31.始まりの雨―⑴



と万次郎が別れてから三年が過ぎた。
その間に起きた"ハロウィン抗争"では場地圭介が、その翌年に起きた"関東事変"ではエマと稀咲、そして黒川イザナの三名が死亡。その後、東京卍會というチームは解散。メンバーは散り散りになり、佐野万次郎は姿を消した。

2008年6月――。

父親がニューヨークでの仕事を終え、一緒に日本へ帰国したはこの日、場地圭介の墓参りに来ていた。梅雨らしい小雨の降る中、場地の墓の前に立ち、力なくしゃがみ込む。そっと墓石に彫られた名前を指でなぞりながら、こうして墓を目の当たりにしても、場地が死んだとは信じられなかった。

ニューヨークにいた間に日本で起きたことを、は何も知らなかった。毎日を自分なりに生きようともがいて、万次郎のいない日々に少しずつ慣れていくのに必死だった。
けれども、帰国して少しした頃、どうしても気になったは東京卍會の名で検索をかけてみた。すると出て来たのは"血のハロウィン事件"と"関東事変"という大きな抗争となった事件。そして関係者たちの死――。
は驚き、大きなショックを受けた。少なくとも、場地やエマはの大切な思い出の中に生きている人達だ。しばらくは立ち直れないほどに落ち込んだ。そして今日、やっとここへ来る決心がついたのだ。以前、雨の日に送って行ったことがあるので場地の家は覚えていた。そこで母親から墓の場所を聞いた足で、ここへ来た。

「場地くん…何が…あったの…?」

場地と最後に会ったのは図書館だった。母親に心配をかけたくないから勉強してるんだと話していた場地の姿を思い出すだけで、涙が溢れてくる。見た目は怖そうなのに本当は凄く優しい人だというのはにも伝わって来た。その場地が、何故死ななければいけなかったのか。万次郎は大丈夫なんだろうか、と心配になった。
その時――背後で「…?」と呼ばれ、ハッと息を飲む。振り返ると、そこには懐かしい顔が唖然とした様子で立っていた。

「龍宮寺くん…」
「オマエ…マジでか…?」

ドラケンは幻でも見ているかのように何度か瞬きを繰り返している。あの頃よりも穏やかな顔をしているように見えた。懐かしい顔と再会したせいで胸がざわめく。金髪だったドラケンの髪は黒く染められていて、もうあの頃とは違う雰囲気を感じながら不意に寂しさを覚える。三年という年月は人を変えていくには十分すぎる時間だ。

「いつ…帰国したんだよ」
「…先月の終わりに」
「そっか…でも何でここに…?もしかして…エマの墓にも花を添えたのは…」

ドラケンの問いには目を伏せた。知ったばかりでふたりの死を受け止められるほど時間が過ぎたわけじゃない。今日まで、万次郎に関するあらゆることから逃げてきた罰を受けている気がした。その様子にドラケンは何かを察したのか、ふと「眼鏡…してないんだな」と呟いた。ニューヨークに行ってから、万次郎に貰った眼鏡を使うのは思い出が多すぎて辛かったのだ。それをキッカケにはコンタクトに変えた。同時に髪を縛ることさえやめてしまった。髪を撫でていく指先を、思い出してしまうから。も以前の自分を変えようとしたのだ。

「少し…話せるか?」

場地の墓の前に花を置いたドラケンは、両手を合わせたあとに、ふとへ訪ねた。小さく頷くと、「この近くにカフェがあるんだ」とドラケンが言った。






その店は霊園から少し歩いた先にあった。モダンな造りの店で、中は思っていたよりも広い。ドラケンは窓際の席へ座り、も向かい側に腰を下ろした。

は何飲む?」
「あ、じゃあ…ミルクティーを」
「んじゃオレは…コーヒーを」

店員の女性は眠そうな顔でオーダーを聞き、カウンターの方へ歩いて行った。昼時のピーク時は過ぎたようで、店内はそれほど客も多くない。ましてこの雨では中途半端なこの時間帯は客が来る気配もない。話をするにはちょうどいい静かな空間だった。

「…まずは何から話せばいいかな」

ドラケンは窓を打ち付ける雨を眺めながら、ポツリと呟いた。が日本を離れてからというもの、色々ありすぎて上手く話せるか自信がなかった。思えばあの頃から歯車が狂い始めていたのかもしれない。

「抗争の件は…帰国したあとネットの記事で見たの…」

がふと呟く。

「そっか…」
「それで…場地くんのこととエマちゃんのこと…知った」
「…うん…」

が僅かに声を詰まらせたのを見て、ドラケンはふと胸が苦しくなった。大切な存在を亡くした痛みは今もまだ心に居座り、ドラケンを痛めつけて来る。結局、自分は何も出来なかった。エマを助けることも、万次郎を助けることも。

「お待たせしましたー」

さっきの女性店員がやけに間延びした声で言いながら、運んで来た飲み物をテーブルに置いた。ふと顔を上げたは、ふわりと上がる湯気を見つめながら「佐野くんは…」とあれ以来、呼ぶことのなかった懐かしい名前を口にした。しかしそれ以上、言葉が続かない。それを察したドラケンが、静かに話しだした。

「…マイキーは…東卍を解散した後、少しだけ姿を消してた。でも今は…新しいチームを作ってる」
「新しい…チーム?」
「ああ。関東卍會っていう、今じゃかなりの大所帯になってるチームだ」
「じゃあ…龍宮寺くんもそこに…?」
「いや…」

ドラケンはコーヒーを一口飲むと、小さく首を振った。

「誰もいない」
「え、いないって…」
「あの頃の東卍メンバーは誰もマイキーのそばにいない。唯一いるのはの知らない春千代ってマイキーの幼馴染だけだ」
「…幼馴染」

何故あの頃のメンバーがいないのか、と不思議に思ったが、それを聞く前にドラケンが口を開いた。

…」
「ん?」
「マイキーは…あの頃のマイキーじゃない…」

不意にドラケンは真剣な顔でを見つめた。言葉の意味が分からず、は視線を彷徨わせる。万次郎の笑顔が、頭に浮かんでは消えた。

を失い…場地、そしてエマを亡くしたマイキーを、オレは救ってやることが出来なかった…」

ドラケンは沈痛な面持ちで言って、目を伏せた。こんなドラケンをは見たことがない。ドラケンをここまで痛めつける出来事があったのだと察した。

「…佐野くんは…どうしたの…?」
「今のアイツは…昔の仲間を全て切って、チームをデカくすることだけを考えてる…。もうオレ達の声は届かない」
「な…何でそんな…」

自然と声が震えた。の知っている万次郎は、昔の仲間を切ったりなんかしない。凄く大切にしていた。仲間との約束が大事だと、そうにもハッキリ言っていたのだ。あの言葉だけはウソじゃなかったはずだ。

「そんなはず…ないよ…だって佐野くんは――」
…マイキーは巨悪になろうとしてる。誰も止められない…」
「龍宮寺くん…」

ドラケンのツラそうな顔を見て、は言葉を失った。自分が好きになったあの頃の万次郎はもういない。そう言われてもにわかには信じられない。ただ、ドラケンの言ったように、万次郎は大切な人を失いすぎたのかもしれないと、そう思った。
万次郎が人一倍寂しがり屋なのを知っている。仲間の前では強く在ろうとしていたことも。でも誰よりも繊細で、傷つきやすい優しい人だと、は知っている。あの別れの言葉さえ、自分を思ってのことだったと、今も信じていた。その万次郎がひとりで全てを背負い、仲間にも背を向けて、何を成し遂げようとしているんだろう。

「オレは…今もアイツを止められるのはしかいないと思ってる」
「……私…?」
「アイツの孤独を埋められるのは…もうだけだろ…?」
「龍宮寺くん…」

がふと顔を上げると、ドラケンは「いや…悪い…」とひとこと呟いた。

「今更、だよな…。今のマイキーに近づいたらオマエの将来が――」
「それは…もう、いいの」
「え?いいって…でもオマエ、警察官になるんだろ?」
「…警察官には…ならない」

はキッパリと言って、真っすぐドラケンを見つめた。強い意志を宿した目は、あの頃と少しも変わらない。

「ならないって…」
「これはだいぶ前に決めたことなの。お父さんにも話してある」
「え…じゃあ…」

しかし今更そうなったところで、と万次郎が以前のような関係に戻るのは難しいとも思った。東卍を解散し、その後に会った万次郎はドラケンの知る万次郎ではなかった。闇を宿した目――。あの目を見た時、ゾっとしたことを思い出す。

は…自分の進みたい道を行くんだな」
「うん…佐野くんにもそう言われたから」
「マイキーに…?」
の人生はのものだって。だから…自由に好きなことをしたらいいって言ってくれたの」
「そっか…アイツらしいな」
「ニューヨークに行ったあともね…その言葉がずっと残ってて…だから初めてお父さんと大喧嘩した」
「へえ…やるじゃん」

の話に耳を傾け、ドラケンはやっと笑顔を見せた。懐かしいその笑顔を見ながら、ドラケンの胸中を思う。エマを失ってツラかったのは万次郎だけじゃないはずだ。不意に、涙が零れた。

「お、おい…何で泣くんだよ…」
「ごめんね…私…何も知らなくて…」

ここへ来る前、エマの墓にも寄って来た。明るい笑顔を思い出して涙が止まらなくなった。何で彼女が死ななければいけないのか。どの記事を読んでも、の知りたい情報は載っていなかった。被疑者死亡で詳しい動機は不明。抗争絡みの襲撃としか書かれていなかった。

「謝るなよ…オマエは悪くねえだろ。ニューヨークにいたら日本の暴走族が起こした事件なんて大きく扱うわけもねえだろうし…意識して探さなきゃ分かんねえよ」

何も知ろうとしなかったのはそれだけ前を向こうと必死だったんだろ――?
ドラケンにそう言われ、の頬に涙がつたっていく。

「それに…さっきはああ言っちまったけど…オマエはやっぱりマイキーと別れて良かったんかもしれねえな…」
「…え、」
「結果、オレ達が事件を起こしたようなもんだ。例え直接、手を下したわけじゃねえにしろ…死人が出た時点で、あのまま付き合ってたら絶対の親父さんにも影響は出てたよ」
「………」
「マイキーは…ああなること、何となく分かってたのかもな…」

ふとドラケンが呟いた。三年前、万次郎が何かに悩んでいたことを思い出し、溜息をつく。結局、万次郎はドラケンに何も打ち明けることのないまま、縁を切るかのような暴挙に出た。あの時は心底万次郎を嫌いになったドラケンも、冷静になって考えた時、それが自分達を守ろうとしていたんじゃないかと思うようになった。

「マイキーは…オレ達の知らない重たいもん背負ってたのかもしんねえ」
「重たい…もの…?」
「でもそれを抑えていられたのは、亡くなった真一郎くんだったり、場地だったり、エマの存在があったから…そして…もちろんオマエも」
「それって…どういう…意味?」
「さあな…オレにもよく分かんねえ。ただ…大事なもん失うたび、マイキーは心を削られていったのかもなぁ…」

ドラケンはふと窓の外を見た。雨の煙る視界に、場地の眠る霊園が見える。失ったものを今更悔やんでも元には戻せない。だけど、こうして過去に向き合うたび、何故あの時、気づいてやれなかったのかと思ってしまうのだ。
も同じように窓の外を見た。雨粒の落ちて来るどんよりとした鈍色の空は、あの日と同じだ。万次郎と出逢った、あの雨の日と――。