一夜.陽当たりのわるい夢~序章~




(何で…こんなことに――?)

雪山に囲まれた静かな別荘地に響く悲鳴や怒号を聞きながら、声もなくただ立ち尽くす。記念すべき日の前夜、突如として起こった惨劇は、この場にいた全員が予想すらしていなかったに違いない。理解の範疇を超えた状況に置かれた人間は、ただ恐怖に怯え、動くことすら出来なくなるということを誰もが思い知らされただろう。

「た…っ助けて…助けてくれぇぇ…ッ」

心から哀願するような悲鳴に、思わず耳を塞いだ。どうすることも出来ない。私には何もしてあげられないのだと、自分に言い聞かせるように。その光景を目の当たりにした人間は皆が口を閉ざし、耳を塞ぎ、思考さえも閉じるように目を瞑る。

何故、こんなことに――?

答えのない問いを頭の中で繰り返し、どうか夢であってくれと祈りを捧げる。
ほんの数時間前の団欒の時間も、当たり前に来ると思っていた静かな夜も、断末魔が途切れた瞬間、終わりを告げた。








~12時間前~



「前に視察に来た時とは大違いね。随分と開けたものだわ」

運転手がドアを開けると、中から降り立った舞衣子は目の前に立ち並ぶ別荘を見渡しながら感心したように呟いた。明るめの髪にふわりと緩いパーマをかけ、大きな瞳が印象的な彼女は、財閥の長女であり、次期後継者とも言われている。舞衣子はその勝気な瞳を真っ白な雪景色へと向けた。

「でも大丈夫?こんな雪だらけで山に囲まれた別荘なんて人が来るの?」
「一週間後の完成セレモニーには大勢の客やマスコミが押しかけます。ここは一躍人気の観光地になりますよ」

スラリとした長身の男が舞衣子の後から降りて来た。枇々木武ひびきたけし。彼は舞衣子の祖父の秘書であり、彼女の婚約者でもある。黒いロングコートの下にはキッチリとしたスーツを着込み、端正な顔立ちに似合わず、鋭い目つきは少々冷たい印象を与える男だ。

「空気はいいけど寒すぎね…。もう…何で私がこんな遠い場所まで来なくちゃならないのよ」
「舞衣子ちゃん、手袋忘れてる」
「ああ、。ありがとう」

最後に車から降りて来たのは。綺麗な顔立ちながら華やかな姉とは違い、黒い髪に薄くメイクをしただけの地味な印象。彼女は舞衣子の妹だ。彼女もまた祖父に言われ、舞衣子と共にスキー場完成セレモニーへの出席と別荘地での客の出迎えを頼まれていた。

「本当、凄い雪ね…。あの長いトンネルを抜けたら一面真っ白で驚いちゃった」
「でもおじい様も物好きよね。いくら生まれ故郷だからってこんな山を丸ごと買って大規模な土地開発だなんて。ここにスキー場を建てる為に周りにまで道路を引くとか」

舞衣子は呆れたように言いながら、すぐに手袋を身につけた。
ここは中部地方にある犬鳴山いぬなきやま。元々は地元の資産家だった舞衣子との祖父である幸三こうぞうが持っていた土地だった。人の寄り付かない山岳地帯を観光地にする為、財閥がスキー場と別荘地の建設に乗り出したのは10年も前だった。山を切り開き、一番近い国道までの道路を作り、スキー場の近くには別荘地として多くの建物を建て、売りに出した。そして去年の初冬に無事、全ての工事を終え、今年に入ってオープン前に完成セレモニーを行うことになったのだが、肝心の祖父がゴルフ中に足を骨折。姉妹の両親である息子夫婦はアメリカの会社を任せているので、今回のセレモニーだけの為に帰国させるわけにもいかず、仕方なく孫の二人を出席させることにしたのだ。

「いいじゃないか。男のロマンだよ。会長は故郷へ何かの形で貢献するのが夢だったと仰ってたからね」
「男って変なところにロマンを感じるのねー。私には理解不能だわ」
「舞衣子ちゃんはスキーしないもんね。――あ、ありがとう御座います」

は苦笑交じりで口を挟み、車から自分の荷物を下ろしてくれた運転手へお礼を言った。

「いや~!ようこそ、いらっしゃました!」

そこへ防寒着に身を包んだ大柄な男性、その後ろから高級そうなコートを羽織った初老の男性が歩いて来た。

「彼が別荘地の管理人をする矢口さんで、その後ろはスキー場近くに建てた病院の院長、竹本さんです。竹本さんは今夜開く別荘でのパーティに参加予定です」

枇々木が舞衣子の耳元で情報を伝える。舞衣子は小さく頷くと、すぐに愛想のいい笑顔を向けた。幼い頃から財閥の後継者として厳しく教育されただけに、そこはそつなく対応できる。

「初めまして、矢口さん、竹本さん。舞衣子です」
「やあ、これはこれは…会長のお孫さんが来ると聞いてはいたが、噂通りお美しい方だ」

院長の竹本は愛想のいい舞衣子に、その優しい笑顔を向けた。そしてふと後ろに立つへ目を向ける。華やかな印象の舞衣子とは違い、黒髪の地味な印象の女性。一瞬、舞衣子の付き人かと思ったが、竹本はふと思い出した。舞衣子には4歳下の妹がいたことを。

「こちらは妹さん、でしたかな?初めまして。医院の院長を務める竹本です」
「は…初めまして。と言います」

いきなり声をかけられて驚いたは慌てて自己紹介をした。姉の舞衣子とは違い、はあまり社交的な方ではない。いつも華やかな姉の後ろにいるので、竹本が勘違いしかけたように付き人と間違われることが多かった。しかし竹本は前もって家の家族情報を頭に入れてあったようだ。はさすがおじい様に院長を頼まれるだけあるなと思わず感心していた。地味な自分に声をかけてくる人間はさほど多くない。皆が華やかで美しい舞衣子に心を奪われ、のことなど見向きもしない人間があまりに多いせいだ。

「さすが美人姉妹という噂は本当でしたな」

竹本のリップサービスに、は恐縮しながらも「今後ともよろしくお願い致します」と頭を下げた。それを横目に舞衣子は管理人の矢口に声をかけた。

「それで、私達の泊まる別荘は?」
「はい、全て準備が整っています。ああ、一番奥の大きな建物。あれがお嬢様たちの泊まる別荘です」

10件ほど立ち並ぶ別荘、その奥に一際大きな別荘がある。そこは財閥の別荘として建てられたものだ。他にもこの近くには一般人向けのお洒落なロッジが立ち並び、周辺にはコンビニがオープン予定だった。

「ではご案内します。足元に気をつけて下さいね」

矢口は言いながら一行を案内するべく歩き出した。昨日のうちに重機を使い、積もった雪などを除いたものの、今朝がたから降り出した雪のせいで、また少し積もって来ている。

「スキー場なんだから雪は多くて結構だけど、こういう場所では歩くのも大変よね」

舞衣子は小声でブツブツ言いながらも、枇々木に手を引かれ歩いて行く。と竹本もその後に続いた。

「都会から来る方は雪にも慣れてないでしょう。さんも足元に気をつけて」
「は、はい。ありがとう御座います」

気遣ってくれる竹本に笑顔を見せつつ、はゆっくりと雪を踏みしめながら歩いた。一応、雪対策で滑り止めのついたブーツを購入したが、雪に慣れていない人間は歩き方からして間違っているという。ふと管理人の矢口を見れば、彼はさすがに慣れているのか、さくさく早歩きで歩いていた。

(これ以上、積もったらこの辺りは大変ね…除雪してくれるんだろうけど…)

は溜息交じりで空を見上げた。まるで紗をかけたような薄曇り。灰色をした空からは雪がどんどん降って来る。この地域ではこんな天気は当たり前なのだと祖父が話していたのを思い出す。

"大げさなくらい冬物の服を持って行け。それでも都会育ちのお前たちには厳しい寒さだろう"

祖父に言われた通り、はシッカリと寒さ対策をして来た。東京では少し暑いと思うくらいのモコモコ系の服を選び、足元も冷やさないよう靴下も分厚い物を買った。舞衣子にはダサいと言われたが、ダサくても冷え性のにしたら足元を冷やす方が嫌だった。

さん、何してるんです?」

立ち止まっていたに気づき、竹本が声をかけて来た。今行きます、と返事をしつつ、は戻っていく家の車を見送る。運転手はスキー場のホテルへ泊まることになっているので、帰る時に迎えに来る予定だった。

「…この雪じゃ帰りは運転大変そう」

来たばかりでもう帰りの心配をしている自分に苦笑しながら、は皆の後を追いかけていった。








夜になり、スキー場のホテルから豪勢な料理が次々に運ばれて来た。今夜は別荘を購入してくれた人たちを家の別荘に招待して前夜祭のようなパーティをすることになっている。は忙しく走り回るホテルスタッフを眺めながら、大広間に入って行った。そこでは姉の舞衣子が枇々木と何やら楽しそうに談笑している。

「やだ、こんな挨拶じゃ笑われちゃうわよ」
「大丈夫だよ。客は君の挨拶より美しい家の令嬢を見に来るんだから」

枇々木は舞衣子の肩を抱き寄せ、その頬へ軽くキスをしている。その光景を見て、の胸に重苦しいものがこみ上げた。

「あら、。やっと部屋から出て来たの」
「やあ。も紅茶飲む?」

舞衣子の呆れたような顔とは違い、枇々木は笑顔で声をかけてくれる。つい頷いてしまいそうになったが、この二人といても辛いだけだ。

「私はいい。それより…管理人の矢口さんは戻って来た?」
「ああ、そう言えば…あれから見かけないな。まだなんじゃないか?どうかした?」
「私の部屋の窓に雪がかかって薄暗いし寒いの。だから毛布を一枚増やしてもらいたくて」
「ああ、そういうことなら僕が出すよ。毛布をしまってある部屋は前に来た時に確認に行ったから」

枇々木がそう言って立ち上がる。舞衣子は明らかに不満そうな顔をしたが、枇々木に「ちょっと待ってて」と声をかけられると渋々ながら頷いていた。

「じゃあ行こう」

枇々木はを促すように廊下へ出た。

「…ごめんなさい。ふたりの邪魔して」

二人きりになった時、前を歩く枇々木にはついそんな言葉を投げかけていた。スタッフ達が忙しそうに動きまわる一階の廊下を抜け、エントランスホールの階段から二階へ上がる。途端に騒がしい声は聞こえなくなり、静かな空間に変わった。

「そんなことを言われたら僕もつらいな」
「………」

ふと立ち止まり、枇々木が振り返る。は顔を上げることが出来なかった。枇々木は姉の婚約者だ。これ以上、何も期待してはいけない。

「そんな意味で言ったんじゃないの。ごめんなさい」

祖父の秘書として優秀な枇々木は大学生のから見れば魅力的な大人の男性に映った。仕事も出来て、よく気が利く優しい枇々木に憧れにも似たような想いを抱いた。それが恋に変わるのに時間はかからなかったが、その頃、枇々木は姉の舞衣子と婚約をすることになった。自分の想いを打ち明けることもないまま、この恋は終わるはずだったのだ。なのに――。

「ああ、ここだよ」

二階の一番奥にある小部屋のドアを開け、枇々木は中へ入った。その部屋には羽毛布団や毛布など寝具の予備が置かれている。その中から一枚の毛布を取り出し、枇々木はへそれを差し出した。

「ありがとう…」

毛布を受けとり、小部屋を出ようとしたその時、枇々木がの腕を掴んだ。強引に引き寄せられ、抱きしめられると、の身体がかすかに震える。

「や、やめて」
「どうして」
「どうしてって…」
「あの夜のが忘れられない」

枇々木が耳元で囁くように呟いた。ゾクリとしたものが背中を走り、は慌てて身を捩った。一か月前――姉の舞衣子が両親のいるアメリカに遊びに行った夜、一人で家にいたを枇々木が食事に誘って来た。

"暇なら食事に行かない?"

本当なら断るべきだったのだ。しかし姉が不在の中で想い人に誘われ、食事くらいならとつい誘いに乗ってしまった。あげくその帰り、枇々木にキスをされたのをは拒むことが出来なかった。

「舞衣子ちゃんと別れる気なんかないクセに…」
「…仕方ないさ。彼女との結婚は僕が望んだわけじゃない。君のご両親が僕を選んだ」

枇々木は温厚に見えて、実はかなりの野心家だったことに気づいた時にはすでに遅かった。姉の舞衣子と婚約していながら、妹のの気持ちに気づき、手を出して来るような男だったと知った時には。

「僕だって本当なら従順なみたいな女性がいい。舞衣子のように我がままで自分本位な子は疲れるからね」
「……勝手な言い草。とにかく…私、もう枇々木さんとは――」

と言いかけた時、顎を持ち上げられ、無理やり唇を塞がれた。驚いて両手で突き飛ばすと、手にしていた毛布がパサリと足元へ落ちる。

「酷いな…突き飛ばすなんて」
「そろそろゲストが着く頃です。早く戻って舞衣子ちゃんの手伝いをしてあげて」

顔を背けながら突き放すように言えば、枇々木は苦笑いを浮かべながら屈んで、落ちた毛布を拾った。それをに手渡すと「仰せのままに」と微笑み、小部屋を出ていく。その後ろ姿を横目に見ながら、は深い溜息をついた。本当なら来たくはなかった。こういったセレモニーは長女の舞衣子と婚約者の枇々木だけで事足りる。後継者でもないは家の仕事に関知していないのだ。なのに両親から電話が来て姉妹揃って顔見せするにはいい機会だから、と説得されてしまった。

(やっぱり来なきゃ良かった…)

あんな男だと知っても強引に来られると少なからず心が乱される。それが嫌だった。家では次女のに誰も期待していない。華やかな姉とは真逆のような地味な妹には誰も興味を示さない。だからこそ、枇々木が自分に関心を持ってくれたことが嬉しかったのに。

(彼は楽しんでるだけだ…。姉妹を自分の思うように出来てるのが楽しいだけ)

そこに愛情はない。そんなこと分かっていたはずだ。他人に何も期待してはいけない。そう思いながら歩き出そうとした時、かすかに人の悲鳴のようなものが聞こえてはふと足を止めた。その数秒後、今度はドーンという大きな音が静かな空間に響く。

「…何…今の」

音の遠さからすると家の中ではない。は一度毛布を置くと、すぐにエントランスホールへと向かった。そこにはやはり今の音に気づいたのだろう。枇々木と舞衣子、そして医師の竹本、他にはパーティに招いていた別荘を買い取ったという祖父の友人の娘と、その友達の大学生五人ほどが揃っていた。買った本人ではなく、子供とその友人だけで現れたのは少々驚いたものの、若い人がいると場が華やいでいいじゃないかと枇々木が笑って話していた。

「何があったんですか?」

階段を急いで下りながら、が尋ねると、枇々木と舞衣子は顔を見合わせながらも「分からない」と応えた。

「でも外で悲鳴が聞こえたよねー?」
「何かドーンって大きな音も聞こえたしな。ちょっと見てこようぜ」

大学生の男2人がそんなことを言いながらドアの方へ歩いて行く。しかし医師の竹本は「外はもう暗い。吹雪いているし出ない方がいいんじゃないか?」と言い出した。しかし若者にとって闇は怖いものじゃないらしい。都会育ちでは雪吹雪の怖さも知らないのだ。

「大丈夫っすよ。こんな場所に変質者なんて出ないだろうし」
「もし事故か何かで動けない人がいるなら助けないとな」

大学生の男達は笑いながらドアを開ける。そこに冷たい風が吹き付け、2人は思わず顔をしかめた。昼間よりもだいぶ風や雪が強くなってきたようだ。

「さみー」
「何か着た方がよくね?」
「でもちょっと別荘地の周り見るだけだし」

2人はセーターを着ただけの軽装で外へと出ていく。舞衣子は興味を失ったのか「どうせ雪に足を取られて転んだだけよ」と言いながら大広間へ戻って行った。枇々木もその後に続く。他の大学生達も「部屋に戻ってようぜ」と階段を上がって行った。

「もしかして矢口さんですかね」
「さあ…」

医師の竹本に聞かれ、も首を傾げる。矢口は先ほど出て行ったきり戻ってきていない。

「彼は何をしに出て行ったのかな」
「ああ、それは…」

は先ほど矢口が外へ向かった理由を簡単に竹本へ説明した。

「声が聞こえたんです」
「声?」
「はい。犬の…遠吠えのような声です」
「…犬?」
「犬鳴山という名前の通り、この辺にはまだ野犬が残っているって矢口さんが。それでゲストに襲い掛かっては困るからって矢口さんが見に行ったんです」
「そうか…それは心配だな…」

竹本がぼそりと呟く。しかしにしたら犬の一匹や二匹、何が心配なんだろうと首を傾げた。野犬とはその名の通り犬であって狼といった獣とは違う。それほど危険だとは感じなかった。しかし竹本は難しい顔で「犬鳴山の由来は知ってるかい?」と尋ねて来た。

「はい。祖父から少しは…確か昔はこの辺の山に飼えなくなった犬を捨てに来てた人がいたとか…」
「そう。酷い話だ。増え続けた犬は野生化し、次第に狂暴になっていった。だがここを開拓する前に君のおじいさんが保健所へ依頼して、野犬を捕獲したと言っていたよ。でも声が聞こえたならまだ残ってるのかもしれないね」

竹本は言いながらも「寒いから広間に戻ろうか」と言って歩き出す。その時だった。正面入り口のドアが凄い勢いで開き、先ほど様子を見に行った大学生の一人が走り込んで来た。

「ああ、アンタ医者だろ?ちょっと来てくれ!」

その大学生は慌てた様子で竹本の腕を掴んだ。驚いた竹本とは顔を見合わせつつ「何があった?」と聞いてみた。

「何か管理人とかいうオッサンが血まみれで…とにかくケガしてるみたいだから――」

と言いかけた時、再びドアが開き、もう一人の大学生に抱えられた矢口が入って来る。聞いたように矢口の腕は血で真っ赤に染まっていた。

「矢口さん…?!どうしたんですか?」

短い悲鳴を上げながらが駆け寄る。竹本は止血の為、すぐに矢口を床へ寝かせ、青い顔で立っている大学生の一人に「私の医療用鞄が広間に置いてある。取って来てくれ」と頼んだ。

「わ、分かった…」

一人が急いで走って行く。その間にも矢口は苦しそうに呻いている。

「これは酷い…何があったんですか」

竹本が尋ねると、矢口は震える唇を僅かに動かし「野犬…に…クソッ…野犬にやられた…」と深い息を吐き出す。どうやら本当に野犬がいたらしい。駆除をしに行った矢口は逆に襲われ、腕を咬まれたようだ。事情を聞いた竹本は大学生が持って来た医療用鞄からまず消毒液を取り出し、矢口の傷口へ勢いよくかけた。そうすることで血液に阻まれ見えなかった傷口が現れる。

「思った以上に…酷いな…」

止血用の布を当てながら傷口を確認した竹本は、徐に顔をしかめた。

「噛まれたと言うよりこれは…食いちぎられている…」
「…えぇ?!」
「早く手術をしないと出血多量になってしまうな…」

竹本は独り言のように呟くと、すぐにズボンのポケットからケータイを取り出した。

「病院にはすでにスタッフが揃っている。そこに運ぶ」
「で、でもこの雪じゃ…救急車来れますか?」
「…無理なら私の車で運ぶ」

竹本は自家用車でこの別荘地まで来たらしい。矢口の住む管理人用の建物裏に止めてあると言った。

「…繋がらないな。電波が悪いのか?」

病院にかけたものの、見ればケータイは圏外となっていて竹本は困ったように頭を振った。矢口はすでに話すことも出来ないほど意識が朦朧としているようだ。青かった顔が次第に紫色に変色していくのを見て「マズいな…」と呟く。はどうしたらいいのか分からず、見守ることしか出来なかった。

「この別荘に固定電話はあるかな?」
「あ、はい…。確か…大広間の隣にダイニングがあって、そこに一台設置したと聞いてます」
「ではそれを借りるよ」

竹本はそう言ってすぐに広間の方へ歩いて行く。その場に取り残されたは荒い呼吸を繰り返す矢口を見ていることしか出来なかった。大学生の二人も同じなのか、怯えたような顔で「野犬やべーな」と言い合っている。

「あ、あの…あなた達は見たんですか?その…野犬を」
「いや…オレらは別荘地の入り口付近で倒れてるこの人を見つけただけで…」
「犬は…見てねえな…」
「そう…」
「ああ…でもこのオッサンが倒れてたすぐ傍に猟銃が落ちてたから、もしかしたらオッサンが犬を撃ったのかもよ?」
「…猟銃…」

普段は聞きなれない名前を聞き、ドキっとした。何故別荘の管理人である矢口がそんな物騒なものを持っているのかと疑問に思う。その時だった。大学生の一人が矢口の異変に気づいた。

「な、何か痙攣してね?」
「え?あ…」

見れば矢口は白目をむいたまま、ピクピクと四肢が痙攣しはじめた。意識などとっくにないように見える。

(これ…マズいんじゃ…)

竹本が止血をして出血は抑えているが、傷はどう見ても深いはずだ。は直接見ていないが、竹本は食いちぎられていると言っていた。もし太い血管が損傷していれば相当な血を流したことになる。こんな場所で死人が出てしまったら――。そう考えるとは怖くなった。
その時、痙攣していた矢口が低い呻き声をあげた後、ピクリとも動かなくなった。

「ウソ…矢口さん…?!大丈夫ですか?矢口さん!」

死んでしまったのかとはすぐに矢口の胸へ耳を押しつけた。だがかすかに鼓動の音が聞こえてホっと息をつく。

「生きてる…」
「マジかよ…」
「ビビったぁ」

の言葉に大学生の二人もホっとしたように呟く。

「とにかく竹本先生を呼んできますので、矢口さんを見ててもらっていいですか?」
「ああ、いいっすよ」
「ありがとう御座います」

とりあえずその場は大学生二人に任せ、は電話をかけに行った竹本へ矢口の容態を伝えに行くことにした。

「…。何騒いでるの?竹本さん、何か慌てたようにダイニングへ行ったけど」

大広間へ行くと、舞衣子は呑気に酒を飲んでいた。枇々木はどこかへ行ったのか姿が見えない。

「矢口さんが野犬に襲われてケガを…出血がひどくて意識がないの…っ」
「はあ?野犬って…そんなものまだいるの?」

ほろ酔いなのか、舞衣子は全く見当違いの方を気にしている。そこへ枇々木が戻って来た。

「料理の準備が出来たよ。後はゲストが揃うのを待つだけだ」

枇々木はまだ何も聞いていなかったようだ。呑気に料理の話をしている。はすぐに矢口の件を枇々木にも伝えた。だが枇々木もまた、舞衣子同様、困った顔をするだけだった。

「参ったな…死人が出たなんてことになったら一週間後のセレモニーに支障が出る。彼はどこに?」
「エントランスで…意識がないの」
「…竹本先生は病院に電話をしてるんだろ?ならすぐ救急車が来るはずだ」
「枇々木さん…ここは都会じゃないのよ?この雪じゃ救急車なんて――」

が言いかけた時だった。エントランスの方から悲鳴が聞こえて、その場にいた全員がビクリと肩を震わせた。

「な…何だ…?」
「やだ…まさか野犬が入って来たんじゃ…」

舞衣子が青い顔で枇々木にしがみつく。も怖かったが、今の声がさっきの大学生のものだと気づき、すぐにエントランスへと向かう。しかし、は扉を開けたことをすぐに後悔することになった。

「……た…助け…ぅあぁっ」
「う…い、飯田!」

エントランスは字のごとく、血まみれだった。しかしが驚いたのはそのことだけじゃない。さっきまで意識のなかった矢口が起き上がり、大学生の一人に圧し掛かっていたのだ。

「ぐあぁぁぁっ」
「や…矢口…さん…?」

おかしなうめき声を上げながら、すでに意識のない大学生の首元へ噛り付いている凄惨な光景に、は背筋に冷たいものが走った。何が起きているのかサッパリ分からない。あんなに重症だったはずの矢口が何故動けるのか。

「うわぁぁぁ!飯田を放せ!!」

その時、もう一人の大学生が震えながらも傍にあった花瓶を両手で持ち上げ、それを矢口に投げつけた。それが矢口の背中に当たり、派手に割れる。その刹那――矢口は勢いよく振り向くと、花瓶を投げつけた大学生に物凄い速さで飛び掛かった。

「がぁぁぁっ!」
「うわぁぁぁ!やめろ…コイツ…!」

床に押し倒された大学生が必死に噛みつこうとする矢口の顔を手で抑える。それを見たはハッと我に返ると「枇々木さん!」と大声で呼んだ。

「な…何だ、これは…」
「おい、何があった!」

そこへ竹本が戻って来た。竹本もまた目の前の光景が信じられないのか、言葉を失ったように立ち尽くす。しかし大学生が必死に抵抗している姿を見て、ふとエントランスに立てかけられていたスキーとストックに目を向けた。その荷物は大学生たちが置きっぱなしにしていたものだ。その中からストックを掴むと、竹本は大学生に圧し掛かっている矢口の背中を殴りつけた。怪我人などと言っている場合じゃないのは火を見るより明らかだった。

「ぐああぁぁっ」
「…彼を放せ!」
「竹本さん…!」

そこで枇々木もやっと状況を飲み込んだのか、すぐに竹本の援護をするべくもう一本のストックを手にして矢口に向かって行った。矢口はふたりから殴られると錯乱した様子で大学生から離れたものの、興奮したように竹本と枇々木を睨んでいる。その目は真っ赤に充血し、口元からはダラダラとよだれを垂らしている。すでに正常とは言えなかった。

「く…彼に何が…」
「そんな話は後だ!彼は明らかに理性を失ってる…このままだと皆を襲いかねない…このまま追い出す」

床で倒れたまま動かない大学生を見下ろし、枇々木が言った。竹本も自分の手には負えないと判断したのか、無言のまま頷くと二人で矢口をドアの方へと追い立てるように近づいて行く。矢口は低い唸り声を上げながらジリジリと後退していった。それを見た枇々木は一気に追い詰めようとストックを振り回しながら矢口に向かって行く。そこでもうひとりの大学生が機転を利かし、こっそり後ろから回り込んで正面ドアを開けた。それに気づいた枇々木が「出ていけ!」と言いながら矢口をストックで殴ろうと手を振り上げる。その時、矢口が人間とは思えないほどの速さで枇々木に飛び掛かり、ストックを持つ右腕に噛みついた。

「ぐぁぁっ」

たまらずストックを落とした枇々木は、もう片方の手で矢口の横っ面を思い切り殴りつけた。矢口はそこで口を放し、竹本が近づこうとした時、突然外へと走り去った。

「クソ…ドアを…閉めろっ」
「は、はい…!」

噛みつかれた腕を抑えつつ、枇々木が叫ぶと、大学生が慌ててドアを閉める。ついでに施錠もきっちりとして、その場にずるずると座り込んだ。

「だ、大丈夫か?」
「…思い切り噛みつかれた…何なんだ、アイツは!」

竹本が駆け寄ると、枇々木はイラだったように吐き捨てた。

「とにかく治療しよう」

竹本は額の汗を拭きながら、枇々木に肩を貸して立たせると、床に倒れたままの大学生を見て溜息をつく。首を食いちぎられた痕を見れば、絶命しているのは確認しなくても分かった。頸動脈からは大量の血が流れ、エントランスは真っ赤に染まっている。

「飯田…嘘だろ…」

友人の死を目の当たりにして泣き崩れた男に、竹本は「何があったんだ…」と声をかけた。病院に電話をかけに行く前、矢口は自分の力では動けないほどの重症に見えた。なのにさっきの動きは怪我人のものではなかった。

「アイツ…アイツが意識を失って様子を見てたんだ。先生が戻って来るまでの間…。でも急に目を開けて…唸り声を発したと思った瞬間…飯田に襲い掛かって…アッという間だった…」

声を震わせながら大学生の男は「アイツ…飯田の首を狙って噛みつきやがった…」と呟き、頭を抱えた。

「きゃあぁっ」
「な…何だ、これっ…飯田?!」

騒ぎを聞きつけたのか、部屋に戻っていた仲間の大学生たちが階段から下りて来た。血まみれのエントランスを見て全員が青い顔で立ち尽くしている。

「いったい…何が起こったんだよ…っ」

一人が叫んだ。だがも、いやその場にいた人間誰もが同じことを聞きたかったに違いない。
その時――ドーン!ドーン!という大きな音が外から響いて来た。

「…これは…銃声…?」

静まり返ったエントランスに、戦慄が走った。