13.あなたのいる世界線⑶



いつもの朝、いつもの時間にピピピピっという目覚まし時計が鳴り響き、はむにゃむにゃと何かを呟いた後で、やかましい音が鳴る方へ手を伸ばす。 だが右へ左へ動かしても、あるはずの物がない。

「…ん?」

おかしいなと思った瞬間、急速に眠気が覚めて行った。

「あれ…?」

がばりと体を起こし、振り返って枕の脇を見たが、いつも目覚ましをセットしてあるはずのケータイがない。
枕を避けてみたり、ベッドの下を見てみたが、それはどこにもなかった。
なのに未だにうるさい音が鳴っている。そこで気づいた。

「……電話!」

慌ててベッドから飛び出すと部屋にある固定電話の子機を取った。

「もしもし…!」
『―――ああ、か?父さんだ』
「…お、お父さん?」

まさかの人物からの電話で今度こそバッチリ目が覚めた。

『まだ家にいたんだな。間に合ってよかった』
「ど…どうしたの?」

父の晃は定期的に電話をしてくるが、いつもは夜にかかってくる。
こんな朝っぱらから何か急用なんだろうか、とが考えていると、晃は『母さんの話を聞いた』と溜息をついた。
その一言にドキリと心臓が脈を打った。
まさか祖母が万次郎達の事を話したんだろうか。の背筋にヒヤリとした汗が流れ落ちる。
だが晃はの想像した事とは別の話を持ち出した。

『被害届、取り下げたって?署の方から連絡があった』
「え?あ…そのこと…」
『ん?何か他に問題でもあるのか』
「…ないよ」

父は鋭い。なるべく自然に聞こえるようには緊張をほぐすように小さく深呼吸をしながらベッドへと腰をかけた。

『ならいいが何で急に取り下げたんだ?母さんに電話したら相手が謝罪してきて示談にしたって言ってたけど』
「え…?」

その話は初耳だが、はすぐに祖母が気を利かせて父に嘘を言ったんだと気づく。
本当の事情を話せば万次郎達の事まで話さないといけなくなる。
だからきっとケガをさせた当人と示談にしたという事にしたんだろう。

「えっと…私が犯人を見つけたの。そしたら彼らが謝りたいって言うから…」
『ええ?そんな不良どもが素直に謝るか?』
「そ…それが意外といい人たちで…」

と言いつつ、あのキヨマサという男の迫力ある顔を思い出す。
あの暴力的な男を嘘でもいい人と形容するのが躊躇われるが、この際仕方ない。

「だからおばあちゃんも謝ってくれたから示談でいいって言いだして…」
『…ったく。母さんも甘いな。そういう奴らは甘やかすとつけあがるのに』
「そう、だけど…」
『ああ、それと。下着泥棒の件もついでに聞いた』

再びドキっとした。
そっちの方は今の話よりもマズい内容だ。

『まさか坂本くんが犯人だとはね。がっかりしたよ。優秀だと思って家庭教師を頼んだのに』
「…私もビックリした」
『怖かったろう。悪かったな…。父さんの見る目がなかった』
「う、ううん…もう大丈夫だから」

他の事は聞いてないんだろうか、とドキドキしていると、晃はやはり『あと一番大事な話だが…』と不意に切り出した。

『その時、坂本くんを捕まえたのが金髪の学生だったって聞いたが…誰なんだ?』
「え、あ、あの…」

どうしようという言葉だけがぐるぐる回る。
正直に話せば絶対に万次郎と別れろと言うだろう。
は焦りながらも何か良い言い訳はないかと頭を働かせた。
そして昨日、殴り合いをしていたクラスメートの顏がふと浮かぶ。

「あ、あのね、彼はクラスメートの子で…ほら前にお父さんにも話した事があったでしょ?クラスの問題児のこと」
『ああ…ケンカばかりしてる男の子か』
「そ、そう!彼がね、下着泥棒の事を話したら捕まえてやるって言ってくれて友達と協力してくれたの」

我ながらスラスラと嘘が出て来るものだ、と内心苦笑した。
ごめんね、花垣くんと思いつつ、この場を誤魔化す為には仕方ない。
晃は『全く不良にそんな事を頼むなんて』とブツブツ言ってはいたが、それで納得してくれたようだった。

『それで…何か見返り求められなかったのか?』
「まさか!言ったでしょ?彼は不良の真似事してるだけで本当は気の弱い優しい人だって。見返りなんて求めるような人じゃない」
『ならいいが…あまり深入りするなよ?オマエは将来―――』
「あ、お父さん!そろそろ学校行かないと遅刻しちゃう!」

また小言が始まりそうだと思ったがふと時計を見れば、いつも家を出る時間が迫っていた。
晃はそこで分かった、またかけると言って電話を切ってくれたが、本当に遅刻しそうなは急いで制服に着替えた。
その時ふわりと海の匂いがして、夕べの事が鮮明に頭に浮かぶ。
あの後、二人で浜辺を歩きながら色んな話をした。
万次郎の兄のこと、妹のこと、チームの話や仲間のこと。

には何でも話したい。もっとの事も知りたい」

万次郎はそう言ってくれた。
なのには万次郎に何も話せなかった。
これまで狭い世界にいたせいで、には万次郎のように自分で何かを成し遂げたいと強く望むようなものは何一つない。
晃の言うがままに勉強をして、遠い未来の為の準備を漠然としているだけだ。
が将来なろうとしているものも、その一環に過ぎない。

「…いけない!ほんと遅刻しちゃう!」

ふと我に返ったは壁時計に目をやり、慌てて今日のスケジュール表を見た。

「えーと…今日は国語、数学…」

それぞれ使う教科書を用意して、さあつめようと、いつも鞄を引っ掛けてある場所へ手を伸ばす。

「え?ない…嘘…え?鞄は?」

机周りを入念に探してもあるはずの鞄がない。

「嘘、何で?え?どこに…」

混乱した頭で昨日の事を思い出す。
確か雪子の家に行った時までは手に持っていたのを覚えてる。

「まさかおばあちゃんちに忘れたとか…?」

では何か「忘れてたよ」という連絡をしてきてるかも…と今度はケータイを探す。
が、起きた時にそれすら見当たらなかった事を思い出した。

「あ、そうだ…ケータイなかったんだっけ…え、嘘でしょ…?」

慌てて部屋を飛び出し、今後はリビングを探す。
だが鞄もケータイも見つからない。

「あ…そっか…ケータイは鞄の中だっけ。え、という事は…」

夕べは海を見ながら話した後、万次郎にそのままバイクで家まで送ってもらった。
その時は確か鞄は……

「あ…!」

家に帰って来た時、鞄はすでになかった。
バイクに乗っているのに鞄なんて抱えてたら危ない。
そこで思い出した。バイクに乗せてもらう直前、万次郎にキスをされてそれで…

「やだ…もしかしてあのまま…?」

あの時はドキドキしていて手を放した鞄の事などすっかり忘れ去っていた。
そして忘れたまま万次郎と出かけてしまったのだ。

「という事は鞄は佐野くんちの庭…」

いや、万次郎が帰った時、さすがに鞄は見つけてくれたはずだ。
暗くて分からないという事もあり得るが…
とにかく今は今日の事を考えなくてはならない。
鞄とケータイがないのは非常に困るが、学校を休むわけにもいかないのだ。

「と、とりあえず…別のバッグにあるだけの教科書とノート…筆記用具は家で使ってるものを持って…あぁ!」

と、そこでもう一つ大事な事を思い出した。

「眼鏡も鞄の中だ…」

さすがにもガックリと項垂れ、深い溜息をついた。








この日、花垣武道は朝から浮かれていた。
交際中の橘日向と学校が終わったらデートをする約束をしたからだ。
明日からテスト期間で今日は3時間ほど早く終わる為、久しぶりにゆっくりデートが出来る。
朝のSHRという事で担任の話を聞き流し、窓の外を眺めながら、ついついニヤケてしまう。
昨日のキヨマサとのタイマンで負傷した傷はジクジクと痛むが、そんなものが吹き飛ぶくらいに武道はウキウキしていた。
同時に浮かれていてはいけない、という冷静な"26歳の武道"もいる。
二日前から再びタイムリープをして過去に戻って来た武道の今回のミッションは現代の巨大犯罪組織にまでなった東卍のトップ、佐野万次郎とナンバー2の稀咲鉄太を出会わせないようにする事だ。
二人が出会った事で東卍はあそこまでのデカい組織になったと日向の弟でタイムリープを実現させてくれるトリガーとなった直人が言っていたからだ。
とりあえず顏すら知らなかった東卍のトップである"無敵のマイキー"には昨日偶然にも会う事が出来た。
しかも何故か気に入られ、マイキーに「ダチな!」と言われた事で目的を果たすチャンスが以前よりは増えるかもしれない。
ただ、もう一人の重要人物である稀咲には未だ会う事すら出来ず、顏さえ未来の写真でしか見た事がなかった。

(この先どうしたらいいのかサッパリわかんねー。出会わせないってよく考えたら超むずくね?)

武道は頭を抱えながら、後もう一つ直人に言われていた事を思い出した。

"東卍のトップ佐野万次郎には中学の頃からとても大事にしている恋人がいるそうです。古い付き合いの幹部連中でも止められない佐野を止められるのは唯一その恋人だけという噂があって。ただその恋人の情報があまりに少ない。警察でもその女の素性はもちろん顏すらつかめていないんです。一般人という事で佐野が故意的に表に出ないよう情報操作をしている可能性がある。今のところ分かっているのは〇〇という名前のみ。ですが今より過去ならその人物が誰なのか分かると思うので、その辺も探ってみて下さい。本当にその恋人が佐野を止められる人物なら接触してどういう人間か探ってくれませんか。少しでも可能性を増やしておきたい"

直人はそう言っていた。

「恋人、ねえ…。あのマイキーを止められる女って、どんなバケモンだよ…」

あの体格差があるキヨマサを一撃で沈めたマイキーの事を思い出し、武道はぶるっと体を震わせた。
小柄ながらに、あの迫力たるはその辺の不良では話にならないほどだったのを思い出す。
武道の仲間の千堂敦も目の前で凄まれ、帰り道「あの殺気…ちょービビった。殺されるかと思った」と青い顔で言っていた。
あの恐ろしいオーラをまとった"無敵のマイキー"を止められる女なんて、本当にいるのか?と首を捻りたくなる。

「いや…いたな…」

そもそも何故キヨマサ一派でもない武道の仲間の千堂がマイキーに絡まれたのか。
武道は半分意識朦朧としていたから、正直詳しい状況は把握出来ていなかった。
ただクラスメートのがマイキーに怒鳴った事で、彼女が危ないと単純にそう感じただけだ。

(だから助けようとしたのに、気づけばそのとマイキーが言い合いをしていて…)

武道や千堂達はその光景に唖然としていて、二人が何故知り合いなのかという事だけが頭をぐるぐるしていたが、気づいた時には二人ともその場から消えていたのだ。
そして千堂から聞いた話がこれまたぶっ飛んでいた事を武道は思い出した。

「お、おい、武道!さっきマイキーが"は俺んだから触んな"…って言って来たんだけど、の名前ってっつーの?」

それを聞いた武道も、そして他の仲間も学校の優等生の名前には興味もなく。
全員が首を傾げるしかなかった。
ついでに「あのがマイキーくんの?ありえねえだろ。だってあのだぞ?二人が知り合いなわけねぇじゃん」と鈴木が爆笑していて。

「で、でも二人で何か言いあいしてただろ。親しげに」
「ああ…言われてみれば…。あ、あれじゃね?じゃあ小学校ん時の先輩後輩とか、もしくは親戚とか…」
「「「「あ~」」」」
「あの優等生が無敵のマイキーと知り合いなんて、それくらいしか思いつかねえ」

結局、千堂がビビりすぎて聞き間違えたか、最悪マイキーの親戚とかなのでは、という結論で終わっていた。
それでも千堂は気になるのか「明日に直接どういう関係なのか聞いてみる」と言い出し、今朝も武道の教室に顔を出したが、当の優等生は珍しく来ていなかった。

「や、やっぱあの後マイキーに何かされたんじゃ…」

と千堂はビビりながら自分の教室へ戻って行った。

(確かに遅刻一つした事がないがまだ来ていない…。ほんとにマイキーに拉致られたなんて事は…)
(でも…あれ?直人はマイキーが大事にしている恋人の名前、教えてくれたよな…。何て言ってたっけ…)

武道は一番肝心なところを忘れてしまっていた。
その時、SHR中にも関わらず、教室のドアが開き、優等生のクラスメートが教室に入ってくるのを見た武道は思わず腰を浮かせてしまった。

「お?なんだ。オマエが遅刻とは珍しい事もあるもんだな、
「す、すみません…あと鞄を祖母の家に忘れて来てしまって…」
「ああ、何かケガをされてが世話をしに行ってると言ってたな。まあいい。教科書は?ないなら職員室に予備があるから今日一日借りたらいい」
「は、はい…ありがとう御座います」

彼女は慌てたように教師へ頭を下げると、すぐに自分の席へ座る。
鞄を忘れたと言っていたように、学校指定の物とは違う鞄を机にかけていた。
ついでに言えば眼鏡も普段かけてるものと少し違う。

(ケガは…してないようだな…。昨日キヨマサくんに転ばされた時の傷だけだ…。って事はマイキーにさらわれたわけじゃなかったのか…?)

武道は首を傾げつつ、また放課後にでも声をかけて詳しい事を聞いてみようと思った。

―――そしてアッという間に最後の授業になり、その授業が終わりかけの頃、事件は起きた。

もうあと五分で授業が終わるという時、何やら廊下が騒々しくなった。
数人のモメるような声と「オマエら、どこ中だ?コラァ!」「勝手に入って来てんじゃねーよ!」という声がかすかに聞こえてきて、クラス中が一斉に廊下の方へ顔を向ける。
武道もこれが終わったらデートだと朝のようにウキウキしながら終わるのを待っていたが、廊下の異変を感じて皆と同じように廊下へ顔を向けた時だった。
突然教室の扉がガラガラっと開き、そこへひょこっと顔を出した人物に、武道の目が少しだけ飛び出す。

「お♡ いたいた」
「……へ?」
「遊ぼーよ、タケミっち♡」

授業中、それも教師がいる中、平然と教室に入って来た無敵のマイキーに、武道の思考が一時停止する。

「―――ッ?!(ムチャクチャや、この人!!)」

あまりに自然に入って来たせいで授業をしていた数学教師も唖然としている。
マイキーはニコニコと武道の方へ歩いて来たが「なーんてね」と笑いながら舌を出した。

「タケミっちはついで。ほんとに用があるのは―――」

マイキーがそう言いながら、後ろを振り返った。

。鞄、持ってきたよ」

マイキーの視線の先に、驚愕しつつ顔を赤らめて固まっている武道のクラスメート"優等生のさん"がいた。









最後の授業を受けながら、は何度か時計を確認していた。
あと数分で終わると思うと少しホッとする。
やはりケータイも鞄もない状態はどことなく落ち着かないのだ。

(今朝はおはようメールも出来なかったし…佐野くん気づいてくれてるかな…)

学校が終わったらすぐにでも万次郎の家に取りに行きたいが、その間も連絡が取れないので勝手に家に取りに行っていいものか悩むところだ。
今日は万次郎の学校もテスト前という事で早く終わるとは言っていた。
なら同じくらいに一度家に戻って来る可能性がある。
早く終わって欲しいと再びが時計を見上げたその時、不意に廊下が騒がしくなり、意識的に廊下の方へ視線を向けた。
誰かが怒鳴っている声が聞こえて来るのだ。
それはいつも授業中、廊下などでサボっている三年生の不良たちの声だとは気づいた。
数人が騒いでいるのでよく聞き取れないが「どこ中だ、コラァ」や「勝手に―――」など合間にそんな言葉が聞こえて来る。
ふと教師を見れば廊下で異変が起きている事に気づいているようだが、騒いでいるのは札付きの不良という事もあり、注意しようという素振りさえ見せない。
その時、何度か鈍い音が聞こえて来たと思えば急に廊下が静かになった。その瞬間、教室の扉が開き―――。

「お♡ いたいた」

「―――ッ?!」

まさかの万次郎が顔を出し、は一瞬で固まってしまった。
万次郎は花垣に声をかけた後、「タケミっちはついで。ほんとに用があるのは―――」との方へ振り返り、にっこり微笑んだ。

。鞄、持ってきたよ」
「さ…佐野くん…」

思いがけず自分の教室へ万次郎が乱入してきた事で、の脳はショート寸前なほどに混乱していた。
クラスメートの視線が一気にへ集中する。
とりあえず教室にいてはマズいと思ったは、驚いたように自分を見ている数学の教師へ引きつった笑顔を見せた。

「えっと…彼はい、従妹でして…忘れた鞄を持って来てくれたんです」
「…従妹?何だ…の従妹か。ま、まあ…他校の生徒が授業中に入って来るのはやりすぎだが、もう終わる時間だからそういう事情なら大目に見よう」
「ありがとう御座います」

普段から優等生だとこういう時に便利だ。
とりあえず信じてくれたようではホっと息をつき、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、万次郎の腕を引っ張って廊下へと出た。

「佐野くん、何でこんな―――」

と言いかけた時、廊下に倒れている三年の不良達の姿が目に飛びこんで来た。

「な…何、これ…」
「あーコイツら、ケンカ売って来たんだけどケンチンが返り討ちにした」
「りゅ、龍宮寺くんが…?この人達全員…?」
「うん。あ、俺は何もしてないからね」

万次郎はに怒られると思ったのか、そんな事を言ってニコニコしている。
そこへ武道を連れてドラケンも廊下に顔を出した。

「さ…三年生の皆さん…」

武道はと同じく、廊下に倒れている17名ほどの不良達がそれぞれ制服のズボンを中途半端に脱がされ、パンツ丸出しの状態で倒れている光景に目を飛び出して驚いている。

「あ、あの…何スか?これ…」
「あ?これ?何かムカつくからノシといた」
「…へ?」

シレっと応えるドラケンに武道も口元が軽く引きつる。
そしてふと後ろにいる二人を見て、更に引きつった。

「あ、あの…」
「あ?」
「マ、マイキーくんと…さんはどんな関係なんスか?二人が知り合いだったなんて驚いたんですけど…」
「ああ…はマイキーの…」

と言いかけてドラケンは苦笑した。

「これ話していいんかな」
「え?」
「ま、それは彼女に直接聞いて」

それ以上の説明がされず、武道は首を傾げながら二人を見ていたが、ドラケンが口にした名前を聞いてハッと顔を上げた。

って、あの…って下の名前はって言うんスか?」
「あ?オマエ、クラスメートなんだろ?名前も知らねーの?」
「い、いや…まあ…誰も名前で呼ぶやついないんで…」

と言いながら武道は頭をかいたが、そこで唐突に直人が口にしていた"マイキーが大事にしている恋人"の名前を思い出した。

(そうだ…!あの時直人は確かに…)

"今のところ分かっているのはという名前のみ"

って…そう言ってた―――!)

武道は驚愕の表情で今、目の前で話している二人を見た。
まさか未来の巨悪化した東卍のトップ、佐野万次郎の正体不明の恋人が自分のクラスにいたなんて想像すらしていなかった。

(え?という事はこの二人、今現在も……)

とそこまで考えた武道は更に顎が外れそうなほどに口を開けて驚いた。

(ううう嘘だ…。あの…がマイキーくん…無敵のマイキーのこ…ここ恋人…?)
(な、何で…いやどこで知り合ったんだ?共通点なんか一つもなさそうなのに…!)

「ん?どうした?タケミっち。顔色悪いぞ?」

隣でプルプル震えている武道を見て、ドラケンが訝しげに顔を覗き込んだ。

一方、は万次郎から鞄を受けとると、ホっと息を吐き出し「ありがとう」と恥ずかしそうに俯いた。
すでに授業は終わり、クラスメートたちが興味津々でと万次郎を見ているのだ。

「夕べ帰ったら俺の部屋の近くに落ちててさ。ごめんね、気づかなくて…」
「ううん…私もボケっとしてたし…」
「今日の授業、大丈夫だった?」
「う、うん。何とか…職員室で予備の教科書を借りられたから」

はそう言いながらも武道の方を見ると、

「あ…花垣くんを誘いに来たんでしょ?行かなくていいの?」
「え、ああ、そうだけど…言ったじゃん。タケミっちはついで。がどんな奴らと勉強してるのか見たかっただけ」
「ど、どんなって…」
「だーって昨日の奴らとか心配じゃん」

万次郎は僅かに目を細めながら唇を尖らせた。

「昨日の奴ら…?」
「赤い髪のヤツとか…に慣れ慣れしく触ってたし」
「あ、あの千堂くんって人は花垣くんの友達で、私は殆ど話したことないよ…」
「ふーん…ならいいけど」

と、そこでドラケンが「おーいマイキー!そろそろ行こうぜ」と言い出した。
そこで万次郎は「分かったー」と返事をしてから、ふとへ視線を戻すと、

「あ、も帰れる?」
「え?あ、で、でも…まだSHRが…」
「え~…それ出なきゃダメなの?」
「う…」

悲しげに眉を下げる万次郎を見て、も言葉に詰まる。
出来れば一緒に帰りたい。だがクラスメートにジロジロ見られながら堂々とSHRをサボるのはにとってハードルが高い。
ただでさえクラスの優等生が万次郎とどういう関係なのか興味津々といった様子なのだ。

「ご、ごめんね。今朝も遅刻しちゃったしサボるわけには…」
「そっかぁ…まあにサボらせるわけにもいかないよな。あ、じゃあ河原沿いで待ってる」
「え…あ、う、うん」

が頷くと、万次郎もやっと笑顔を見せる。

「あ、でも玄関まで送ってー♡」
「え?」
「ダメ?」

その子供みたいな万次郎のお願いには小さく吹き出すと「いいよ」と頷いた。

「やり」

無邪気に喜ぶと、万次郎は「ケンチン、タケミっちー。帰るぞー」と声をかけた。
するとドラケンは何を思ったのか、先ほど自分がノシた三年の不良達に向かって、

「おらーオマエら全員ここへ並べー。うつ伏せな?」
「え!」
「おいおい離れすぎだよ。痛ぇのはオマエらだよ?」
「え…?」
「な…何が行われるのだろう…」

三年の不良達は顔を引きつらせながらも言われた通り、うつ伏せで廊下に一列で並び始めた。
全員が上に背中を向けている為、ドラケンはその背中の上をまるで廊下と同じように踏みつけながら歩いて行く。
そのたび「ぐぇ」「ぎゃふ」「うぐっ」という声が踏まれている不良達の口から漏れ聞こえて来た。
武道はその光景を見て徐々に顔が青くなっていく。

(東京卍會のトップはやっぱりイカレてる…こいつらにとって人をいたぶるのは日常…顔を洗うくらいの事なんだ…)

内心そう思いながら武道は足蹴にされていく先輩達の前を申し訳なさそうに歩いて行く。

「ああ、そう言えば宇田川のチームが神泉で幅利かせてるってよ。どーする?マイキー」
「いいじゃーん。ぶっ飛ばしに行こうよー」

いつものノリで万次郎もつい並んでいる不良達の背中を踏んづけて歩こうとした。
だが、それを見ていたが慌てて「佐野くん、ダメ…!」と万次郎の腕を引っ張る。

「あ…ごめん、つい」
「あ…私もごめんなさい…また口出しちゃった…」
「何で謝んの?俺、昨日言ったじゃん。そうやって止めてくれるのだけだし」

万次郎は嬉しそうな笑顔を浮かべると、未だ不良達の背中を踏んづけているドラケンに「その辺にしといてやれよ。ケンチン」と声をかけている。
ドラケンは苦笑いを浮かべながら「はいはい」と彼らから下りると、

「オマエら、良かったな。に感謝しろよー?あと今度からケンカ売る相手はよく見てな」

と顔で脅している。(!)
それを見てた武道は静かに驚いていた。

の一言であのマイキーくんとドラケンが…すんなり聞き入れた…?!)

それはまさに直人が話していた内容が正しいという事を示している気がして、武道は小さく息を呑んだ。
その時、不意に武道の肩にドラケンが腕を回して来て、ドキっとした。

「元気してたー?タケミっちー」
「き、昨日の今日っスよ…?」

高身長のガタイのいいドラケンに肩を組まれ、ズシっと肩に重みを感じた武道の顏が僅かに引きつる。
東京卍會の総長と副総長、本来ならこんな風に口を聞ける相手ですらないのだ。
いきなり親しげに来られても、未だビビってしまう武道がいた。
そこへ万次郎も「タケミっち」と歩いて来た。

「今日暇だろ?」
「いや…っ。そうでもないっス…」

今日は彼女の日向とデートの約束をしている。
武道の額に汗がジワリと浮かんだ。

「ちょっと付き合えよ」
「え…っ?マイキーくん、ボクの話…聞いてます…?」

玄関辺りまで歩いて来たところで武道はどうやって断ろうかと悩んでいた。
その間にいつの間にやら後ろからゾロゾロついてきてたのは他のクラスの生徒達だ。
皆が興味津々でと武道、万次郎とドラケンをコソコソ見ている。

「え、花垣ってあのマイキーと仲いいの?」
「バカ…声がデけぇって!」
「ウチにそんなすげーヤツいた?」
「ってか、あれじゃね?学年トップの…」
「げ、何でアイツがマイキー達と一緒にいんだよ?」
「もしかして他校の生徒だからって注意してんじゃねーだろうな?殺されんぞ?アイツ」

野次馬が集まり、コソコソ話している中、そこへ武道の仲間の山岸と鈴木も通りかかった。

「げ、あれマイキーくん達と一緒にいるのタケミチとじゃね?」
「マジ…?アイツら何やらかしたんだ?気に入られたんじゃなかったのかよ…」
「やべえぞ…タケミチ、マイキーに拉致られるんじゃ…」
「殺されっぞ…」

そんな二人の横を怖い顔で通りすぎる女子生徒がいた―――。




「じゃあ、後でね」
「う、うん…」

は武道の視線を気にしつつ、万次郎に笑顔を向けられ素直に頷いた。
先ほどから驚きの表情でチラチラと見て来る武道に、万次郎との事がバレたのだと気づき、どういう顔をすればいいのか分からない。
昨日の今日でこんな風に会いに来られれば、さすがにバレるのは仕方がないとは思っていたが、やはりそこは恥ずかしいのだ。
今日は武道も誘っているのだから、当然この後も一緒に行動する事になると思うと、少しだけ緊張してくる。

「ちょっと待って!」

そこへ突然大きな声が聞こえて、その場にいる全員が一斉に振り向いた。
見れば武道の彼女でもある橘日向が怖い顔で歩いて来る。

「橘さん…?」
「ヒナ?!」

当然武道もギョっとした顔で驚いている。
ドラケンは「あん?誰だ、オマエ」と、自分達に向かって歩いて来る彼女を訝しげな顔で見ている。
まさかの人物の登場でも一瞬驚いてフリーズした。
日向は武道がまたケンカをしに行くのかと勘違いしているかもしれないと思ったのだ。
そんな空気の中、武道だけは呑気に日向の方へ歩いて行くと、

「ごめん、ヒナ…。今日ちょっと立て込んでてさ…」

と言った武道の前を何故か無言のまま通り過ぎた日向は、迷うことなく万次郎の前まで歩いて行くと、徐に手を振り上げた。
バチンっという派手な音が響き、その場にいる全員が今度こそ固まった。

「な…(ヒナさぁぁん?!何やっちゃってくれちゃってんの?!)」

まさかの万次郎をビンタするという暴挙を犯した自分の彼女を見て、武道は今日一で眼球が全て飛び出すんじゃないかと思うくらいに驚いた。
ドラケンの額が怒りでピクリと動く。
そしては何故、日向が万次郎を殴ってしまったのかという事を一瞬で気づいていた。

「タケミチ君、行こう」
「え?」

いきなり日向に腕を掴まれ、青ざめていた武道が驚く。

「こんな人たちの言うなりになっちゃダメだよ。ヒナが守ってあげる」
「ヒナ…」

一昨日の夜、確かに日向は今と同じ言葉を武道に言ってくれた。
最近ケンカ賭博で傷が絶えない武道を心配して「ヒナが守ってあげる」と言ったのだ。
だからこそ今、またケンカをしに行くと勘違いをして助けに来てくれたんだろう、という事に武道は気づいた。
そして武道の腕を掴んでいる日向の手が震えている事にも。
だが、その日向の腕をドラケンがガシっと掴んだ。

「オイ…殺すぞ、ガキ」
「………」
「いきなりぶん殴ってハイ、サヨナラ?ふざけんなよ、コラ」

ドラケンが怒っているのを見て、は血の気が引いた。
日向が勘違いしてやってしまった事だと分かるはずもない。
慌てて二人の間に入ろうとした時、不意に腕を掴まれた。
ハッとして振り返ると、日向に殴られた万次郎が小さく首を振っている。
それは大丈夫だよ、と言っているようで、は軽く頷いて見せた。
今は見守れという事だろう、と解釈したのだ。

「ふざけてるのはどっちですか」
「あ?」
「他校に勝手に入って来て無理やり連れ去るのは友達のする事じゃありません。最近のタケミチ君はケガばっかり…もしそれがアナタ達のせいなら私が許しません」

日向はキッパリそう言うと、真っすぐにドラケンを見つめた。
その時、武道が何かを決心したように日向の腕を掴んでいるドラケンの肩を掴んだ。

「あ?」
「……その手を離せ」
「何言ってんのか聞こえねーよ」
「その手ぇ離せって言ってんだよ!!」
「テメー…誰に向かって口きいてんだ?」

怒りの表情でドラケンが武道の顔を覗き込む。
それでも武道は引くわけにはいかなかった。

「もう二度と…譲れねぇもんがあんだよ…っ」
「は?もう…二度と?」

ドラケンが首を傾げたその時、不意に万次郎が「あーあ…」と溜息をついた。

「せっかくダチになれると思ったのに…ザンネン」
「……ッ」
「さて…」

と万次郎はニッコリ笑顔を見せて武道の方へ振り向くと、

「どうやって死にてえ?」

と、一瞬でキレた表情へと変化した。
それを見た武道の体がゾクリと総毛だつ。

「二度と人前に立てねーツラにしてやるよ」
「………」

自分に向かって歩いて来る万次郎を見て、武道は全身の汗が吹き出すのを感じた。
目の前の男は東京卍會のトップ、無敵のマイキーだ。
昨日一撃で沈められたキヨマサの姿が脳裏を掠める。
だけど、ここで引くわけにはいかない。今度こそ、日向を守らなければ。

「一つだけ約束しろや…」
「ん?」
「ヒナには…ぜってぇ手ぇ出すなよ?」
「は?知らねーよ」

と万次郎が拳を振り上げる。
武道はぎゅっと両目を瞑り、歯を思いきり食いしばった。

「なーんてね」
「…………」

という声と共に目を開ければ、目の前に満面の笑みを浮かべた万次郎のドアップ。
武道はそれでも今の恐怖で体が固まって動けないまま、涙と鼻水だけが垂れて行く。

「…………へ?」

たっぷり十数秒は経った頃、やっと武道が反応した。

「バカだなータケミっち」

万次郎は武道の肩をバシバシと叩いて笑っている。

「女に手ぇ出すわけねぇじゃん」
「……マイキーくん」

まさかの展開に武道も呆然と立ち尽くす。
ふとを見れば、彼女の口元は笑みを浮かべていた。

(ああ、は分かっていたのか…マイキーくんが本気じゃないって)

武道はそこで安堵の息を漏らした。
その時、ドラケンが再び武道の肩を組んで来た。

「タケミっち…俺に凄んだな?」
「…はっ…す、すみません…」
「いいよ」
「へ?」

驚いて顔を上げると、ドラケンは優しい顔に戻っていた。

「"譲れねぇモンがある"。今時女にそれ言うやついねえぞ?昭和だな?」
「……ははは…」
「ビッとしてたぜ?」

そう言って笑いながらドラケンは万次郎の方へ歩いて行く。
その様子を見ていた日向はキョトンとした様子で武道を見上げた。

「あれ?タケミチ君…この人達って…」

ここでやっと自分の勘違いに気づいた日向だった…。







「ごめんなさい!」

日向は全ての事情を聞いた後、万次郎に頭を下げた。

「私、勘違いしちゃって…」
「いーよ、別に」

と言った万次郎だったが、殴られた頬を擦りながら。

「すげぇービンタだったなあ」
「す、すみません!!」

更に慌てた日向が謝るのを見て、万次郎は楽しげに笑った。
も内心ホっとしつつ、万次郎は本当に凄い人だな、と改めて思う。
男同士の事はよく分からないが、武道の"何"かを二人はきっと知りたかったんだろう、と思った。

「好きなヤツの為に頑張るのはいいけど無茶しちゃダメ。相手が相手なら大変な事になっちゃうよ?」
「はい!」

万次郎に諭され、日向は今度こそ笑顔で頷いた。
そして不意にの方へ「あ、あの…さんもごめんね…」と謝った。

「え…?」
「彼氏殴っちゃって…」
「あ…えっと…その…」

この一連の流れで、結局と万次郎が付き合っている事が日向に知られてしまったのだ。
どう応えようか迷っていると、万次郎がニヤニヤしながら「これでタケミっちの彼女には公認だね」と嬉しそうに言っている。
本当はの学校の生徒全てには自分の彼女だと知らせたかった、などと恐ろしい事を言っていたのだ。

「勘違いしてるの分かったから…橘さんが花垣くんのこと心配してるのも知ってたし」
「うん…さんがヒナの為にタケミチ君に説教してくれてたの聞いてたし…ありがとう、さん」
「お、お礼なんて…」
「え、でもさん、いつの間に彼氏なんか作ったの?学校の人も知らないでしょ。愛子ちゃんとか知ってるの?何も言ってなかったけど…」
「あ、い、いや…愛子には話してあるんだけど…」

日向は愛子と同じクラスで時々そういった話もする仲らしい。

「でもさんの彼氏が優しい人で安心した」
「え…?」
「タケミチ君と違ってケンカ強そうだし、さんのことシッカリ守ってくれそうだもん」
「お、おい、ヒナ~」
「ぶははは!おい、タケミっち~。しっかりバレてんじゃん」

日向の言葉にドラケンが爆笑しだして、武道は真っ赤になりながら頭をかいた。
万次郎は更に嬉しそうな笑みを浮かべながら「は俺に任せて」と言いつつ、落ち込んでいる武道を見て吹き出している。

「マ、マイキーくんまで笑わないで下さいよ~!」

武道の情けない顔にまた皆が笑う。
その光景を見ていると、は不思議な気持ちになった。
これまでの自分の世界に万次郎がいて、クラスメートの武道と楽しそうに笑いあっている。
自分の学校の人達に万次郎と付き合っている事が知られたのは恥ずかしいが、それでもやっぱり嬉しい気持ちの方が強かった。

(それにしても…何で佐野くんは花垣くんを気に入ったんだろ…。昨日だって一方的にやられてたのに…すぐに友達になるなんて)

からすれば暴走族のトップを張るような万次郎と、不良ぶってるだけの武道とでは自分と違う意味で住む世界が違うように見えた。

(今度、訊いてみよう…)

仲良く話している二人を見ながら、はふとそう思った。