
25.君のいない未来はいらない
薄ぼんやりと意識が戻って来るのを感じた。同時に冷え切っていた指先には確かな温もり。
ああ――誰かに手を握られている。
そう理解した時、はあまり力の入らない瞼を、ゆっくりゆっくりと開いていった。
少しずつ感じたのは光。そして――。
「…ッ?!」
ぼやけた視界に映る影を認識する前に、自分の名を呼ぶ声と、包まれていた手を強く握る力を感じて、傍にいる相手が大好きな人だと分かった。
「…佐野…くん…?」
「……良かった…!」
光を遮るようにして覗き込んでいた黒い影が視界いっぱいに広がったと思った瞬間、体に重みを感じた。ふわりと頬に触れる柔らかい髪からは良く知っている香りがする。
佐野くんに抱きしめられている――?
未だに自分がどこにいるのかも分からず、状況が分からない。は何度か瞬きを繰り返し、気だるい腕を持ち上げようとした。
「あ、ダメだって、動かしちゃ」
覆いかぶさってた万次郎が慌てて身体を起こし、の腕を元へ戻す。
「点滴してんだから」
「……てん…てき?」
眩しさで目を細めながら、やっと顔が見えた万次郎にホっとする。しかしその表情はいつもの万次郎とは思えないほど沈んだものだ。それに所々かすかではあるが殴られたような跡がある。
「わ…たし…何で…ここ病院…?」
「…うん…、夕べからずっと意識なかったんだ…」
「え…」
「神社の裏の林の中で倒れてた…覚えてない?」
「…神社……」
そう言われては未だハッキリしない頭で思考を巡らせる。そして思い出した。エマやドラケンとお祭りへ行ったこと、そこで万次郎を待っていたこと、チーム同士の抗争になったこと、エマとふたりで日向を探し回ってたこと。最後に――。
突然、血に濡れたナイフを持つ男の姿がフラッシュバックした。
「…っりゅ、龍宮寺くんは…っ?!」
"こりゃドラケンの血だよ"
そう言って笑っていた男の顔までハッキリと思い出した。
「え…何でそれ…」
「キヨマサって人が言ってたの…!龍宮寺くんを殺したって…!彼は?無事なの?」
腕を伸ばして服を掴んで来るを見て、万次郎は今ハッキリと"犯人"が分かった。しかしその前に安心させるようの肩を掴んでそっと寝かせると「ケンチンなら大丈夫」と微笑む。
「手術は成功して、さっき意識も戻った。本人はケロっとしてるよ」
「しゅ…手術…じゃあ…ホントに刺されたんだ…」
じわりと浮かぶ涙で視界がぼやける。キヨマサの言葉を信じたわけじゃないが、持っていたナイフには確かに血がついていた。ドラケンが大なり小なり傷つけられたのは明らかだった。
自分も意識がなかったというのに、気づいて早々人の心配をするを見て、万次郎は苦笑いを零した。
「何があったのか…話せる?」
「…え?」
「さっきも言ったように…は神社の裏手で倒れてた。エマやタケミっちがケンチンを運ぶ途中で見つけてオレに電話くれたらしいんだけど半間とやりあってる最中で気づかなくてさ。んでエマが代わりに場地に連絡して、アイツと傍にいた三ツ谷とでをここまで運んでくれたんだ」
「え…そうだったの…?」
「だからに何があってそうなったのか分からなかった…。ただの頬に殴られたような跡があったのと、医者が言うには脳震盪を起こしてるから頭を強く打ったんじゃないかって」
万次郎は強く、拳を握り締めた。近くにいたのに、が傷つけられたことが悔しかった。
「でも…さっきのの言葉を聞いて分かったよ…。やったのは…キヨマサなんだろ?」
「…うん…。エマちゃんが橘さんを迎えに行った後、キヨマサって人が駐車場に続く小道からひとりで歩いて来て…見つかっちゃったの…。ケンカ賭博のことで恨まれてたみたいで…刺されそうになって――」
そう言いかけた時、万次郎の顔が一瞬で強張った。
「あ、で、でも巾着を振り回してたら、それがあの人の手に当たって彼がナイフを落としたの。その隙に逃げようとしたんだけど捕まって引っぱたかれて、よろけた拍子に何かにぶつかった…ような気がする…」
そこからの記憶はない。きっと大木に頭をぶつけて気を失ったんだろう。キヨマサはそれを見て逃げたのか、それともエマたちが戻って来たことに気づいて逃げたのか。そこまでは分からないが命拾いしたことだけは確かだ。
「それで…キヨマサって人は…?捕まった?」
ドラケンを刺し、にも暴行して逃げたのだ。これは傷害事件として扱われるはずだ。
の問いに万次郎の表情が初めて和らいだ。
「それが…キヨマサはタケミっちが倒した」
「……えっ」
万次郎の言葉に、さすがのも言葉を失った。
「ったく…寿命が縮まったよ、ほんとに…」
「ごめん…おばあちゃん、心配かけて…」
次の日、大事を取ってもう一日入院することになったのところへ祖母の雪子が着替えなどを持って訪れた。ケンカに巻き込まれたこと、そして孫にケガを負わせた犯人が、以前雪子にも暴力をふるった少年の仲間だと知り、怒り心頭といったところだ。
「すみません…オレが傍にいながら彼女を巻き込んだ…」
「いやマイキーだけのせいじゃねえだろ…。オレにも原因があんだし…」
ドラケンも車いすで動けるようになった――回復力の速さに医者が驚愕してた――ことでの病室に顔を出し、申し訳なさそうに雪子へ頭を下げる。以前、孫を危ないことに巻き込まないと約束しただけに、今回のことはドラケンも相当へこんでいるようだ。雪子も可愛い孫がチームの抗争などという物騒なものに巻き込まれたのは心配だった。しかし事情を聞いてみればお祭りに行った先での不可抗力とも言える状況だったことを知り、ふたりに対する怒りの矛を収めたようだ。
「大したケガでもなかったようだし、今回はお祭りに行って乱闘騒ぎに巻き込まれただけと晃に報告しておくよ。本当のことがバレたらNYからすっ飛んで来かねないからね」
「う…ありがとう、おばあちゃん…」
「あきら…って…の父ちゃん?」
「う、うん…まあ」
万次郎の問いに苦笑交じりで頷くと、内心ホっと安堵する。父に真実を知られたらそれこそ万次郎とのことまでバレてしまう。警察官である立場上、一人娘が暴走族のトップと交際していると知れば、別れろと言われるのは火を見るより明らかだ。雪子もその辺を気遣ってくれたのだろうと、は祖母に感謝した。
「じゃあ私はこれで帰るけど、明日の退院時にまた来るよ」
「うん。ありがとう、おばあちゃん。帰り気をつけてね」
「はいはい。じゃあ万次郎くん、を頼むね。ケンちゃんもお大事に」
恐縮しているふたりに笑顔で手を振ると、雪子はの汚れてしまった浴衣や帯を持って病室を出て行った。その途端、万次郎とドラケンが盛大な溜息を吐きだす。
「良かった…」
「マジ、ビビッてたもんな、マイキー」
「ケンチンこそ」
と、万次郎が唇を尖らせる。ふたりは雪子に叱られると覚悟をしていたようだ。安堵しているふたりの顔を見て、はふと笑みがこぼれた。不良だ暴走族だと世間で言われていても、万次郎やドラケンの根っこの部分は優しい。他の仲間達もそうだ。父もその辺を理解してくれたら、とつい思ってしまう。
「んじゃーオレは自分の病室戻るわ。眠くなって来た」
「おう。ケンチンも早く治せよ。退院したら皆でどっか行こうぜ」
「いいねー。夏休みを病院で過ごすなんてまっぴらだしなー」
普通は死ぬかもしれないほどの重症を負ったのだから完治するのに一ヶ月以上はかかるはずだ。なのに当のドラケンは夏休みが終わってしまう前に退院しようとしている。医者が驚愕するのも理解出来るな、とは内心苦笑した。
「、何か飲む?それとも雪子の持って来た林檎、むいてやろーか」
ドラケンが戻って行き、と万次郎だけになった病室は一気に静かになった気がした。
「え、佐野くん、林檎の皮、むけるの?」
「お、今バカにしたな?こんくらい楽勝だから」
万次郎はベッドの端に腰をかけ、驚いているの頬に軽くキスを落とすと、その身体をぎゅっと抱きしめた。
「佐野…くん…?」
「んー。今、ちょっと充電中…。さっきから色んなヤツが入れ替わり立ち代わり見舞いに来っから、抱きしめたいの我慢してたし」
の頭に頬を寄せながら、万次郎は苦笑した。が意識を取り戻し、一夜明けると、まず朝の一発目にはエマと日向。その後に三ツ谷とペーやんがやってきた。エマと日向は無事な顔を見に来たようで、大泣きしながらが意識を取り戻したことを喜び、暫くお喋りしたのち――女子トークに入れない万次郎はぶーたれていたが――に「また来るね」と言い残して帰って行った。
三ツ谷とペーやんもの無事な姿を見て安心すると、ペーやんは万次郎、そしてに「本当に悪かった」と謝罪。キヨマサがあんなことするとはさすがに思っていなかったようだ。はペーやんの気持ちを汲んで責めることもなく「何の話?」と笑って返していたのが印象的だった。そしてふたりが帰った後に武道や千堂達が顔を出した。全員傷だらけでも驚いたが、万次郎からキヨマサを倒したのは武道だと聞いていたは「花垣くん強くなったね」とやっぱりまだ少し信じられない様子で言っていた。
そして――千堂達は優等生のが万次郎の彼女だとようやく気づき「あのが?」と驚愕しきりだった。その後、武道は「ドラケンの見舞いに行って来る」と言って病室を後にし、少しして昼すぎにはの着替えなどを持って来た祖母の雪子が、廊下でバッタリ会ったというドラケンと一緒にやってきたのだ。
「も皆を相手にして疲れたろ」
「ううん、大丈夫。キヨマサって人も捕まったみたいだし安心したから」
武道がひとり踏ん張って倒したキヨマサは、気絶をして倒れていたところをエマからの通報を受けた警官によって逮捕されたらしい。暴行、傷害、銃刀法違反の容疑で裁かれるだろうとドラケンが話していた。
「ほんと…龍宮寺くんが助かって良かった…」
その一言を聞いた万次郎は抱きしめていた腕を僅かに緩めると、不満げにの顔を覗き込んだ。
「他人事みたいに言ってっけど…だって同じだからな?」
「…え?」
「オレがどんだけ心配したと思ってんだよ…」
「佐野くん…」
グっと細められた目を見て、は申し訳なさそうに目を伏せた。ドラケンの手術を待つ間も、万次郎は意識のないの傍にずっとついていてくれたらしい。
「ケンチンと違ってには何が起こったのか分かんなかったし、すっげー怖かったんだからな…」
「ご…ごめんなさい…」
万次郎はもう一度を強く抱きしめると、夕べの恐怖を思い出し、更に腕に力を込めた。
「もケンチンも…オレを置いていなくなったらって考えただけで…震えが止まんなかった…」
そう呟く声すらもかすかに震えているような気がして、は喉の奥が痛くなった。もし自分が万次郎の立場だったなら、きっと同じように大切な人を失うことを恐れただろう。
「ごめんね、佐野くん…」
万次郎の背中にそっと腕を回せば、首元に顔を埋めていた万次郎の唇がの頬や耳に触れる。そのくすぐったい刺激に首を窄めると、万次郎が「ずっと…オレの傍にいて」と独り言のように呟いた。その言葉に頷こうとした時、頬へ触れていた万次郎の唇が滑るように動いて、の唇を塞いだ。
ずっと怖かった。大切な存在が出来た時から、幸せになればなるほどに、その存在を失うことが怖かった。過去に失ってきたものが大きすぎたせいで、掬った水が指の隙間から零れ落ちていくように、またこの手から大事なものがすり抜けていってしまうような、そんな恐怖。
もう二度と――あんな思いはしたくない。
「いるよ…ずっと佐野くんの傍にいる…」
今のままではそれが叶わぬ願いとどこかで思いながらも、はただそれだけを願った。
自分の未来を全て失ってもいい。それくらい大切な存在になっている。
全身全霊で人を好きになれた自分のことを、は初めて好きになれた気がした。