
11.あなたのいる世界線-⑴
今思えば、あの頃から佐野くんの心の中には、いつも雨が降ってたんだね。
大切な人を失って、失っていくたび、それが少しずつ強くなって、土砂降りになって、最後には彼の心を簡単に押し流してしまう、黒い雨が。
その事に気づいていたはずなのに、分かっていたはずなのに、あの頃の私には彼の全てを受け止める事が出来ていなかった。
もしあのまま傍にいられたら、私は佐野くんを、佐野くんの心を救えてたのかな?
皆を守る為に離れて行こうとする彼を、無理にでも追いかけていたら、違う今があったのかな。
出来る事なら、佐野くんの痛みを全て、私が受け止めたかった。
肉体が滅んだら、魂はどこへ行くんだろう?
貴方を失ってから、私の中にも、黒い雨が降り続いたまま―――。
「…」
小雨の降る中、はその場にしゃがみ、両手を合わせたままジっと動かない。
雨に濡れないように、ドラケンは持っていた傘をの方へ傾けながら、空に上がっていく線香の煙をただ眺めていた。
「大丈夫か…?」
二人以外、人気のない墓地には、ただ静かな雨の音だけが響いている。
その音を遮るように呟くドラケンの声を聞いて、はゆっくりと目を開けた。
目の前には"佐野家"の墓。
ここにはエマ、そして万次郎が仲良く眠っている。
"何か俺とって似てる"
そんな事を言って微笑んでくれたのが、つい最近の事のように思える。
あれからもう12年も経っているというのに、記憶はいつまで経っても色褪せない。
「…ケンちゃん」
「…ん?」
「あの頃に…花垣くんみたいにあの頃に戻れるなら二人を―――」
「…そのタケミっちもマイキーが殺しちまった…。もう無理なんだよ」
「そう…だね…。ごめん、バカなこと言って…」
ゆっくりと立ち上がったは笑顔でドラケンの方へ振り向いた。
その瞳に涙はない。
「濡れるぞ…」
ドラケンはの腕を引き寄せ、まるで壊れ物を扱うかのようにそのまま抱きしめた。
の体はかすかに震えていて、それが腕から伝わって来る。
愛しい人を永遠に失った深い悲しみは、過去に同じ傷を持ったドラケンだからこそ痛いほどに理解できる。
「帰ろう、」
項垂れるの額に軽く口付け、ドラケンは片方の手で彼女の手をそっと繋いだ。
2018年、6月―――。
日本最大の犯罪組織"梵天"のトップである佐野万次郎が、昔の友人花垣武道を銃殺したのち、廃ビルから飛び降り自殺。
このニュースが速報で流れたのは、この日から4日前の事だった。
だがこれも一つの世界線。
この未来を変えられるかどうかは、一人のタイムリーパーに託された―――。
2005年、7月7日木曜日―――。
7月に入っても未だ梅雨空模様が続く中、東卍で一人だけ今なお春を満喫している男がいた。
「あれ?!マイキー今日も早いじゃん」
朝、いつものように万次郎を起こしにやって来た東卍のナンバー2、ドラケンは母屋とは別にある離れの部屋に入った瞬間、すでに制服姿でソファに座っている万次郎を見て驚愕の表情を浮かべた。
「おーケンチン!おはよー。髪しばってー」
普段では見られないほど、朝から爽やかな笑顔でドラケンを迎える万次郎。
よく見れば髪は寝起きのままで、いつも上げている前髪は下ろされたまま。
律儀にドラケンが来るのを待っていたらしい。(自分で上手く縛れないともいう)
ドラケンは「はいはい」と苦笑しながら万次郎の後ろへ回ると、ゴムを咥えながら櫛で万次郎の髪を全体にとかし、前髪を適量掴むと上に持ち上げ綺麗にまとめた後、頭の後ろで縛ってやった。
これでいつもの万次郎ヘアの出来上がりだ。
「さんきゅー」
「ってかどしたん?マイキー今週は毎朝早起きじゃん。前は俺が来る時はだいたい朝飯食べ始めた頃だったのに」
万次郎は寝起きが良くない。
機嫌が悪くなると言うより半分寝たまま起きて来るくらい暫くはボーっとしている。
なのに今週に入ってからは毎朝スッキリした顔で早起きをして機嫌まで良さそうな万次郎に、ドラケンは首を傾げた。
「早く目が覚めるから」
「へえ。で?と何があったんだよ。そろそろ教えろよ」
「な、なな何が?つーか何で今の流れでが出てくんだよっ」
ドキっとしたように目に見えて動揺する万次郎の顏にはハッキリ「図星」と書かれているようで、ドラケンは思わず吹き出した。
「今のマイキーがそんなに機嫌良くなる理由なんての事くらいしか思いつかねえ」
「…ぐ…」
当たっているだけに何も言い返せない。
これまでの万次郎なら、バイクの部品が手に入ったとか、カッコよく改造が出来たなどの理由で機嫌がいい事はあった。
ただ最近は大好きなバイクをいじるよりも、初めて出来た彼女と過ごす時間の方が万次郎は楽しそうだ。
「別に何もねーよ!デートしようにも最近また雨が多くてバイクで出かけらんなかったし…」
熱くなった頬を手で隠しながら万次郎はプイっと顔を反らした。
「ふーん。でもお家デートだったんなら前に悩んでた事は解消したんじゃねーの?」
「…そりゃ…まあ…」
「マジ?遂にやったんか!」
「ご、誤解されるよーな言い方すんな!」
慌てたように叫ぶ万次郎の、これまで見せたこともないほどの赤面顔にドラケンはたまらず吹き出してしまった。
「何、笑ってんだよ、ケンチン!」
「だ、だってオマエ…風呂上りみてーな顔になってっし…ぶはは…っ」
「…うっせぇな!」
先ほどまでの機嫌の良さが一転、今度は不機嫌そうに目を細め、万次郎はドラケンを睨んでいる。
あまりからかうと本気で怒り出しそうだ。
ただ最近は万次郎がこれまでにないリアクションをする為、ドラケンはそれを見るのが楽しみになりつつあった。
「ま、まあ良かったじゃん。これで一歩前進ってとこだな」
「……何だよ、前進って」
「あ?だってキスはスタートだろ」
「スタート…?」
「キスしたら次があんだろって言ってンの!マイキーもこの前見てただろーが。AV!」
「………」
ひくりと口元を引きつらせた万次郎は、今度は目が左右に泳ぎ出した。
これはだいたいやましい事を考えている時の顏だ。
「あ…あんなエロいことに出来るわけねぇだろ…っ!」
「いや誰もあのAVと同じ事しろとは言ってねえ!つーかあれソフトSMだったじゃねぇか!」
ドラケンは突っ込みつつ、真っ赤になりながら怒っている万次郎を見て苦笑いを浮かべた。
これまでAVの内容で赤面すらした事がない万次郎が、を対象にして想像しただけで茹蛸みたいになるとは、地球滅亡も近いのか?と心配になる。
まさかマイキーと朝から下ネタトークする日が来るとはね、とドラケンはシミジミ思っていた。
まあ万次郎が幸せなのはいい事だが…今日はチームの事で大事な話がある事を思いだす。
「それよりマイキー」
「んー?」
ケータイをいじりながらニヤけている万次郎はに毎朝恒例の"おはようメール"をしているようだ。
いつもはから先に来るが、今日は早起きした万次郎から先に送っている。
「ちょっと三番隊のヤツの事で―――」
「でーきたっと」
「………」
嬉しそうにメールを送信している万次郎に、ドラケンも若干目が細くなる。
だが無事にメールも送った事だし、もういいだろうとチームの問題について口を開こうとした時、万次郎が「三番隊のヤツが何だって?」と振り向いた。
何だかんだラブラブ中でもチームの話になると耳に入るようだ。
「ああ、ちょっと小耳に挟んだんだけどよ」
ドラケンも安心したように笑みを浮かべると、問題の話を万次郎に話しだした。
がちょうど学校へ向かいながら、いつものように万次郎へメールを送ろうとした時、ケータイがぴろんと軽快な音を鳴らした。
「あれ…佐野くんから先に来るなんて珍しい…」
少し驚きながらメールを開くと、"おはよう、!今朝は早起きしたから俺の方が先に送ってみた。今日は学校終わったら渋谷まで来れる?"とあった。
雨で中止になったバイクデートを、今日こそ天気が良ければ行こうと約束していたのだ。
そして今日は朝から久しぶりの快晴で雨雲一つなく、今度こそ雨に邪魔される心配はなさそうだとホっとする。
万次郎にすぐ返信して、は足取りも軽く学校へと向かった。
その日一日を変わらず過ごし、早く放課後にならないかとソワソワしながら授業を受ける。
今週末には期末テストもある為、きちんと授業内容を頭に入れなければならない。
成績を下げればアメリカにいる父に何を言われるか分からないからだ。
逆に成績さえ良ければ、父は特にうるさい事を言っては来ない。
いつか万次郎との事がバレた時に成績を理由に持ち出されないよう、例え面倒でも今サボるわけにはいかないのだ。
「はい、じゃあ今日はここまで!」
いつもより長く感じていた授業、そしてSHRも遂に終わり、念願の放課後。
はすぐに帰り支度をして教室を飛び出した。
だが玄関で靴を履き替えている時、後ろから「!」と呼び止められた。
「あ、愛子」
振り向けば幼馴染の愛子がちょうど歩いて来るところだった。
何だかんだ愛子と顔を合わせるのも久しぶりだ。
「え、もう帰るの?」
「うん。約束があって」
「あーデートだ」
「ま、まあ…」
「まーだ続いてるんだね」
ニヤリと笑う愛子に、も恥ずかしそうに頷く。
「あ、そう言えば下着泥棒、坂本先生だったんだってね!」
「あ…うん…まあ」
「私も驚いたよー!あーんな真面目そうな人がさー」
愛子も坂本とは面識があり、一緒に勉強を教えて貰った事もあるので驚くのも当然の事だった。
すると愛子は再びニヤニヤしはじめ、の肩に腕を回した。
「捕まえたのっての彼なんでしょ?」
「え…っ?」
「近所の人が話してるのウチの母親が聞いたんだって。見た目怖そうな男の子達を何人か見かけたって」
「えっと……」
近所の人にまでバレてたと知り、はマズいと内心焦っていた。
万次郎の仲間がいい人なのをは知っているが、何せ全員見た目が怖い。(!)
近所の人から変な誤解をされるのは嫌だと思った。
だがよくよく話を聞いてみれば、
「その男の子達がマンションの周りで見張りしてくれて下着泥棒を捕まえてくれたってオバちゃん達が喜んでたんだってよー」
と愛子は言った。
「それっての彼の友達なんじゃないの?」
「あ、う、うん、まあ…」
喜んでいたと聞いて内心ホっとしたが、見張りをしていた事まで近所の人にバレていたのかと少しだけ焦った。
あまり噂が広まると父の耳にもいつか入ってしまいそうだと心配になったのだ。
「そっかー!やっぱなあ」
「え、でも何で見張りしてたとか知ってるの?」
「あ、それが昨日下の階の飯田さんに聞いたんだけど、下着泥棒が捕まった日の夕方コンビニに行ったんだって。それでマンションに帰って来た辺りで引ったくりにあったらしくて」
「え?引ったくり…?」
「何かコンビニからつけて来たみたい。飯田さんがATMからお金おろしてたの見てたみたいで。でもその時、通りがかった男の子がひったくられたバッグ取り返してくれたみたいでさ」
「…えっ…」
「何かイケメンの男の子がひったくり犯に飛び掛かってバッグ奪い返したって。まあ犯人は隙見て逃げちゃったみたいだけど。で、飯田さんにバッグ返した後でその男の子がマンションに入って行くからどこの家に用事?って訊いたら…」
「…き、訊いたら?」
「友達の彼女が下着泥棒の被害にあったから見張ってるんですって言ってたらしいの。それ聞いて私もピンときたんだ」
その話を聞いても驚いた。
きっと万次郎の仲間の誰かが見張りにやって来た時にひったくりに遭遇したんだろう。
「えっと…どんな人かわかる?」
「んーと飯田さんってばイケメンって連呼してただけで…。あ、でも黒髪ロン毛って言ってた!何かワイルドイケメンだったって」
黒髪ロン毛と聞いての頭に目付きの鋭い男の顏が浮かぶ。
「あ…それ場地くんだ…」
「え?ばじ?」
「うん。場地圭介くんって言って彼の幼馴染なの」
「そうなの?えーそんなイケメンなら紹介してよー!彼女いるの?」
「今はいないって言ってたけど…」
と応えながら、ふと前に万次郎から聞いた話を思い出す。
"場地は家が近所ってだけで別に仲良くはなかったんだ。でもアイツもウチのジイちゃんの道場に通ってて、しょっちゅう俺にケンカふっかけてきてさ。
そのたびボコボコにしてやったんだけど懲りずにまた来るんだよ。ワケ分かんねー奴なんだけど…俺は大好きなんだ"
万次郎からその話を聞いた時は殴りあって仲良くなったのかと二人の破天荒ぶりに驚いたが、は場地の事をそれほど怖いという印象は持たなかった。
屋上で見張りをしてくれてた時にお弁当を持って行ったら嬉しそうにお礼を言ってくれたのが印象に残っている。
ただ愛子に紹介、となると…どうなんだろうと考えてしまう。
「彼女いないなら紹介してよ!その場地くんって人」
「で、でも愛子、不良は嫌なんじゃないの…?」
「そりゃ怖い人は苦手だけどさー。場地くんは飯田さん助けてくれたし、不良なのに人助けするなんてそのギャップがいいじゃない!」
確かに祖母の雪子へ酷い事をする不良もいれば、困っている人を助けてくれる場地みたいな不良もいる。
理不尽な所もあるみたいだが、人一倍仲間思いだと万次郎は言っていた。
「ね、お願い。!」
「え、えっと…まずは場地くんに聞いてみないと…」
「ほんと?じゃあ、OKしてくれたら教えて」
「う、うん。分かった」
「あ、それと早くの彼氏にも会わせてよね!ていうか下着泥棒の件で家に来てたなら言ってくれれば良かったのに」
「そ、そうだね」
そこはも笑って誤魔化しておいた。
あの時は東卍の幹部が勢揃いしてた事で、いきなり会わせるのはやめておいたのだ。
「じゃあ場地くんの件、頼むね~」
愛子はそう言いながら後ろで待っていたクラスメートの所へ戻って行った。
それを見送りながらはふと時計を見た。
「いけない…早く行かなきゃ」
待ち合わせの時間まで余裕はあるが10分前には着いていたい性格のは、すぐに駅へと走る。
(場地くんかあ…。次はいつ会えるか分からないし、佐野くんに愛子のこと話したら伝えてくれるかなぁ)
そんな事を考えつつ最寄り駅から電車に乗り、渋谷を目指す。
だが渋谷駅に降り立った時、万次郎からメールが届いた。
"ちょっと用事済ませてから行くから20分くらい遅れる!ごめんね_(._.)_"
という内容。
すぐにOKと返したは時計を確認しながら「さて、どうしよう」とホームを見渡した。
早めについてしまった事で、約束の時間まで30分ほど空いてしまったのだ。
どう時間を潰そうかと考えながら改札口へと歩いて行く。
駅前にいたら、また変な勧誘に捕まりそうだ。
と言って別の場所にいたら、また前のように万次郎が心配してしまうかもしれない。
は悩みつつ改札を出て渋谷の駅前を見渡した。平日の午後というのに相変わらず人の山だ。
だがその人混みの中に派手な髪の色をした男子生徒数人がの目の前を通り過ぎて行った。
「あれ…?今のって…」
は足を止めて今、目の前を横切った五人組を見る。
それはのクラスにいる例の問題児とその仲間たちだった。
いつもケンカばかりして、がしょっちゅう注意してる人物だ。
最近もよく傷を作って登校して来るので、今朝も一度「またケンカしたの?」と訊いてしまった。
ここ数日は毎日のように新しい傷を作ってくるから心配になったのもある。
でも当人はモゴモゴと歯切れの悪い返事を繰り返すばかりだった。
五人はショップが立ち並ぶメイン通りではなく、むしろ逆の人通りが少ない方へ歩いて行く。
「どこ行くんだろ…。あっちには公園とかオフィスビルしかないのに…」
だいたい若者なら駅近辺で遊ぶ人が多い。
なのに人気のない方へ歩いて行くクラスメートに、は違和感を覚えた。
(まさかまたケンカ…?)
最近はやたらとケガの多いそのクラスメートの事が気になり、は仕方ない、と決心したように彼らの後をつけていく。
万次郎には着いたら電話を下さいとメールを送信しておいた。
だがケータイをしまって顔を上げた時、クラスメートの姿を見失い、は慌てて辺りを見渡す。
「あれ、どこ行ったんだろ…。この辺には特に彼らが行くような場所は何も…」
は近所を探してみたが、やはりクラスメートの姿はない。
おかしいなと思っていたその時、少し先にある広場から歓声のようなものが聞こえて来た。
その広場はちょっとしたイベントが出来るようになっていて、今日も何かやっているのかなとは自然と声のする方へ歩いて行く。
だが集まっているギャラリー達を見て、は慌てて足を止めた。
そこに集まっているのはどう見ても普通の学生たちではなく。
茶髪やメッシュを入れた派手な男達が50人ほど集まっている。
皆がそれぞれ「やっちまえー!」や「殺せー」など物騒な事を口々に叫んでいて、どうやら誰かのケンカを煽っているようだ。
その恐ろしい光景にはこのまま引き返そうとしたが、ふと嫌な予感がして足を止めた。
(まさか…)
踵を翻し、大勢集まっているギャラリーの後ろから近づいて行く。
すると階段に囲まれた真ん中のスペースから鈍い何かを殴るような音が聞こえて来る。
人と人の間から下を覗いてみると、の視界に大柄の男が金髪の小柄な男を一方的に殴りつけている光景が飛び込んで来た。
「あれは…」
一方的に殴られている金髪の男は、まさにの探していたクラスメートの問題児、花垣武道その人だった。
明らかに体格差のある相手に殴られ続けている武道を見て、は唖然とした。
そして異様なのは周りに大勢人がいるにも関わらず、誰一人として二人のケンカを止めようとしていない事だ。
止めるどころか「やっちまえ!」と煽っている者が殆どで、人が殴られているのを見ながら皆がそれを楽しんでいる。
「何なの…これ…」
は怒りで手が震えて来るのを感じ、唇を噛み締めた。
一対一とは言え、あまりに一方的過ぎる。明らかにリンチと同じだ。
あれ以上殴られたら死んでしまうかもしれない、と思ったは警察に通報しようとケータイを取り出した。
だがその時、大柄な男の強烈な蹴りが武道の顔面に入り、ギャラリーからどよめきが走る。
それでも足を踏ん張りながらも倒れない武道の姿を見て、は驚いた。
の知る限り、花垣武道というクラスメートは不良を少しかじった程度のいわば見た目だけの不良だ。
口では大きい事を言うが腕っぷしは中の下くらいなんじゃないかと感じていたくらいで、だからこそ心配で注意をしていたくらいだ。
なのに今は自分よりも体が大きく明らかに強い相手に蹴られても、相手が圧されるほどの気迫を見せている。
ただ倒れないだけで大怪我を負っているのは間違いない。
「ダメ…これ以上続けたら…」
大柄の男はダウンさせられなかった事に焦ったのか、再び武道を過剰に殴り始めた。
それを見たは頭で考えるより先に身体が動いた。人混みをかき分け、下の広場へと走り出す。
「やめて…!それ以上やったら死んじゃう!」
自分達の間をすり抜けていく小柄な少女を、ギャラリーの不良達は唖然とした様子で眺めている。
まさかこんな場所に女が割り込んで来るとは誰も思っていなかった。
「まだ…まだ…」
「おらぁ!早く倒れろ!」
「―――やめてください!」
「あん…?」
今まさに殴ろうと拳を振り上げている男に近づき、が叫んだ。
「何だぁ?オマエ…」
「……彼の…クラスメートです」
「………?」
殴られていた武道がに気づき、ゆっくりと視線を上げる。
その顔は殴られ過ぎて右瞼は腫れあがり、鼻血で口の周りが真っ赤に染まっていた。
「花垣くん…酷いケガ…」
「オマエ…何…で…ここに?」
「そんな事どうだっていいでしょ?!病院に行こう、花垣くん」
「お、おい、―――」
はクラスメート、花垣武道の腕を掴むと大柄の男を無視して歩いて行こうとした。
だが「待て待て待て待て…」と男が苦笑すると、の腕を強く掴み上げる。
「痛…ッ」
「タイマン中に急にしゃしゃって来やがって…誰だ?てめえ…」
左眉に切り傷のあるその男は小柄なの腕を引っ張り、力任せに地面へと放り投げた。
「きゃ…!」
「…!―――やめろ、キヨマサくん…!コイツは俺のクラスメートってだけだ!手ぇ出すな!」
「オマエもたいがいうるせぇな!早く倒れろや!」
「ぐぁっ」
「…花垣くん!!」
再びキヨマサに殴り飛ばされた花垣武道を見て、は体を起こすとキヨマサの前に立ちはだかる。
「これだけ殴れば気が済んだでしょ?!もうやめて!」
「あぁ?!何だ、このブス―――」
「おい、!やめろって!」
「コッチ来い!」
ギャラリーの方から叫んでいるのは武道の仲間の千堂や山岸だ。
何故、武道が殴られているのを黙って見ているのかには分からないが、とにかくこれ以上殴られれば武道も大怪我だけでは済まない気がした。
「もうやめて下さい…」
は目の前の大柄の男、キヨマサの顔を初めて見上げ、睨みつける。
だが左眉の傷を見た瞬間、キヨマサの顏に見覚えのある事を思い出し、マジマジと見つめた。
「あ?なーに見てんだよ?」
「あなた、あの時の…?」
「は?」
「その額の傷…あの時の人でしょっ?あなたの仲間が私の祖母を車道に突き飛ばした…」
「はあ?何言ってんだ、てめぇ…」
キヨマサは記憶にないといった顔をしているが、はハッキリと覚えていた。
この男がタバコを道へポイ捨てし、祖母がそれを注意すると仲間の男がいきなり祖母を車道の方へわざと突き飛ばしたのだ。
「前髪に二か所メッシュを入れた男はどこ?祖母を突き飛ばしたのハッキリ見たんだから」
「…メッシュぅ?ああ、赤石の事か…」
キヨマサは不意に笑うと「おーい、赤石~!オマエ、ババアを突き飛ばしたんだっけー?」とギャラリーのいる方を見た。
すると最前列で観ていた男が三人の方へ歩いて来る。
「知らねーなあ?ババアがどうしたって?」
「あ、あなたよ…!祖母をケガさせたのは!」
「オイオイオイ…シラケさせんなよ~。今キヨマサがタイマン中だ。オマエ、邪魔だよ、ブス!」
「痛っ離して!」
赤石という男は無理やりの腕を引っ張り、二人から引き離そうとする。
小柄なでは力で敵わず、引きずられるようにギャラリーのところへ連れて行かれた。
そこへ武道の友達の千堂達が走って来た。
「すんません!レッドくん!コイツ、俺らの学校のヤツで…」
「俺達が引き留めておきますんで…」
「けっ!いちいち女が出しゃばんじゃねーよ。しっかり見張っとけ」
「ちょ、ちょっと千堂くん、山岸くんまで…放してってば!アイツ、私の祖母にケガさせたのよ!」
赤石を追いかけようとが必死に暴れたが、千堂は「やめろ、!」と強引に後ろの方へ連れて行く。
「オマエまで殴られたらどーすんだよ?女だからって手加減するよーな奴らじゃねーぞっ」
「で、でもせっかく見つけたのに…!」
似顔絵捜査を手伝ってまで探していた犯人なのだ。と言って千堂の言うように力で敵う相手でもない。
赤石は再び最前列を陣取り、キヨマサへ声援を送っている。
見ればまたしても武道が一方的に殴られていた。
「ちょ…花垣くんのケンカも止めなきゃ!あのままじゃ死んじゃう!」
「分かってるけど!アイツ何でか今日は諦めようとしねーんだよ…」
「何なの、これ?何でタイマンなんて…力の差がありすぎるじゃない」
「と、とりあえずはこのまま帰れ…。ケガしてるし血が出てる…」
千堂に言われ、は「え?」と言いながら自分の恰好を見た。
転ばされた事で肘と太ももが擦りむけ、血が流れている。
「こんなケガ大したことない…」
「ってかオマエ、マジでバカなの?男同士のケンカに割って入るなんて女のする事かよ?」
武道の仲間の一人、鈴木マコトが呆れたようにを見下ろす。
「あんなのケンカじゃない!一方的な暴力でしょ?!」
「だけどタケミチがこのケンカ始めたんだよ…」
そう言いながら千堂は殴られ続けている武道を見て拳を握り締めた。
どんなに殴られても武道は絶対に倒れず、未だに踏ん張っている。
「クソ…タケミチ!」
「もういいって!タケミチ!マジで死んじまうぞ!」
武道の幼馴染の山本タクヤも声を張り上げている。
「まだ…まだぁ……」
フラフラとしながら武道が呟く。
その姿に千堂達はハッとしたように息を呑んだ。
「まだまだ…こんなんじゃ…俺の…12年…ヘタレた…心は直ら…ねーんだよ…」
「アイツ、何言ってんだ…?」
「逃げて…逃げて…逃げて…」
過去の情けない自分を思い出し、武道は唇を噛み締めた。
彼女からも仲間からも逃げた過去の弱い自分に無性に腹が立つ。
「…もう引けよ!タケミチ!十分気合見せたよ!」
千堂が叫んだ瞬間、武道は力強く拳を握り締めた。
「引けねぇんだよ!!!引けねぇ理由があるんだよ!!!」
「「「――――ッ」」」
武道の心からの叫びに、その場にいた全員が息を呑んだ。
「東京卍會……キヨマサ……勝つには俺を殺すしかねーぞ…。ぜっってぇ負けねぇ…」
武道は涙を浮かべながらも不敵な笑みを見せるとキヨマサの前に立ちはだかる。
だがはその武道の言葉を聞いて鼓動が大きく跳ねた気がした。
「…東京……卍會?」
「え…?知ってんの?!東卍のこと…」
千堂がの様子に気づいて驚いている。
武道のクラスメートであるの事は口うるさい優等生だと認識していた千堂や山岸にとって、の口から東卍の名前が出た事が信じられなかった。
「せ、千堂くん…あのキヨマサって人…東京卍會の人なの…?」
「え?あ、ああ…そう…だけど…。マジ、何でが東卍のこと知ってんの?」
「え?!あ、あの…」
千堂や山岸達は心底驚いたような顔でを見ている。
まさか本当の事は言えず、は言葉に詰まった。
その時、キヨマサが「バット持ってこい!」と言っているのが聞こえて、はハッと顔を上げた。
「上等だ…殺してやるよ…。早くバット持ってこい!!」
そのキヨマサの言葉はギャラリーもざわつかせた。
武道の覚悟を持った態度に苛立ったのか、武器をよこせと言っているキヨマサは引くに引けなくなっているように見える。
「バットって…」
「タイマンじゃねぇの?」
度を越したキヨマサの凶行はその場に集まった不良達をもドン引きさせている。
その空気にも気づかず、キヨマサは苛立ったように怒鳴り出した。
「早くしろ!!」
「と…止めなきゃ―――」
中途半端にプライドが高いああいう男は、メンツだとかそんな下らない理由で人を傷つけてしまう事がある。
今の状態で武器を使った攻撃をされれば本当に武道の命が危ない。
は千堂の腕を振り払うとギャラリーの間を抜けて武道の方へ走って行こうとした。
千堂はギョっとしてそれを追いかけると再びの腕を掴む。
「やめろ、!オマエまで殴られんぞ!」
「放して!あのままじゃ花垣くんが―――!」
とが必死に腕を振りほどこうとしたその時だった。
「オイ、キヨマサ―」
「あっ?!」
「―――ッ?」
突然、割って入って来たの良く知る声がその場の空気を凍り付かせた。
「客が引いてんぞー」
その場にいた全員が声の主の方へ視線を向けている。
当然もその人物に気づいた。
(な、なな何で彼がここに――ーッ?!)
何故か分からないが見つかったらマズいという頭が働き、は咄嗟に千堂の背中へサっと隠れた。
「ムキになってんじゃねぇよ。主催がよぉー」
その人物はゆっくりとした足取りでキヨマサの方へ歩いて来る。
それを見ていた武道の仲間の一人で自称歩くヤンキー辞典の山岸が唖然としたように口を開いた。
「金の辮髪…こめかみに龍の入れ墨…」
「嘘だろ…」
「東京卍會・副総長…龍宮寺堅…通称"ドラケン"!」
「……ッ?」
山岸、千堂、鈴木、山本らが驚愕したように目の前に現れたドラケンを見ている。
そしては同じ学校の生徒である千堂達のリアクションを見て、変な汗が出てきた。
まさか自分の身近に東卍の幹部の事を知っている人たちがいるとは思っていなかったのだ。
自分の彼氏とその友達はが思っていた以上に有名な存在だったらしい。
(マ、マズい…彼ならこの場を収めてくれそうだけど…私がこんな場所にいた事がバレたら絶対に―――)
千堂の背後に隠れながらは冷や汗が浮かんで来るのを感じ、この場からどうやって逃げようか考える。
その時、の心臓を更に速くする、よく知った声が聞こえて来た。
「ねぇねぇ、ケンチン」
「あ?こーゆーとこで、そのあだ名呼ぶんじゃねぇよ」
ドラケンが足を止め、呆れ顔で振り返る。
「どら焼きなくなっちゃったぁ」
ペロリと口元を舐めながら片手をあげてドラケンの後ろから歩いて来た人物に、は今度こそ血の気が引いた。
すると千堂がその人物を見て訝しげに眉間を寄せた。
「何だ?アイツ…」
「場の空気、全然読めてねぇ…」
鈴木までが唖然としたように呟く。
そしてだけは困り果てたように頭を抱えていた。
(ななな何で彼までこ、ここに?!用事ってこの事だったの?!)
千堂に隠れながらはどうにか見つからずこの場から逃げる方法はないかと悩んでいた次の瞬間―――。
その場にいたギャラリー全ての不良達が一斉に頭を下げた。
「総長、お疲れ様です!!」
「お疲れさまです!!」
「お疲れ様です!!」
「「「「「「「お疲れ様です!総長!!」」」」」」
「……ッ?!」
大きな波が押し寄せてくるように、次々に声を張り上げていく不良達に、、それを見ていた千堂達はギョっとしたように目の前の光景を見ていた。
そしてキヨマサと対峙していた武道も驚愕した表情を浮かべながら、自分の方へ歩いて来る二人を見つめている。
(まさかコイツが…)
その時、千堂がポツリと言った。
「"無敵のマイキー"…東卍のボスだ」
千堂の言葉にもドキっとする。
(な…何…これ…さ、佐野くんって……そ、そんなに凄い総長さんだったの―――?)
万次郎がどういった人物かと言う事は聞かされていたものの。
二人でいる時、または仲良しの幹部達と一緒の時の姿しか知らないは、暴走族がどういったものだとかあまり深く考えていなかった。
大勢に頭を下げられ、その前を学ランをなびかせながら堂々と歩いて来る万次郎を見たは心の底から唖然としていた。
「あ、あのマ…マ…佐野くん…!俺…三番隊で特攻やってます!赤石っす!」
「…………」
の祖母を突き飛ばした男が緊張した面持ちで万次郎へ声をかける。
だが万次郎は聞こえなかったかのようにスルーすると、赤石の前を無言で通り過ぎた。
「邪魔…。マイキーは興味ねーヤツとは喋んねーんだよ」
「あ…す…すみません…」
万次郎の後ろを歩いて来たドラケンが赤石を一瞥して足を止める事なく一言忠告していく。
それを見ていた鈴木も「あのレッドくんが何も言い返せない…」と驚いたように呟いた。
万次郎はそのままキヨマサが立っている方へ歩いて行ったが、キヨマサが「お疲れ様です」と軽く頭を下げた瞬間。
ドゴォっという鈍い音と共にドラケンの蹴りがキヨマサの腹へめり込む。
「キヨマサー。いつからそんな偉くなったんだー?総長に挨拶する時はその角度な?」
「ゲホッ…ゲホッ…は、はい!!」
巨体を90度に曲げ腹を抱えながら返事をするキヨマサを、万次郎は更にスルーして歩いて行くと、その後ろに立っている武道の前で足を止めた。
それを見ていたは一瞬ドキっとする。
武道は万次郎が顔を近づけて来た事に驚きその拍子に後ろへ倒れ込んで尻もちをつく。
そんな武道を見下ろすと「オマエ、名前は?」と無表情のまま尋ねた。
「は、花垣武道…」
探していた東卍の総長の登場で心底驚いていた武道は何とか声を絞り出した。
何故この場に現れたのかは分からないが、これから自分の身に何が起きるのかまでは考える余裕もない。
万次郎は武道の名前を聞くと軽く頷いたようだった。
「…そっか…タケミっち」
「へ…?…タケミっち?」
ポツリと変なあだ名で呼ぶ万次郎に、武道も唖然とした。
「マイキーがそう言うんだからそうだろ?タケミっち」
「…へっ?」
ドラケンにまでそのあだ名で呼ばれた武道が驚きの声を上げた時だった。
万次郎が不意にしゃがみ、片手で武道の頭を軽く引き寄せ自分の顏に近づける。
「オマエ、本当に中学生?」
「―――ッ」
その鋭い一言で武道がギクっとした瞬間、満面の笑みを浮かべた万次郎は「タケミっち」と先ほど自分が付けたあだ名を口にした。
「今日から俺のダチ!!なっ♡」
「…へっ?」
昨日まで会う事もままならなかった遠い存在の東卍の総長に、笑顔でダチな?と言われた武道は今度こそ驚きで固まった。
万次郎はゆっくり立ち上がると、ふと振り向き後ろにいるキヨマサの方へ歩いて行く。
「オマエが"喧嘩賭博"の主催?」
「は…はい」
頭を下げながらキヨマサが返事をすると、万次郎がニッコリ微笑んだのと同時だった。
自分の倍の身長はあるキヨマサの鼻っ面を万次郎は勢いよく蹴り上げた。
「―――ッ?」
その一撃でキヨマサは意識を失ったのか白目を向いている。
万次郎はフラついたキヨマサの髪を掴むと「誰だ?オマエ」と言いながら顔を殴りつけた。
一発、二発、三発と鈍い音が辺りに響く。
「キ、キヨマサ…」
赤石は顔面蒼白になりながらも万次郎に殴られているキヨマサを、ただ見つめる事しか出来ない。
だがその時「もうやめて!」という声がその場に響き渡った。
全員が一斉に声のした方へ視線を向けると、そこには先ほどタイマン勝負に乱入してきた眼鏡の少女が怒った様子で立っている。
それを見た武道、そして千堂達は一気に血の気が引く思いがした。
「バ、バカやろ、!!おま、今度こそ殺されっぞ!あの人は東京卍會ってチームの総長―――」
「もうやめて!意識ない人を殴るなんてダメ!」
「………ッ?!!(はぁ?!)」
千堂の目が少し飛び出た瞬間だった。
歩いて行こうとするの腕をかろうじて掴んだものの、千堂の方が逃げ出したくなったのは、今の今までキヨマサを殴っていた万次郎が驚いたように振り返り、なおかつ物凄く怖い顔で自分達の方へ歩いて来るのが見えたからだ。
「お、おい…謝れ、!マジで殺されるって!」
山岸も声を震わせながら歩いて来る万次郎を見る。
それはその場にいたギャラリー全員が同じ思いだった。
「あの眼鏡の女…死んだな…」
「つーか花垣のクラスメートだっけ…?何であんなに気が強いんだ…。ケンカに乱入チャレンジャーか?」
「あの様子じゃ勉強しかしてこなくて空気読めねーんだろ…きっと…」
と口々に言いあっている。
それを聞きながら武道も何とかボロボロの体で立ち上がると「…逃げろ…」とを見た。
(がこんなとこに来たのは俺を助けるためだ…。コイツだけは守らねーと…)
自分のせいでクラスメートにまでケガをさせるわけにはいかない、と武道は歩いて来る万次郎を睨みつけた。
「おい、オマエ…」
その時、千堂達の方へ歩いて来た万次郎が凄みのある声での腕を掴む。
「やめろ!ソイツは―――」
と武道がフラフラの足で止めに入ろうとしたその時。
万次郎はを自分の方へ引き寄せると、逆の腕を掴んでいた千堂に向かって「その手、放せよ」と一言呟いた。
「は俺んだから触んな」
「……へ?…?(って誰?)」
不運にも、千堂はもちろん、この時はクラスメートの武道ですらの下の名前までは知らなかった。
「早く放せっつってんだよ!」
「は、はい…!」
よく分からなかったものの、その迫力にビビった千堂は掴んでいたの腕をパっと放す。
それを見た万次郎は更に千堂を睨むと、
「オマエ、の何?」
「…へ?あ、い、いや別に何も関係はないと言いますか…。クラスも違うし…」
「は俺のクラスメートで…っていうか俺ら同じ学校なんですっ」
「え、タケミっちと?」
凄まれている千堂を庇うように武道が口を挟むと、万次郎はそこで驚いたようにを見た。
だがは未だ怒っているのか、その頬が若干膨らんでいる。
それを見た瞬間、万次郎の眉が悲しげに下がった。
「何でそんな怖い顔してんの……」
「そんな事より…どうしてあんなに殴ったの?あんな人、一発で十分だったのに」(!)
「え、あ…いや…それは…ってか何だよ、これ?、ケガしてんじゃん!!」
そこでのケガに気づいた万次郎はギョっとしたように叫ぶ。
「え?あ、こ、これは…ちょっと転んだだけだし…」
の肘と脚の擦り傷を見て、万次郎の顏が青くなった。
そして何を勘違いしたのか、千堂をジロリと睨みつける。
「これ、やったのオマエ?」
「い、いや!ち、違いますよ!!」
「千堂くんは関係ないってば!」
「……千堂…くんんっ?!」
「……(ひっ)」
万次郎の額がピクリと動き、殺気満々の目で睨まれた千堂は全身が総毛だつ。
これまで優等生だ、うるさい眼鏡だとを邪険にしてきた全てを後悔したくなった。
そして何故無敵のマイキーがその優等生と親しげにしているのかという疑問だけが脳内をまわる。
「そ、それはキヨマサくんがを突き飛ばして…」
「あ?キヨマサ…?」
千堂の顔色が死人のように青ざめていくのを見て同情した山岸が説明すると、万次郎の口元がピクリと引きつった。
キヨマサはとっくに自分がぶちのめしてぶっ倒れている。
それににも怒られた事で、この行き場のないイライラをどこにぶつけようかと万次郎は目の前に並ぶの同級生たちを見た。
その殺気を感じ取り武道達は青くなったが、それよりも二人が知り合いだったという事の方が衝撃過ぎて頭が少し混乱していた。
「佐野くん…ほんと大丈夫だから…もう怒らないで…」
「でもこんなケガさせられたのに?」
「私がタイマン勝負邪魔しちゃったから…」
「はあ?何でそんな危ない事するわけ?」
「だ、だって花垣くんが一方的に殴られてたから止めようと思って―――」
「だからって危ないだろ?ケンカしてるとこに乱入するなんて!」
「でも花垣くんが―――」
(、やめてくれ…これ以上マイキーくんを刺激しないでくれ…。俺の名前も出さないでくれ…!!)
武道は心の中で哀願しながら、ついでに言えばに怒られ、万次郎が焦っている姿にも絶句した。
はいつも不良である武道を叱っては来たが、まさか東卍の総長にまで説教するなんて、しかも二人がそういう間柄である事すら信じられない。
いったい二人はどういう関係なんだろう?と首を傾げる。
「でも何であのキヨマサって人をあんなに殴ったの…?」
「…アイツはルール違反したっつーか…勝手に東卍の名前使ってこんな喧嘩賭博なんてもんやってたからさ」
「喧嘩…賭博?」
「ってか、そもそも何でがここにいんの?!しかも学校の男なんかと一緒に!」
「そ、それは…!」
怒っていたつもりが逆に責められ、もギクっとしたように言葉を詰まらせる。
デートの約束をしていたはずが、二人ともこんな場所にいるのは少しおかしな光景だ。
「さ、佐野くんこそ…用事って何だったの…?」
「だから俺はケンチンから三番隊のヤツが喧嘩賭博なんてやってる奴がいるって聞いたからシメに行こうぜってなって…」
「しめる…?何を…閉めるの?」
言葉の意味を全く理解できていないはキョトンとした顔をしたが、万次郎は思い切り吹き出した。
それを見ていたドラケンも思い切り溜息をつき、ホッとしたような笑みを浮かべる。
実はが突然現れ、この場で一番焦っていたのは万次郎とドラケンだったのだ。
「おい、マイキー。とりあえず行くぞ。皆が見てる」
「…ああ」
ドラケンが帰るよう流すと、万次郎も素直に頷いた。
それを見守っていたギャラリー達は「あの女、マイキーくんの何?」と口々に言いあっていて、武道達も同じ事を思ったが今はどうもそれを聞くような空気ではない。
「とりあえず行こ、。ケガの治療もしないと。ったくこんな危ないとこに来るなんて何考えて―――」
「あ、ちょ、ちょっと待って、佐野くん、龍宮寺くん…っ」
歩いて行こうとする二人を呼び止め、はギャラリーの方へ振り返る。
武道はキヨマサが万次郎の鉄拳制裁を受けた事で無事に済みそうだが、にはもう一人許せない人物がいた。
「な、何だよ…」
に睨まれ赤石がギクっとしたように後ずさる。
よくは分からないが自分のチームの総長とこの女が親しいという事だけは分かった。
そして先ほどに言われた事も覚えていた。
キヨマサに「捨てた吸い殻を拾いなさい」と説教してきたお年寄りを突き飛ばした事も。
「警察に自首して下さい」
「…は?」
「うちの祖母を突き飛ばしたでしょ?あれは傷害罪です」
「…く…」
キッパリ言い切られ、赤石は冷や汗が流れた。
そこへ万次郎が歩いて来たからだ。
「え、コイツがのバアちゃんにケガさせたヤツ?!」
「うん…間違いない。顔は覚えてるの」
それを聞いて万次郎の表情が一瞬で変わる。
だがその前にドラケンが歩いて来ると、徐に赤石の胸倉を掴んだ。
「てめえ…東卍の名前、汚すようなマネしやがって…!」
「ぐあ…っ」
そこでドラケンが赤石の横っ面を殴り飛ばした。
「いつから弱いもんに手ぇ上げるような腐った考えになったんだよっ?オマエも、キヨマサも!」
「オマエら、もう東卍じゃねぇよ」
「マ、マイキーくん…!俺―――」
「オマエんとこの隊長のパーには俺から話をつけておく。二度と東卍の集会には顔出すな。俺の前にもな」
万次郎はそれだけ言うと、後ろで驚いたように見ていたに「ごめん」と一言謝った。
から祖母がケガをした話を聞いた時、まさかそれが自分のとこのメンバーがやったなどとは思ってもいなかった。
東京卍會は暴走族だが、弱い者相手に粋がるようなメンバーはいないと信じていたからだ。
だが実際、お年寄りにケガをさせ、東卍の名を使い、喧嘩賭博なんて下らない事までやっているヤツがいた。
しかものクラスメートや学校の友達まで巻き込んでいた事を知り、万次郎は総長として自分が情けなかった。
「おら、オマエら解散しろー!」
ドラケンは未だたむろっているギャラリーに向かって声を上げた。
その合図で大勢いた不良達が一斉に帰り始める。
「オマエら二度と下らねーマネすんじゃねぇぞ!」
ドラケンは最後に釘を刺すと、ふと後ろを振り返った。
を前に、万次郎は申し訳なさそうな顔で項垂れている。
自分のチームの人間が、大切な人の大切な家族を傷つけた事実は万次郎にもキツいだろうがドラケンにとってもツラい。
落ち込む気持ちは痛いほどに理解できた。
「ほんとごめん。のバアちゃんにケガさせて…」
「そんなの…佐野くんのせいじゃない。あの人がやった事だよ」
「でも俺んとこの奴だった…今日だってにそんなケガさせて…」
「私は大丈夫。それより…本当にチームやめさせちゃうの?林田くんとこの隊の人なんでしょ?」
「いいんだよ…。ああいう奴らがいたらチームはダメになる…。パーだって分かってくれるさ」
万次郎はそう言いながらの手を繋ぐと「それより…俺、に頼みがあるんだけど」と言った。
「頼み…?」
が不思議そうに首を傾げると、万次郎は優しい笑みを浮かべた。
「のバアちゃんに…会わせて」