29.カウントダウン⑶



チャイムの音で誰かが来たのは分かっていた。それでもはベッドから起き上がることが出来ずに微睡みの中を彷徨っていた。一晩中鬱々としていたせいで酷く眠かったのもある。でも一番の理由としては今の状況から目を反らしたかったのかもしれない。起きていれば現実がツラい。せめて夢の中で万次郎に会いたかった。どれくらいの時間が経ったのか。何度も起きてはまたすぐ深淵に落ちて行くような睡魔に襲われ、再び何かの物音でリアルに引き戻された時、は薄っすら目を開けた。

「起きなさい、

すぐそばで父、晃の声がした。

「ん…お父…さん?」

部屋に晃が入って来た音だったらしい。は何度か瞬きを繰り返してゆっくりと体を起こした。酷く頭が重い。

「すぐ着替えなさい。外に佐野万次郎が来てる」
「…え?」

ボーっとしていたも、晃のその一言で一気に脳が覚醒するかのようにハッキリとしてきた。万次郎が来てる。でも何故それを父が教えてくれるんだろう、と小さな疑問はあったものの、真意は分からずは晃を見上げた。

「何をしてる。着替えて彼と話してきなさい。外で待ってる」
「え…いい、の…?佐野くんに会っても…」

夢の続きかと思った。夢の中では万次郎とのことを、父が認めてくれる。そんな都合のいい夢だった気がする。でも現実にそんなことが起こるのだろうかと思いながら晃を見つめた。晃は黙っていたが、ふと溜息をつくと「いいから早くしなさい」とだけ言って部屋を出て行った。はハッキリとしてきた頭で自分の頬をつねってみた。

「痛い…」

夢じゃない。晃が万次郎に会っていいと言っている。はすぐにベッドから抜け出すとパジャマを脱ぎ捨て服に着替えた。心が急くものの、寝起きで乱れた髪をブラシで整え、鏡で顔をチェックする。飲まず食わずでこもっていたのと寝不足気味で疲れたような酷い顔をしていた。

「…最悪だ」

こんな顔で万次郎に会わなくちゃいけないのか、と苦笑したが、今はそうも言っていられない。は部屋を出るとすぐに洗面所で顔を洗い、軽く化粧水や乳液で肌を整えた。少しスッキリした気がして、再び部屋へ戻ると枕元に置いてあった眼鏡をかける。もう一度鏡を見ると、さっきよりはだいぶマシになった気がした。思えばこの眼鏡がキッカケで万次郎と接点を持った。もしあの時、雷が鳴らなければ。もしあの時、眼鏡を落とさなければ。もし万次郎が誤って眼鏡を壊さなければ。たんに雨宿りを一緒にしたという関係で終わっていただろう。ふと時計を見れば午前11時になるところだった。

(きっと連絡がつかないから来てくれたんだ…)

父がどういうつもりで会って来いと言ったのかまでは分からないが、会わせてくれるというなら会うまでだ。連絡出来なかった理由をきちんと伝えたかった。はすぐに部屋を飛び出し、玄関へ向かう。そこに祖母の靴があることに気づいて,雪子が来ていることを知った。

(もしかして…おばあちゃんが説得してくれたのかな…)

この時はそう思ったが、今はとにかく万次郎に会いたかった。家を出てすぐにエレベーターへと向かう。外にいると言っていたが、恐らくマンションのエントランス前にいるんだろうと思った。

「早く…」

ゆっくりと下降していくエレベーターはいつもより遅く感じられた。一階につき、すぐに飛び出すとエントランスホールまで走っていく。中に万次郎の姿はなく、オートロックのドアを抜けるとは辺りを見渡した。このマンションには生垣に囲まれた敷地内にちょっとした休憩スペースがある。万次郎はそこのベンチに座っていた。

「佐野くん…」

たった一日、会えなかっただけだというのに、長い時間、会っていなかったような気持ちになった。思わず笑みが零れ、は万次郎の方へ走って行く。

「佐野くんっ」

名前を呼ぶと、万次郎が弾かれたように顔を上げた。

…」

の姿に気づくと、万次郎はゆっくりとした動作で立ち上がり、目の前に走って来たにふと微笑みを向けた。

「ごめんね、佐野くん…連絡出来なくて…」

顔を見てすぐ、そのことを謝罪した。しかし万次郎はいいよ、と首を振る。その表情は少し元気がないように見えた。

「座って」

を促し、万次郎も再びベンチに腰を掛ける。は万次郎の様子がおかしいことに気づいていた。

「あ、あの佐野くん…お父さんに何か言われた…?会ったんでしょ?」
「……まあ、少し話した」
「な…何を…?」
「色々。の将来のこととか…仕事のこととか」

目を伏せながら、万次郎が静かに応える。その姿を見て不安な気持ちになった。父が話した内容というのはにも言っていた内容だろうと想像できる。

「あ、あのね、佐野くん…私、もうお父さんの言いなりにはならない。警察官にもなる気はないの。ちゃんとお父さん説得するから――」
「いいんだ」
「…え?」

不意に万次郎が呟いた。いい、とはどういう意味だろう。万次郎の真意が分からず、は「いいって…何が?」と尋ねた。心臓が次第に速くなっていく。

「もう…オレとのことで悩む必要ないってこと」

万次郎はハッキリと言って、を見た。これまで見たことのない、冷たい目だった。

「ひ、必要ないって…」
「別れよ」
「……え」
「オレ達、別れよう」

たった一言。万次郎の言葉は強い衝撃と共にの胸を貫いた気がした。
目の前が真っ暗になる――。
よくそんなフレーズを聞くが、は身を以て体験した。これまで鮮やかに色づいていた景色が、万次郎の言葉ひとつで全てが真っ黒に塗りつぶされて行く。

「な…なんで…急に…」
「…理由は分かってるだろ。オレととじゃやっぱり住む世界が違い過ぎた」
「な、何それ…違わないよ!警察官になるって話を言ってるなら私はそんなものにならないっ!佐野くんが言ってくれたでしょ?私の人生は私のものだって…」

嬉しかった。万次郎がそう言ってくれたことが凄く嬉しかった。だからこそ初めて父に逆らった。誰に決められるでもなく、自分の人生を自分で選ぶために。

「私は…将来のことより佐野くんの方が大事だもん…」

溢れた涙が頬を伝っていく。万次郎はから目を反らして小さく息を吐いた。

「そーいうの、重い」
「…佐野くん…?」

酷く冷めた声だった。聞いたこともない、冷たい声。万次郎はの方を見ようともしないまま、口を開いた。

の人生はもちろんのものだ。でもといるとオレの人生がダメになる」
「……っ」
「これ以上といればオレは警察から目をつけられる。多分、バイクで走ってるだけでも逮捕される。まあ…当然だけど」
「そんな…父にそう言われたの…?」

万次郎は何も応えなかった。

「私…お父さんと話してくる!佐野くんのこと、やっぱり分かってもらうまで――」
「もうやめろって!」
「―――ッ」

立ち上がったを制止するように、万次郎が怒鳴った。これまで万次郎に怒鳴られたことは一度もない。ビクリと肩が跳ねて、は怯えたように後ずさった。

「もうそんな話で済むようなことじゃない。それにオレは仲間との約束がある。東卍をやめるわけにはいかない。なら、答えは一つしかないだろ…?」
「……私との…約束は…?」

これまで、万次郎とたくさんの約束をした。明日のこと、来年のこと、卒業した後のこと。たくさんのことを描いてそれを叶えようと約束をした。なのに――。

「オレには仲間との約束のが大事」

頭をガツンと殴られたような気がした。その万次郎の一言で、全てが無になってしまった。こんなにも突然に、の思い描いていた万次郎との未来が全て、消えていく。もう何を言っても無駄なんだと、万次郎の言葉で悟ってしまった。

「そっか……そう…だよね…。佐野くんには……夢があるんだもんね…」

前に聞かせてもらった万次郎の夢。それを邪魔するわけにはいかない。暴走族のトップと、警察官の娘。最初から上手くいくはずがなかった。よく考えれば分かることだった。なのに現実から目を反らし、なるべく考えないようにしていた。万次郎が、好きだったから。こうなることを薄々感じていながら、見て見ぬふりをしてきた現実が、今日、やってきただけのことだ。

「今まで…ありがとう。すごく楽しかった…佐野くんには知らないこといっぱい教えてもらった…私、ほんとに佐野くんが……っ…」

最後は涙声になりそうで言葉に出来なかった。

「ごめん……私…行くね。さよなら…」

いつもの"またね"という言葉はもう言えない。また次があるわけじゃない。本当に"さよなら"なんだ。
踵を翻し、万次郎に背を向けると、は二度と振り返らずに歩き出した。







『マイキー?今どこだよ!みんな探してっぞ!電話くらい出ろ!』
『あーオレ、場地。つーかオマエ、今どこだよ。なに集会すっぽかしてんの?連絡しろ、このバカ』
『もしもーし!三ツ谷だけど、マイキー何してんの?ちょっと相談したいことあんだけどさ。後で電話して』
『もしもし~?マイキー?もぉーみんなからウチのケータイにマイキーどこいるんだって電話かけてくるんだけどー!ちゃんとケータイの電源入れといてよね!』

ピーっという音と共に、メッセージが終了し、万次郎はふと笑みを浮かべた。相変わらず騒々しい奴らだ。ケータイをポケットに突っ込み、万次郎は再び歩き出した。夏の夜だというのに、浜辺には人っ子一人いない。波の音だけが聞こえる静かなこの海は、前にとふたりで来た場所だった。

"今まで…ありがとう。すごく楽しかった…"

"――さよなら"

に言われた言葉一つ一つを思い出しながら、一歩、また一歩と砂を踏みしめる。ふたりでここに来た時、はとても嬉しそうにはしゃいでた。あの日の笑顔を思い出して、万次郎の胸が軋むように痛んだ。

「……っ」

色々な思いがこみ上げた途端、嗚咽して万次郎はその場に膝をついた。泣いたのは兄の真一郎を失った時以来だった。

"娘と別れてくれ。これは父としてのお願いだ"

最初、晃にそう言われた時はふざけるなと一蹴した。しかしが自分と付き合うリスクを説かれれば何も言い返すことが出来なかった。だけじゃなく、父親の進退問題にまで発展するとは思ってもいなかったのだ。

"それとも君は暴走族をすっぱりやめて真っ当な世界で生きていく覚悟があるのかな"

万次郎の中でその選択肢はない。かといって初めて大切だと思えた女の子を手放すことも出来ないと思った。だが晃に"どちらかを選びなさい"と言われた万次郎はすぐに応えることが出来なかった。チームか、か。選ぶことも出来なかった。どちらも大切だから。なのに晃は言った。

"すぐにを選ぶと言えない君は、僕から見れば娘を大切にしていないのと同じだ"

その言葉に万次郎はショックを受けた。こんなにも大切なのに、すぐにを選ぶと言えなかった自分に。そこですでに自分が取るべき答えは出ていたのかもしれない。
初めての恋をして、それが実る幸せを知った。好きになった相手が自分のことを好きになってくれる。好きでいてくれる。こんなに幸せなことはないはずなのに、自分の行動一つで相手を傷つけることになるなんて、万次郎は思いもしなかった。そしてに自分か、父親か、とツラい選択を強いることも出来ない。自分のせいで父親が職を追われることになれば、は必ず自分を責める。万次郎もそれだけはさせたくなかった。

"を深く傷つける前に、今のうちに別れてくれ。今なら心の傷も浅くて済む"

最後にもう一度そう言われた時、万次郎はもうふざけるな、とは言えなかった。敵わない――。そう思った時、万次郎は初めて誰かに屈したのかもしれない。心が折れた瞬間だった。なのに、の泣き顔を思い出すたび、心が引き裂かれそうになる。もう二度と、彼女を笑顔にすることは出来ない。触れることも、名前を呼ぶことも、何もかも自ら手放してしまった。
その時――心の奥に秘めていたどす黒い衝動が沸きあがるのを感じて、万次郎は拳を強く握りしめた。

(ダメだ!静まれ…静まれ…静まれ――!)

自分でも制御できないほどの衝動を抑え込みながら、万次郎はしばらく、その場から動けずにいた。







20日後――は成田国際空港の出発ロビーにいた。

、そろそろ時間だ。準備しておけよ」
「…うん」

晃はそれだけ言うと再びケータイを手にその場から離れた。わざわざ仕事を休んで帰国したので、その間に溜まった仕事の確認をしているようだ。は外の景色をボーっとした様子で眺めながら、重苦しい気持ちのまま搭乗するのを待っていた。万次郎と別れたあの日から今日まで、どう過ごして来たのかも覚えていない。その間に晃は転校の手続きを終わらせ、住んでいたマンションも引き払い、完全にニューヨークへ引っ越す為の準備を着々と進めていたようだが、にはもう晃に逆らう気力さえ残ってはいなかった。

"東卍をやめるわけにはいかない。なら、答えは一つしかないだろ…?"

万次郎は自分よりもチームや仲間を選んだ。その事実はを予想以上に痛めつけた。天秤にかけられるものではないと分かっている。万次郎の言ったことが全て本音じゃないということも、後で冷静になった時に考えれば容易に察することは出来た。でも結局は別れるしか選択肢はなかったのだろう。例えが警察官にならなくても、父親にまで影響が及ぶと言われれば、万次郎でも自分の気持ちを押し通すわけにはいかなくなったはずだ。そして、もし無理にでも押し通して付き合い続けた時、父親に影響が出てしまえばは自分を責めるかもしれない。の知っている万次郎なら、そう考えてもおかしくはない気がした。

(今更気づいたところで遅い…どっちにしても、私と佐野くんは別れるという結論にしかならないんだから…)

初めてあんなに人を好きになった。今、手にしているものを全て捨てても構わないと思うほど夢中になった。けれど、自分達はまだ子供過ぎたのだ。例え本気でそう思ったとしても、本当に何もかも捨てられるような年齢ではない。

(これしか…なかったんだよね…佐野くん…)

空港を飛び立つ飛行機を眺めながら、ふと浮かんだ万次郎の笑顔で胸にかすかな痛みを覚えた。その時、バッグの中のケータイが静かに振動し始めた。万次郎と別れたことで晃が返してくれたものだ。

(誰だろう?)

すでに親しい人には別れも済んでいる。今日ニューヨークに発つのも知っているはずだ。訝しげに思いながらもケータイを取りだすと、そこには知らない番号が表示されていた。晃の方を見れば、まだ仕事の電話をしているのか、の方に背を向けて秘書と話し込んでいる。は静かに立ち上がると、少し離れたところへ移動してから通話ボタンを押した。

「もしもし…」

誰からだろうと思いながら電話に出ると、通話口の向こうから『かっ?』という慌てたような男の声が聞こえて来た。

「…え、花垣…くん…?」

それはクラスメートの花垣武道からだった。しかし武道とは電話番号の交換もしていなければ互いの番号すら知らないはずだ。

「え、どうしたの?」
『どうしたじゃねえよ!マイキーくんと別れたってホントかっ?』

武道は今日まで知らなかったのか、少し動揺しているように聞こえる。でもには自分と万次郎が別れたからといって、武道がこれほど焦る理由が思いつかない。

「えっと…それは本当だけど…」
『…っダメだよ!』
「え?」

突然、ダメだと言われ、は少し驚いた。万次郎と別れたことをダメだと言ってるのだろうか。

「あ、あの花垣くん…何がダメなの…?」
『だから…はマイキーくんと別れちゃダメなんだよ…!じゃないとマイキーくんが…』
「…佐野くんが……どうかしたの…?」

には何故武道がこんなに慌てているのか分からない。気になって尋ねてみたものの、武道はうっと言葉を詰まらせ黙り込んだ。

「あの…私の番号、誰に聞いたの?」
『……ドラケンくんに聞いたんだ』
「え…龍宮寺くん…?」

まだ半月過ぎたくらいなのに、懐かしいと思えるその名前にはふと思い出した。万次郎と付き合いだした頃、何かあった時の為にと万次郎に言われ、ドラケンと電話番号やメールアドレスを教え合ったことがある。きっとドラケンは自分の番号を消さずにおいてくれたんだろう。のケータイは万次郎やその関係者の連絡先を晃に消されてしまって残っていないのだ。

…今どこ?会って話せねえ?大事な話が――』
「ごめん。今、成田空港で、これからお父さんとニューヨークに発つところなの…」
『……は?ニューヨーク?!』
「うん…ほんとは挨拶してから行きたかったけど学校も転校することになったの。だから…」
『…そんな…』

武道はよほどショックだったのか、一気に声のトーンが落ちてしまった。

「あ、あの…佐野くん…どうしたの?何か様子が変だよ…?」

元々武道とはそれほど親しくはない。同じクラスではあるが不良の武道と優等生のとでは殆ど接点がなかった。ただが勝手にお節介で時々説教をするくらいで、が転校するからといってこんなに落ち込まれるような関係でもない。

『…ダメだ…がいなくなったらマイキーくんを止められる人が…過去で起きたことはもう変えられないのに…』
「え…?何?聞こえないよ、花垣くん…っ」

成田に到着した飛行機が着陸したのか、大きなエンジン音に武道の声がかき消される。は少し大きな声を出したが、武道は一人で何か呟いているばかりだ。その時「、行くぞ!」という父の声がしてハッと振り返った。すでにニューヨーク便の搭乗が始まっている。

「あ、あの花垣くん、私もう行かなくちゃ――」
『え?あ……!いつか…戻って…来るよな?』
「……うん、もちろん」
『…分かった。オレももう少しコッチ・・・で踏ん張ってみる』
「え…?」
『じゃあ…絶対、帰って来いよ…』
「う、うん…ありがとう」

そこで武道からの電話が切れた。結局、武道が何の用でかけてきたのかは分からないままだ。ただ不思議なことを言っていたのを思い出す。

「過去で起きたことは……変えられない…?何のことだろ…」

それに万次郎と別れたことを酷く心配していた。

「佐野くんに…何かあったのかな…」

ふと心配になった。だが武道の言い方は今の話ではなく、これから何かが起きるような言い方にも聞こえた。

(…今更私が心配しても仕方ない…か)

別れたあと万次郎がどう過ごしているのかは知らない。エマの連絡先も消され、こちらからはかける手段もなく、エマからもかかってはこなかった。きっと万次郎にきつく止められたんだろうとは思った。

「せっかく仲良くなれたのに……ごめんね」

あの懐っこい笑顔を思い出しながら小さな溜息を零すと、ニューヨークへ旅立つためには歩き出した。