27.カウントダウン⑴




この日、の祖母、雪子は万次郎とデートに出かけた孫を見送った後、家の掃除や洗濯をして過ごしていた。いつも通りに昼食を食べ、午後はのんびり録画をしておいたドラマを見る。若い頃にたっぷりと払わされた年金の恩恵と、亡くなった夫の保険金などで十分に暮らしていけるので、特に働きに出る必要もない。まさに余生を楽しんでいた。心配ごとは一つだけ。孫ののことだった。まだ14歳。なのに将来は親に決められた通りの道を歩もうとしている。そのせいで同年代の子よりも窮屈な毎日を過ごしているんじゃないかと思った。そんな中では初恋を知った。初めての恋の相手にしたら、万次郎はかなり刺激が強かっただろうと雪子も苦笑する。けれど何だかんだと仲良くしているふたりを見ると、雪子もつい応援してあげたくなるのだ。ただ、このまま今のようにずっと付き合っていけるのかどうか、それを考えると雪子も気が重くなる。

「はあ…仕事くらい好きなことをさせてあげて欲しいもんだね…」

親の敷いたレールには乗りたくない、と叫ぶドラマの主人公の台詞に共感しながら、雪子は深い溜息を吐く。その時――玄関の方で物音がした。小さく息を飲むと、雪子はすぐにテレビの音量を下げる。まさかこんな昼間っから泥棒でも来たんだろうかと変な汗が出て来る。

(でもテレビの音で人がいると分かりそうなもんなのに…)

雪子はゆっくりソファから立ち上がると、亡き夫が防犯用に買ってくれたバットを手に、足音を忍ばせて廊下の方へ顔を出した。すると玄関から歩いて来る人物と目が合う。

「…お、お前…」

驚愕のあまり、雪子は言葉を失った。







「うわー凄い人だね」
「やっぱ今時期だと仕方ねーか…」

驚くと、苦笑いを浮かべる万次郎。天気もいいのでドライヴがてら湘南江の島まで足を延ばして来たものの、弁財天仲見世通りに来たところで足が止まった。仲見世通りは江島神社の参道で、青銅の鳥居から朱の鳥居までの約200メートルほどが緩やかな坂道になっている。その左右にはぎっしりと店が立ち並び、あまり広いとは言えない参道には人がごった返していた。がお店を見たいというので以前も仲間同士で来たことのある万次郎が案内しながら来てみたが、想像以上の人混みにも少々驚いている。

「引き返す?」
「でも、何か名産物が見たいって言ってたじゃん。せっかくだし行こう」

遠慮がちにしているの手を繋ぎ、万次郎は人の流れに合わせて歩き出した。元々人混みは苦手だが、不思議なことにと一緒だとそれほど気にならない。

仲見世通りは江の島グルメが集う繁華街でもある。30店舗以上の飲食店やお土産物がズラリと並んでいた。湘南名物の生しらすやタコ煎餅は人気があり、店先には更に人が集まっている。

「あ、あれテレビで見たことある!タコ丸ごと入ってるお煎餅だよね」
、食いてーの?」
「おばあちゃんにお土産と思って」

初めて見る景色や店が新鮮なのか、瞳をキラキラさせているに万次郎の頬もかすかに緩む。湘南は少し足をのばせば来れる距離なのに、はこれまで一度も行ったことがないと言っていた。だからこそデートの場所に選んだのだ。の楽しそうな顔を見て正解だったなと万次郎は思った。

「雪子の分は別で買っても食ってみれば?」
「そうしようかなぁ…わ、でも大きい!一人じゃ食べきれないし佐野くん半分こしない?」
「いいよ」

タコ一匹入ってるというだけあり、タコ煎餅は一枚が人の顔よりデカい。半分に分けることにして、ふたりは列に並んだ。10分ほどでふたりの番が来て、祖母の分と自分達の分を注文すると、それを目の前で焼いてくれる。タコを丸ごと大きなプレス機で押し潰しながら焼くのを見ていると、更に香ばしい食欲をそそるような香りが充満していて、その匂いに釣られてまた新たな客が並び始めた。

「はいよ。一枚350円ね」

それほど待つこともなく焼き上がり、万次郎は代金を払うと煎餅を受けとった。

「おばあちゃんの分まで買って貰っちゃっていいの…?」
「いいんだって。最近毎晩のように夕飯ごちそーんなってるし」

そう言って笑う万次郎に「ありがとう」と言うと、不意に目の前にタコ煎餅を出された。ギョっとして顔を上げると万次郎が「あーん」と言いながらタコ煎餅をの口元へ持ってくる。

「え…い、いいよ…」
「ここで食べ歩きすんのが楽しいんじゃん。はい、あーん♡」
「………」

食べ歩きよりも万次郎に食べさせてもらう方が恥ずかしい。それでも周りには似たようなカップルが何組かいるのが目に入り、も意を決して目の前の煎餅に噛り付いた。

「んっ美味しい…!」
「だろ?オレも前にケンチンと買って食べたんだよなー。懐かしー」

そう言いながらの食べた煎餅を万次郎も食べる。半分こにする=煎餅を半分に割ると思っていたは、一枚を一緒にかじるとは思っていなかった。ふたりで同じ煎餅を食べながら歩くのは妙に照れ臭い。それでも交互に食べていると大きな煎餅もアっと言う間になくなった。すると万次郎が「何か中途半端に食べたら腹減って来たな」と笑う。

「この先に美味しい和菓子屋あるから寄っていい?」

再びの手を繋ぎながら、万次郎が店の方向へ指をさした。

「うん、もちろん」

頷きながら万次郎に手を引かれるまま歩いて行く。先日のお祭りがダメになったのもあり、こんな風にふたりでゆっくりとデートをするのは初めてだ。天気にも恵まれ、今までのように誰かに邪魔される心配もない。はいつになく幸せな気分だった。レトロな店が立ち並ぶ場所を万次郎とのんびり歩くだけで楽しい。

「あ、雑貨屋さんもあるんだ」
「あー何かエマが好きそうな南国のもんばっか売ってるんだよな、確か」

ふと目についたカラフルな雑貨店に足が向き、ふたりで色とりどりの雑貨やアクセサリーを見ていく。オレンジやピンクの色がついた羽のピアス、簪なども売っている。案の定、が簪に喰いついた。

「これ可愛い。洋風の簪。貝殻で作ってるみたい」
「ほんとだ。エマも好きそー」
「あ、これエマちゃんに買ってってあげようか」
「エマ?いや…どーせならオレはが付けてるとこ見たい」

万次郎は白い貝殻の飾りがついている簪を手に取っての髪へ当てた。

「おー可愛い!これ洋服でも合いそうじゃん。あ、お揃いのネックレスもあるし、こっちも可愛いんじゃねーの」
「ほんとだ。これ、可愛い…」

万次郎が取ったネックレスはヘッドが小さな貝殻で出来ている。ひっくり返すとパール調の光沢が光の加減によって虹色に輝いていた。

「これにする?」

万次郎がネックレスを当てながらに尋ねた。しかし前に記念日だから、と万次郎に貰ったネックレスを今もシッカリ付けているは笑顔で首を振った。

「いいの。私、これ気に入ってるから」
「でもたまには違うの付ければいいじゃん」
「ううん、これがいいの。あ、この簪はエマちゃんと色違いで買おうかなー」

は再び簪を選び始めた。それを見ながら万次郎はふと笑みを浮かべる。自分があげたプレゼントを好きな子が気に入ってくれて、常に付けてもらえるのはこんなにも嬉しいもんなんだなと思う。
一通り選んだあとではエマと少しデザイン違いの貝殻の簪を買った。

「佐野くんは何もいらないの?」
「オレ?オレはいいよ。がいれば」
「………」

さらりと照れるような台詞を言われ、の頬が赤くなる。恥ずかしそうに視線を反らして歩くが可愛くて、万次郎は笑いを噛み殺しつつ、彼女の手を取りぎゅっと握った。こんな風に穏やかな時間がずっと続けばいいと思う。自分が東卍を続けている限り、無理だということは分かっていても、つい願わずにはいられない。

「ああ、そこの店」
「ここ?」

少し歩くと万次郎の言っていた和菓子屋が見えて来た。暖簾や店先にぶら下がっている提灯には大きく"手作りの女夫饅頭"と書かれている。その場で買って食べられるように、奥にはテーブルもあり、店先にはちょっとしたベンチも置いてあった。今は家族連れの客が座り、お団子を食べている。

「わぁ、お団子もあるんだ」
「あーこれめちゃくちゃ美味かったんだよなー」

左側のショーケースには饅頭や最中、右側では団子をその場で焼いたりしている。若年層狙いなのか、ラテといったものまであった。万次郎とは目についた団子や饅頭を買って、まずは人混みを出ることにした。朱の鳥居を抜けると竜宮城のような外観の瑞心門ずいしんもんが見えて来る。

「うわー何かこういう場所ってパワースポット的な効果ありそう」
「へえーもそういうの好きなの?エマなら分かるけど」
「そ、そりゃ私だって勉強ばかりしてるわけじゃないし…」
「いや、そういう意味で言ったんじゃねえって」

予想外にもスネたのようにそっぽを向くに、万次郎は慌てて首を振った。

はエマみたいにミーハーじゃないだろ」
「…そんなことないよ」
「え?」

は頭上に広がる青空を見上げながら、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「私だって本当は流行りの少女漫画も好きだし、アニメも好きだし、アイドルの曲だって好き。ただお父さんにバレたら下らないって言われるから買えないし、こっそり幼馴染の子に借りたりしてたの。家に置いておけないからファッション雑誌なんかも買えなかったけど、本当はお洒落にも興味はあった。でも他の子みたいに可愛い服を買ってもらったり、ネイルをしたり出来る環境じゃないっていうか…」

少し寂しそうに話す姿は、いかに厳しい環境で育てられたのかを物語るようだった。の父親も娘の為を思うが故に厳しくなってしまったんだろうとも思う。ただあまりに締め付けすぎるとその反動はいつか必ず大きなひずみとなって返ってくる。好きなことを好きなだけやらせてもらい、自由に育てられた自分は幸せだったんだなと万次郎は思った。

「もう我慢するなよ…」
「え…?」

ふと万次郎が呟いた。がゆっくり顔を上げると、優しい眼差しと目が合う。

はこれからもっと好きなことやればいい。そりゃ勉強も大事だろうけど、今のオレらの歳でしか出来ないことも感じられないこともいっぱいあるんだし、の人生はのもんだろ。誰に遠慮することもねーじゃん」
「佐野くん…」
「って、これ真一郎によく言われた言葉なんだけど」
「…あ、お兄さん?」
「うん。真一郎は何でも経験だって言ってまだガキのオレを自分のバイクに乗せて暴走族の集会に連れ出すような破天荒な兄貴だったけど、いつもオレのしたいようにさせてくれたんだ。まあオレのしたいことは真一郎と同じだったけど、バイクのケツに乗せてもらって皆で走った夜は最高だったな」

あの時のキラキラした沢山の光を思い出すように、万次郎は目を細めて微笑んだ。

「だからも自分が本当にしたいと思ったことしたらいい。のお父さんだってちゃんと話せば分かってくれるんじゃねーの」
「……佐野くん…」

優しい笑顔を向けてくれる万次郎の言葉に、は救われたような気がした。ありがとう、と呟けば、照れ臭そうに笑って繋いだ手をぎゅっと握ってくれる。その温もりを感じながら、は自分が本当にやりたいことを考えてみた。父が望むことと自分が望むことは違うのだ。母を亡くして、いっそう自分に厳しくなったのは寂しさから来るものなんじゃないかと感じて、なるべく父の言う通りにしてきた。それが気づかないところで自分自身を追い詰めてしまっていたのかもしれない。父の期待を裏切ってはいけないと。でも万次郎に自分の好きなことをしていいんだと言われて、胸の奥がスっと軽くなった気がした。

「…ありがとう、佐野くん」
「何がだよ」

もう一度お礼を口にして、照れ臭そうに顔を背ける万次郎に微笑みながら、はそれ以上何も言わずにただそっと繋いだ手を握り返した。






「あれ、エマとじいちゃんいねーじゃん」

夕方、江の島でのデートを終えたふたりは万次郎の家に帰って来た。万作に買った饅頭やエマに買った簪を渡したかったのだが、あいにく遊びに出ているようだった。

「あっちー。、何か冷たいもん飲む?」
「あ、うん」
「じゃあ持ってくから先にオレの部屋に行ってて」
「分かった」
「あ、暑いと思うからエアコンつけといてくれると助かる」
「うん、分かった」

買って来たお土産を茶の間のテーブルの上に置くと、は先に万次郎の部屋へ向かう。万次郎が言ったように、ドアを開けると日中温められた空気が室内に籠っていた。

「うわー少し換気した方がいいかな…」

部屋にあがるとまずは窓を開けて空気の入れ替えをしておく。外も熱いのだが少しはマシになった。は窓を閉めた後でエアコンを付けて、一度外していた眼鏡をかけた。バイクに乗っている間にチェック出来なかったケータイを出して確認しようと思ったのだ。だがそこへ万次郎が飲み物を手に戻って来た。

「おー涼しい~って、あれ眼鏡」
「あ、ケータイ見ようと思ったの」

目ざとく気づいた万次郎に苦笑しながら手にしたケータイを見せる。だが万次郎は飲み物をテーブルに置くとの手からケータイを取り上げた。

「ダーメ。オレといる時にケータイ見んの禁止」
「え…」

言いながら隣に座る万次郎を見上げると、ちゅっという音と共に軽くキスをされた。その不意打ちに固まっていると万次郎の指が眼鏡をさらっていく。

「さ…佐野くん…?」
「ずーっと外にいたから出来なかったし――」

と言いながら万次郎はの腕を引き寄せて額をくっつけた。

「――今からいっぱいキスする」

が反論する暇もなくふたりの唇が重なる。やんわりと触れ合い、啄むだけのキスを何度も繰り返されると鼓動が一気に動き出すのが分かった。自然と体温も上がって行く。

「…ん…」

舌先で軽く唇を舐められた。恥ずかしさからは万次郎の胸元をぎゅっと掴むと、それが合図だったかのように一度唇が離れたものの、万次郎は顔を傾けながらもう一度唇を塞いだ。さっきよりも深く交わる唇の熱にの鼓動が大きく跳ねる。触れあっている箇所からじんわりと熱が全身に広がっていく感覚に襲われた頃、舌が侵入してきた。前にもされたことのある深い口付けに、の体は少しだけ力が入る。なのに優しく絡められた舌が蕩けてしまいそうなほど長く深いキスを仕掛けられて、少しずつ体の力が抜けていった。全身が熱くて頭がぼうっとする。それは睡魔にも似た感覚だった。

「寝るなよ…」

力を抜いて腕にぐったりとしなだれかかってきたに気づき、万次郎が唇を僅かに離した。ふとは目を開けたが、その瞳はとろんとしていて少し微睡んでいるように見える。しかし万次郎からすれば男の欲を煽られるものでしかない。

「そんな顔されると…我慢出来なくなるんだけど…」
「…え…」
「いいの?それでも」

の耳に唇を押しつけながら囁く声はほんの少し掠れていた。何も応えられないままはただ、万次郎を見つめた。とにかく顔が火照って何も考えられない。その時、ゆっくりと体が後ろへ倒された。

「佐野…くん…?」

ソファに押し倒されたのに全く力が入らない。起き上がることも出来ないまま、上から見下ろしてくる万次郎を見上げていると、綺麗な顔が近づいて来て首筋にキスをされた。くすぐったいようなむず痒いような刺激でビクリと肩が跳ねる。今日は暑いからと着て来たノースリーブのキャミソールのせいで、万次郎の唇は容易く首から鎖骨まで到達してしまう。素肌の上をなぞっていく万次郎の唇も熱かった。ぞくりとした痺れがお腹のずっと奥から生まれる感じがした。心地よい刺激と、万次郎にもっと触れて欲しいという思いがこみ上げて来るばかりで、不思議と怖さはなかった。

「…ん、」

万次郎の手が脇腹をゆっくりと撫であげてくる刺激に、くすぐったくて身を捩った。背けた顔をもう片方の手のひらに戻され、すぐに唇を塞がれる。最初から舌が入り込み口内を喰いつくように貪られて息が苦しくなった。その間も脇腹を撫でていく手が胸の膨らみに触れ、初めてのことでさすがに恥ずかしさがこみ上げる。その時、交わっていた唇がちゅっと音を立てて解放された。不意に新鮮な空気が一気に肺へ送られ、我に返ったその時だった。

「マイキー!帰ってるのー?」

「「―――ッ?!」」

エマの大きな声が聞こえて来て、万次郎は飛び起きた。も慌てて体を起こす。ふたりがソファに座り直したのと部屋のドアが開いたのは、ほぼ同時だった。

「あれ、何だ。いるじゃない。もうデートから帰って来てたんだ」
「…い、いるに決まってんだろ!つーか勝手に開けんなっ」

いつもの如く、ノックもせずドアを開けたエマに万次郎がキレ始めた。しかしエマは動じない。むしろジっとふたりを見つめながら、

「…っていうか…ふたりとも何か顔…赤くない?」

ギョっとした万次郎と、更に頬が赤くなったは互いに顔を見合わせた。

「あ、あちーんだよ、今日は!」
「う、うん…ちょっと暑くて…」
「ふーん…」

引きつった笑顔を見せると、不機嫌そうに顔を真っ赤にしながらそっぽを向く兄。ふたりを交互に見つつ、エマは首を傾げていたが「あ、茶の間に合ったお土産ありがとー」とお礼を言った。ただそれを言いに来ただけなのだが、何となくふたりの間に独特な空気が流れていることに気づく。

「え…ウチ、もしかして邪魔しちゃった?」

エマはエマで頬を引きつらせながら訪ねると、万次郎から「別に!!」という明らかに怒りの返しが飛んで来たのは仕方のないことだった。






「はあ…最悪」

を雪子の家に送りながら、万次郎は溜息交じりでボヤいた。エマが乱入したことでふたりの甘い時間も有耶無耶になってしまった。別に本気で抱こうとしたわけじゃない。ただ少しだけ、そう、ほんの少しふたりの関係が進めばいい、くらいの下心はあった。

「いつもいつも邪魔しやがって」
「で、でもエマちゃん、お土産喜んでくれてたし…」

万次郎が何で怒っているのか分かっているので、も顔が赤くなってしまう。あの時はムードに流されてしまったものの、冷静になると凄く恥ずかしくなった。胸を触られたのは初めてで思い出すだけで顔から火が出そうなほど熱くなってくる。

(や、やっぱり…まだ早い、よね…)

男女のことは少女漫画での知識しかないには少し刺激が強すぎた。けれど万次郎のことが好きだと思うほどに、もっと傍にいたい、くっついていたいと欲が出てしまう。

「アイツに彼氏が出来たらぜってー邪魔してやる」

万次郎は未だに根に持っているのか、そんなことを言いだした。エマはドラケンが好きなので当然これまでも彼氏を作ったことはない。そこでがふと気づいた。

「でもそれって…相手は龍宮寺くんなんじゃ…」
「あーそっか…。ま…ケンチンならいーだろ、邪魔しても」
「………(それはそれでケンカになりそう…)」

黒い笑みを見せる万次郎に、も内心苦笑した。確かにふたりきりの時間が減ったのは残念ではある。それでも今日一日はゆっくりデートが出来ただけでもは満足だった。

「佐野くんはこれからチームの皆と走りに行くんでしょ?」
「あーうん、でもが寝る前に電話してもいい?」
「うん」

いつも寝るくらいの時間に万次郎とお休み電話をするのが最近は多かった。も嬉しそうに頷いて「じゃあ…」と雪子の家の前で立ち止まる。自然と繋がれている手を引き寄せられ、ふたりの唇が触れ合う。たったそれだけで心が満たされて行くのだから恋は不思議だなとは思った。好きな人が傍にいるだけで、これまで我慢してきた全てのことを叶えたくなる。少しだけ勇気が出た気がした。

「じゃあ…バイク気をつけてね」

ゆっくりと唇が離れていくのを寂しく思いながら、は万次郎を見上げた。その瞬間、額にも軽く口付けられる。

も勉強あんま無理すんなよ。じゃあ…後で電話する」

名残惜しそうに繋いでいた手を放すと、万次郎は元来た道を戻っていく。だがすぐに振り返り、笑顔で手を振っている。も軽く手を振りながら、万次郎が見えなくなるまで見送っていた。

「はあ…行っちゃった…」

毎度のことながら、この瞬間が一番寂しい。一日中、一緒にいたはずなのに何でもう会いたいんだろうと思わず苦笑いが零れた。

「自分のやりたいこと、か…」

はこれまで自分の意志で何かを成し遂げようと思ったことがない。父に言われるがままに勉強だけをして来たし、期待を裏切ってはいけない。悲しませてしまう、と思って来た。でもの人生はのものだと言ってくれた万次郎のおかげで、そうしてみようかなと思えるようになった。もし万次郎に出会わなければ、こんな風に考えることも出来なかっただろう。

「お父さんに…話してみようかな」

そう思えるようになっただけ少しの進歩だ。気持ちが軽くなった気がして、は元気に「ただいま」と言いながらドアを開けた。

「おばあちゃん、お土産買って来たよ」

声をかけながら靴を脱ぐ。だが「お帰り」と言う声を聞いた瞬間、鼓動が跳ねあがった。

(まさか…何で?)

ここにいるはずのない人物の声に驚きながら、はゆっくりと振り向いた。