
18.記念日の雫
―――いつもと違う匂いがする。
がゆっくりと覚醒しはじめて、微睡みの中から少しずつ意識がハッキリしてきた時、まず最初に感じたのはそれだった。
自分の部屋の匂いでもなく、肌に触れるタオルケットは馴染みのものじゃない。
その違和感ではパチっと目を開けた。
「…え、ここ…」
目を開けても見慣れた天井はなく、は一瞬だけ戸惑ったものの、すぐにここが万次郎の部屋だということを思い出した。
夕べ泊りに来たことまで思い出し、慌てて上半身を起こす。は何故かベッドの上で寝ていて、隣に万次郎はいない。
「あれ…?私、夕べ映画を観てて…」
と記憶はそこで止まっている。ということは映画を観ている最中に寝てしまったのか。
でもソファに座ってたはずなのに、と思いながらそちらへ視線を向けると、そこには万次郎の姿があった。その手にはしっかりお気に入りのタオルケットを握り締めている。
「え、佐野くんソファで寝たんだ…」
きっと眠ってしまった自分をベッドに運んでくれた後で、万次郎は気を遣ってソファで寝たんだろう。
はそう思ってすぐにベッドから抜け出した。閉め切ったカーテンのすき間からは日差しが洩れている。バッグに入れっぱなしのケータイで時計を確認すると、午前8時を少し過ぎたところだった。
今日は二人で出かける約束をしているが、何時とは決めていない。
は万次郎を起こさないように着替えを済ませると、タオルや歯磨きセット、洗顔フォームなどを持って部屋を出た。
トイレとか顔を洗いたい時は勝手口が開いてるし、そこから入ってね、とエマから言われていたので、その通り勝手口から母屋へ入る。
「お邪魔します…」
と一応、口にして洗面台に向かったは顔を洗い、歯を磨いてスッキリしたところで離れに戻ろうと勝手口へ足を向けた。
その時、居間の方からテレビの音が聞こえて来て、ふと足を止める。
(誰か起きてるのかな…。あ、万作さんかも)
エマも今日は学校が休みで、まだ寝ているはずだ。
は居間へ向かうと、そっと中を覗いた。
「あ、あの…おはよう御座います」
「ん?ああ、ちゃんか。おはよう。ぐっすり眠れたかい?」
「はい。あの、洗面台お借りしました」
「はいはい。でもエマはまだ寝てるのか。仕方ないな、友達が起きてるというのに」
万作は苦笑交じりでそう言うと、眼鏡をかけて改めての方へ振り向いた。
「そう言えば君のお父さん…晃くんは元気かい?」
「はい、元気にしてるみたいです。父は今、海外赴任中で」
「え、海外?」
「はい…ニューヨークに」
それを聞いた万作は少し驚いたように眼鏡をズラした。
雪子と幼馴染の万作なら、当然父の晃が何を職業にしているかを知っているはずだ。
「そうか、ニューヨークに。いや、晃くんは優秀だったからなぁ。確か警察庁から外務省に出向したんだったかな」
「…そうです。今は領事館に勤務してます」
「そりゃ凄い。雪ちゃんの亡くなった旦那さんも優秀な警察官だったからね。息子の晃くんも当然か」
万作は嬉しそうな笑顔で頷くと、ふとを見上げた。
「それで…ちゃんも将来は警察官に?」
「……そのつもりです」
少し躊躇いながら、は小さく頷いた―――。
「うわぁ、綺麗…」
目の前に並ぶカラフルなマニキュアを見て、は大きな瞳を嬉しそうに輝かせた。
「こんなにあるんじゃ迷っちゃう」
「確かに…何か似たような色でも少しずつ違うんだな」
の隣で屈みながら、万次郎もマジマジと色とりどりのマニキュアを見て首を傾げた。
ふたりは今、買い物に来ている。夕べの約束通り、マニキュアを見に来たのだが、エマの買い物に時々付き合わされている万次郎は、こういう物がどこのショップに売られているかは把握していた。
そこでが行った事もないという渋谷の有名なファッションビルに彼女を連れて来たのだ。
「ネイル用のアクセサリーも売ってるんだ」
「ああ、そういうのエマも時々付けてんなー。学校休みの時とか。でもしょっちゅう引っ掛けてはなくしてるけど」
「確かに引っかかりそう」
一口にネイルと言ってもマニキュアを塗るだけじゃないんだ、と驚きながら、は初心者らしく普通のマニキュアや除光液、それに使うコットンなどを可愛らしい小さなカゴへ入れた。
必要なものは夕べエマに聞いている。
「あ、この色も綺麗…」
の目についたのは"和"の色をイメージしたマニキュアコーナーにある菖蒲色のマニキュアだった。これまで選んだ色は淡いピンクや、明るいオレンジ系のものばかりだが、今手にしているのは少し紫がかっている。
自分には少々大人っぽいかなと悩んでいると、突然万次郎の指がの手からひょいっとそのマニキュアを奪っていく。
「え、この色つけるの?」
「う…ちょっと悩んでて…似合わないかな」
「いや…似合う似合わないの問題じゃなくて…」
と万次郎は眉間を寄せながらそのマニキュアを見つめつつ、ふと色の見本となる爪の形をしたネイルチップを手にすると、の爪に重ねる。
次の瞬間、「あ~」と困った様子で唸った。
「…ダメ!この色はエロ過ぎる」
「えっ?」
「色白のに似合うけど、何かエッチな感じになるからダメー」
万次郎は不満そうに目を細めながら、その菖蒲色のマニキュアを元の場所へ戻してしまった。
その行動に、はポカンとした顔で万次郎を見ている。
色でもエッチなんてものがあるのか、と驚いてる様子だ。
はただ今のマニキュアの色が大好きな紫陽花に似ていて可愛いと思っただけなのだが、万次郎からすると菖蒲色はエッチに見えるらしい。
「じゃ、じゃあ…これは?」
は次に目についた"京紫"と書かれたマニキュアを取る
「うーん…もっとダメ。紫系はエロいからダメ」
「……そ、そうかなぁ」
ひとつくらい大人っぽい色が欲しいと思っただけなのだが、そういう色はダメらしい。
女の目から見るのと男の目から見るのは感覚が少し違うのかもしれない。
そこではふと万次郎に選んでもらおうと思った。
自分で選んで却下されるなら、万次郎に似合う色を選んでもらえばいいのだ。
「じゃあ、佐野くんはどんな色がいい?」
「俺?俺は…」
と万次郎は目の前にズラリと並ぶマニキュアを眺めながら、その中からひとつを選んで手に取った。
「原色系より、にはこういう色が似合うと思う」
「…撫子色?」
それはピンク系の中では少し紫みのある色で、原色のピンクよりも少し上品な色合いだった。
確かに花の撫子みたいに可愛らしい色だ。
は万次郎の手からそのマニキュアを受けとると「じゃあ、これにする」と笑顔で言った。
「え、マジで?それでいいの?」
「うん。佐野くんが選んでくれた色がいい」
万次郎が自分に似合うと思って選んでくれた色を、はつけたいと思った。
だからすぐに撫子色のマニキュアをカゴへ入れる。
その時――不意に頬へ柔らかいものが押しつけられた。
「さ…佐野くん?」
いきなり頬にキスをされ、の頬が一瞬で熱を持つ。
ここは渋谷で最大のファッションビルであり、周りには女子中高生が同じように買い物をしている。
そんな中で頬とは言え、キスをされたのはにとっては大事件だった。
「な…何するの…こんなとこで」
「んーが嬉しいこと言ってくれたから」
万次郎は特に気にする様子もなく、本当に嬉しそうな笑みを浮かべている。
その顔を見てしまうとも返す言葉が出てこない。
しかしすぐ隣にいる女の子の二人連れにはチラチラ見られ、後ろからは「人前でキスとかラブラブすぎー」などとコソコソ言っている女の子達の声も聞こえてくる。
恥ずかしくなったは慌てて立ち上がった。
「こ…これ買って来るね」
「え、俺が買うって」
「い、いいの。自分で買いたいの」
「え?おい、―――」
万次郎は驚いたように立ち上がったが、はすぐにレジの方へと走って行く。
人の目が気になって羞恥心がこみ上げて来た。
それは、後ろでコソコソ話してた女の子達の言葉が原因だ。
"人前でキスとかラブラブすぎー"
"でも彼氏ちょーカッコいいのに何で連れてる女は地味な眼鏡なんだろうね"
万次郎の家にいる時は外していたが、外に出かける際はかけてと言われたから今のは眼鏡をかけている。
前までは気にならなかったが、万次郎とこんなに人が大勢いる場所でデートをするのは初めてだ。
周りから見れば、自分達はやっぱりそう見えるんだ、と落ち込むには十分な一言だった。
「ありがとう御座いましたー」
支払いを済ませ、がショップを出ると、万次郎は通路端の壁に寄り掛かって待っていた。
同じようなカップルも多くいるが、やはり圧倒的に女の子が多いこの場では、万次郎の存在は目立つようで、通りすがりの子達がチラチラと視線を送っている。
「あの子、小柄だけどめっちゃカッコ良くない?」
「ほんとだ。でもどーせ彼女連れじゃないのー?」
そんな会話がの耳に届き、余計に万次郎に声をかけられなくなった。
またさっきのような言葉を聞かされるのはツラい。
そう思えば思うほどに、足が固まったかのように動かなくなってしまった。
「…あ、。終わった?」
その時、万次郎が顔を上げて、正面にいるに気づくと笑顔を見せた。
はドキっとしたが、
「あーやっぱ女連れかー」
「行こ行こー」
立ち止まっていた女の子二人がそんな事を言いながら歩いて行くのを見て、ホっと息を吐き出した。
気にしなければいいと思うのだが、やはりハッキリとした言葉を耳にすると、どうしても気になってしまう。自分は万次郎の隣りに相応しくないんじゃないかと、思ってしまう。
「?どうした?」
「あ…ううん。何でもない」
心配そうに顔を覗き込んで来る万次郎に、は首を振りながら笑顔を見せた。
せっかく連れて来てもらったのに暗い顔をしてたら万次郎に申し訳ない。
その時、万次郎の手がの手を握り、自然に指を絡ませる。
ドキっとして顔を上げると、万次郎の優しい眼差しと目が合った。
「次は何みにいく?」
「…え?」
「せっかく出かけて来たんだし、他に何か欲しい物とかないのかなと思って」
「あ…そっか。でも私、こういう場所は初めてだからよく分からなくて」
フロアを見渡してみたが、どこのショップもお洒落な女の子の店員が目立つ。
店のブランドの可愛らしい服を着て接客をしている彼女たちを見ていると、中へ入るのが躊躇われた。
「まあ、俺も男だから良く分かんねーなー。エマも連れて来たら良かったか?」
万次郎もこういった場所にはエマに付き合って来る以外では全くと言っていいほど来ない。
女の子が欲しい物というのはだいたい妹のエマが基準だった。
でも自身が分からないのなら、当然万次郎にも分からない。
「でも歩いて見てるだけで楽しい。可愛くてお洒落な女の子もいっぱいだし服装とか髪型とかつい見ちゃうもん」
最近は愛子に教わりながら服を買ったりはしているが、知らない子達の服装なども見ていると勉強になるなとは思った。
これまでのなら絶対に選ばないような服や靴も、今は凄く可愛く思える。
今までどれだけ勉強優先にして来たかが分かって、自分でも苦笑してしまう。
「そーお?俺はの方が可愛いと思うけど」
「え?」
不意に万次郎がそんなことを言い出し、顏が赤くなる。
いつも思うが、万次郎は自分のどこをどう見てそんなことを言ってくれるんだろうと、は疑問に思った。
今は髪も下ろして最近買ったばかりのマキシワンピースを着ているが、万次郎が起きて来た時に「めちゃくちゃ可愛いっ」と褒めてくれたものの、普段の地味な制服姿であっても同じようなことを言って来たりするので基準が分からない。
ただ今日も「その可愛い恰好で人混みに出かけるの何かやだな」と言い出し、エマに怒られていた。
万次郎はがお洒落しようがしまいが、どちらでもいいみたいだが、可愛い恰好をするなら自分だけが見たいと思っているようだ。
「そう言えば佐野くんは何か欲しい物ないの?」
「俺?俺は特にないかなー」
「そうなの?佐野くん、いつもお洒落だし、どこで買い物してるのかなぁと思って」
「あー俺は殆ど神南付近のメンズショップとかかな。ケンチンとか三ツ谷も服好きだから一緒に買いに行ったり。後は場地と時々――」
と言いかけた万次郎は「あ」と突然声を上げた。
「そーだ、忘れてた。場地のことなんだけどさ」
「え?場地くん?」
「夕べが寝ちゃった後に電話来てたのに気づいてかけ直したら、例の公園にいるって言うから夜中ちょっと会って来たんだ」
「え、そうなの?」
夕べはせっかく二人で映画を観ていたのに睡魔に負けて途中で寝てしまったは、その間に万次郎が出かけてたとは思わず驚いた。
「ほら、幼馴染の子の話もあったし」
「あ、愛子?」
「うん。で、場地にその話してみたら…」
「し、してみたら?」
「何か歯切れ悪くて、俺なんかにの大事な幼馴染を紹介してもらうのは悪いとか何とか言いだしてさ」
万次郎は苦笑交じりで言いながら「まーでもそこは説得して会うだけ会ってみろって言っておいた」と肩を竦めた。
「そ、そっか…。でも何で俺なんかなんて言うんだろ」
「の幼馴染だから真面目な子だと思ってるのかも」
「あ、そっか。でも愛子は明るくて今時タイプの子だし、その辺も伝えてみたらどうかな」
「だなー。今度言っておく。あ、それより喉乾かね?どっか入ろっか」
「あ、そうだね」
人混みの中を散々歩いて少しばかり疲れた二人は、そのビルを出て前に行ったカフェの方へ歩き出す。
休日の渋谷は外も人で溢れかえっていて、凄い熱気だった。夏休み前ということもあり、いつも以上に混雑している。こうして手を繋いでいないと、一度はぐれたらすぐに見失いそうだ。
「そうだ。明後日から夏休みだけどは何か予定ある?」
「夏休みは毎年恒例の夏期講習があって…」
「えっ?マジ?」
「今年もすでに6月初めに申し込んじゃってるの…」
「それって普通に学校行ってるのと変わんないスケジュールなわけ?」
「まあ…自分の都合に合わせて決められるんだけど、私は特にいつも予定なんかないから朝から午後まで申し込んじゃってて」
これまでは父に言われるがまま受けていたのだが、今年は失敗したなと思っていた。
しかし申し込みは万次郎と知り合う前だったこともあり、は受けるか迷っているところだ。
その話を聞いた、万次郎は明らかに落ち込んでいる。
「はぁ…夏休み入れば毎日会えるとか思ってた俺が甘かった…」
「でも会う時間くらいあるよ…?」
「俺は毎日一日中でも会いたいのー」
「…え」
不満げに口を尖らせている万次郎を見て、の頬が赤くなる。
そんなに毎日会っていたら飽きられるんじゃないかと心配になった。
けれど、とて同じ気持ちがないわけじゃない。
「夏はイベント盛りだくさんじゃん」
「イベント?」
「花火とかお祭りとか、と一緒に行きたいし…さ」
万次郎は照れ臭そうに鼻の頭を掻いているが、花火とお祭りと聞いても思わず笑顔になった。
今までそういった夏のイベントは友達としか行った事がなく、はいつも周りがカップルばかりで羨ましいと思ったことがある。
浴衣を着て手を繋いで歩いてるカップルを見ていると、恋愛など自分とは無縁の世界のものように感じていた。でも今こうしても万次郎と手を繋いで歩いている。
「私も…行きたい」
「え?」
「花火とか…お祭り。佐野くんと一緒に」
思い切って口にしたら恥ずかしくなったが、万次郎が嬉しそうな顔で「ほんとに?」と訊いて来るので、素直に頷いた。
そう考えると夏休みが凄く楽しみになって来て、夏期講習などはどうでも良くなってしまう。
と言って、来年は受験生ということもあり、今から準備を進めていかないといけないのも確かだ。
「えっと…なるべく会える時間は作るようにする…」
「あ、でも無理はすんなよ?いや、俺は嬉しいんだけど…にも…都合ってもんあるだろうし…」
万次郎は一瞬笑顔になったものの、ハッとしたように視線を泳がせつつ、急にトーンダウンした。
自分がとてつもなく我がままに思えたからだ。
さっきまで毎日一日中でも会いたいと我がままを言っていた同じ口とは思えない言葉を吐いた万次郎に、は小さく吹き出した。
「…何で笑ってんの」
「だって…」
今度はスネた子供のように口を尖らせ、目まで細めている万次郎に、も必死で笑いを堪える。
我がままでも何でも、万次郎に会いたいと言われるのは、も凄く嬉しい。
「あー早く夏休み、なんねーかな…」
「明後日だよ?」
「明日一日が邪魔。終業式とかいらねー」
またしても無茶を言い出す万次郎だったが、それはも同感だった。
好きな人が出来ると、こんなにも当たり前だったことが面倒に感じるのか、と不思議に思う。
そこで思い出した。もうすぐ万次郎と付き合いだして一ヶ月になる。
付き合い始めた頃は何もかも初めてで、しかも相手が暴走族と知って戸惑うこともあったが、こうして一ヶ月経っても変わらず一緒にいられるのは幸せなことだと思った。
「佐野くん――」
「――」
と同時に口を開き、二人は顔を見合わせて、そして吹き出した。
「な、何?」
「いや、が先でいいよ」
「え、佐野くんが先でいいよ?」
お互いに相手が何を言うのか気になって譲り合いになっている。
このやり取りを数回繰り返した後、「これじゃいつまで経っても話せねーな」と万次郎が笑った。
きっとは譲らないだろうから、と万次郎は自分が先に話すことにする。
「んじゃー俺からね」
「うん」
「今日はと俺が出会って一ヶ月だなーと思って」
「え?あ!」
「そんな驚く?え、もしかして忘れてた?」
万次郎は不満そうに目を細めたが、は慌てて首を振った。
「あ、ち、違うの。えっと…私はもうすぐ付き合って一ヶ月だなぁって、そっちの方に気が向いてて…」
「ああ、何だ、そっか。でもまあ…それもそうだけど、俺はに出会えたことが嬉しいから、やっぱコッチの方が記念日かな」
「記念日…」
その響きはどこか特別感があって、はドキドキしてきた。
よく恋人同士が付き合って一年目などを記念日と言っていたりするが、出会った日を記念日にしてくれた万次郎の気持ちが嬉しい。
「あの日、あの公園で雨宿りしてなかったらには会えなかった。とは最寄りの駅も違うしさ」
「そう、だね。よく考えたらそうかも」
あの頃は祖母の雪子がケガをして学校帰りに寄ってたから、あの公園にも寄れた。
でも、もしう雪子のケガもなく、家に行くことがなければ、万次郎と会うことはなかっただろう。
ひとつでも違えば、出会うことすらなく、住む世界の違うふたりは今こうして一緒にいることもなかった。そう考えると怖くなるが、結果出会えたのだから、幸せな気持ちの方が大きい。
「ふふ…でも二人して一ヶ月だなーって思ってたんだね」
とが笑っていると、万次郎が不意に立ち止まった。
「佐野くん…?」
どうしたのと言うように顔を上げると、万次郎はポケットから綺麗な瑠璃紺色のジュエリーケースを出した。表面にはブランド名の文字が入っている。
「これ、にプレゼント」
「……えっ?」
いきなり道端で、しかもプレゼントって何で、とは驚いたように万次郎を見上げる。
照れ臭そうに視線を外していた万次郎は「ほんとはカフェで渡そうと思ったんだけど…」と言いながら繋いでいた手を離した。そしてをそっと抱き寄せる。
それにはも驚いたが、気づけば喧騒から離れた脇道は、万次郎としかいない。
「カフェじゃこういうこと出来ないから」
万次郎は苦笑しながらもの額に口付ける。
奇しくもその場所は、万次郎がに告白した場所だった。
「佐野くん…」
「あ、驚かそうと思ったからギフトボックスとか紙袋なんかは家に置いて来ちゃったんだけど」
万次郎はそう言うと、可愛らしいクリスタルの蓋を開けて、中から雫の形になっているネックレスを取り出した。
その真ん中にはの誕生石が飾られている。
「わぁ…可愛い…」
の瞳が大きく見開き、キラキラとした虹彩を滲ませているのを見て、万次郎の顏にも笑みが浮かぶ。
「気に入った?」
「う、うん…え、これを…私に?」
「もちろん。つけてもい?」
「…う、うん…」
万次郎はの後ろに立つと、長い髪を避けてネックレスを器用に付けた。
ちょうど鎖骨の辺りに下がったネックレスにそっと触れてみると、徐々に実感が沸いて来る。
「え…で、でも何で…」
いきなり前触れもなく、しかも歩いてる途中でプレゼントを貰えるとは思わない。
戸惑うように万次郎を見ると、万次郎は照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「言ったじゃん。出会って一ヶ月だって」
「え…じゃあ…」
「まあ…記念日だから?」
「え、でも私、何も用意してない…」
確かに一ヶ月だな、とは思っていたがプレゼントまでは思い浮かばなかった。
こういうところで恋愛初心者が出てしまうのか、とはがっくりと項垂れる。
万次郎はそんなを見て「こういうのは男からだろ、やっぱり」と苦笑いを浮かべた。
「まあ、人気がなくなったからここで渡したけど…偶然とはいえ、に告白した場所で渡せて良かった」
「…あ…ほんとだ」
「あーでも。次はここに本物の石が入ったの贈るから、これはそれまでの代役ってことで」
「だ、代役って…だってこれ高かったでしょ…?」
「それは内緒。まあ俺も女の子の好きなアクセサリーなんてよく分かんないから、エマに協力してもらったんだけど」
万次郎はペロっと舌を出して笑ったが、は胸がいっぱいで泣きそうになった。
「…佐野くん…ありがとう…」
「え、何で泣くんだよ…」
ポロっと涙を零したを見て、万次郎は慌てて頬へ手を伸ばす。
は「ご、ごめん」と慌てて涙を拭ったが、濡れた頬に万次郎の唇が触れた。
「…ちょ…こ、こんなとこで…」
「誰もいないし」
「そ…そうだけど…」
恥ずかしそうに俯いたが可愛くて、万次郎はもう一度屈むと、今度はの唇に触れるだけのキスを落とした。
驚いて固まったをそのまま抱きしめた万次郎は、長い髪に顔を埋めると背中に回した腕にギュっと力を入れる。
「…俺と出会ってくれてありがとうって…いつも言いたかった」
その言葉はの耳に優しく響き、胸の奥に届けられた。