
四夜.芽生えた怒り
「ふー!スッキリしたぁ」
体や髪を洗い、冷えた全身を湯に浸かって温めた半間は、置いてあったバスローブに着替えてからバスルームを出た。雪で濡れた服をまた着る気にはなれない。案内してきた女は下に戻ったのか、部屋にはいなかった。
(…まずはいい感じで入りこめたな…)
外で襲って来た管理人らしき男を撃ち殺し、半間はその男が垂らした血が続くこの別荘まで辿り着いた。中に人の気配を感じ、探していた場所はここだと分かった。最初の予定通り土砂崩れで戻れなくなった通りすがりだと正直に話したことで、特に怪しまれた様子もない。武器も本当に落ちていたものを拾っただけだ。そしてラッキーだったのは、この別荘でも騒ぎが起きていたことだった。あの頭のイカレたヤツに襲われたらしい死体を見た時、銃を持っていてもおかしくないという印象を持たせることが出来たからだ。
(ま…サツの銃まで持ってるとは思わねえだろうけど)
部屋に設置されたミニ冷蔵庫の中からミネラルウォーターを出して一気に飲み干すと、先ほど襲えてもらったリモコンでエアコンの暖房をつけた。やっと一息付けた気がした。
「さて、と。これからどーすっかな…」
竹本という医者に手伝ってくれと頼まれたが、あまり長々関わっていたくもない。名前や顔は知られていないだろうが、これでも一応逃亡している身なのだ。念のため、苗字だけは嘘を言って稀咲の名を借りたが、必要以上に関わってしまえばいつかボロが出るかもしれない。
「…オレもたいがい適当で面倒くさがりだからなー」
苦笑しつつ、さっき顔を合わせた人間たちを思い出す。この別荘にいるのは持ち主の姉妹、秘書の枇々木、医者の竹本、そして半間がサービスエリアで見かけた大学生ら数人。他にも使用人が何人かいるらしかった。その中でもいざという時、逆らってきそうな男を半間は先ほどチェックしておいた。
(秘書の枇々木、そして大学生の男ふたり、か。あとは使用人の中に何人男がいるかだな)
面倒なことになれば半間はひとりで逃げる気でいた。その際、自分の弊害になり得る存在は排除する必要がある。あの中で抵抗してきそうなのは男連中だ。だがパっと見、半間が特に警戒の必要があるような人物はいなかった。どこからどう見ても普通の平和な世界で生きている人間ばかり。多少、腕に自信がある人間がいたとしても半間の敵ではないだろう。
「ま、少しの間は大人しくしとくか…?飯も食いてーし」
独り言ちると自分の上着のポケットを漁り、煙草を取り出す。一本火を点け、室内を見渡したが灰皿などは見当たらない。
「チッ。ここも禁煙かよ」
最近は海外を真似てか、日本でも煙草を吸う場所がだいぶ少なくなってきている。飲食店などはどこもかしこも禁煙の文字が目立ち、愛煙家の半間をイラつかせた。
「ったく…吸うなってんなら売るなっつーの」
言っても仕方のないことをボヤきながら、半間は仕方なく窓を開けた。この雪の中なら捨てても家事になることはないだろう。そう思いながら雪が舞う薄暗い景色を眺める。先ほどより風は弱くなっているものの、一向に雪の止む気配はない。
「…ん?」
その時、闇の中に光るものが見えた気がして、半間は少しばかり身を乗り出した。別荘前の私道脇は大きな木々があり、少し離れた場所には他の別荘も見える。だがちょうどその間の林の中に、それは佇んでいた。金色に光る瞳はジっと半間を見つめている。
「…狼…いや…野犬、か?」
暗くて上からでは見えにくいが、良く聞けば低い唸り声を発している。
「人を襲ったって野犬はあれか…つーか…デカくね?」
犬というよりは野生の狼のような風貌だった。気が立っているのか、その犬はやたらと唸り声を上げ、今にも襲い掛かってきそうに見える。
「ここが二階で良かったかもな…」
あの様子じゃ窓くらい突き破ってきそうだと感じた。半間は最後の一口を吸い終えると、窓の外へ向かって煙草を指で弾く。それはすぐ風に吹かれ、ふわふわと闇の中へ飛んで行った。
「あれ、いねえ」
ふと視線を戻せば、先ほどいた場所に野犬の姿はない。まるでコッチの偵察に来たような印象を受ける。少し不気味に感じて半間はすぐに窓を閉めた。せっかく温めた体が冷えてしまっても元も子もない。
「チッ…マジで面倒なとこに来ちまったな…」
外には狂暴な野犬、そして何故か人を襲う人間も複数いる。それは半間が思っていたヤク中とは何か違う気がした。あの警官一人ならその可能性もあったが、ここの管理人までとなるとあり得ない気がする。といって何が起きているのかサッパリ分からない。
「まずはさっきの女に何が起きたか訊いてくるか…」
最初のキッカケがどこからなのか知る必要がある。半間は部屋を出ようとドアの方へ歩きかけた。だが、ふと自分の恰好を見下ろし苦笑した。
「つっても…この恰好じゃさすがにまじいな…」
バスローブの下には何も身につけていない。すぐに自分の荷物から新しい服を出して着替えると、手の甲どちらもテーピングをし直しタトゥーを隠す。そこへノックの音が響いた。
「あの…稀咲さん。です」
ここへ案内をしてくれたという女だ。半間はすぐにベッドから立ち上がり、ドアを開けた。
「あ、稀咲さん。これ持ってきました」
「え?」
目の前に差し出されたものへ視線を落とすと、の持つトレーの上に色々な料理が乗った皿や、コーヒーポットとカップがあった。
「ダイニングだと使用人たちがいて落ち着かないだろうと思ったので此方でどうぞ。足りなかったら、またお持ちします」
「あ~…サンキュー。助かるよ」
どうやら気を利かして運んでくれたようだ。半間は頭を掻きつつ、それを受けとった。
「それで…さっき聞いてた話なんですけど」
「ああ、うん。食べながら聞くわ」
「はい」
もそのつもりだったのか、コーヒーカップは二つ乗せてあった。ふたりは室内にあるソファに向かいあって座ると、がポットからコーヒーを注いでくれた。
「どうぞ」
「どーも」
随分と気が利く女だと感心しながら、育ちの良さはこういうところにも表れるのかと内心苦笑した。これまで自分の周りにいた女を思い出したのだ。自分を着飾ることや、強い男を漁ることにしか興味のない女達ばかりだった。
(この女はそーいう世界とは無縁って感じだな。自然にしてても品の良さが滲み出てる。あまり化粧っ気もないのに綺麗だし、まあ、地味だけど…またそこが従順そうでそそられんだよな)
目の前のを観察しながら、半間は出された料理を食べ始めた。が持って来たのはオードブルのようなものだった。パンやローストビーフ、生ハムにチーズ、海老とサーモンのマリネなど、一つ一つが高級な食材を使っているようだ。当然、味も最高に美味しかった。
「うま。っていつもこんな飯ばっか食ってんの」
「まさか。今夜はパーティを予定してたのでオードブルにしてもらっただけです」
はちょっと笑いながら自分もコーヒーを注いで飲み始めた。そして軽く息を吐くと、ふと半間を見る。
「稀咲さんは…おいくつですか?」
「オレ?今年で19。は?」
「私は今年で20歳になったばかりです」
「へえ、一つ上?見えねー」
「え…」
「落ち着いてるからもう少し上かと思った」
半間がそう言うと、は複雑そうな顔をした。
「私、そんなに老けてます…?」
「あ?いや…見た目の話じゃねえよ」
そう言いながら笑うと、も恥ずかしそうに「何だ…」と苦笑を零した。その笑顔はなかなか可愛らしい。
「えっとじゃあ…さっきの話なんですけど…」
「ああ」
「最初、外から犬の遠吠えのようなものが聞こえたんです。スキー場と別荘地を建設するに当たって、私の祖父が全ての野犬を保護したはずでした。でもまだ残っていたようで、もしゲストに何かあっては危険だから、と管理人を務めることになっていた矢口さんという方が外へ様子を見に行きました」
は半間にも分かるよう、起きたことを順序立てて話し始めた。その後に悲鳴と銃声が聞こえたこと。ゲストの大学生が様子を見に行き、野犬に噛まれた矢口をここへ連れて来たこと。その矢口が意識を失い、その直後に気が付いた矢口が近くにいた大学生を襲いだし、矢口を危険だと判断した竹本と枇々木で外へ追い出したこと。その後にまた銃声が聞こえて――。
「そこに…稀咲さんが来たんです…」
「ああ…その銃声は多分オレ」
黙って話を聞いていた半間がふと顔を上げた。
「え?」
「言ったろ?ここへ来る途中、頭のイカれたヤツに襲われたって。で、ここでも違うヤツ…多分その矢口って管理人だろうなー。ソイツもオレに向かって襲い掛かろうとしてきたから撃った」
「……そ…そう、なんですね…」
半間の説明には唇を震わせた。
「今の話を聞いたとこ、その矢口ってヤツは大学生を殺してる。そうだろ?下にあった死体がそれだ」
「……はい。首に噛みつかれたようで…出血がひどくて…間に合いませんでした」
「んじゃあオレが撃ったのも正当防衛になる。だろ?」
「はい…矢口さんが正気じゃなかったのは明らかでしたし、竹本先生や枇々木さんも目撃してます」
「オレの目にもそう見えた。完全にイっちまった顔だったし」
そうだ、あのギラつかせながらも何も見ていないような血走った目、大量の涎。矢口も、そして最初に見かけたあの警官も、全く同じだったと半間は思った。
「あ、あの…稀咲さんが見かけたという頭のおかしい人って…どんな感じの人でしたか?」
「ん?あ~まあ…いわゆる制服警官っつーの?交番にいる。オレが見たのは警官が誰かを追いかけてて、ソイツを殺すとこだった」
「な…じゃあ他にも死人が?」
「ああ。死んでる。殺されたのは多分、その矢口ってヤツの仲間だろうな。散弾銃を持ってたし」
「そんな……そ、それでその襲ってたという警官の方は…さっき矢口さんと一緒に行動してた人で高木さんって警官がいたらしいんですけど…」
「高木?ああ、そうそう。確か高木って呼ばれてたわ。まー…オレも襲われかけたんで、その高木ってヤツもオレが殺した」
「……っ」
半間の言葉にが今度こそ息を飲んだ。その瞳はどこか半間を異質な存在として警戒しているようにも見える。
「何だよ…その目。人殺しとでも言いてーの?」
「い、いえ……」
「殺らなきゃコッチがやられてた」
「は、はい…分かってます…」
は俯いたまま「すみません、まだ混乱してて…」と呟く。混乱、というなら半間もそうだ。こんなに死人が出る状況はさすがに経験したことがない。しかも普通だった人間がちょっとした間にゾンビのような化け物に変貌するなんて事例は聞いたこともない。ただ、それらに共通するものを半間は何となく気づいていた。
「…で…さっき医者のオッサンはオレに手伝えって言って来たけどさ。何をすればいいわけ」
料理を食べ終え、コーヒーを飲みながら訪ねると、はホっとしたように顔を上げた。
「協力…して頂けるんですか?」
「そりゃ…約束だしな。ただし…危険だと判断した時はオレの言うことを聞いてもらう。それでもいいなら手伝ってやるよ」
「はい…!ありがとう御座いますっ」
は嬉しそうな笑顔を浮かべて半間に頭を下げて来た。こんな風にお礼を言われたのは半間も初めてだった。
(まあ…お礼を言われるようなこともやってきてねーしな…)
自虐的なことを考えながら、時計を見る。夜の10時になるところだった。
「で、話は戻るけどオレは何をすればいいわけ」
「あ、はい。実は今この別荘の電話が繋がらない状況になっていて…ケータイも電波が届かず使えないので外部に連絡を取ることが出来ない状態なんです」
「…マジで?」
それを聞いた半間は盛大に溜息をついた。ここへ来た目的の一つは外部へ連絡し、あのトンネルを塞いでいる土砂を撤去してもらおうと思っていたのだ。だが電話が使えないとなると意味がない。
「あ、でも別荘地の電話線が切れただけで、スキー場や近くのホテルなら通じると思うんです。なので…そこまで半間さんに連れて行って欲しいんです」
「…は?誰を」
「竹本先生とケガをしている枇々木さんです」
「…車でも運転しろって?」
「いえ…車はスキー場のホテルに行ってしまって、ここにはありません」
「はあ?んじゃー何か?この雪の中、オッサンと怪我人を連れてスキー場のあるところまで行けってのか?オレに」
「すみません…。でも竹本さんだけじゃ心配で…高齢ですし枇々木さんはケガをしてます。早く治療をしないと傷が悪化しては――」
と、そこでが言葉を切った。半間が盛大に溜息を吐いて項垂れたからだ。
「あ、あの…稀咲さん…」
「…だいたい分かった…。オレにあのふたりを守りながらスキー場まで送れってんだろ…?」
「はい…他に頼めそうな男の人がいなくて…。あ、でも送るのが無理ならスキー場でスタッフを連れて来てくれるだけでもいいですし…」
「あの大学生の兄ちゃんがいんだろ。アイツらは?」
「彼らはゲストで祖父の友人のお孫さんです…無理に頼めなくて…」
「ふーん。で、赤の他人のオレには頼めるというわけか」
「………」
の言いぐさにカチンと来た半間は呆れたように目を細めた。は俯いたまま何も応えようとはせず、それも少しイラッと来る。
(こういう金持ち連中は他人が何でも自分達のいうことを聞くと思ってる…だりぃ…)
半間はカップを置くと、ソファから立ち上がった。
「き…稀咲…さん…?」
「さっきそこの窓から野犬が見えた」
「……え?」
「矢口ってオッサンは仕留めそこなったらしいな。一匹だけなのか、まだ他にもいんのか分かんねえけど、間違いなく外は危険だ」
「………」
「それにまだイカれた連中がいないとも限らねえ。それでもオレに行けっての?」
「………」
半間の問いには黙ったままだ。でもの言うように、今スキー場へ行けるのは自分だけなのは分かっていた。武器の扱いを知っていて、ためらうことなく人を撃てる。多分、場慣れしてると竹本も思ったんだろう。それをに告げて頼みに来させた。
(あのジジイ。人を舐めやがって…アイツも多分、気づいているはずだ。人が突然頭のイカれた化け物みたいになった原因に)
「あ、あの…稀咲さん…勝手なこと言ってるのは分かってます…。でも――」
「分かった」
「え…?」
「あのふたりを連れて行ってやるよ。スキー場まで」
「ほんとですか?」
不安そうだったの顏がパっと明るくなる。
「まあ…ひとりで行ってスタッフを呼んで来てもいいが、どうせなら早く怪我人を病院に連れて行きたいだろ?」
半間は言いながらもの隣に腰を下ろすと、身を乗り出し顔を覗き込んだ。
「その代わり…条件がある」
「…条件…?」
半間の一言に笑顔だったの顏が僅かに引きつる。
「さっきは風呂と飯って条件は出したけど…こんな危険なことをさせられるなら足りねーと思ってさ」
「……お金、ですか?」
おずおずと訊いて来るを、半間は無言で見下ろした。やはり金持ち連中はすぐに金の話をする。内心苦笑しながら「違う」と応えた。そのままを上から下まで舐めるように見る。久しく女に触れていないせいで、さっきからの甘い匂いが鼻腔を刺激して来るのだ。こういう穢れのなさそうな女を抱いてみたいと素直に思った。同時に、他人が何でも自分達の言いなりになると思っている考えをぶち壊してやりたいとも。それには屈辱的な方法が一番だ。
「ヤらせろ」
「…え?」
「がヤらせてくれたら…行ってやるよ」
「……っ?」
半間の提案に、の顏が一瞬で強張った。