
五夜.偽名-前編
「これでよし、と…」
エントランスホールに横たわったままの大学生の遺体から血液を採取し、竹本はそれを容器に入れた。この大学生は助けられなかったが、突然狂暴化した矢口に噛まれたことで何等かのヒントがないか病院で調べる為だ。それにはどうにかして病院へ戻る必要がある。枇々木も意識はあるものの、だんだんと血の気は失せ、弱っているように見えた。この大学生のように喰いちぎられたわけではなく、噛まれただけなのだが傷口がやけに腫れてきたのが気になる。やはり感染症の類かもしれないと竹本は思っていた。
「ああ、さん。どうだった?」
不意に足音がして顔を上げると、が階段を下りて来るところだった。しかしその表情は険しい。
「やっぱり断られたかい?」
竹本が察したように声をかけると、は何とも言えない表情で首を振った。
「いえ…承諾してくれたんですけど…」
「え、本当かい?」
竹本は一瞬安堵の表情を浮かべたものの、の様子が気になった。受けてもらえたならもっと喜んでもいいはずなのだが、はどこか悩んでいるようにも見える。
「どうしたんです?何か…要求でもされた?」
竹本は聞きながらも稀咲と名乗った男のことを思いだしていた。一見気さくなように見えて実は警戒している雰囲気。悲惨な現場を見ても平然としていた態度。一目で自分たちとは違う世界で生きて来た男だと気づいた。
修羅場慣れしている――。
竹本は稀咲という男にそんな印象を持った。銃の扱いも知っていて、人へ向けることにも躊躇いがない。いくら狂暴になった相手とは言え、見た目は人間。普通の人間なら多少は躊躇するものだ。しかし稀咲という男はそれがない。そう判断して竹本は今回の件を頼もうと思った。どんなに危険な匂いのする男でも今回のような突発的なトラブルの時、冷静に動ける人間は必要だ。しかしやはり、そういった人間を相手にするにはそれなりにリスクを伴う。
「お金…かい?」
答えようとしないを見て、竹本は思いつく限りのことを尋ねた。はハッとしたように顔を上げると、またしても首を振った。
「い、いえ…そういうわけじゃ…」
は答えながらも、竹本には本当のことを言えなかった。言えば竹本は怒って稀咲に詰め寄るかもしれない。最悪モメてしまえば動ける人間を失うことになりかねない。
(どうしたら…)
悩みながらも、飄々とした態度の中に冷ややかな目を見せた稀咲を思い出していた。
「エレナがヤらせてくれたら…行ってやるよ」
その言葉を、は信じられない気持ちで聞いていた。会ったばかりの男に、頼みごとを聞く代わりに体を差し出せと言われているのだ。
「じょ…冗談…ですよね」
「は?何で?マジだけど」
「……っ」
稀咲が本気なのだと悟った時、の顏が一瞬で青ざめた。やはり最初の印象通り、善人ではないと分かった。しかし分かったところでにはどうすることも出来ない。
「…ふざけないでっ!人の弱みに付け込むなんて最低です…っ」
頬が一気に熱を持つ。怒りと、恥辱で体が震えている。しかし稀咲という男はどこか冷めた目でを見下ろした。
「あっそ。じゃあオレはおりる。ここに籠城でも何でもしてろよ」
「そんな…食事もお風呂も言われた通りに――」
「たったそれだけで危険な外へ出て、人間ふたりの護衛をしろって?一人は高齢者、かたやもう一人は怪我人だ。アイツらを野犬から守りながら行くのはオレにだってリスクが伴うんだけど?」
「そ…それは…」
「アンタも見たんだろ?狂暴になったヤツを。アイツらは異常に動きが素早い。多少ケガさせても止められねえんだよ。あんな化け物相手にしながら人をふたりも守っていかなくちゃいけねえリスク、マジで分かってンの」
稀咲にそう詰め寄られ、は言葉に詰まった。確かに狂暴化した矢口は竹本や枇々木にストックで殴られようと、なかなか大学生を放そうとはしなかった。だがあんな風にな狂暴化した人間が他にもいるのかすら分からないのだ。稀咲の話では警官の高木が同じ状態で襲って来たらしいが、それは彼が殺したと話していた。なら狂暴化した人間はもういないんじゃないかとすら思う。
「…狂暴化した人は…稀咲さんが殺したんですよね…?」
「あれだけって保証はどこにあんだよ」
「………」
「ま、オレはどっちでもいーけど?ひとりで決められねえなら、あの医者に相談して来いよ。どうせをここへ寄こしたのはあのオッサンだろ」
「それは…」
「オレは逃げも隠れもしねえでここで待っててやる。ただし変な考えを起こそうってんならオレも容赦しねえよ?」
「……どういう、意味ですか」
「いいからサッサと相談して来いよ。あの男にヤらせろって言われたんです。どうしたらいいですかってな。ま、それでオッサンに良心ってもんがあるならオレに頼らず自分だけで怪我人を運ぶだろ」
稀咲はそれだけ言うと、ベッドの上へ寝転がった。その様子を見ながらも立ち上がると、ふらつく足取りでドアの方へ歩いて行く。
「早くしてねーちゃん」
「……最低っ」
ニコニコしながら手を振って来る稀咲を見て、はそう吐き捨てるとすぐに部屋を飛び出した。怒りと恥ずかしさで顔が熱いくらいに火照っている。
「最低…最低…!何がヤらせろよ…男ってホント最低なんだから…っ」
悔しくて涙が出そうになり、は慌てて手の甲でそれを拭った。ただ、稀咲の言っていたことも一理ある。確かに外へ出るだけでも危険なのに、人を守りながらこの雪の中、それも危険生物がいるのに竹本と枇々木を彼一人に任せるのは酷いことなのかもしれない。しかしそう言ったところで竹本だけに枇々木を任せるわけにもいかない。稀咲が言ったように野犬が野放しになっている。さっきは別荘の前に野犬がいたとも言っていた。
「…どうしよう」
は文字通り途方に暮れてしまった。
階下に行くと竹本が亡くなった大学生のところで何かの作業をしているのが見えた。きっと血液サンプルを採っているんだろう。竹本はに気づいて声をかけてきた。
(どうしよう…彼に言われたことを竹本先生に言えば、きっと憤慨するはず…)
お金を要求されたのかと尋ねて来る竹本に、はどう言おうか考えあぐねていた。
「あ、あの…それより枇々木さんの容体は…」
「うん…あまり良くない。さっきまでは普通に会話をしてたんだが…急に熱が出て来てね。やはり心配したように感染症かもしれない」
「…感染…」
「矢口さんは野生の動物に噛まれただろう?もしかしたらと思ってね。その矢口さんに噛まれた枇々木くんも感染してたっておかしくはない」
「そんな…」
もし本当に何かの病原体に感染しているなら早く治療をしなければならない。は急いで枇々木と姉の元へ向かった。リビングでは姉の舞衣子が枇々木に寄り添っていたが、さっきのような呑気な光景ではなかった。
「枇々木さん…しっかりして!」
「舞衣子ちゃん、どうしたの…っ?」
舞衣子が取り乱し、ソファに横たわる枇々木に縋りながら声をかけている。はすぐに枇々木の顔を覗き込んだ。
「ひ、枇々木さん…」
さっきまではケガをしても笑みさえ浮かべていた枇々木が、今は血の気の引いたような顔で苦しそうに喘いでいる。呼吸は荒く、額には汗が滲みでていた。
「竹本さん、枇々木さんが…っ」
「うん…これはマズいな…。熱が上がって来てる…手持ちの薬が効けばいいんだが…」
竹本は医療鞄の中から消毒液とガーゼを取り出し、消毒液を滲みこませたそれを枇々木の傷口に当てている。しかし噛まれた直後にもそういった治療は施してあった。にも関わらず熱が出ているとなると、普通のケガではないかもしれない。
「ちょっと!何とかしてよ!早く彼を病院に連れてってっ」
舞衣子は動揺したようにに縋りついて来る。もう一刻の猶予もないと感じた。
「竹本先生…枇々木さんをお願いします」
「え、君は…」
「他の方にも頼んでみます…」
「…やはり稀咲って男には断られたのかい?」
さっきの質問の答えを問うように竹本は言った。しかし本当のことは言えなかった。
「断られたというか…この雪の中、歩いて病院に行くのは危険だと言われて…」
どうしても体を要求されたとは言えず、当たり障りのない返事をしておく。すると竹本はポケットからキーのようなものを取り出し、へ差し出した。
「車なら私のがあると言っただろう。これを見せて、もう一度頼んで来てもらえないか」
「え…車…あるんですか?」
思っていた以上に動揺していたようだ。は竹本の手にしている車のキーを見て呆気に取られていた。
「私は病院から自分の車で来た。管理人室の裏手に止めてあると彼に伝えてみてくれ」
はキーを受けとると、少し考えた後で踵を翻した。
「すみません。すぐ戻ります」
それだけ言うとリビングを飛び出し、再び二階へ駆けあがった。