五夜.偽名-後編


(あの男がどこまで本気なのかは分からないけど…彼に頼まなくても車があるなら他の人が行ってくれるかも…)

一縷の望みをかけて、は大学生のいる部屋へと向かった。二階の一番奥の3部屋が彼らの部屋になっているが、皆ひとりでいるのは心細いのか一つの部屋に五人は集まっていた。

「お願いします…誰か車で枇々木さんと竹本先生をスキー場近くにある病院まで運んでくれませんか?」

が頭を下げると、大学生たちは互いに顔を見合わせた。

「え…でも外には野犬がいるんですよね…?」
「…それは…」
「じゃあ私は嫌!」

祖母の知人の孫だという女子大生が首を振ったが、も女性に頼もうとは思っていない。男子学生ふたりに視線を向けると、先ほど亡くなった飯田と矢口を運んで来た男が「オレ、行ってもいいですよ」と言い出した。

「え、ほんとですか?」
「ちょっとマサル!正気なの?外は危ないってアンタが言ってたんじゃない!」

マサルと呼ばれた男子学生の隣にいた女が怒った口調で詰め寄っている。見た感じ恋人同士のように見えた。

「でもナナ、車があるなら安全だよ。それに病院に行けば近くにはスキー場に隣接されたホテルもあるし、電話だって通じるかもしれない」
「…そ、そっか…ここにいるよりマシかも…」

ナナと呼ばれた女はマサルの話を聞いてすぐに納得したようだ。それを聞いていた他の三人も「じゃあオレも行く」「私も」と口々に言い出す。それを見たは慌てて「無理です」と口を挟む。

「竹本先生の車は普通の乗用車です。定員は五名まで。竹本先生と枇々木さんを乗せて、彼がついて行ってくれるなら残りは二名までしか乗れません」
「そんな…!」
「で、でも向こうで怪我人を降ろしてからオマエらを迎えに来るよ」

マサルが皆を見渡して約束すると、少しは緊張も和らいだのか、ホっとしたような空気になった。そこでマサルの他に女三名のうち二人を先行として乗せていくことが決まった。残るのは男女一人ずつで、迎えが来るまではこの部屋で待機となる。そこでは車のキーをマサルへ渡した。

「枇々木さんの具合があまり良くないので今すぐ行ってもらえますか?」
「分かった。とりあえず送って戻ってを繰り返して、全員あっちのホテルに連れて行けば大丈夫だよな」
「はい。お願いします。すみません」
「いや…正直オレも助かった。ここにいても気分が滅入るからさ…」

マサルはそう言って苦笑するとキーを受けとり、ナナともう一人の女子大生を連れて一階へと歩いて行く。それを見送った後、は少し考えて稀咲の部屋へ向かった。一応現状報告をしておかないといけない。危険な男だが、この別荘にいる以上、放っておくことも出来なかった。

「稀咲さん、私です」
「どーぞー」

さっきと同様、軽い返事が聞こえて、はドアを開けた。稀咲はベッドに横になったまま煙草を吸っている。それを見ては僅かに顔をしかめた。

「ここは禁煙です」
「…いいだろ。こんな状況だ」

稀咲は薄笑いを浮かべながら立ち上がると、ソファに座り先ほどが運んで来た料理の皿に煙草を押し潰した。その態度にはも溜息しか出ない。

「そのお皿…マイセンなんですけど」
「へえ。そりゃ失礼」

特に気にする様子もなく、稀咲は笑っている。

「で…?どうだった?何か廊下が騒がしかったけど、結局あの大学生に頼んだのかよ」
「…だから何ですか。あなたの条件なんてのめるはずないじゃない」
「だと思った」

肩を竦めながら苦笑している姿を見て、この男はどこまで本気なんだとは忌々しい気持ちになった。

「でもアイツらで本当に大丈夫なのか?武器もないのに」
「…車があったんです」
「は?車はねえつってたろ」
「竹本先生が乗って来た乗用車のことを忘れてて…。なので彼らが車で病院に向かいます」
「ふーん…。で?これからどーすんだよ」
「車で往復して全員をスキー場のホテルへ運びます。あっちのほうが電話も通じるだろうし病院も近いので。スタッフもここよりはいますし…」
「あっそ。んじゃーオレの番になったら呼びに来て」

稀咲はそう言って立ち上がると再びベッドへ寝転がった。

「まさかここへ置いてくつもりじゃねーんだろ?その話をオレにしたってことは」
「…当たり前です。どんなに腹のたつ人でも置いていくなんてことはしません」
「ひゃはっ♡」

ムっとしたようにそっぽを向くと、稀咲は楽しげに笑いだした。

「そーいうとこ育ちがいいヤツは違うなあ」
「…育ちなんて関係ない。人間なら普通です」
「そーお?オレは気に入らないヤツなんてどーでもいいけど」
「…あなたは――」

と言いかけた時、エントランスのほうが騒がしくなり、はハッと言葉を切った。何やら人がモメているような声がする。

「舞衣子ちゃん…?」
「あ?舞衣子って…ああ、の姉さんだっけ。何騒いでんだ?」
「分からない…ちょっと見て来ます」

はそう言ってすぐに部屋を飛び出すと、階段へと走って行く。すると舞衣子のヒステリックな声が聞こえて来た。

「どうして乗れないの?私は枇々木さんの婚約者よ?同行するのが当たり前でしょう」
「い、いや、そうなんだが…ここに残ってる人達の面倒を見るのも君の役目だろう?」

竹本が舞衣子を宥めるように説明している。しかし舞衣子は引き下がらない。

「何で私がゲストの面倒みなきゃいけないのよ。いいから私も乗せなさい」
「舞衣子ちゃん!」

そこへが止めに入った。

「何やってるの、舞衣子ちゃん…」
、聞いてよ。竹本さんたら私をここに置いてくって言うのよ!」

舞衣子は気が立っているのか、イライラした様子で竹本を睨みつけている。どうやら同乗するしないでモメているようだ。だが竹本の判断は正しい。ここはゲストを先に向かわせ、や舞衣子は残って色々なケアをする必要がある。祖父である会長の代理で来ているのだから当然だ。

「舞衣子ちゃん…私達には責任があるの。ここは残って。枇々木さんなら大丈夫よ」
「ちょっと…アンタ、いつから私に指図するようになったわけ?」
「そんな…指図だなんて…」

キッと睨みつけて来る舞衣子にも言葉に詰まる。舞衣子には財閥の跡取りという自覚が足りないようだ。この状況でも自分の我がままを通そうとする姉に、は憤りを感じていた。しかし呑気に口論している場合でもない。

「と、とにかく枇々木さんを運ばないと…」
「オレ、車を取ってきます」

マサルがスキー用のジャンパーを羽織るとドアのほうへ歩いて行く。そこへ「オレも行くよ」という声がした。振り向けば稀咲が肩に銃を乗せて歩いて来る。

「き、稀咲さん…?何で…」
「車を置いてある場所まで行くのも危ねえじゃん。手ぶらで行って野犬と遭遇したらどーすんのって話」
「え…行ってくれるんですか…?」

が驚いて尋ねる。先ほど酷い要求をしてきた男とは思えない。稀咲はちょっと笑ったようだった。

「あのさぁ。オレにだって多少感謝の気持ちはあるんだよ。食事と風呂を用意してもらった分は働くし」
「あ…ありがとう御座います」

思わずが頭を下げると、稀咲はふと舞衣子へ視線を向けて鼻で笑った。

「どっちが姉か分かんねーなァ」
「何ですって…っ?」
「ま、舞衣子ちゃん…っ」

稀咲に喰ってかかろうとする姉を制止し、マサルと稀咲に「宜しくお願いします」ともう一度、頭を下げた。

「はいはい。んじゃー行くぞ、大学生~」
「あ、はい。ってかオレ、マサルって言います」
「オレは修二。宜しく~」

そんな会話をしながら二人は外へ姿を消した。

「な…何なの、あの男!失礼な奴」

舞衣子は明らかに機嫌を損ねたようで、そう吐き捨てると枇々木のいるリビングへ戻っていく。それを見送りながら、は深い溜息を吐きつつ、ふと二階へ視線を向けた。

(稀咲さん、銃以外は何も持ってなかった…荷物は置いて行ったんだ)

そこで思いついたはすぐに二階へ上がると、稀咲に貸した部屋へと向かう。竹本も感じていたように、も稀咲と名乗った男に小さな違和感を覚えたのだ。

(彼は…よく分からないけど普通の人とは違う。場慣れしてるって竹本先生が仰ってたけど…何者なんだろう)

警戒心と少しの好奇心も混ざり、稀咲という男のことを知りたくなった。今なら全員リビングにいる。稀咲が車を取りに行った今しか調べられない。廊下を見渡し、誰もいないことを確認すると、はそっと部屋のドアを開けて中へ滑り込んだ。室内にはウォールライトしかついておらず、ほんのり暖色系の明かりが室内を照らしている。ザっと見渡したが、稀咲が持っていたはずのバッグは見当たらず、はゆっくりと足を進めてクローゼットを開けた。しかし中には何も置いていない。

「おかしいな…持ってなかったんだから部屋に置いていったはず…」

バスルームなども一応確認したものの、それらしい荷物は見つからなかった。は軽く息をつき、もう一度室内を見渡すと、ベッドが目に入る。窓のある壁際に寄せてあるのだが、そこが少しだけ隙間があることに気づいた。

「あ、あった…」

ベッドと壁際の間を覗くと、そこに大きなバッグが置いてある。それを引っ張り出し、ファスナーを開けて中を確認した。パっと見、衣類や地図、財布といったものが入っている。少し気は咎めたものの、は財布を手に取り、中を確認した。

「え…何でこんな大金…」

いわゆる長財布には20万以上の現金が入れられている。しかしが調べたいのはそこではなく、稀咲という男の身分証だった。しかし免許の類は入っていない。

「おかしいな…バイクに乗って来たって話してたし免許はあるはずなんだけど…」

財布のどこを探しても、それらしいものは見つけられず、仕方なく財布をバッグへ戻す。だがふとバッグの内側にあるいくつかのポケットに目を向けた。

「もしかしてコッチとか…」

も個人情報に繋がるような貴重品は財布に入れないタチだ。もしかしたら、とポケットのファスナーを開けた。

「あ…あった」

数枚のカード類が見えて、はそれを取り出すと、免許証を探した。

「あ、これだ」

クレジットカードと一緒に入ってた免許証を見つけて、はそれをひっくり返した。

「え…?」

確かにそれは免許証で写真も稀咲に間違いはなかった。しかし…

「半間…修二…?」

名前が違うことに気づき、はすぐにクレジットカードを手に取った。そこにもアルファベットで半間修二と名前が刻まれている。どういうこと?と一瞬だけ混乱した。

「まさか…偽名を使ったの…?」

その可能性があることに気づいたは、唖然とした顔で手の中の免許証を見下ろした。