
32.始まりの雨―⑵
しとしと しとしと 雨が降る。待ち人は、二度と来ない――。
エマの墓に立ち寄った後、祖父の万作が気にかかり、こっそりと様子を見に行った帰り道。朝から降り続いていた小雨が急に強まり、万次郎はふらりとあの公園に寄った。あの時と同じようにゾウさんの中へ入り、ただ静かに地面を跳ねる雨粒を眺めていた。そっと手のひらを翳せば、すぐに水がたまりできて指の間から零れ落ちていく。まるで今の自分のようだと万次郎は苦笑した。
――大切なものは全てこの手から零れ落ちていく。
がいなくなってからの日々、万次郎も必死でもがいていた。忘れようと戦いの中に身を置いても、それはまた大切な人を失うキッカケになってしまった。失って、失って、これ以上オレから何を奪う気だ。そう思いながら過ごしていた時、武道から未来の話を聞かされた。その時点で万次郎も決心がついた。自分が周りを不幸にしている。ならば巻き込まない為には離れるしかない。そう思った。それでも誓った夢は忘れられずに、また同じことを繰り返している。どんなことをしても、心に空いた穴は埋められないというのに。
(こんな場所に来たところで、が来るはずもないのに…)
いつからか、自分の中に生まれた黒い衝動。長い間抑えられていたのに、いつも漠然とした不安があった。でも三年前、の父、晃に「娘と別れてくれ」と言われた時、ハッキリとソレを感じてしまった。一瞬生まれた"殺意"のようなどす黒い感情に、万次郎は自分自身を恐れた。あのまま向き合っていれば、自分を抑える自信もなかった。
――オレがそばにいるとをいつか傷つけてしまう。
そう考えた時、万次郎には別れるという選択肢しか浮かばなかった。一番大切な人を、自分の手で傷つけたくはない。どんなに泣かれても、その手を掴むことさえ出来なかった。
(あれで…良かったんだ…オレはあの衝動を抑えられない)
まるで自分の意志とは無関係に生まれる衝動はいつか誰かの命を奪うだろう。万次郎はそれをよく分かっていた。
パシャリ、と水たまりを踏む音がした。あの時と記憶が重なり、フラッシュバックが起こる。彼女の持つ赤い傘が脳裏をかすめ、反射的に音のした方へ視線を向けた。
「え…」
万次郎の視界に赤い傘をさした少女が映る。少しだけ息を切らせて公園に入って来たその少女は、万次郎のいるゾウさんの前で足を止めた。
「……?」
目の前にしゃがんだ少女は、恋しさが見せた幻なのかと思った。
「佐野くん……ここにいたんだね」
懐かしい声が、自分の名を呼んだ。
サァァっと静かな雨音が辺りに響く中、ふたりは見つめあっていた。目の前の万次郎が幻なんじゃないかとすら思いながら、過去の面影と重ね、またあの時と同じように笑顔を見せてくれるんじゃないかと期待した。
場地の墓参りの後、はドラケンの言葉に背中を押されるように、万次郎に会う決心をした。しかし自宅へ行っても「長いこと帰っていない」と万作に言われ、どこを探せばいいのかも分からず、自然と足がこの公園に向いたのだ。まさか本当に万次郎がいるとは思ってもいなかった。
「…何で…いんだよ」
静寂を破ったのは万次郎だった。がここにいることで困惑し、動揺しているように見える。
「…先月帰国したの」
「……」
「今日ね、エマちゃんと場地くんのお墓参りを――」
「勝手なことすんな…!オマエはもうオレには何の関係もない人間だろ…?」
万次郎は怒ったようにを睨む。どこか暗い目をした万次郎は、ドラケンの話していた通り、あの頃とは別人のように見えた。
「関係…ないのかもしれない…。でも私にとってエマちゃんも場地くんも…大事な人なの。あの頃の私の思いまで否定しないで」
キッパリと言い、真っすぐに万次郎を見つめる。もう、迷いはなかった。
「佐野くん、待って――!」
を押しのけ、外に出た万次郎が立ち去ろうとするのを、慌てて止めた。掴んだ万次郎の腕はかすかに震えているようだった。
「放せよ…」
「いや」
「放せよ…!もうオレには関わるな!」
掴んだ腕を力いっぱい振り払われ、がよろけた際に、手にしていた赤い傘が足元へ落ちた。ハッと息を飲んだ万次郎が振り返る。霧雨のような細かい雨粒が、ふたりを濡らしていった。
「また…私を突き放すの…?」
「……っ」
「私は…ずっと逃げてた…。佐野くんのことを思い出すのがツラくて…でも忘れられなくて…もがいて今日まで生きて来た」
の言葉を聞いて、万次郎は驚いたように目を見開いた。とっくに、忘れられていると思っていた。一緒にいたのは数ヶ月にも満たないほどの短い時間だ。
「…あんなガキの頃の恋愛なんか…忘れろよ」
「忘れたくないよ…!」
「忘れろ…!」
万次郎は声を震わせて叫んだ。今の自分がそばにいることの危険を、嫌というほど分かっている。
もう、誰も、もう二度と。だけは、永遠に失いたくない――。
万次郎はに背を向け、歩きだした。
「今度こそ、私は逃げないから…!」
背中にぶつかるの言葉が、万次郎の足を止めさせた。心の奥がざわざわと音を立て、強く拳を握り締める。
「佐野くんにどれだけ拒絶されても、私は今も佐野くんが好き――」
「バカじゃねえの…?!オレと関わったらは――」
「警察官にはならない。私のやりたいことはそれじゃない」
言い切ったに万次郎の肩がピクリと跳ねる。心が揺さぶられ、強い想いに負けてしまいそうになった。しかしそれは新たにを失う引き金になる。
「…勝手にしろ。どのみちオレには関係ない」
「じゃあ勝手にする。佐野くんを好きでいることも、私の勝手なんだよね」
再び歩き出そうとした時、が言った。
「……オマエっ」
カッとした万次郎が振り返る。その瞬間、ふわりと甘い香りがして、の腕が万次郎の体を抱きしめていた。酷く懐かしい、忘れかけていた大好きな子の温もり。それが万次郎を動揺させた。
「放――っ」
「もし…これから先、私達にどしゃぶりの雨しか降らなかったとしてもいい。ふたりでいたら、時々は晴れることもあるよ。例え晴れなかったとしても、私が佐野くんに傘をさしてあげる。いつだって…私は君の味方だよ。どんな佐野くんでも…大好きだから」
耳に優しく届いた告白は、万次郎の心に潜む黒い衝動を溶かしてしまいそうなほどの威力があった。
「……っ」
思わず涙が溢れた。もう二度と触れることがないと思っていたの温もりを感じて、色んな思いが交差する。なのに抱きしめ返すことが出来ない。この手でいつかを傷つけてしまうことが、どうしようもなく怖い。
「……オレのことは…忘れて…頼むから」
の腕をそっと外し、万次郎は初めて微笑んだ。涙で濡れたその顏を見たの瞳からも涙が零れ落ちる。
「二度と…オレに近づくな」
静かな雨音に変わった時、万次郎の空虚な声だけが、の耳に響いた。
ドラケンや万次郎とが再会してから一週間が経った頃、の転校先に思ってもみなかった人物が現れた。下校しようと校門を出た時、
「…」
「花垣…くん?」
懐かしいとさえ思う元クラスメートを見た時、は自然と笑顔になった。金髪は変わらないものの、リーゼントだった髪型は下ろされ、前よりも少し落ち着いたように見える。
「どうして…」
「ああ、の学校、ドラケンくんに聞いたんだ」
「そう…」
この前どこの高校に転入したのかドラケンには話していた。納得して、「何か…あったの?」と尋ねる。何もなく会いに来るほどふたりは親しかったわけではない。武道は気まずそうな顔で頭を掻くと、少し話せるかと訊いて来た。家に帰っても今日は何もない。が頷くと、武道は「落ち着いて話せる場所ってある?」と言うので、そこから数分のの自宅へと向かう。日本に帰国することになり、新たに借りたマンションだ。
「あ、今の家はここなの」
「えっ!ここ?!」
目の前のマンションを見上げて、武道が酷く驚いている。その理由もは知っていた。
「ここは警察関係者の人が多く借りてるの。橘さんもこのマンションなんでしょ?」
「え、知ってたのか」
「もちろん。橘さんのお父さんも警察関係者だし」
「そ、そっか…だよな」
そのまま武道を自宅へ案内すると、は「座ってて」と声をかけてからキッチンへ行った。冷蔵庫からアイスティーを出すと、それをグラスに入れてリビングへと戻る。武道はどこか落ち着かないように室内をキョロキョロと見渡していた。
「はい」
「お、おう、サンキュ。つーか、マジでの父ちゃん優秀なんだな。表彰状ばっか」
武道は壁や棚に飾られた表彰状やトロフィーを眺めながら感心している。もふとそれらに目を向け、「お父さんは努力の人だから」と言った。
「ウチ、おじいちゃんが警察官で、お父さんも子供の頃から警察官になるのが夢だったみたいだし、勉強するのも苦じゃなかったみたいで」
「へえ…そう言う人ってマジでいるんだな…オレなんか勉強好きだって思ったことねえもん」
「分かる。私も」
「えっ?は違うだろ?」
まさか優等生だったの口からそんな言葉が出て来るとは思わず、武道は少し驚いた。中学の時は常に学年トップで勉強が好きな人種だと思っていたこともある。そんな武道の気持ちを察したのか、は「そう見えてたよね、きっと」と笑った。
「でも本当は私も他の皆と一緒にゲームセンターで遊んだり、カラオケに行ったり、そういうことをしてみたいってずっと思ってたよ」
「…マジで?そんな感じしなかったけど。オレ、いっつも説教されてたし」
「それは…花垣くんがケンカばかりしてるから」
は笑いながら、あの頃の自分を思い出す。人を好きになる幸せも知らないで、毎日をただ淡々と過ごしていた。それでも平穏な毎日だった。懐かしい思い出はいつだってを切なくさせる。
「それで…話って何…?」
アイスティーを一口飲んだあと、は武道に尋ねた。
「ああ、うん…ドラケンくんからのこと聞いて…居ても立っても居られなくてさ」
武道は俯いていた顔を上げると、真っすぐの目を見つめた。以前にも感じたが、武道はある日を境に急に大人びたことを言うようになった。かと思えば次の日には前のようなヤンチャな少年に戻る。それをいつも不思議に思っていた。今日は"大人の武道"だとは感じた。
「オレ…もう一度賭けてみたくなったんだ」
「…賭け?」
「が日本に戻って来たなら…まだやり直せるんじゃないかって…」
武道が何を言おうとしているのかを、聞かなくても分かったような気がした。
「オレ…マイキーくんを救いたいと思ってる」
「…佐野くんを…救う?」
「うん…今のままじゃ…マイキーくんだけ不幸なんだ…オレも…東卍の皆も…も…みんな幸せになってるのにマイキーくんだけが不幸なんてオレ、嫌なんだよ…」
「あ、あの…花垣くん…それってどういう――」
そう問いかけようとした時、武道が「頼む、」と身を乗り出した。
「マイキーくんの傍にいてくれ。そしたらきっとマイキーくんだって正気に戻ると思うんだ…あんなに大切にしてたが傍にいてくれたら――」
「ちょ、ちょっと待ってよ、花垣くん。そんなこと言われても私は…」
「何で?はマイキーくんのこと、もう忘れたのかよ?違うだろ?ドラケンくんだって、はまだマイキーくんに惚れてるはずだって言ってたし」
武道はどこか縋るような目でを射抜いて来る。その様子が普通じゃないと感じた。だけど自分には、もうどうすることも出来ない。
「…うん。好きだよ…佐野くんのこと」
ウソを言っても仕方がない。そこは正直に胸の内を言葉にした。
「だったら――」
「でもフラれた」
「…え?」
「この前…龍宮寺くんと再会した日ね。実は佐野くんと会えたの」
「えっ?どこで…」
「最初に会った…公園で」
「え、マイキーくんは何で…いや、どんな感じだった?」
武道の質問に、は軽く目を伏せる。あの時の万次郎はの知らない顔を見せた。
「龍宮寺くんに言われた通り…だった」
「え…?」
「佐野くんは…私の知ってる佐野くんじゃなかった。でも私は…自分の思ってる気持ちを全て伝えた。それでも…ダメだった」
「…」
「何でだろ…何で…かな…。こんなに好きなのに…親のことがキッカケで別れたと思ってたけど…もしかしたらそれだけじゃないのかもって思えて…」
涙を浮かべるを見て、武道はハッと息を飲んだ。きっと自分はその答えを知っている。だがそれを伝えていいものかどうか迷った。
万次郎がを突き放した本当の理由。
それは、彼女を守る為なんだと気づいたから――。
(やっぱり…今のマイキーくんを救うにはオレがやるしか…)
肩を震わせて泣いているを見た時、武道は改めてそう思った。失った人たちは戻らない。でも、まだ自分が救える人はいる。そう決心をした武道がこの後、巨悪に墜ちようとしている万次郎と直接対決に挑むことを誓うことになる。
ここから少し先の未来で三天戦争が起こり、武道が立ち上げた東京卍會と、万次郎が率いる関東卍會の最終決戦が起こったことを、は知らない。
何故なら――そこで新たな奇跡が起きたからだ。