
20.それは始まりのような
最初は静かだと思った場所に、次々とバイクの排気音を響かせた仲間達が集まり出し、辺りはいっそう賑やかになっていた。
は万次郎に「集会終わったら送ってくから待ってて」と言われたので少し離れた場所でエマとお喋りをしていたのだが、チームの仲間以外に派手な女の子達も集まり出したのに気づいた。
これがエマの話していた女の子達なんだ、と思いながら、皆が綺麗にメイクをしているのを見て、自分のいつもの恰好はやっぱり凄く場違いだなと心配にはなってくる。
女の子たちはキャーキャー言いながらチームのメンバーが集まっているのを眺めていて、まるでアイドルの追っかけのようだ。
「何か熱気が凄いね。いつもこんな感じ?」
が尋ねると、エマはふと視線を女の子達に向けて苦笑いを浮かべた。
「うん。どっかから集会の情報聞きつけて気づけば集まって来るんだよね。きっとチームの誰かの彼女から洩れてるとは思うんだけどさ」
「そうなんだ…」
「気にすることないよ。マイキーはあんな子達に興味ないし、今日はちゃんが来てるから余計にちゃんしか見てないと思うよ」
「え…そんなはずは…」
「あるってば。だってドラケンと話しながらコッチばっか見てるし」
エマは笑いながら万次郎を指さした。
ふと見れば確かにバイクへまたがってドラケンと話している万次郎が、視線をの方へ何度も向けている。それをドラケンにからかわれたのか、万次郎が何やら文句を言っているのが遠目からでも分かって、エマは苦笑いを零した。
「ほんっと分かりやすい」
エマに笑われ、は照れ臭くなり慌てて視線を反らす。
集会に来てしまったことを怒りはしなかったが、万次郎は逆に心配していたようにも思う。
は先ほど聞いたパーの親友のことを思い出し、少しだけ気分が落ち込んで来た。
多分、万次郎はパーの親友の話を聞いて、自分のことと重ねて見てしまったのかもしれない。
だからが公の場に来たことで、あんなにも心配そうな顔をしていた。
もし、自分と付き合っているせいでが危険な目に合ってしまったら、と一度でも考えてしまうのは当然のことだ。
(佐野くんがいる世界は…そういう世界なんだな…)
ただ好きだから一緒にいたい、と思ってるだけでも、万次郎を取り巻く世界はそれを許してくれない気がした。
こうして傍から特攻服を着た面々を見ていると、本当に違う世界を見ているような気がする。
ただ好きなバイクを乗り回してるだけじゃなく、やはり他のチームとモメることがあれば、自然と周りも巻き込まれて行くものなんだと改めて思う。
(なら…私は佐野くんの負担にならないように、なるべくこういう場は避けるべきかもしれないな…)
その時、ドラケンが「おい、エマ!」と呼ぶ声がした。
エマが「はーい」と返事をしてドラケン達の方へ歩いて行く。
も自然とそっちへ視線を向けた時、思わわぬ顏ぶれを目にしてギョっとした。
「…花垣くんと…橘さん?」
先ほどカラオケ店から逃げるようにして走って行った武道と、何故か彼女の日向までいる。
何故ふたりが東卍の集会場所に、と思っていたが、ドラケンがエマを紹介しているのが見えて「あ」という声が出てしまった。日向が武道を殴っている光景が見えたのだ。
もしかしてさっきの浮気未遂がバレたんだろうか、と思っていると、日向がぷりぷりしながらの方へ歩いて来た。
「あれ?!さん?!」
「こ、こんばんは」
「さんも来てたんだねー!良かった、知ってる人がいて」
「橘さんも…花垣くんと?」
「うん、まあ…ドラケンくんから電話で呼ばれたみたいでヒナもくっついて来ちゃったの。さんは?」
「あ…私はエマちゃんに連れてこられて…」
と言って、今は武道とコソコソ話しているエマへ視線を向ける。
エマの気まぐれで初体験の相手に選ばれた武道も、エマと再会して驚いている様子だ。
「え、さん、あの子と知り合いなの?」
「うん。エマちゃんは佐野くんの妹なの」
「え、そうなんだ!てっきりタケミチくんの浮気相手かと…」
「あー…そ、それには色々複雑な事情が…。あっでも浮気相手じゃないから安心して!」
とは言ったものの、武道がどういうつもりでエマからの誘いを受けたのかまではも分からない。
しかし据え膳喰わぬは的な気持ちがあったなら、あんな風に逃げ出さないだろうという気もする。
その時――「オラ、集まれ!テメーら!集会始めっぞ!!」という、ドラケンの声が響いて来た。
「――パーのダチ、やられてんのに、"愛美愛主"に日和ってる奴いる?…いねえよなぁ?!」
万次郎の言葉に、異論を唱えるものなどなく。それぞれが気持ちを固めたような太々しい笑みさえ浮かべている。仲間のその表情を見渡した万次郎は、満足そうに笑む。
「"愛美愛主"潰すぞ――!!」
万次郎のその叫びと共に、仲間全体から大歓声が沸き起こり、その場にいた武道、そして少し離れた場所からエマとこっそり見ていたは、空気が震えるような歓声に思わず息を飲んだ。
仲間の前で堂々と抗争の狼煙を上げるような宣言をした万次郎は、のとなりで優しく微笑んでいる万次郎とは別人のように見える。
出会った頃、暴走族だと聞いてが想像していたものよりも更に、万次郎は大きな存在だったんだと思い知らされた気がした。
「――8月3日。武蔵祭りが決戦だ」
万次郎は仲間にそう告げると、ドラケンと共に境内へと消えた。
「うっそ…その日はドラケン誘ってお祭り行こうかと思ってたのに~」
エマが不満そうに口を尖らせたが、も万次郎に一緒にお祭りに行きたいとは言われていた。
しかしはこの時、約束のことよりも、東京卍會の総長の顔を見せた万次郎のことを考えていた。
万次郎と付き合いだしてから少しずつ分かってきたと思っていたけれど、まだ知らない顔を持っていたのだ。
(やっぱりケンカになるんだ…)
仲間の親友が酷いことをされ、相談された万次郎が黙っているはずもない。
それくらいはにも分かる。また、仲間の気持ちを察して一緒に戦おうとしている万次郎をやっぱり好きだとさえ思った。なのに心に暗い影が滲むのは、自分の今の環境のせいだ。
そして、やっぱり大きなチームとの抗争ともなれば、ケガをしないはずはない。
万次郎はもちろん、他の仲間のことを考えると、の心配は大きく膨らんでいく。
「ちゃん?」
「え…?」
不意にエマが顔を覗き込んで来て、はふと我に返った。
「大丈夫?顔色悪いけど…具合悪い?」
「う、ううん…平気だよ。ちょっと…お腹空いただけ」
「そう?マイキーもうすぐ戻って来ると思うから」
「うん…」
心配そうなエマに心配かけないよう、は笑顔で頷いた。
集会が終わった後は幹部の仲間と軽く話してからが本当の解散になるらしい。
「ねえ、エマちゃん」
「ん?」
「抗争って…やっぱりケンカ…するんだよね?」
「あー…うん、まあ…」
の問いに、エマは何かに気づいたようだ。
少し気まずそうな顔で視線を逸らすと「心配…だよね、ちゃんは」と呟いた。
「マイキーと付き合いだして…初めての抗争だもんね」
「…ケガとか…するよね、きっと」
「あ、でもマイキーは敵の攻撃とか、あんま受けたことないし、いつも無傷だよ?だから大丈夫だって」
「でも…他の…人達は…」
「大丈夫!皆、凄く強いんだから。多少のケガはするけど絶対勝つって」
エマはなるべく明るく言いながらの肩を抱いた。
も笑顔で頷いてみせたが、やはり仲良くしてくれる東卍の皆が殴り合い、血を流すことを想像するだけで怖くなってしまう。
そこへ「!」と声がして、振り返ると万次郎とドラケンがふたりで歩いて来た。
「おう、エマ。悪かったな。ふたりのこと頼んで」
ドラケンが声をかけると、エマは嬉しそうな笑顔を見せて、でもすぐに「ちょっとコッチ来て」と腕を引っ張り出す。
「何だよ?」
とドラケンは顔をしかめたが、エマが目くばせをして万次郎との方を示すと、理解したのか片手を上げて大人しくエマに連行されて行った。
日向も武道の元へ行き、その場には万次郎とだけになる。
急にふたりきりにされると、はどういう顔で万次郎と向かい合えばいいのか分からなくなった。
先ほど垣間見た、大勢の前で堂々と仲間を先導する総長としての万次郎が脳裏を過ぎる。
「?」
でも、今目の前にいるのはの知っている万次郎だ。
特攻服を着ていようと、優しい眼差しで見つめながら頬へ触れて来るのは、が大好きないつもの万次郎だ。
「悪い…驚いた?」
「…え?」
「抗争のこと…」
「あ…少し」
集会で話す内容までは聞いていなかった。
そのことを気にしているのか、万次郎は気まずそうにしている。
にしたらケンカなどして欲しくはない。
でも――友達が悩んでいるのに放っておけるような男じゃないことは、知ってる。
そんな万次郎だからこそ、好きになったのだ。
「でも…佐野くんは林田くんの為に戦うんだよね」
「…」
「私は……佐野くんのそういうとこが好きだよ」
思い切ってそう告げれば、万次郎は一瞬驚いた顔をして、でもその表情は少しずつ和らいで、最後はかすかに頬が赤くなった。
「何だよ…」
万次郎は僅かに目を伏せて呟くと、次の瞬間にはの手を引き寄せ、強く抱きしめていた。
「さ…佐野くん?」
「そんな嬉しいこと言われたら……何も言えなくなるじゃん」
の髪に顔を埋めながら、囁くような声が零れ落ちる。
本当は、ケンカなんかしないでと言いたかった。
けれど、理不尽な暴力で傷ついた仲間の親友の為、それを嘆く仲間の為に万次郎が決めたことなら、それを見守るしかない。
暴力はいけない、という綺麗ごとだけでは済まない世界があるというのも、理解している。
「…佐野くん…」
「ん?」
万次郎の胸に埋めていた顔をゆっくりと上げて、はかすかに微笑んだ。
「絶対…勝ってね」
沢山の不安を全て飲み込んで、その言葉を口にする。
万次郎は返事の代わりにゆっくり屈むと、の唇を優しく塞いで、強く抱きしめた。
「……"佐野くんのそういうとこが好き"」
「…………」
「って言ってくれたんだよねー。羨ましいだろ、ケンチン」
「………はいはい」
夏休みに入り、今日は昼からマイキーとファミレスでご飯を食べていたドラケンは、先ほどからウザい惚気話を何度も聞かされ、深い溜息を吐いた。
目の前でデレデレとの話を続ける万次郎は、ドラケンの呆れ顔にも気づいてないようだ。
(はぁ…今日は厄日だな…)
ドラケンは半目になりながらも小さく溜息をついた。
さっきはさっきで突然やって来た武道のことを思い出し、つくづくそう思った。
武道に付き人にしてくれと訳の分からないことを言われ、サクッと断ったのに、何故かその後も尾行をされている。
ドラケンは背後から感じる視線にウンザリしつつ、アイツは何を考えてるんだと首を傾げた。
気づかれてないと思っているところが不思議だ。まあ、一緒にいる万次郎は全く気づいていないが。
「で…その愛しいの夏期講習は何時に終わんだよ」
何も返さないのはあれなので、目の前でジュースを飲みだした万次郎に尋ねた。
途端に目を細めた万次郎は「…午後3時」と不満げに呟く。その後に続くズズっという音はジュースがなくなったことを現わしていた。
仕方ないと思いつつ、ドラケンがドリンクバーに同じものを取りに行く。
その間に注文していた料理が運ばれて来たのはいいが、突然不機嫌そうな万次郎の声が聞こえた瞬間にドラケンは急いで席へと戻った。
「何だよ、これ?!もう一生許さねえ」
「あ?」
「旗が立ってねえじゃん!」
「………」
見れば万次郎の前に置かれたお子様セットに、あるはずの物が確かに立っていない。
「俺はお子様セットの旗にテンション上がるの!」
「す…すみません。今付けて来ます…」
「もういらねー!」
万次郎の我がままに店員が深々と頭を下げているのを見たドラケンは溜息交じりで項垂れつつ、こういう時の為に常に持ち歩いているから分けてもらった必殺アイテムを取り出した。
「ほーら、マイキー。旗だぞー」(棒読み)
「わー!!さすがケンチン」
お子様セットのチキンライスの上に旗を挿してもらった万次郎は、その大きな瞳をキラキラと輝かせて喜んでいる。
集会の時の総長という姿からは想像できない程の緩い姿は、限られた人しか見ることは出来ない。
「あ、もう大丈夫なんで」
「は、はあ」
唖然としている店員に、ドラケンが笑顔で頭を下げると、その店員はホっとしたように戻って行った。
まさか金髪に兄ちゃんがお子様セットを頼み、なおかつ旗がないというだけでマジ切れするとは、あの店員も思わなかったはずだ。
ドラケンは溜息交じりで苦笑いを浮かべると、目の前で美味しそうにチキンライスを頬張る万次郎を見た。
「んじゃあ…午後3時になったらを迎えに行くのかよ」
話をそこへ戻すと、万次郎は更に笑顔で頷いた。
「今日は久しぶりにの家でご飯作ってもらうことになってんだ」
「へぇ…相変らずラブラブじゃん」
「いいだろ♡」
「…ウゼェ…」
万次郎が得意げな笑みを浮かべ、ドラケンの口元が引きつる。
コッチは恋愛後回しで万次郎の世話に明け暮れてるのに、とでも言いたげだ。
「まあ、でも…今はあんまと外では会わない方がいいかもな」
「…それはとも夕べ少し話したんだ。何があるか分かんねぇし…」
「オマエに彼女がいるってこともウチの幹部連中の一部しか知らねえ。隠しておくのも手だな」
「なーんかコソコソすんのは不本意だけどなー。の為だし…」
万次郎は天井を仰ぎながら、ふと真剣な顔で呟いた。
東卍が愛美愛主と抗争するという話は、必ずどこかから洩れて相手側の耳にも入る。
その時、向こうがどう出て来るか分からない。それを万次郎は懸念していた。
パーの親友の一件から考えて、例え女相手でも容赦がないというのは嫌と言うほど分かっている。
そういう危険から遠ざける為にも、なるべくの存在は公にしたくない。
「俺と付き合ってるせいでが酷い目にあったりなんかしたら…俺、何するか分かんねぇ」
独り言のように万次郎が呟く。
その目に一瞬、仄暗い殺気のようなものを感じて、ドラケンは小さく息を飲む。
確かに万次郎が大切にしている存在を傷つけられたその時は、ドラケンでも止める自信はないと思った。そしてそれはドラケンも同じ思いだった。
もしエマが傷つけられるようなことがあれば、自分が何をするか分からない。
(どっちにしろ…この抗争を長引かせない為にも、東卍が完全勝利で愛美愛主を絶対的に降伏させるしかねえな…)
それは、相手が報復など考えられないほどに叩き潰すということに他ならない。
万次郎もそのことしか頭にないだろう。
二度と、東京卍會の関係者に手を出そうなどと考えさせない為にも、徹底的にやるしかないのだ。
ドラケンはその為にも、これから万次郎をある場所へ連れて行こうと考えていた。
ふと時計を見れば、そろそろいい時間だった。
「おい、マイキー。それ食ったらちょっと行きたいとこ――」
と言って顔を上げた時、綺麗にお子様セットを食べ終えた万次郎はソファに横になり眠り込んでいた。
「またかよ…」
と半目になりつつ、ドラケンは自分の頼んだコーラを飲み終わるまでは寝かせておくかと思った。
しかし数分後…
「あーー!もうやってらんねぇ!ウッセエんだよ、マイキー!」
次第に大きくなりだしたイビキに耐え切れず、ドラケンはキレて立ち上がった。
しかし本人はどこ吹く風で気持ち良さそうに寝ている。
「食ったらすぐ寝るのいい加減直せよ!」
「うーん…ムニャムニャ……もう食べられないよー…ふがーすぴー」
「ったく、しょーがねぇなぁ…」
すでに夕飯を作ってもらってる夢を見ているようだ。
ドラケンは呆れ顔で溜息をつくと、眠っている万次郎をいつものように背中におぶり、店を後にした。
「え、彼女さんの病院へ?」
は洗い物の手を止めて、隣に立つ万次郎を見た。
万次郎はの洗ったものを水で洗い流しながら「うん」と頷く。
今日から夏期講習だったのだが、帰りは万次郎が三ツ谷のバイクの後ろに乗って迎えに来てくれたので、そこからはふたりでスーパーへ買い物に行き、の家にやってきた。
今夜は久しぶりに万次郎を家に呼んで夕飯を作ってあげたのだ。
食べ終わり、今はふたりで片づけをしていたのだが、今日は何をしてたの?と訊いてみると万次郎が病院へ行った時のことを話しだした。
愛美愛主に暴行されたというパーの親友の彼女が入院している病院で、彼女は今も意識不明の重体だという。
「ケンチンが寝てる俺を連れてった場所がそこだった。まあ…最初はその子の両親にクズだ何だって罵られて犯人扱いされたからキレそうになったんだけど…」
万次郎はそこで言葉を切ると、小さく息を吐いた。
「でもさ、ケンチンは言い訳もせず、その両親に頭を下げたんだ。最初は俺達がやったわけでもねぇのに何でだよって思ったんだけど…ケンチンに"東卍のメンバーにも家族はいるし大事なひともいる。一般人に被害を出しちゃダメだ"って…。下げる頭は持ってなくていい。でも人を想う"心"は持てって言われてさ。俺、ドキっとしたんだ」
洗い物を終えて水を止めると、万次郎はふとを見た。
その表情はどこか悲しげで、も黙って万次郎の言葉に耳を傾ける。
「俺、昨日はパーの為に愛美愛主を潰すって皆に宣言したけどさ。東卍の皆にも相手チームの奴らにも家族や大事な人がいるなんて考えてなかった。そんなの気にもしてなくてさ。ケンチンに言われてハッとしたんだ」
「…うん…」
「俺は自分の大事な人のことだけ考えてた。でも…ケンチンは周りのこともちゃんと考えてたんだって思ったら何か情けなくなって…」
総長失格だよな、と万次郎は苦笑した。
は思わず首を振ったが、万次郎は「いいんだ。ちょっとへこんだけど反省したし」と微笑む。
「俺はまだまだガキで…ケンチンや東卍の皆に支えてもらって総長やらせてもらってるんだって改めて実感したっていうか…。そういうことを考えるキッカケを作ってくれたケンチンに感謝してる」
万次郎はどこか吹っ切れたような笑顔で言うと、もやっと笑みを浮かべた。
確かに今の自分達はまだ子供で、色々分かっているようで実際は深い所まで理解しているわけじゃない。これから色んなことを経験して、少しずつ心を育てていく段階だ。
今日のこともその一つであって、万次郎の心にも今までとは違う何かが生まれたのなら、それは成長したという証でもある。
ドラケンは人より苦労した分、他人の痛みが分かるんだろう。
そういう人が傍にいることは、万次郎にとって幸せなことなのかもしれない。
「でさ…ケンチンとも話したんだけど…」
片付けも終わり、ふたりでソファに座って寛いでいると、不意に万次郎が口を開いた。
「…うん」
「抗争が終わって決着がつくまでは、とも外で会うのは危険だから、今日みたいに家とかになっちゃうんだけど…」
「うん…」
「ごめん。夏休みは色々出かけようなんて言ってたのに」
「いいよ。私は佐野くんとこうしてるだけで楽しいし…」
どこかへ出かけなくても、ふたりでいるならにとっては幸せであり、楽しい時間なのは変わりない。それに正直、昨日集会場所へ行った時は、万次郎が遠い存在に見えて少しだけ寂しかった。
東卍の総長という顔も万次郎には違いない。けれども、は特攻服を着ていない、今の万次郎のことを好きになったのだ。
「まあ…俺も家でとのんびりしてるのが一番安心だし落ち着くんだけど…」
そう言いながら万次郎がの肩を抱き寄せる。
驚いて顔を上げたの視界に万次郎の双眸が映った、と思った瞬間、唇が熱を持つ。
突然のキスに、の鼓動が一気に動き出し、頬がカッと熱くなった。
何度されても、唇が触れ合う瞬間だけは慣れるどころか、ドキドキが加速してしまう。
「こういうことも出来るし?」
ゆっくりと離れていく熱に少しの寂しさを感じた時、万次郎が呟いた。
僅かに視線を上げれば、優しい眼差しが見下ろしてくる。
いつもの眼鏡をしていない分、やけに近く感じて頬が火照って来た。
その時、後ろで髪を縛っているゴムを万次郎の指がするすると解いていき、サラサラで癖のない髪がふわりと背中へ垂れた。
「俺とふたりの時は下ろしてていいよ。俺、のサラサラの髪、好きなんだ」
「…う…うん」
言いながらも万次郎の指がいたずらにの髪を梳いて行く。
たったそれだけなのに鼓動が素直になり出して、耳まで熱くなっているのを感じた。
その耳に万次郎の指が触れるたび、鼓動が跳ねてしまう。
「くすぐったい?」
「…う、うん少し…」
首を窄めたを見て、万次郎がふっと笑う。
そのままの頬を撫でるように手のひらが動いて、万次郎の指が髪を耳にかける。
それだけなのに恥ずかしさがこみ上げて、つい俯きそうになった時、万次郎の両手がの頬を包み、再び唇を塞がれた。
手のひらが少しずつ首の後ろへ移動してやんわり固定されると、後退することも出来ないは万次郎の唇を受け止めるしか術はなく。
何度となく角度を変えて触れ合うだけのキスから、啄むキスへと変わってくると、の羞恥心が顔を覗かせる。今はの家であり、万次郎とふたりきり。
泊まりに行った時みたいな邪魔は入らない。
次第に食むようなキスへ変わり、唇に万次郎の舌が触れると、心臓のドクンという音と共にの肩が跳ねた。
「…ん……ま…って」
少しずつ深くなっていく口付けに息も絶え絶えになりながら、小さなあがきをするの言葉は何の抵抗にもならない。
「…口、開けて…」
僅かに唇が離れた合間、万次郎が呟く。
その意味が分からずが何度か瞬きをすると、万次郎が艶のある笑みを浮かべて再び唇を塞ぐ。
先ほどとは違い、少しだけ強引なキスに驚いていると、万次郎の舌先が唇を掠めた。
驚きと苦しさで僅かに開いた隙間から、ぬるりとした温かいものが侵入してきたのを感じ、が驚いたように腰を引く。
「…ん…っ」
自分の口内を動き回る他人の舌の感触に、カッと頬が熱くなる。
心臓が壊れてしまいそうなほどの動悸で全身がじわりと火照って来た。
何度も舌を絡み取られ、軽く吸われていると、恥ずかしさで顔も体も熱いのに、万次郎のことしか考えられなくなる。
触れられている項や、抱き寄せる強い腕を感じるたびに、心が溶かされていくように感じた。
恥ずかしさで万次郎の胸元に縋りながら、自分の知らない自分を暴かれていくようで、少しだけ怖くなる。その思いが目尻に涙となって溢れて行く。悲しいわけでも嫌なわけでもなく、ただ万次郎の熱に飲み込まれそうで、怖い。
「………」
余すことなくの口内を味わった万次郎が、ゆっくりと唇を離して濡れた目尻にも口付ける。
そこでやっと目を開けたの瞳は、当然の事ながら潤んでいた。
「ごめん…怖かった…?」
「…ち、違う。佐野くんが…怖いわけじゃなくて…」
心配そうに眉を下げる万次郎を見て、は慌てて首を振った。
今のキスで呼吸が乱れ、胸が上下している。
火照った頬は更に熱くなり、顏が真っ赤になっているのは自分でも分かった。
万次郎は赤く染まったの頬にも口付けると「の体、すっげー熱い」と耳もとで呟いた。
その耳にかかる切ない吐息さえ、甘い刺激に変るようだ。
万次郎の唇が耳輪や耳たぶに触れるたび、ピリピリとしたものが首筋へと走った。
「…んっ」
思わず漏れたの声に、万次郎がふと唇を離す。
「…ヤバい」
「……え」
慌てたように身体まで放す万次郎に驚いてが顔を上げると、万次郎の頬もかすかに赤く染まっている。何がヤバいんだろうとが不安になった時、万次郎が苦笑交じりで「ごめん…」と呟く。
「これ以上、触れてたら…俺、のこと襲っちゃいそう…」
「……ッ」
「っつーことで…俺、そろそろ帰る」
「え?」
とが驚いた時には、すでに万次郎の腕から解放されていた。
「さ…佐野くん?」
「あー明日も迎えに行くからひとりで帰るなよ?」
ひどく慌てたように玄関へ行きかけた万次郎だったが、ふと何かを思い出したように戻って来ると、驚いて唖然としているの唇にちゅっとキスを落とした。
「これは…お休みのキスね」
「……う…うん」
照れ臭そうに微笑むと、万次郎は「じゃあ…また明日。朝メールするから」と言って学ランを掴むと慌ただしく帰って行った。
急に帰った万次郎に驚いたままポカンとしていたが、ひとりになった途端、さっきの恥ずかしさが嵐のように襲って来る。
万次郎にはこれまでも何度となくキスをされたけれど、あんな大人めいたキスは初めてされた。
経験はなくとも、あの空気は男女がエッチをする一歩手前のような、そんな艶めかしいキスだったと今更ながらに実感する。
「やだ…私…どうしちゃったんだろ…」
先ほど口付けられた耳に触れてみると、そこに心臓があるのかと思うほどジクジクとした熱を感じて、再び心臓がうるさくなってきた。
万次郎にキスをされていた時は何も考えられなくなった自分に唖然とし、一瞬理性が飛んでしまったことにも驚く。もっと触れて欲しいと思うほど、万次郎に触れられている場所が心地よかったのだ。
なのに、万次郎は突然慌てたように帰ってしまって少しだけ寂しかったのと、寂しいと思っている自分が自分じゃないようにも思えた。
(そう、あのまま佐野くんに抱かれたい、なんて……恥ずかしすぎるっ)
初めて芽生えたものに戸惑いながら、隣に万次郎がいないだけで、いつもの部屋がやけに寂しく感じた。