
19.隣にあなたがいるなら
『えー?何もなかった?!』
塾からの帰り道、学校では話せないからとケータイに電話をかけてきた幼馴染の愛子は、からお泊りの報告を聞いて驚きの声を上げた
「ちょ、そんな驚かなくても…」
何となく予想はついていたが、ここまで驚かれると、そんなに変なことなのかと思ってしまう。
しかし愛子は『いや、だって彼氏の部屋に泊ったなら普通は…するでしょ』と当然のように言って来る。
「だ、だってまだ早いよ、そういうの…」
『何言ってんの!今なんて普通でしょ、私たちの歳なら』
「ふ、普通って…」
普通の訳はないのだが、確かに昔と比べるなら現在の若者がそういった経験をするのが速い傾向にあるのはにも何となく分かっている。
親世代とは違いインターネットという武器を手にした現代では色々な情報や出会いを容易く手に入れられるようになったことが大きいのかもしれない。
大人たちが隠したがる情報もクリックひとつで見れてしまうのだから、経験はないが知っているということだけで恐怖心は薄れ、人は簡単にボーダーラインを超えてしまう。
もそういった現代の若者なので知識だけはある方だが、右に倣えのように他人と同じことをする必要はないとは思っていた。
自分に合ったペースで、初めての恋くらいゆっくり進んでいってもいいじゃないかという思いもある。
『そもそもマイキーくんの方から迫って来なかったわけ?』
「まっまさか!佐野くんはそんなことしないもん…」
『えーっ?意外!東卍の総長ならアッチの方もガンガンかと思ってた』
「アッ…チって…佐野くんはそんな強引なことしてこないよ…」
いや強引なところもあるのだが、が嫌がるようなことは絶対にしない人だ。
ましてが怖がると分かってることなら尚更してこないとも信じている。
『へぇ~何か意外だけど…優しい人なんだね、マイキーくんって。大切にされてるんだよ、は』
「…え?」
『あ~いいなぁ~!私も強い彼氏欲しいー!』
「愛子はアイドルタイプが好きって言ってたじゃない」
『好みなんて変わるもんでしょー?あ、そうだ。例のマイキーくんの幼馴染の話はどうなったの?』
「あ…それが…」
と言いかけた時、は信じられない光景を目撃した。
終業式も終わり、明日から夏期講習を受ける塾へ寄ったその帰り、愛子とケータイで話しながら帰っていたのだが、見覚えのある金髪頭が視界を横切りふと足を止める。
(あれ…花垣くん…?)
クラスメートの問題児、花垣武道が商店街を歩いていた。
いや、そこまでは特に気にすることでもなかったのだが、問題は武道がひとりではなかったことだ。
小柄の女の子を連れていて、しかも腕を組んでいる。
髪を明るめに染めたロングヘアの女の子で、どう見ても武道の恋人、橘日向ではない。
ふたりは何やら談笑しながら両店街を歩いて行く。
(ま、まさか…あの花垣くんが…浮気?!)
前のなら次の日に学校で問いただすという行動くらいで留まっていたかもしれない。
しかし今は自分も恋愛中の身。
彼氏が浮気、という最悪のワードはやはり自分のことに置き換えて考えてしまう。
もし万次郎に浮気をされたら…と想像するだけで胸が痛む。
想像だけでもこんなにツラいのに、現実に浮気をされている日向の気持ちを思うと、はいても経ってもいられなくなった。
「ごめん、愛子。またかけ直すね」
気づけばそう言って電話を切っていた。
そのまま武道の後を追いかけ、見つからないよう後を付けていく。
同級生を尾行することになるとは思っていなかったが、どうせ今日は万次郎との約束もない。
本当は昨日家まで送ってもらった時、明日も学校帰りに少しでも会いたいと言われたのだが、今朝になって用が出来たと連絡があったのだ。
万次郎はドタキャンになってしまったことを謝っていたが、パーちんに相談があると言われたらしい。
それを聞いては当然「林田くんを優先させて」と万次郎に言った。
あっさり了承されたことで万次郎は少し不満だったようだが――俺は会いたかったのにはそうじゃねえの?とスネていた――最近はチームの仲間との時間をあまり取っていなかったこともあり、渋々パーの方へ行くことにしたようだ。
なのでは最近サボり気味だったことを今日やってしまおうと、まずは塾へ行って夏期講習の時間割りを貰い、今はその帰りだった。
(花垣くんはそんなタイプじゃないと思ってたけど…ほんと男ってしょーもないんだから)
すっかり武道が浮気していると思い込んだは、他人事ながらもイライラしながら前方を歩くふたりを睨む。
時折聞こえて来る女の子の甲高い笑い声を聞いていると、ふたりはかなり親しそうに見える。
だが、は今の笑い声に聞き覚えがあるような気がして、マジマジと前を歩くふたりを見た。
女の子の方は制服が違うので他校の生徒というのが分かる。
しかしは他校に知り合いの女の子などひとりもいない。
(でもどっかで聞いたような…ううん。というかこの後ろ姿も見たことがあるような気がする…)
は眼鏡を直しながらジっと女の子の背中を見ていたが、不意にふたりが足を止めたので慌てて居酒屋の置き看板に身を隠した。
「ここでいっか」
「…お、おう」
とあるカラオケ店の前で女の子の方が言うと、武道も素直に頷く。
顏がニヤケているのが見えて、は思わず眉間に皺を寄せた。
あんな顔を彼女以外の子に見せるなんて、と本気で日向に同情してしまう。
(それにしても…花垣くん最近また様子がおかしかったよね…前に戻ったっていった方が早いけど)
には前から違和感のあった武道の豹変ぶりが気になっていた。
あの喧嘩賭博があった前後は急に男らしくなった武道だったが、また最近は前のような、どちらかと言えば口だけ達者な不良に戻っている。
キヨマサに啖呵を切っていた武道とは思えないほどの変わりようだった。
それほど親しくもないでさえ気づいたのだから、彼女の日向も気づいているだろうが、まさか浮気までしてるとは思ってないはずだ。
(最近の二重人格ぶりにも驚かされたけど…浮気相手と仲良くカラオケなんて花垣くんサイテー…)
ジトっとした目でカラオケ店へ入って行くふたりを睨んでいただったが、その時武道の隣にいた女の子の顏が僅かに見えたことで驚愕した。
「う、うそ……エマちゃんっ?」
花垣の腕に自分の腕を絡ませ、カラオケ店へ入って行く女の子は、万次郎の妹のエマだった。
それにはも驚き、慌ててカラオケ店の前まで走って行く。
しかしふたりはすでに店内へ入った後だった。
「…嘘…何でエマちゃんが花垣くんと…?」
万次郎を通じてふたりは知り合ったのか。
でも学校へ押しかけてきて以来、武道と万次郎が会ったとは聞いていない。
そもそもは毎日万次郎と会っていたのだから、武道と万次郎が会えば当然気づくし、話題にも出るはずだ。だが万次郎からそんな話は聞いていない。ならエマと武道はどこで知り合ったんだろう。
「どうしよう…さすがに店の中まで入るのは気が引ける…」
それに中まで押しかけて行っても何を言えばいいのかすら分からない。
は武道のクラスメートというだけの関係で、彼女の日向とも最近話すようになった程度の仲なのだ。ふたりの問題に首を突っ込むのもおかしな気がする。
とはいえエマは別だ。彼氏の大切な妹であり、とも友達になってくれた。
そのエマが彼女のいる武道の浮気相手などという不毛な存在になって欲しくはない。
浮気相手―――?
本当にそうなんだろうか、という疑問もここで湧いて来た。
「そうだ…驚きすぎて一瞬忘れてたけど、エマちゃんは龍宮寺くんのこと好きなはずなのに…」
この前もドラケンに対する熱い想いを語ってくれたばかりのエマが、他の男、それも彼女持ちの武道と付き合ったりするはずがない。
そもそも間違っても武道はドラケンタイプではないし、まして代わりになれるはずもない。
そんな失礼なことを考えた時、ふと先日のエマとの会話を思い出した。
「あ…ま…まさか…」
"ウチはさ~早く処女捨てたいんだぁ"
エマは愛するドラケンの為にそんなことを言いだして、は凄く驚いたのだ。
極めつけ「誰でもいいから早くエッチして処女捨てないと」とまで言っていたのを思い出した。
「…うそ」
まさかその"誰でもいい"相手に武道を選んだのだろうか。
はますます心配になり、その場から動けなくなってしまった。
「愛美愛主…?」
万次郎はその名を聞いてピクリと片方の眉を上げた。
目の前で項垂れているパーは小さく頷きながら「アイツら…ぶっ殺してやりてぇよ…」と呟く。
その言葉を聞いて、ドラケンと万次郎は同時に視線を合わせた。
参番隊隊長、パーちんから相談があると呼びだされた万次郎は、ドラケンと一緒にいつも皆で立ち寄るファミレスに来ていた。
「…確か新宿のチームだよな。2こ上の」
パーの相談というのは、親友とその彼女が愛美愛主という新宿のチームに暴行されたという話だった。
パーの親友が愛美愛主の頭である長内と些細なことでモメたあげくチームの人間から袋叩きに合い、その親友の彼女は親友の目の前で輪姦されたというのだ。
あげく親兄弟まで吊るされ、金まで巻き上げられたという。
「胸くそわりぃ奴らだな。関係のない親兄弟や、女にまで手を出すとかクソみたいなことしやがって」
「……愛美愛主はそういうチームだってことか」
ドラケンと万次郎の声に静かな怒りが滲む。
当事者同士の揉め事に無関係な人間を巻き込むのは、不良といえど人の道に外れる行為だと万次郎は分かっている。もちろんドラケンも同じ考えであり、すでにふたりの出した答えはひとつだった。
「ケンチン。これからチームの奴ら集められる?」
「もちろん」
「マイキー…?」
項垂れていたパーが驚いたように顔を上げる。
目の前には優しい笑みを浮かべた万次郎とドラケンがいた。
「パー。集会すっぞ。隊のヤツらを今すぐ呼べ」
「ドラケン…」
出来ることなら個人的な理由でチームの皆を巻き込みたくはなかった。
しかしひとりで抱え込むにはツラ過ぎる親友の現実に、つい万次郎に相談をしてしまったのだ。
「泣いてる暇ねえよ?パー」
万次郎はそう言いながら静かに立ち上がった。
普段のあどけない表情ではなく、今は東京卍會総長の顔を見せる万次郎を見て、パーは思わず息を飲む。本気になった万次郎が後ろにいれば、怖いものなんて何もなかった。
「まだ出てこない…」
武道とエマがカラオケ店に入ってから一時間。
その間、はずっと店のそばでふたりが出て来るのを待っていた。
出て来てから声をかけようと思ったのだが、かけてもその後に続く言葉は思いつかない。
だからと言って、このまま何もしないで帰るのもきっと落ち着かないのは分かっている。
「はあ…もうこんな時間…」
七時半を過ぎる頃で、そろそろお腹も空いて来た。
それにこれ以上遅くなってしまうと帰り道も怖い。
何度か万次郎に電話をするべきか迷ったものの、せっかくチームの仲間と会っているのを邪魔したくはなかった。それにただ遊びに行ったのではなく、相談があると呼びだされているのだ。
の勝手な尾行のせいで遅くなったのだから、万次郎を煩わせるのはやはり気が引ける。
「どうしよう…8時になったら帰ろうかなぁ…」
エマのことは心配だったが、まさかカラオケ店で武道とエッチなことはしないだろう。
何故、相手に武道を選んだのかは大いなる謎が残るが、今日もし聞けなければ後日に、と思ったその時だった。カラオケ店から転がり出るように武道が飛び出して来た。
「……花垣くん?」
かなり焦っている様子の武道は、カラオケ店入口の横に立っていたにも気づかず、何故か制服のシャツを直しながら繁華街を走って行く。
その後ろ姿を見送りながら唖然としていると、再び自動ドアの開く音がした。
「エマちゃん…」
「あれぇ?ちゃん?!」
店からひとりで出て来たエマは驚いた様子でのところへ歩いて来た。
「こんなとこでどうしたの?ひとり?」
「う…うん。えっと…」
「あーマイキーが集会だから今日はデートじゃないのか」
「え…集会…?」
が驚いたのを見て、エマは「あれ、聞いてない?」とケータイを出した。
「さっき今夜は集会するから夕飯いらねーってメール来たんだ」
「そうなんだ…」
パーちんに会いに行ったはずなのに集会を開くということは、相談された中で仲間が集まらなければならない"何か"があったんだろうかと心配になる。
「あ、そーだ。ウチも今から集会に顔出すしちゃん暇なら一緒に行こ!」
「えっ?しゅしゅ集会に…私が?」
「たまにはいいじゃん。まだ行ったことないんでしょ?」
「な、ないけど…私が行ってもいいのかな…大事なものなんでしょ?集会って…」
「えーそうでもないよー。集まって皆でワイワイするだけのことが殆どだし」
エマはそう言って笑いながらの手を引っ張って行く。
しかしはそこで大事なことを思い出した。
「あ、あのね、エマちゃん…」
「ん?」
「実はさっき…見ちゃったの…」
「見ちゃった?」
「エマちゃんがその……花垣くんと腕を組んでカラオケ店に入って行くとこ…」
「えっマジ?ってか…花垣って…?」
思い切ってが言うと、エマも少し驚いたように振り向いた。
「え、だからさっきエマちゃんと一緒にいた金髪の…」
「ええー?何でちゃんが…っていうかちゃん、あの意気地なしと知り合い?」
「い…意気地なし…?」
エマは軽く吹き出すと「だってアイツ、ウチの下着姿見てビビって逃げ出したからさー」と明るく笑いだした。
「し…下着姿?!」
あっけらかんと言い放つエマに、はギョっとした。
名前も知らない武道にそんな姿を晒したなんてドラケンに知れたら、武道は殺されるんじゃ…と変な心配までしてしまう。そこでは先ほど慌てて走り出て来た武道を思い出した。
あれはそういうことだったのか、と理由が判明して、つい苦笑する。
逃げ出したということはふたりの間に何もなかったということなので、そこはホっとした。
「花垣くんは私のクラスメートで…」
「えっ?マジで?」
「うん。エマちゃんは?花垣くんと知り合いだったの?」
「え、ぜーんぜん。さっきテキトーなの逆ナンしただけ」
「…ぎゃ…逆…ナン?」
が驚くと、エマは「でもそっかー、見られちゃったかー」と笑いながら舌を出している。
「まあ…この前も話したけどさ。ウチ、早く大人になりたいからこの際、アイツでいっかなーと」
「ダ、ダメだよ…。好きでもない人とそんなことしちゃ…龍宮寺くんだって怒るよ、絶対」
「えーそうかなぁ…」
怒ってくれるくらいの反応があれば嬉しいけど、とエマは苦笑いを零した。
こんなに思い詰めてるのかとも心配にはなったが、結局はふたりの問題なのだ。
両想いなのに、それを知らないエマが本気で悩んでるのを見ているのはも辛かった。
「あ、ここだよ。集会場所」
「え…?」
繁華街を抜けて住宅街を歩いて行くと、その神社はあった。
集会場所と言うから大勢怖そうな人たちが集まっているのかと思えば、辺りはやけに静まり返っている。
「ちゃん、こっちー」
「あ、うん…」
エマが長い長い階段を上がって行くの見て、もそれを追いかける。
階段の上は境内で、そこには数人の幹部の人達が黒い特攻服を着てたむろっていた。
その光景を見た途端、この場にいる自分は物凄く場違いなんじゃないかと思う。
「は?」
エマとが上がって行った時、ふたりの存在にいち早く気づいたのは一番奥にバイクを止め、副隊長の千冬と雑談していた場地だった。
集会場に似つかわしくない制服姿に眼鏡の少女を見た時、場地は慌ててバイクを降り、ふたりの方へ走って行く。
「場地さん?どうしたんスか!」
突然慌てたように走って行く場地を、当然千冬も追いかけて行く。
そしては自分達の方へ走って来る特攻服姿の場地を見て、ギョっとしたようにエマの後ろへ隠れた。
「!何やってんだ、こんなとこで」
「う…え、えっと…」
驚いた様子の場地を見て、はついエマに流されて来てしまったことを後悔した。
どう見ても歓迎されてるようには見えない。
「何よー場地ー。ウチが友達連れて来て何か文句あんの?」
「って、オマエか!勝手にをこんなとこまで引っ張って来たの。このことマイキーは知ってんのかよ?俺は何も聞いてねーぞ」
「言ってないよー。だってちゃんに会ったの、ついさっきだもん」
「はあ?オマエ、マイキーに内緒で連れて来たのかよっ?」
「いいじゃん。ちゃんはマイキーの彼女の前にウチの友達でもあるんだから場地に文句言われたくなーい」
「…ぐっ…相変わらず生意気なヤツ…」
万次郎と場地が幼馴染ということはエマにとっても場地は幼馴染だ。
怒られようが特に何とも思わない。
しかしはふたりがモメだしたのを見て「け、ケンカしないで…」と慌てて間に入った。
「私は帰るから…エマちゃんを怒らないで…場地くん」
「え、あ、いや…怒ったっつーか…って、おい、待てって!」
言葉通り、ひとりで帰ろうとするを、場地は慌てて引き留めた。
すでに辺りは暗く、こんな時間にひとりで帰すわけにもいかない。
「ひとりで帰せるわけねーだろ。マイキーもうすぐ来るから待ってろよ」
「…え、でも…佐野くんに内緒で来ちゃったし気まずいよ…。怒られるかもしれないし」
「アイツがに本気で怒るわけねーだろ?それに怒られるなら勝手に連れて来たエマだよ」
「む…。い~じゃん、別に!集会ったっていっつも皆で集まって騒ぐだけなんだから」
エマは責めてばかりの場地を睨みながら頬を膨らませている。
そこで後から来た千冬が「あ、あのー」と口を挟んだ。
「あ?何だよ、千冬。今忙しい――」
「その子…誰スか」
「……ああ、そっか。千冬は会うの初めてだっけ」
場地は困ったように頭を掻くと勝手に話していいのかどうか一瞬迷った。
千冬には前にチラっと話したことはあるものの、この少女がその子だと言っていいんだろうか。
だがどうせ万次郎が来たら大騒ぎするのは目に見えているので、すぐにバレるだろう。
「この子は。マイキーの……」
「え、マイキーくん?」
「彼女…」
「えっ!!!!」
千冬は予想以上に驚いた顔で、目の前のをマジマジと見ている。
は少し戸惑うようにエマの後ろから顔を出すと「初めまして」と挨拶をした。
そんなキッチリとした挨拶をされた事が殆どない千冬も、少しギョっとしながら「は…初め…まして」と言い慣れない言葉を返す。
と言って、万次郎の彼女、という想像以上にぶっ飛んだ存在のわりに、地味な印象のを見て千冬は未だ驚きを隠せない。
「あー。コイツは俺の隊の副隊長で松野千冬。ちなみにと同じ歳」
「松野くん…場地くんとこの副隊長さんなんだ」
「…松野…くん?」
あまり呼ばれ慣れない苗字で呼ばれ、千冬は体のどこかがむず痒くなったものの、本当にこの地味な少女があの万次郎の彼女なんだろうかと疑問に思う。
そしてその疑問が顔に出ているのを場地だけは気づいた。
「…オマエが余計なこと言ってマイキー怒らせない為にも言っておくと…眼鏡取ったらめちゃくちゃ可愛いから」
「…え」
こっそり小声で教えると、千冬は更に驚いた。
この地味な子が可愛い?!と言いたげだ。
「じゃ、じゃあ何で眼鏡なんか…」
「あー…」
事情の知っている場地は苦笑いを零すと「マイキーの我がまま」と肩を竦めた。
「他のヤツにの素顔見せたくねーって、いつも眼鏡外させねーんだよ、マイキーのヤツ」
「何スか、それ…。マジでめちゃくちゃ大事にしてるじゃないスか…!」
「まあ…意外だけど…彼女のこと溺愛してんだよ、マイキーのヤツ」
「……マジすか!あのマイキーくんが?」
あの唯我独尊で女に興味のなかった万次郎がこの少女を溺愛、と聞いて、千冬の好奇心が疼いて来る。
眼鏡を外したところを見てみたいという素直な欲求だ。
そこへエマが「なに男同士でコソコソしてんのよっ」と割り込んで来た。
「うるせぇーな…ったくエマは余計なことしやがって…マイキーが機嫌悪くなったらエマのせいだからな」
「何でよー。何でちゃん連れて来たらマイキーが機嫌悪くなんの?普通、愛しい彼女がいたら喜ぶでしょ」
「そんな普通の男みたいな反応すると思うのかよ?あのマイキーが」
「えー?どういう意味よ」
「エ、エマちゃん、いいよ。やっぱり私帰るから」
またしてもモメだした場地とエマを見て、は申し訳なくなってきた。
自分がこの場へ来たせいで空気が悪くなるのもいたたまれない。
それにも万次郎と顔を合わせるのが怖かった。
チームの集会に、いくら妹のエマに誘われたからと言って来るべきではなかったと後悔する。
しかし場地は「だからひとりで帰せねえって――」と言いかけた時、聞き慣れた排気音が聞こえて来て、場地はハッと振り返った。
「マイキーのバブだ…」
「えっ」
もドキっとして振り向くと、バイクの排気音と共に白いライトが近づいて来るのが見える。
それを見た瞬間、は何故かやましいことをしている気分になり、慌ててその場から走り去ろうとした。だがすぐに気づいた場地が追いかけての腕を掴む。
「何逃げてんだよ」
「だ、だって…」
「どうせエマがを連れて来たことはバレる。そしたらひとりで帰した俺がマイキーに怒られっから」
「え、な、何で場地くんが?」
「そりゃこんな時間にひとりで帰したなんてマイキーが知ったら怒んだろ」
そこまで言われてしまうと帰るに帰れない。
自分が帰ったせいで場地が怒られてしまうのは、としても避けたいところだ。
と言って勝手に来てしまった自分を万次郎がどう思うかが心配だった。
その時、境内の中へバイクが二台入って来るのが見えた。
先頭に万次郎と、その後からドラケンが続く。
そのバイクのライトに照らされて、は思わず手で光を遮った。
「……?!」
さすが万次郎、来た瞬間この場にいるはずのないに一瞬で気付いたようだ。
案の定、慌てたようにバイクを降りて走って来た万次郎は、と一緒にいる場地を見て不愉快そうに眉を寄せた。
「どういうことだよ、場地…」
「は?俺が知るか。エマに聞けよ」
「…エマ?」
万次郎はその名前を聞いただけで、すぐに理解したらしい。
少し離れた場所にいるエマに向かって何かを言おうとした。
だがが「佐野くん…!エマちゃんのこと怒らないで」と慌てて万次郎の腕を掴んだことで、言おうとした言葉を飲み込む。
そしての手を引っ張ると、仲間が集まってきた方ではなく、人気のない神社の裏手に連れて行った。
「さ、佐野くん…?」
少し不機嫌そうな万次郎の背中が怖くて、は恐々とその名を呼んだ。
すると万次郎は歩くのをやめ、もドキっとして足を止める。
「あ、あの…ごめ」
んなさい、と言おうとした瞬間、振り向いた万次郎に抱きしめられ、の言葉が途切れた。
いつもの万次郎の匂いに包まれ、ホっとしたのと同時に少し恥ずかしくなる。
「…脅かすなよ」
「う…うん、ごめん…」
吐息と共に耳元で聞こえた万次郎の声に、は僅かに頬が熱くなった。
少し体を離した万次郎を見上げると、その顔は困ったような何とも言えない笑みを浮かべている。
「怒ってる…?」
「……エマにね」
「怒らないで…さっき偶然会っただけなの。エマちゃんは気軽に誘ってくれただけで――」
「分かってる。でも…俺に何の連絡もしないでこんなとこまでを引っ張って来たのはやっぱ腹立つ」
「佐野くん…」
「例えチームのヤツでも俺のいないとこでと会わせるのは嫌だし」
万次郎はそこで初めてスネたように目を細めた。
それにはも頬が赤くなり、思わず俯いたがそこで気づいた。
集会ということで万次郎は黒い特攻服を着ている。
もその姿を見るのは初めてで見慣れない姿にドキっとしたのだが、万次郎は特攻服の下が裸だったことで顔が一気に赤くなった。
「…何で離れるの」
目の前で予想以上に引き締まった胸元を見たは恥ずかしさのあまり、万次郎から離れようとした。
「だ、だって…」
「誰もいねーって」
「そ…そう…なんだけど…」
再び抱き寄せられた時、顔が万次郎の裸の胸元に押し付けられ、の心臓が大きく跳ねた。
「逃げられると逃がしたくなくなるんだよね、俺」
「…さ、佐野くん…あの、」
を抱きしめながらクスクス笑う万次郎に、の顏の熱も上がって行く。
何度も抱きしめられたことはあるが、こんな風に素肌が触れることはなく、初めて直に感じる万次郎の体温に心臓が壊れそうなほどに鳴っている。
「…」
「……え?」
「は…俺が守るから」
「…佐野くん?」
急に真剣な声でそんなことを言われ、は少し不安になった。
やっぱり何かあったんだろうか、と問うように万次郎を見上げると、ちょうど屈んだ万次郎の唇がの唇と重なる。
「…あ、あの」
触れるだけのキスでもにとってみれば、場所が場所なだけに恥ずかしくなる。
チームの仲間たちから少し離れたこの場所にはふたりの影しかないというのに、何となく誰かに見られているような気さえしてしまう。
「…な…何か…あったの?」
心配していたことを思い切って尋ねると、万次郎は軽く目を伏せて悲しそうな顔をした。
そんな万次郎の表情はも見たことがない。
「パーの…親友が他のチームのヤツにボコられた」
「…え?」
「その親友の彼女も…ソイツらに襲われた」
「……ッ?」
それを聞いたは思わず息を飲んだ。
男同士の揉め事なのに、その付き合っている相手にまで手を出す連中がいるのか、と思うと言葉も出ない。万次郎はのそんな気持ちを察したのか、そっと頬に手を添えた。
「これが俺のいる世界」
「…佐野くん…」
「怖く、なった?」
万次郎は真剣な顔でを見つめている。
いつも強い意思を宿している大きな瞳が、今は深い闇を朧気に滲ませているように見えた。
怖くないと言えば嘘になる。
の中にもパーの友達や彼女に卑劣なことをした人間が許せないという怒りはある。
けれど、自分がどう足掻こうと他人の手によって身も心も容易く傷つけられてしまうことがあるという現実は、やっぱり怖かった。
どんなに正義感を持っていようと、今の自分は何者でもないただの中学生の女の子なのだ。
なのに、万次郎のそばにいたいという思いは何故かなくならない。むしろ強くなる一方だ。
「…怖くないと言ったら嘘になるけど…私は佐野くんのそばにいたいって言ったら…ダメ?」
東京卍會の総長の彼女が、この世界を怖いなどと弱音を吐いてはいけないだろうか。
そんな弱い女はいらないと言われるだろうか。ふと、そんなことを考えた。
――それでも私は、この人の隣にいたい。
そばに置いてもらえるなら、きっと私は何も怖くなくなる――。
静かにを見つめていた万次郎は、不意に柔らかい笑みを浮かべた。
の心の奥にある本音を聞けて、どこかホっとしたような笑みだった。
「…ダメじゃない」
そう呟いた万次郎は、の頬へ添えていた手を引き寄せ、唇に触れるだけの優しいキスを落とす。
万次郎の唇の熱に何故か泣きそうになりながらも、あらゆる感情の欠片が心にあるから、だから、少しでも伝えられればいいのにと思った。