12.あなたのいる世界線-(2)


の祖母、雪子はポカンとしたまま玄関の上り口で立ち尽くした。
夕方になり、いつものように孫が来てくれたかと思えば、見知らぬ男の子を連れて来た。それも二人。
一人は長身で金の辮髪、頭の横には龍のタトゥーを入れたやたら迫力のある男の子。
もう一人は小柄ながらにやけに存在感のある、それでいて綺麗な顔立ちの金髪の男の子。
優等生の孫が付き合うにしては少々、いやかなり生きている世界が違うように雪子は思えた。
だが雪子が驚いたのは二人の外見ではなく。
二人が雪子と顔を合わせた瞬間、深々と頭を下げて「申し訳ありませんでした」といきなり謝罪をしてきた事だった。

「あなたにケガをさせた奴は俺らの仲間でした。本当にすみませんでした」

小柄な男の子が再度頭を下げる姿を見て、雪子は二人が何故ここへ来たのかを瞬時に理解した。
伊達に歳は重ねていない。
から現在交際している万次郎の外見を聞いていた雪子は、今、自分に頭を下げている小柄な男の子が孫の話していた子なのだと気づく。
彼はから祖母がどこかの不良にケガをさせられた、とでも聞いていたのかもしれない。
そして自分の仲間がしでかした事を最近になって知ったんだろう。
だから謝罪しに来たというところか。
それにしても自分がやったわけでもないのに、わざわざ頭を下げに来るなて今時の子にしては潔い、と雪子は感心した。
そして目の前で頭を下げる"公園のイケメンくん"の事を、雪子は気に入ってしまった。

「そうだったの。―――、この子達はお友達?」

雪子が敢えて質問すると、はどこか照れ臭そうな顔をして小さく頷いた。

「う、うん」
「もしかして公園の?」
「あ、あのおばあちゃん…」
「とにかく話は中で聞くわ。二人ともどうぞ入って」
「え…?」

てっきり怒鳴られるものだとばかり思っていた万次郎とドラケンは、雪子が意外にも優しい笑顔を見せてくれた事に驚いた。

「ほら、早く入って。ドアを開けっぱなしじゃ蚊が入っちゃうでしょ。もお茶淹れるの手伝ってちょうだい」
「う、うん。あ…佐野くんも龍宮寺くんも…どうぞ?」
「あ、うん…」

今度は二人がポカンとした顔をしていたが、にも促された事で言われるがまま家に上がらせてもらう事にした。
大きな引き戸を閉めて無駄に広い玄関に入ると、他人の家の匂いが何となく二人を緊張させる。

「お邪魔します」

と言いながら、二人はどこかおずおずとした様子で玄関口へ上がると、これまた広い廊下を歩いて行く。
開け放されたままのガラスの引き戸を覗くと、そこはリビングのようで、奥から「座っててね」との声が聞こえて来た。
どうやら雪子とはキッチンにいるらしい。
万次郎とドラケンは互いに顔を見合わせると、リビングの真ん中に鎮座しているソファへ二人並んで腰をかけた。

築30年ほどの雪子の家は亡くなった夫が建てたものだ。
漆を塗られた太い木の柱や壁に飾られた柱時計など、昭和の時代を色濃く残した趣のある室内は、かすかに蚊取り線香の匂いが漂っている。
万次郎はこの匂いが嫌いじゃない。むしろ大好きだった。
この匂いを嗅ぐと子供の頃の楽しみの一つでもあった夏休みを思い出すのだ。
蚊取り線香、スイカ、花火、プール、カキ氷。
この匂いだけで一気に頭の中にある色んな思い出とリンクするからかもしれない。
そして必ずそれらの思い出の隣には、大好きだった兄がいた事も。
それにこの家はどこか―――。

「なーんか…外見もそう感じたけど中もマイキーんちの母屋に雰囲気が似てるな」
「あ、、ケンチンも思った?俺もそう思った。何かホっとするなーって」
「まあマイキーんちと近所だし同じ頃に建てられたのかもな」

ドラケンはそう言いながら庭先の方を眺めて「すげー手入れされてんな。高そうな盆栽」と感心したように呟いた。
そこへ雪子とがお盆にグラスを乗せて戻って来る。

「はい、麦茶くらいしかなくて。あと若い子の口に合わないだろうけど食べられるならこれどうぞ」

と、雪子は笑いながら麦茶の入ったグラスとどら焼きが沢山乗ったお皿をテーブルに置いた。
まさかの自分の大好物が出され、万次郎が「どら焼き好きです」といち早く反応する。

「あら、そうなの?なら良かった。食べて食べて」

雪子は嬉しそうに言うと、の手を借りながら向かいのソファへ腰を掛ける。
だが二人は「その前に…」と口を開き再び頭を下げた。

「足を骨折したとさんに聞きました。本当に―――」
「もういいのよ」

万次郎がもう一度謝罪しようとした時、不意に雪子が首を振って微笑んだ。

「それにアナタ達がしたわけじゃないでしょ」
「いえ、それでも俺達の仲間がしでかした事です…」
さんから聞いてると思いますが…俺達の世界では一般の方にまで被害が出るのは良しとしてません。でも今回はアナタに酷いケガまでさせてしまった。チームのトップとして―――」
「ちょ、ちょっと待って…?チームって…何の話?」
「え…?」

ドラケンや万次郎の話を聞いていた雪子がキョトンとするのを見て、万次郎は咄嗟にを見た。
てっきり自分の素性を祖母に話しているものだとばかり思っていたからだ。
でもは二人を見ると慌てたように首を振った。

「あのね、おばあちゃん!佐野くん達はその…と、東京万次郎會っていうグループを作ってて―――」

「「……(ぶーっ!!)」」

一瞬、気持ちを落ち着けようと口へ運んだ麦茶を拭きそうになった万次郎とドラケン。
何とか吹き出すことなく喉の奥へ流し込む事に成功した。
その間も雪子との会話は続いている。

「東京…万次郎會…?」
「そ、そう!えっと…」

何をしているグループにしようか迷っているを見た万次郎とドラケンは訝しげに顔を見合わせる。
その様子からして自分達が暴走族という事までは雪子に話していなかったのだろう、というのは彼女の態度で察する事が出来た。
奇しくもが誤魔化そうとして祖母に告げた"東京万次郎會"という名前は、最初にチームを作ろうと場地や三ツ谷たちと話していた時、万次郎がその名にしようと言い出し、全員から「ダセぇ!」とバカにされ却下された幻のチーム名だった。
だがその時、雪子が「佐野…万次郎?」と呟き、ふと万次郎を見た。
はそれまで雪子にも万次郎の名前を告げた事がない。
故に公園で会ってる"イケメンくん"としか雪子は知らなかった。
その雪子が万次郎の名前に反応したのを見ていたは少しばかり驚いた。

「佐野って…もしかして…佐野道場の…?」
「え、おばあちゃん知ってるの…?」
「知ってるも何も…え?もしかして万作さんの孫の、あの万次郎くん?」

「「「……万作さん?」」」

、そして万次郎とドラケン3人が同時にハモった瞬間だった。

「えっと…万作は確かに俺のジイちゃんだけど…」
「あーやっぱり!言われてみたら万作さんの若い頃にソックリよ!」

戸惑い顔で頷く万次郎に、雪子が嬉しそうに笑い出した。

「え、ジイちゃんのこと知ってるんですか…?」
「そりゃあご近所さんだしね。この家は夫が建てたもんだけど、私は小さい頃からこの町に住んでるの。万作さんとは幼馴染みたいなもんかな」
「「えっ!!」」

幼馴染と聞いてと万次郎が同時に声を上げる。
まさか知らない所で二人の間にそんな縁があったなんて思わない。
祖父と祖母が幼馴染という事実に、と万次郎は暫し呆気に取られた。

「万作さんはそりゃあイケメンで私の初恋でもあるのよ。まあ一回り以上も歳が離れてたから相手にされなかったけどねー」
「……マ、マジ…?」
「………」

ケラケラと笑う雪子にドラケンも驚く。
当然ドラケンは万次郎の祖父、万作とも面識はある。
もちろん孫3人を男手一つで育て上げた人で、だからこそ厳しいところもあるが、基本は放任主義の優しい人だった。
万次郎に至っては自分の祖父が初恋の相手などと聞かされ、複雑そうな表情を浮かべている。
それでも知らない所でと縁があった事は嬉しかったのか、ふと笑みを浮かべてを見た。

…もう隠さないでいいよ」
「え?」
「俺達のこと。ジイちゃんの事を知ってるなら…その孫が何をしてるかくらいバレてると思うし」

万次郎の言葉に雪子も苦笑しながら頷いた。
この辺の住民なら誰でも知っている事らしい。

「もちろん知ってるよ。真一郎くんの事でも万作さんが愚痴ってたからね」
「…真一郎って…」
「ああ、二年前に死んじまった俺の兄貴」
「え、お兄…さん?おばあちゃん、彼のお兄さんも知ってるの?」
「もちろん。一本気ないい子でね。まあ真一郎くんもヤンチャだったけど…弟は兄以上にヤンチャだって前に万作さんがボヤいてたわ。まさかその万次郎くんが私の孫の彼氏になってるとはねえ」
「「………」」

雪子にシミジミと言われ、と万次郎の頬が赤くなる。
特に万次郎は幼い頃の自分を知られていると思うと、変な汗すら浮かんで来た。
万作が話した通り、万次郎も自分がヤンチャなガキだったという自覚があるからだ。
それでも雪子は万次郎達が暴走族だからという理由だけで判断せず、それを受け入れ笑い話にしてくれた事が嬉しかった。
ただその話と先ほどのケガをさせた話とは全くの別物だし、自分の孫が暴走族のリーダーと付き合ってるとなれば、さすがに雪子も反対するのでは、という不安が万次郎の中にこみ上げて来る。

「あ、あの…俺、とは…本気で付き合ってます。アナタにケガをさせたヤツの仲間の言う事なんか信じられないかもしれないけど―――」
「ああ、その事ね。うん、真剣なのは分かってる」
「え…?」

雪子はニヤリと笑みを浮かべながらのんびり麦茶を飲んでいる。
その姿を見て、今度はと万次郎が顔を見合わせた。

から万次郎くんがどんな人かは前から聞いてたしね。私にケガをさせた子達と万次郎くんやそっちの彼とは何も関係ない」
「おばあちゃん…」
「私は孫の恋を応援したいと思ってるよ。ただし…危ない事には巻き込まないでくれるならね」

雪子はふと真剣な顔で万次郎とドラケンを見る。
それを聞いて万次郎はギクリとした。
巻き込もうと思ったわけではないが、はすでに先ほどの内輪もめで巻き込まれ、ケガまでしているのだ。
万次郎にとって不可抗力だったとはいえ、それも"危ない事に巻き込んだ"内に入るのでは、と心配になった。

「すみません……もう巻き込んだかも…」
「え?」

雪子が驚いたように万次郎を見ると、はハッとしたように手や足の傷を隠そうとした。
だが雪子はその様子に気づき「あら、そう言えば何よ、そのケガ」とを見た。

「ち、違…これは私が勝手にケンカに割り込んで転んだだけ…。佐野くんは悪くないもん」
「まーた一丁前に好きな男でも庇おうっていうの?ったく…」
「だ、だから違うってばっ」
「いーから手当てしないと」

雪子は呆れたように笑うと、救急箱を取りに行くのにゆっくりとソファから立ち上がった。








「それじゃお邪魔しました」

一通り話をした後で、万次郎とドラケンは家を出ると、もう一度雪子へ頭を下げた。
雪子は「もういいってば。も迷惑かけたみたいだし」と笑いながら二人の下げた頭をクシャリと撫でる。
その手の温かさに二人は胸の奥がふと暖かくなった。

「それにだいぶ歩けるようになったくらいには回復してるし、被害届は下げておくから」
「ちょ、おばあちゃん…!それとこれとは―――」
「いいんだよ。だって犯人の子達は万次郎くんとケンちゃんがお仕置きしてくれたんだろ?」
「ケンちゃんて…」

すっかり打ち解けたようで、雪子はドラケンをケンちゃんと呼び出し、は困ったように溜息をついた。
でもドラケンは嬉しそうに笑うと「ケンちゃんでいいよ」と言ってくれる。
両親のいないドラケンにすれば、こんな風に優しく接してくれる大人は自分の住んでいる風俗店の従業員だけだった。
雪子と話していると、自分にも母親や祖母がいればこんな感じなんだろうか、とふと想像してしまう。

「ま、それに彼らが捕まったら少なからず同じチームの万次郎くん達の事も警察が調べ出さないとも限らないしね」
「え…?ま、まさか…」
、オマエなら分かる、、、だろ?警察がそういうものだって」

殊の外真剣な顔をする雪子に、は小さく息を呑んだ。
その様子を見て雪子は何かを察すると「だから今回の件はこれでいいんだ」とだけ小声で告げた。
も無言で頷く。雪子はすぐに笑顔を見せると、可愛い孫の頭を優しく撫でる。
幸い万次郎とドラケンは後ろの方で話していて、雪子との会話は聞こえてはいなかった。
雪子は改めて二人の方へ「じゃ、の事を頼むね。まあ、また遊びにおいで。私は暇人だから」と笑いながら家の方へ戻って行った。
それを見送っていた3人は雪子が家の中へ入るのを見届けると、そのまま万次郎の家の方向へ歩き出す。
すでに太陽が沈み、今は綺麗な夕焼けが辺りをオレンジ色に染めていた。

「あ、あの…二人とも、今日はおばあちゃんにわざわざ会いに来てくれて本当にありがとう…」

は万次郎とドラケンを交互に見上げると、笑顔でお礼を言った。
万次郎に「おばあちゃんに会わせて」と言われた時は驚いたが、あんな風に真摯な態度で頭を下げてくれたのを見た時、改めて万次郎を好きになって良かったと思った。
自分達が直接ケガをさせたわけじゃないのに、仲間がしでかした事として責任を取ろうとする万次郎のトップとしての姿勢は、雪子にも伝わったようだ。

「いや…俺の方こそ…あんな事する奴が東卍にいた事じたい総長失格だな」
「ま、パーにちゃんと報告して納得させないとな。のバアちゃんのこと以外にも喧嘩賭博なんてもんやってたんだから」

ドラケンは溜息交じりで言うと、

「ああ、マイキーはを送ってくんだろ?」
「うん」
「俺はそのままマイキーんちでバイク拾って渋谷に戻るわ。三ツ谷と飯食う約束してんだ」

ドラケンは毎朝万次郎の家にバイクで来て、学校の間はそこに置いて行く。
帰りはバイクを取り来て、万次郎の家から出かけるのが日課だった。
そのまま数分歩いて行くと万次郎の家が見えて来る。
ドラケンはすぐにバイクを取りに行くと「じゃあ、また明日な、マイキー。もほんと悪かったな、今日は」と振り返った。

「私こそ…」
「けどもう危ねーマネはすんなよ?俺達がたまたま行ったから良かったものの、あんな風に男だらけの中にがいたらマイキーが動揺すっから」
「…ケンチン。余計なこと言わなくていーから!サッサと行けよ」

ケラケラと笑うドラケンの言葉に真っ赤になった万次郎は、ウザいと言いたげに手でシッシとやっている。
でも先ほどの場面―――。
大勢の前で総長でもある万次郎を怒鳴ってしまったのは良くなかったなとは思った。
あのキヨマサという男は武道を散々殴りつけ、最後には武器まで持とうとしていた最低最悪の男だ。
だから万次郎がキヨマサを一撃で沈めた時――その強さにかなり驚いたが――のされたキヨマサを見た時は多少スッキリした。
でも意識のないキヨマサを更に殴っている万次郎を見た時、少しだけ怖くなったのだ。
自分の知らない一面を見た気がして、あれ以上殴らせてはいけない気がして必死で叫んでしまった。
でも暴走族の世界では彼らなりのルールがあるという。
それに反した者を罰せなければ更にああいう暴挙に出る人たちが増えるかもしれない。
そしてルール違反を犯した彼らを止められるのは、総長の万次郎しかいないのだ。
何も知らないくせに余計な口出しをしてしまった、とは少し後悔した。

「あ、あの佐野くん…さっきは…ごめんなさい…」
「え?」
「あそこにいた人達…みんな東卍の人なんでしょ?なのに彼らの前で佐野くんの立場も考えずに怒鳴ったりしてごめんね…」
…」

泣きそうな顔で俯くを見て、万次郎とドラケンは一瞬言葉に詰まった。
そこでドラケンは万次郎の肩をポンと叩くと「後は二人で話せよ」と言ってバイクにまたがる。

「ちゃーんと優しく慰めろよ?マイキー」
「…ぐっ…言われなくてもそうするよっ」

ニヤリと笑うドラケンに、万次郎は蹴るマネをして思い切り舌を出した。
ドラケンは「ガキかよ」と苦笑すると、そのままバイクをふかして帰って行った。
バイクの音が遠ざかると、一気に辺りは静かになる。

「あのさ、―――」

万次郎が振り返ると、は未だシュンとしたように項垂れている。
それには万次郎も困ったような顔で笑みを浮かべた。
夕日も沈んだ空には薄っすら星が光り始めていて、少しずつ夜の色に染まりつつある。
本当ならこのままを送って行こうと思っていた。でも―――。

…今からドライヴしない?」
「…え?」

ふと顔を上げれば、万次郎が優しい瞳でを見つめている。

「それとも…今日は帰りたい?」

万次郎に問われ、は考えるより先に首を左右に振っていた。
まだ、一緒にいたい―――。
そう言われている気がして、万次郎はふと笑みを零した。
そのままの手を引き寄せれば、驚いたような声を上げるをぎゅっと抱きしめる。

「俺のバブにを乗せたい」
「…う、うん…」

いきなり抱きしめられた事が恥ずかしいのか、は顔を万次郎の胸に押し付けながら頷いた。
抱きしめていた腕の力を弱めると、が慌ててズレた眼鏡を直そうとする。
それを静止して万次郎はの眼鏡をそっと外した。

「さ、佐野くん?」
「これ付けてたらメット被れないから」
「あ…そっか…」

は眼鏡を万次郎の手から受け取ると、鞄に入っているケースへしまう。
そこで「あ…鞄どうしよ―――」と顔を上げた瞬間を狙って、万次郎はの唇にちゅっと軽めのキスを落とした。
その不意打ちキスにが固まる。
固まったままでもじわじわと赤く染まっていく頬は夜の中でも万次郎の目を楽しませた。

「…、可愛い」

今度は固まっているの両頬を手で包んで押し付けるように唇を塞げば、の黒い瞳が大きく見開かれて。
その手からボトリと鞄が落ちた音がした。

「…行こう」

突然のキスに放心していたは、万次郎のその言葉でふと我に返る。
唇はいつの間にか解放されてて、気づいたら大きなバイクの前まで手を引かれていた。
母屋と離れの間で主を待ちわびていた万次郎の愛機は、月明りに反射してキラキラと光っている。
バイクというものをこんなに間近で見るのはも初めてだった。
「うわぁ、カッコいい」と驚いたような声を上げると、万次郎は嬉しそうに微笑んだ。

「これ元々は兄貴のなんだ。にそう言って貰えて兄貴も喜んでるなあ、きっと」
「え?」
「真一郎は可愛い子に弱かったから、きっとに会ってたら惚れちゃってただろうな」
「ま…まさか…」
「何でまさか?俺がこんなに惚れてるのにさ」

さらりと言われて鼓動が跳ねる。
万次郎は真剣な顔でを見つめていて、その優しい眼差しに頬が熱くなっていく。
何故そんなに優しい瞳で見つめてくれるの、と聞きたくなった。
でも聞く前に万次郎はの手を引き寄せると、両手でその身体を抱えてバイクの後ろへ座らせた。

「わ、こ、怖いよ…」
「大丈夫。軽いし」

万次郎はそう言って笑うとメットを手にしての頭へかぶせた。

「わ…」
はそれちゃんと被ってて」
「う、うん。佐野くんは?」
「俺?俺は大丈夫」
「え?」

ニヤっと笑みを浮かべた万次郎は慣れた動作でバイクにまたがると、すぐにエンジンをかけた。
途端に大きな独特の音とエンジンの振動が体に伝わって来る。
その初めての躍動にはやっぱり怖くなった。

!ここに腕を回してシッカリ掴まってて!」
「う、うん!」

エンジン音に負けないくらいの声で応えながら、は言われた通り万次郎の腰に両腕を回そうとした。
だが抱き着くような恰好になると気づき、恥ずかしくて腰に手をくっつけたところで手が止まる。
すると「それじゃ落ちちゃうから、こう、ね!」と万次郎が苦笑しながらの腕を無理やり自分の腹に回す。
だいぶ前かがみになる体勢で、恥ずかしさよりも恐怖が先に来た。

「た、倒れそう…!」
「大丈夫。体の力抜いて掴まってて!」

万次郎はそう言うとエンジンをふかしバイクを発車させた。

「きゃー-!!!!」

動き出した途端、は思い切り目を瞑り悲鳴を上げた。
万次郎にぎゅっとしがみつきながら「こ、怖いー!!」と叫ぶものの、まだ家の敷地内。
殆どスピードを出してもいない万次郎は、の悲鳴に軽く吹き出した。

「大丈夫だから。俺を信じて」

家の敷地から出たところで一度止めると、万次郎が声をかける。
は返事も出来ず、ただ何度も頷いて見せた。

「じゃあ、行くよ―――」

再びアクセルを回すと万次郎は今度こそ少しずつスピードを上げていく。
今度はも叫ばなかった。いや叫ぶ余裕すらなかった。
強い風を体全体に受けて服や髪がバタバタとはためく。
呼吸すらままならず、はただ万次郎にしがみついていた。
バイクは軽快なエンジン音をあげながら、右へ左へと傾き疾走する。
そのたび、全身に力の入った身体が不安定になるのがにとっては怖かった。
だが数分走ったところで万次郎が何かを叫んだ。

「―――して!」

風とエンジン音の合間にかすかに聞こえた万次郎の声に、はハッとしたように目を開ける。
出発した時からずっと瞑ったままだったらしい。
その時また万次郎が叫んでいるのに気づき、も騒音に負けないくらいの声を出した。

「…えー?!」
「…曲がる時は曲がる方向へ身体の力抜いて少し倒してー!」
「………」

今度はハッキリ聞こえた。
聞こえたがとてつもなく難しい事を言われた気がしては何度か頷いたけれど、出来るかどうかは分からなかった。
バイクに乗るのは初めてでも、ただ力任せにしがみついてるだけじゃダメな事は分かった。

(曲がる時、曲がる方向へ私も力を抜いて少しだけ身体を倒す…)

その言葉を何度も頭の中で繰り返す。
すると先ほどから感じていた傾きを肌で感じた。
あれはカーブを曲がっていたのか、とここで理解する。
そして遠心力に身を任せればいいのだ、と先ほど言われた言葉を更にハッキリと理解して、は自然に傾く方へ身を任せた。

「よく出来ましたー!」

万次郎は楽しそうに笑いながら叫んだ。
そこでは初めて目の前に広がる世界を見た。
目まぐるしく流れるキラキラとした景色の中で、パタパタとはためいている万次郎の学ランと、強い風になびく綺麗な髪。
今、映しているのはいつもの止まった静かな世界とは全然違う、の知らない躍動する景色だった。
外灯や街を照らすネオンが凄い速さで駆け抜けていく光景は、の胸を高鳴らせるには十分すぎるほどに綺麗だ。

「……綺麗」

思わず呟いたのと同時に眼の奥が熱くなる。
こんな綺麗な世界があった事すら、知らないで生きて来たのか、と思った。
すると風に流れて潮の香りが鼻腔を掠めた。

「……うそ…海?」

ネオンが遠ざかっていくとは思っていたが、まさか海の近くを走っていたなんて思わない。
は子供に返ったようなワクワクした気持ちで目の前に広がる夜の海をその瞳に焼き付けた。
海岸沿いを走り抜け、万次郎は夜の浜辺へ向かっているようだ。
は万次郎の腰に回した腕にぎゅっと力を入れた。
頬に触れる強い風と、潮の香りの中に吸い込まれるような感覚になりながら、万次郎の存在を確かめるように抱きしめる。

「…佐野くん…大好き…」

そう呟いた時、何故か涙が溢れて胸がいっぱいになった。
出逢ってから今日までの短い時間の中で、万次郎はの知らない世界を見せてくれた。
それは狭い世界で生きて来たにとって、衝撃的でとても刺激的なものばかりだった。

「―――止めるよ?」

不意にスピードが落ちて、万次郎がに声をかける。
ハッとして顔を上げると、目の前には誰もいない夜の海が広がっていた。

「…海だ」
、おいで」

緩やかにバイクを止めた万次郎は先に降りてへと両腕を伸ばした。
恐る恐る手を伸ばすと万次郎の腕がいとも簡単にの身体を持ち上げる。

「…ひゃ」

ふわっと身体が浮いたと思った瞬間に足は地についていた。

「お疲れさまでした」

万次郎はちょっと笑うと本心状態のからメットを外し、その頭をクシャリと撫でた。

「怖かった?」
「…え?」

ボーっとしてるを見て万次郎が心配そうな顔をしている。

「う、ううん。最初は怖かったんだけど…途中で目を開けたら…凄く綺麗で…感動した」
「…良かった」

ホっとしたように微笑むと、万次郎はの手を繋いで砂浜の方へ歩いて行く。
が、ふとの足元を見ると「あ、脱いだ方がいいかも」と靴を指さした。

「あ、そっか…」

革靴で砂浜を歩いた日には大変な事になると気づき、はすぐに靴と靴下を脱いで素足になった。

「わー砂の感触、懐かしい!」

堅苦しい靴を脱いだだけで身軽になった気がして、は砂浜を走って行った。

、危ないって!ケガしてるんだから」

急に走り出したに驚いた万次郎が慌てて追いかけていく。
足の速い万次郎はに追いつくと、その手を掴んで自分の方へ引き寄せた。

「さ、佐野くん…足速すぎ…」
が遅いんだよ」
「…む」

笑いながらを抱き寄せれば、僅かに尖った唇に軽く口付ける。

「…佐野くん…こんなとこで―――」
「誰もいないじゃん」

恥ずかしいのか腕から逃げようと暴れるの腰を強く抱きよせると、万次郎はもう一度、唇をの口元へ寄せた。
だがはふと万次郎の瞳を見つめて「月だ…」と呟く。

「え…?」
「佐野くんの瞳の中に月がある」
「…の瞳にもあるよ」

額をくっつけて「凄く綺麗」と万次郎が微笑み、の目尻にちゅっとキスをする。
それだけでの鼓動が跳ねる。
こうして誰もいない浜辺で波の音だけを聞いていると、この世界に万次郎と二人きりのような錯覚さえしてしまう。

「…
「え…?」
「さっきは謝ってたけど…俺は嬉しかったよ」
「…嬉しい?」

その言葉の意味を聞く前に万次郎は強くを抱きしめた。

「俺を止めてくれたこと…」
「あ…」

そう言われて自分が言った事を思い出す。
自分が場違いな事を言ってしまったんじゃないかと後悔して、万次郎に謝ったのだ。

「…俺さ…頭に来るとやり過ぎちゃうとこあるから…もしこれからもがそう感じた事があったら、また俺のこと叱ってよ」
「佐野くん…」
「そうしてくれた方が俺は何倍も嬉しい」

僅かに体を離し、万次郎は微笑んだ。
その柔らかい微笑みは少し悲しげで、ふと胸が痛くなる。
万次郎は時々、こんな顔をする事があるからだ。

「…ね?」
「うん…」

が頷けばすぐに額へ口づけられる。
背中へ回っていた万次郎の手が、の一つにまとめている髪をほどいていけば、潮風にサラサラと綺麗な髪が靡いた。
そのまま頭に手を添えられたと思った瞬間、唇が重なる。
触れ合う唇の熱さに、また胸が鳴って涙が零れそうになった。
万次郎に触れられるだけで、心が温かくなって、何故か切なくなって、最後に好きだという思いが溢れて来る。
たった一人の存在が傍にいるだけで、の世界は全てが満たされていく気がした。
好きだとか、もうそんな簡単な言葉では伝えられなくて。

例えば願いが叶うなら、あなたが笑顔でいられるように。
もう二度と悲しみの雨が降らないように、あなたの傘でいさせて下さい―――。