
16.Night & Day❸
約束通りの爪のお手入れをしてから好みの色のマニキュアを三色選んでもらうと、エマは丁寧にネイルの色を加えていった。
その過程を見ていたは、上手に塗るなあと感心しながらも、今度は自分でやってみる為に真剣に塗り方を覚える。
一口にマニキュアと言っても綺麗に仕上げるには根気がいるようだ。
エマは「この手のマニキュアだと重ね付けしていくと綺麗に仕上がるよ?今は一度塗りだけでも綺麗に濡れるやつもあるしね」とマニキュアにも色々な種類がある事を教えてくれた。
「見て、マイキー!ちゃんのネイル!可愛いでしょ」
エマが笑顔で振り返ると、ソファで横になっていた仏頂面の万次郎が「やっと終わったか…」と体を起こした。
と二人きりになりたくて泊りに来て貰ったはずが、妹のエマがちゃっかり万次郎の部屋に居座っていた。
と約束をしたというので我慢しているが、ネイルを塗っている間の時間は暇すぎて、万次郎はまずはテレビをつけた。
でも見たい番組はさほどなく、今度は近くにあったバイク雑誌を開く。
普段なら楽しく読めるものだったが、この時ばかりは集中出来ずに女子ふたりのトークに耳が傾いた。
「まずはね-爪の甘皮をとってー爪を磨くでしょ?そうする事で爪がつるつるになってマニキュアも塗りやすくなるんだー」
「凄いね、エマちゃん。上手」
「これ簡単だからちゃんも、こういうの揃えて今度やってみて」
「うん、ありがとう」
その後もやれマニキュアはどこのブランドのが良いだの、除光液はコレが痛みにくいだの延々と女子トークは続く。
はこれまで自分を着飾る事に疎かったこともあり、エマの話を真剣に聞いている。
当然、その中に万次郎が入る余地などなく、作業が終わるまで大人しく待つしかなかった。
その苦行とも言える時間が、エマの一声で終わりを告げたのだ。
「どれどれー?」
「あっ!ダメだよ、マイキー!まだ乾いてないんだから密着禁止!」
「はあ?」
終わったと聞いてすぐさまの腕を掴み、自分の方へ引き寄せた瞬間、エマからそんな言葉が飛んできた。
やっと愛しい彼女に触れられると喜んだのもつかの間、万次郎の口が不満げに尖っていく。
「どのくらいー?」
「最低でも一時間は大人しくしててもらわないと。せっかくのマニキュアがよれちゃうから」
「い、一時間?!そんなかかんの、これ乾くのに!」
「え、そうなんだ…」
万次郎と共に、もまた少し驚いた顔で自分の両手を見下ろした。
エマが丁寧に塗ってくれたカラフルな爪は、自分の手じゃないようでちょっぴり照れ臭い。
好きな色を三色選んでと言われた意味が、仕上がってから分かったが、一本一本が違う色に塗られている。
普通に一色を塗るよりも確かにこっちの方が見た目も華やかで可愛い、とは感心した。
お洒落も色んな楽しみ方があるんだな、と、ひとつ勉強になった気がする。
「じゃあ手を使わないようにしてイチャついて下さーい」
「は?いーからエマはサッサと帰れよ」
「む…。言われなくても帰るもん。じゃあ、ちゃん。またねー。あ、マイキーに襲われそうになったらネイル崩れちゃうから逃げてね」
エマがニヤリと笑いながら、とんでもない事を言って来る。
はギョっとして頬を赤くしたが、万次郎は「ふざけんな!」と目を吊り上げてクッションをエマに放り投げた。
だがタッチの差でエマが出て行ったので、クッションがぼふっという音と共に閉じられたドアに当たって落ちる。
「チッ。エマのヤツ、余計なことばっか言いやがって」
「さ、佐野くん…そんな怒らないで」
不機嫌そうにクッションを拾いに行く万次郎に、は困った様子で声をかけた。
実はネイルをやってもらっている間も、は万次郎の機嫌が悪くなっているのを感じていた。
それでも爪を綺麗にしてもらうのが嬉しくて、つい色んなことを質問しては、エマとのお喋りを優先させてしまったのだ。
万次郎が不機嫌なのはそういう事も含まれているのかも、とは心配になった。
「ごめんね、佐野くん…。暇だったでしょ」
「まあ…暇だったけど…が楽しそうにしてる顔を見てるのは俺も嬉しかったし」
「…え?」
クッションを抱えて再びソファに座った万次郎は、爪には触れないようそっと彼女の手首を持ち、普段よりもカラフルになった爪先を見た。
「ど、どう?」
顔を覗きこみながらが尋ねると、万次郎は複雑そうに首を傾げながら笑みを浮かべた。
「そりゃ可愛いけどさ…。その辺の色々塗ったくってる女と同じことしなくてもは元々可愛いから」
「……え」
サラリと褒められ、の頬がほんのり赤く染まる。
不機嫌そうだった万次郎もそれに気づき、の赤くなった頬へキスをした途端、機嫌が直ったようだ。
ただ身体を密着させられないことで、顏だけを近づけてキスをするほかなく、万次郎としてはどこか物足りないといった顔をしている。
「マジで一時間も待たなきゃダメなの?」
「えっと…念のため速乾きするっていうスプレーはかけてくれたんだけど、それでも確実に大丈夫っていうのが一時間みたい」
「はあ…。それまでこの距離でいろって事かよ…」
万次郎はブツブツ言いながらも恨めしそうにのカラフルな爪先を睨んでいる。
すぐ隣にいるのに抱きしめる事が出来ないのは、大好きなオヤツを前にして"待て"を強いられてる犬の気持ちと近いものがあるな、と万次郎は思った。
それでも時折、が嬉しそうに自分の爪を眺めている姿を見ると、自然に笑みが零れてしまう。
好きな子が喜んでいる姿は、万次郎にとっても幸せなのだ。
「明日、買い物でも行く?」
「…え」
「ネイルセット、買いに行こっか」
ニッコリ微笑む万次郎を見て、は少し驚いた顔をした。
自分がネイルをしているのを、万次郎は面白くなさそうにしていたからだ。
「いいの…?」
「俺は何もしないでくれた方がいいけど、がつけたいならいいよ」
「え、でも佐野くんが嫌なら私、ネイルしなくてもいいし…」
「何で?」
「何でって…」
がお洒落をしたいと思うようになったのは、万次郎を好きになってからだ。
これまでの地味な自分を彼は可愛いと言ってくれるけど、やはりそこは女心というやつで。
華やかな万次郎の隣が少しでも似合うくらいの女の子になりたい、と思うようになった。
でも当の万次郎がそれを嫌がるなら、お洒落をする意味がなくなってしまう。
「佐野くんが喜んでくれなきゃ意味ないから…」
シュンとした顔で俯いたはカラフルな爪を見ながら、先ほど万次郎が「そんなもん塗らなくても綺麗な爪なのに」と言ってくれた事を思い出す。
そんな風に素の自分を好きでいてくれる万次郎の気持ちはにとっても凄く嬉しい事だった。
その時、強い力で抱き寄せられたと思った瞬間、強引に唇を塞がれて目を見開く。
同時に爪の事が頭を過ぎったのは、やはりエマに念押しされたのと、よれてしまってはせっかく綺麗に塗ってくれた彼女に申し訳ない、と思ったからだ。
背もたれに押し付けるように覆いかぶさってキスを仕掛けてきた万次郎に抵抗する術なく。
は爪がどこかへ触れないよう、腕をなるべく身体から離すようにした。
ただそうなると、いつもならキスをされた時に万次郎にしがみつくのだが、手が使えないので何も出来ない。
万次郎はその間も、啄むようなキスを繰り返し、の唇を軽く甘咬みしてきた。
「…っん、」
キスをする時、二人の間にいつもあるの腕が離れているせいで、より身体が密着する。
そうなると羞恥心からも自然に後退していき、ソファの背もたれから身体がズルズルと斜めに滑っていく。
僅かに唇が離れ、それを追うように万次郎が唇を寄せた時、倒れそうなに気づいてすぐに後頭部へ手を入れた。
「…さ、佐野くん…?」
急に強引なキスを仕掛けて来た万次郎に戸惑い、がゆっくり目を開ける。
万次郎はの腕を引っ張り、体を元の位置へ戻すと、互いの額をくっつけ微笑んだ。
「ごめんね…の言葉が嬉しかったから無性にキスしたくなった…」
「…え?」
「爪、大丈夫だった?」
「あ…うん…触れないように体から離してたし…」
「ああ、必死に腕伸ばしてたもんな。おかげで好きなだけキス出来た」
「……っ」
ニヤリと笑う万次郎に、はギョっとしたついでに頬が熱くなる。
いつもキスが深くなっていくと、恥ずかしくて手で制止してしまう事もよくある為、万次郎はその事を言ってるんだと気づく。
「いつもああやってくれてたらいいんだけど」
「…さ、佐野くん…」
笑いながら頬にキスをする万次郎に、は恥ずかしさで耳まで熱くなる。
ただでさえ万次郎のキスはにとっては刺激が強いのに、毎回あんな情熱的にされるのは心臓が破裂してしまうのでは、と本気で心配になるのだ。
「あ、そろそろ映画観る?」
「う、うん…そうだね」
一瞬、甘い空気になったものの、本来の約束を思い出した万次郎はテレビのある棚から大きな箱を持ってきた。
「これ、兄貴が集めてた映画のDVDとか、多分テレビで録画した映画もあるかな。ってどんなジャンル好き?」
「私は何でも好きだよ?わーほんと沢山あるね。迷っちゃう」
箱の中にぎっしりと入ってるDVDを見て、は思わず笑顔になった。
以前、趣味が映画を観る事だと話したら、万次郎が今度一緒に行こうと約束はしてくれたが、映画館じゃなくても、こうして部屋で見るのも嬉しい。
「古いのから新しいのまであるね」
「あー兄貴が集めたのはここまでで、コッチは俺が買ったヤツかな」
「そうなんだ」
と言いながら、は数枚のパッケージを手に取り、どんな映画か確認していく。
ジャンルはアクション、ホラー、サスペンス、コメディと結構何でも揃っていた。
その中に数枚、ケースには入っているのだが、表紙がないものが混ざっていた。
「これ、何だろう」
表紙がないので何の映画か分からない。
は何の気なしにパッケージを開き、それに気づいた時万次郎が「あ!」と声を上げたが遅かった。
「………ッ」
が開いたパッケージに中身は入っていた。
だがそのDVD本体には女性の裸が載っていて、タイトルが"先生、私を好きにして。〇〇と教師のイケない関係"となっている。
それを見た瞬間、は真っ赤になったまま固まり、万次郎は両手で顔を覆って天を仰いだ。
「ご…ごめん…」
がそっとパッケージを閉じる。
だが万次郎は慌てた様子で首を振った。
「そ、それは俺んじゃねーから!マジで違うから!――クソ、シンイチローのヤツ、こんなもん残していきやがって…っ」
万次郎も咄嗟の事で動揺しているのか、ブツブツ文句を言いながら表紙のないパッケージを探して省いて行く。
真一郎が亡くなった後にこの箱はざっと見ただけで、細かくはチェックしていなかった自分を呪う。
「あ、あのさ…マジで俺はあんなの観てねーから誤解すんなよ…?」
何も言わないに、万次郎が心配そうに振り返る。
別にアダルトものを今まで観なかったわけではないが、ハッキリ言って興味は持てなかった万次郎だけに、そこは好きな子に誤解して欲しくない。
不安げな万次郎に気づいたは、ふと笑みを浮かべて「分かってるよ」と言った。
「それに別に佐野くんがそういうの見てても怒ったりしないし…」
「え、何で?」
恥ずかしそうに付け加えるに、今度は万次郎が驚いた。
「え、だって…男の子は皆、そういうの見るのは普通だって愛子が前に話してたし…」
「は?俺は普通に見ねーって言ってんじゃん」
「…佐野くん…?」
「それともは俺が他の女の裸を見ても平気なわけ?」
どこか怒った口調で言われて、は戸惑った。
万次郎がこんな風に怒って来たことは、これまで殆どない。
「へ…平気じゃないよ…。やだけど…」
「じゃあ怒ったりしないなんて言うなよ。むしろ怒れよ、俺がエロいもん見てたら」
「え…」
目を細め、仏頂面で口を尖らせている万次郎に、は驚いて何度か瞬きをした。
万次郎が何故ここまで怒っているのかが分からない。
しかも自分を怒れと言われ、はどう応えていいかも分からなかった。
「え…っと…佐野くん、何か怒ってる…?」
「……お…こってはねぇけど…さ」
今度はが心配そうな顔をすると、万次郎はぐっと言葉に詰まった。
ついムキになって口調が悪くなった事を後悔しつつ、ただ好きな子にエロ動画を見ても怒らないと言われて少しだけショックだったのだ。
「悪い…別に怒ったとかじゃなくて…は俺の事、そんなに好きじゃないのかなって不安になっただけ」
「え…どうして?」
「どうしてって…俺がエロいもん見ても怒らないってが言ったからじゃん」
そこはやはり不満なのか、再び口を尖らせている。
もそう言われて「あ…」と万次郎の言いたいことを理解した。
「ご…ごめんなさい。そういう意味で言ったわけじゃなくて…」
恋愛初心者では男の微妙な心理を理解するまでには至らない。
ただ男には女にはない体のメカニズムがある事くらいは知っている。
それを嫌だからと怒ったりするのは何か違うと思っただけだ。
はその事への理解を示したつもりだった。
でも万次郎はそれを愛情がないせいだ、と誤解したらしい。
「ほんとは…嫌だよ?佐野くんがエッチなもの見るの…」
「……ほんとに?」
「うん…やだ」
今度はハッキリ告げると、途端に万次郎の顏が笑顔に変わる。
恥ずかしそうに俯きながら「やだ」と言ってくれたが可愛くて、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られた。
万次郎は片付けていたAVを棚の奥に押しやると、すぐにの隣へ座り、自分の本能に従って思い切り抱きしめる。
「さ、さ…のくん?」
「俺、もっとに我がまま言って欲しい」
「え、我がまま…?」
「物わかりのいいも好きだけど…変に我慢するくらいなら、もっと我がままになってくれた方が嬉しいんだよね」
「……我がまま」
万次郎に言われた言葉に、は少しだけ戸惑いを覚えた。
幼い頃からは我がままを言わない子だった。
それは"他人の立場になってものを考えろ"という祖母の教えがあるからかもしれない。
嫌だな、と思っても、自分が我がままを言うせいで相手が困るなら、自分が我慢をすればいい。
そうすれば丸く収まるし揉め事も起きない。そう思っていた。
もちろんそれは常識の範囲内での話であり、理不尽な事だったり、例えばキヨマサ達のような100パーセント相手が悪い事であれば我慢したり遠慮したりはしない。
でも日常のほんの些細な事であれば、きっと自分は色んな事を我慢してきたんだろうと思う。
万次郎に対しても気づかないところで、そんな性格が出てしまっていたのかもしれない。
「俺、にならいーっぱい我がまま言われたい」
「い、いっぱいって…」
「俺がちょー我がままだからさ。が我慢してたら何か俺ばっかり無理言っちゃう気がするし…」
「そうなの…?」
「そうなんだよ」
大きな瞳を更に大きくして驚くに、万次郎の頬が緩む。
「だから…もっと俺に我がまま言って、俺を頼って欲しい」
柔らかい笑顔を見せる万次郎に、の鼓動が僅かに跳ねる。
そんな風に言ってもらえるのは、やっぱり嬉しい。
ゆっくりと近づいて来る万次郎の綺麗な顔に見惚れていると、不意にちゅっと可愛いキスをされて驚いた。
「…あ、赤くなってきた」
「い、言わないでよ」
じんわりと火照ってきた頬を感じて、は少しだけ俯いた。
至近距離で見つめられるのは、やっぱり照れ臭い。
すると万次郎はの顔を覗き込むようにして唇を押し付けて来た。
そのまま腰を抱きよせられ、更に深く唇が交わる。
「ん…さ、佐野くん…爪が…」
そこでマニキュアの事を思い出したが、僅かに体を後退させると、万次郎はの手を取り、
「もう乾いてるっぽいよ」
「…え?」
そう言われて自分の爪を見ていると、万次郎がその指先に口付ける。
「これでゆっくりキス出来る」
「…え、あの…」
再び近づいて来る万次郎の唇にドキっとしながら待って、と言おうとした言葉は口内へと飲み込まれた。
いつもの触れるだけのキスよりも、少し深く口付けられる。
唇が交わるくらいのキスに、の頬が更に熱くなった。
恥ずかしくて、無意識にまた手で万次郎の胸元を押してしまいそうになったが、その手を拘束される。
手首を強い力で掴まれ、深く口付けられていると、全身の熱が上がっていく気がした。
「ん…っ」
ぬるりとしたものが唇を掠めて、それが万次郎の舌だと気づいた瞬間、ドクンと心臓が音を立てる。
初めての感触に身体が跳ねて、そのまま後退しそうになった時、いきなりノックの音が響いた。
「マイキー!!たい焼きあっためてきたぁー!」
「「―――ッ」」
わざとか?と万次郎が思うほど、またしてもいいタイミングでエマがやってきたことで、甘いムードが一気に吹っ飛んだのは言うまでもない。