「いらっしゃいませー」とやる気のない声がかすかに聞こえた。半間はカゴを持つと適当に目についた商品を中へ放り込んでいく。
あの事件から丸二年が過ぎていた。逃亡資金は稀咲が悪だくみの最中にため込んでいたものを拝借したから困らなかった。それ以外でも逃亡先では時々日雇いの仕事をしたりして、暇つぶしをしていたおかげで未だ逃げ続けることが出来ている。半間にしてみれば気ままな一人旅と同じだ。
(今夜はどこで寝るかな…)
総菜コーナーでお弁当やおにぎり等、目についたものをカゴへ入れながら考える。今までいた地方とは違い、都内ではあまり目立つ動きはしたくない。二年経っているとは言え、半間は手配中の逃亡犯には変わりないのだ。
(ああ…これ…)
何気なく手にしたスイーツに視線を落とし、無意識に笑みがこぼれた。
(が好きで、知り合った頃からよく食べてたっけ)
それは何の変哲もない普通のプリンだった。今では色々な種類があるというのに、は決まってこの昔からある定番のものを好んで食べていたのを思い出す。
"あのツルツルの安い感じが好きなの"
一度、半間が"濃厚カスタードプリン"なるものを買って行ったらそう言われたことがあった。
(アイツ…まだコレ食ってんのかな…)
今では顔も声も朧気だ。長い逃亡生活の中でも忘れた日は一日もないというのに、時間の経過と共に彼女の面影が少しずつ遠のいていく気がした。
「向こうはとっくの昔に忘れてんだろーな…」
苦笑気味に呟き、手にしていたプリンを棚へと戻しかけ、思い直してカゴへと入れる。
後は適当に酒を選び、レジへと向かった。ついでに愛煙している煙草もワンカートン頼む。
"修二ってば煙草吸い過ぎ!肺やられてぶっ倒れる前に禁煙しなよ"
レジで支払いをしながら、渡された煙草を見て以前に言われたことを思い出した。結局、禁煙も出来ずに吸うたび「煙い」と文句を言われることも多かったなと苦笑いが零れる。こんな風に日々何気ない瞬間に過去の記憶が蘇り、胸を締め付けて来るのだから嫌になる。
(アイツを酷く傷つけて…最後もアレじゃあな…トラウマで新しい男なんか作る気も起らなかったかもな…)
それとも、自分よりも数倍誠実で優しい男を見つけただろうか。そんなことを考えるたび、チクリと胸のどこかが痛みだす。
「はぁぁ…今更か…ったく…最近つまんねぇな…」
稀咲を失い、も失い、また半間の世界は色を失った。見るもの全てが鈍色で、退屈な世界へ逆戻りだ。
コンビニを出て、灰皿の置いてある場所まで行くと、買ったばかりの煙草を出して火をつける。吐き出した煙は、雨空に舞い上がり、やがて風に吹かれて消えた。
「…ックシュ」
不意に鼻がムズムズとしてクシャミが出た。
「あ~…湯冷めしたか…?」
鼻を啜りながら、目的地へと歩いて行く。辺りは静寂に包まれていた。場所が場所なだけにこんな時間は人がいるはずもない。
夜、半間は都内に入ったところで見つけた比較的、大きなカプセルホテルへ入った。都会の隅っこにあるようなさびれた場所より、意外と人が多い中心地の方が人の目を誤魔化せるのだ。まずはそこで冷えた身体を温めようと風呂へ入った。たいがい大浴場などは体にタトゥーの入った人間はお断りされるが、半間は両手の甲に肌色のテープを貼って隠してあるので特に何を言われることもなく、すんなり風呂へ入れた。一通り髪や体を洗い、スッキリしたところで一度荷物を入れたロッカーへと向かう。カプセルホテルの各個室は鍵が設置されていない為、貴重品などは全てロッカーへしまう。半間は荷物の中から煙草と先ほど買ったコンビニ袋を取り出して外へと出た。ここへ寄ったのはある目的の為だ。
「どこも禁煙とかだりぃ~。やっぱ普通のホテルにすっかなぁ…」
咥え煙草で歩きながら、ポケットの中のスマホを取り出す。これは一年前、昔の仲間の大吾に会いに行った際、大吾が自分の名義で買って半間へくれたものだ。当然警察にも知られていない。大吾は半間が芭流覇羅を作る前から新宿でつるんでいた男だ。懐っこい性格の大吾は半間を慕い、半間もそんな大吾を可愛がるようになった。力でビビって言うことを聞く他の奴らとは違う空気を持っていたからかもしれない。そんな大吾だからこそ、大切なものを預けた。その後は大吾に売るなりなんなり好きにしろと言ったが、あれをどうしたかは半間も聞いていないし、大吾も何も言ってはこなかった。会いに行った時、何度となく何かを言いたそうにしていたのは気づいたが、半間は何も聞かなかった。一瞬、警察に情報でも流したんだろうかとも思ったが、もしそうならこのスマホを持っているだけで居場所を特定され、半間はすぐにでも逮捕されていただろうが、今のところそんなこともない。
「しっかし便利になったもんだな…ガラケーより断然、使えるわ」
近所のホテルを検索しつつ、半間は苦笑した。次の瞬間、鼻がムズついてクシャミが出る。6月とはいえ、梅雨時期の夜は何気に冷える。
「もう一枚着てくりゃ良かったかな…」
風呂に入り、後は寝るだけだとパーカーにスウェットという格好だったが、やはり少し肌寒い。半間は鼻を啜りながら以前にも一度だけ来たことのある場所へ足を踏み入れた。
「どこだっけ…アイツの墓」
記憶を元に薄暗い場所を歩いて行く。夜の墓地は外灯も少なく、敷地に二つほど立っているだけだ。だが高台にあるおかげで、下方には東京の夜景がキラキラと輝きを放っていた。半間にとったら懐かしい光景だ。
「お、あったあった」
少し進んだところで目的のものを見つけ、半間は足を止めた。
稀咲家之墓――。
そう書かれた墓石の前に腰を下ろし、買って来たビールを取り出す。一つは墓の前に置いた。逃亡して少し経った頃、数人の親しかった仲間に最後の挨拶とばかりに会いに行った。そこで稀咲が埋葬されたことを聞いた半間は、東京を出る前に少しだけここへ立ち寄ったことがある。しかしその時はまだ警察も躍起になって半間を探していた時で、あまり長居は出来なかった。
「元気か?稀咲」
そこで死人に元気かもないか、と苦笑しつつ、煙草に火をつけた。稀咲の最期を思い出すと、とてつもなく遠い日のことのように思える。稀咲とふたりで一緒に色んなことをしてきた日々は、半間にとって一番退屈しない時間だった。稀咲は頭が良く、狡猾で、半間が予想もつかないことを思いつく。それを隣で見ているだけでワクワクしていた。
半間は自分の分のビールを取り出し、プルタブを開けた。少し温くなったせいで、泡が吹き出してくる。しかし半間は気にすることなくビールの缶を墓石にコツンと当てた。
「約束通り、話しに来たぜ」
言ってからビールを一口煽る。生ぬるいビールが渇いた喉を潤して行った。
「さて…語り明かそうか、稀咲ィ。"死神"と"道化"について」
以前、稀咲に訊かれたことがある。
"半間ァ。一つ聞きてぇ。オマエは――何でオレについてくる?"
"…さぁ?オマエが死んだら教えてやるよ"
"何だそりゃ"
"ひゃは♡ 約束だ"
あの時の約束を果たしに、今日ここへ来た。前に来た時は出来なかった話をする為に。
「――その話、私も聞かせてもらっていい?」
「―――ッ」
唐突に背後から声がして、半間は弾かれたように振り向いた。外灯の明かりの向こうに、ぼんやりと人影が見える。その影がゆっくり近づいて来た。
「……」
声を聞いた瞬間から、分かっていたのかもしれない。彼女のことは常に頭の中にある。
しかし、何故彼女がここにいるのか理解出来ない。半間は混乱した頭で目の前に立つ、かつての恋人を見上げた。Tシャツに薄手のカーディガンを羽織り、ショートパンツといった軽装は、以前の雰囲気をそのまま残している。
「いつか……ここに来ると思って待ってたの」
「……は?」
目の前に膝をつき、真っすぐに自分を見つめる眼差しすら、少しも変わっていない。ただあの頃よりも伸びた髪が、少しだけ年月を感じさせた。
「…会いたかった…修二…」
「オマ…」
言いかけた言葉は喉の奥で止まった。伸びて来た細い腕に抱きしめられ、懐かしい香りと体温に包まれる。久しぶりに人肌を感じた気がした。無意識にを抱きしめ返そうと腕が動く。だが我に返り、半間はの身体を押し戻した。
「何…やってんだよ…脅かすな」
「…修二…少し痩せた?」
は半間を見上げながら、頬にそっと触れる。その手を離すように握ると、半間は「聞いてる?」と呆れたように溜息をついた。
「オマエ、相変わらず人の話、聞かねえ…――」
と苦笑した瞬間、半間が小さく息を飲む。掴んでいたの手、その薬指には見覚えのあるものが光っていた。
「これ……」
驚いての手を引き寄せると、半間はを見つめた。
「何でオマエが持ってんだよ…」
これは大吾にやったはずだ。半間は更に混乱してきた。は半間のそんな気持ちを察したのか、軽く目を伏せてから口を開いた。
「……修二がいなくなって少し経った頃…大吾くん?って人が…持って来てくれたの」
「…ッ大吾が…?チッ…アイツ余計なことしやがって…」
その名前を聞いて納得した。大吾はこの指輪を売り飛ばしもせず、律儀にへ持って行ったのだと。
(だからアイツ、あの時…)
去年、一度だけ会いに行った時、何かを言いたそうにしてたのはこのことだったんだろう。半間の言うことをきかず、勝手なことをしてしまったと思ったのかもしれない。大吾も半間がと別れる選択をしたことすら当時は知らなかったはずだ。いや、必要なくなったと言った時点で気づいて、それでもに渡すべきだと考えたのか。どっちにしろ、半間にとっては予想外のことだった。
「…ここに来るって…何で分かった」
「あれから…修二が前につるんでた人達を探したの。それで最後に会ったって人達を見つけて…。稀咲の墓に寄るって言ってたって教えてもらった」
「…あんなの二年も前の話じゃねーか…。何で今頃になって来るって思ったんだよ、オマエは」
の話を聞きながら、半間はこの場から今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。このまま傍にいれば、決心が鈍りそうだった。
「いつ来るなんて分からないから…その日から毎日ここに来てたの」
「…は?毎日…って…この二年の間、ずっと…?」
「うん…他に修二が立ち寄りそうなとこも分かんなかったから…」
まさかの告白に、さすがの半間も呆気にとられた。二年もの長い間、来るかどうかも分からない男の為にそこまでするとは思わない。
「…バカじゃねえの、オマエ…」
「うん…」
「もし来なかったらどーしてたんだよ」
「…いつか来るって信じてた」
「ハァ?何で」
はそこで目を伏せた。悲しそうに瞳を揺らし、膝の上でぎゅっと手を握り締めている。
「…修二は来ると思ってた。だって…稀咲くんのこと、大切な仲間だと思ってたでしょ…私を放置するくらい」
「………」
「だから…危ないことにも手を貸した…。自分も犯罪者になるの…分かってたのに…」
の瞳から涙が零れ落ちる。声は震えていた。細い肩も弱々しげに震わせている姿を見て、思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
「…はあ…ったく…」
「…修二…?」
「オレは…そんな顔をさせたくてオマエを手放したわけじゃねーっつーの…」
大事だったから。逃亡犯になった自分にあの時できたのは、好きな女を突き放すことだけだった。
「…やっぱり修二は…嘘つきだったね…」
「あ?うるせーよ…」
泣きながらも笑みを見せるに、半間も苦笑する。ここまでされたら自分に嘘をついてまで、彼女を突き放すことは出来なかった。
「オマエも今度こそ共犯になるって…分かってんの?」
呆れたように頭をかきつつ、顔を上げる。するとはふと思い出したように立ち上がり、どこかへ歩いて行った。は闇に紛れ、すぐに姿が見えなくなり、しばし呆気にとられる。今のは幻か?それとも…幽霊?と場所が場所なだけに本気でそんなことを思いかけた。その時、が再び最初に現れた方向から歩いて来た。やっぱり現実かと少しホッとする。はその手に大きなボストンバッグを持って戻って来た。
「オマエ、それ…」
「いつ修二に会ってもいいように荷造りだけして持って来てたの」
「………随分と用意周到じゃん」
嬉しそうな笑みを見せるに、半間は今度こそ本気で呆れたように項垂れた。だがすぐに顔を上げ、真剣な目でを見つめる。
「本気か?」
「…うん」
「オマエ…そこまでオレに惚れてたのかよ」
の強い決心を感じて、軽く動揺している心を落ち着かせようと前のように軽口を叩く。それでもは真剣な顔で頷いた。
「…あの頃も今も、変わらず修二が好きだよ」
だから――連れてって。
涙をこぼしながら、震えた声を絞り出しながら、は半間に抱きついた。今度は迷わずその背中に腕を回す。その温もりを一度でも手にしてしまえば、もう離れることは考えられなかった。自然とふたりの唇が重なる。
「…しゅ…じ…」
「ん…?」
「ここ…お墓…」
何度も唇を重ねてくる半間に、が恥ずかしそうに呟く。
「ん…久しぶりだし…止まんねえ」
「…ん…」
「稀咲も笑って許してくれんだろ…多分」
苦笑気味に言いながら、強引に舌を滑り込ませのものへ絡ませる。さっきまで肌寒かった肌に、じんわりと血が通って行くような気がした。
「…修二…これ、ありがとう」
ゆっくりと唇を離し、しばらく抱き合っていると、不意にが言った。視線を向ければ、薬指に光る指輪がある。あの頃、いつも待たせてばかりで寂しい思いをさせているに、柄にもなく何か形に残るものをあげたくて買ったものだ。
「…凄く…嬉しかった」
大吾からこれを受けとったは半間の本心に気づき、探し出してもう一度会うことを誓った。この二年、何度も挫けそうになりながらも、指輪を見るたび心を奮い立たせた。
「あの時は…悪かったよ…酷いこと言って」
「…ううん」
自分の為だったとは分かっている。この指輪のおかげだ。
「でも…もう嘘は言わないでね」
がそう言うと、半間は困ったように笑いながら、もう一度にキスをした。
「言わねーよ。オマエを二度と失いたくねーもん」
抱きしめながら本音を呟く。
半間の世界がまた少しずつ、色づき始めた。
END...